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人工知能で絵を描ける時代に我々は何を描くべきかという話

 そもそも「描く」とは何だったのか?

趣味で絵を描くこみちにとって、「りんご」を描くことにあまり興味は湧いて来ない。

それは描ける自信があるということではなくて、描いて「何を伝えたい」か見つけられないからだ。

つまりその意味では、人工知能が描く絵にはモチベーションなどはないだろう。

このタイミングでこのテーマをあえて選んだという感情は薄く、条件や流れの中で生み出されたに過ぎない。

もっというと、人工知能が自身で感情を持った時、それは人間と区別するものではなくなり、一人の画家として認識するべき状況になっている。

でも今はまだ、「描く」という機能が高度になっただけで、「感情」を持った訳ではないことに留意しなければいけない。

つまり、「りんご」を丸い球体に近いものだと決めつけて描いているなら、全体的に赤色で、黄色や白が下側にジワっと広がっていると思い込んでしまった時点で、ある意味、その感情から描かれた「りんご」にどれだけ意味を込めることができるのかという話にもなる。

それは人工知能が感情を持たなくても描けることに変わりなく、言い換えると我々人間が「感情」という意味を見失えば、もはや人工知能の描く絵でも十分になるだろう。

写実主義とは何か?

世間では写真そっくりの絵を描く人がいる。

中には、写真よりもより写真っぽいと表現する人がいる。

しかし、どんなに高精細に撮影したとしても、写すことができないものがあるとするなら、それは撮り手の「感情」ではないだろうか。

超望遠レンズである女性を撮影した。

もちろん相手は撮られていることに気づいていないから、表情に撮されているという感情が表れていない。

一方で、その女性に恋人がいて、彼が「一枚撮るよ!」とカメラを向けたら、どんな表情を浮かべるだろうか。

同じ人間を撮るとしても、描くとしても、見え方や感じ方がまるで違う。

つまり、写真そっくりとか、写真以上にリアルという視点はそれほど意味も価値もあることではなく、作者がどんな感情や感覚を持って描けたのかが重要で、つまりそこを失ってしまうともう描く意味さえ失ってしまう。

個人的には、洋服のシワをどれだけリアルに描けるのかよりも、描いた人間にどれだけ人間らしい感情を持たせられるかが大切で、それはつまり描き手が相手をどこまで理解しているのかを示すことでもある。

目の前にあるコップに感情を持てないように、就活用の写真ではその人らしさを感じ難い。

スタイルの良し悪しがその人らしさだろうか。

座っているからその人らしさだろうか。

ある意味、人間はそんな表面的な部分にしか価値を持たないのだろうか。

アメリカで法学部が別の学部で学んでから進むべきと言われる理由

法は完璧な人間を想定していない。

つまり、故意(わざと)という意思と過失(ミスによって)を区別している。

人が人を殺害してしまった時でも、直ちに「殺人罪」にならないのは、殺人罪の適用に「故意に」という条件が含まれているからだ。

例えば過失によってそのような結果を招いたのであれば、「過失致死罪」に罪名が変わる。

また殺害そのものが目的ではなく、財産を奪おうとした結果として相手の命を奪ってしまった場合には「強盗致死罪」で、殺人罪よりも罪は重い。

つまり、「結果的に何をしたのか?」ではなく、「なぜそうなったのか?」という感情の動きがとても重要で、法はそこに趣を置いている。

つまり、社会で生きるということに理解がなければ、そもそも法の役割を感じることができないということにもなる。

だから、法律の文言を一言一句記憶していることが全てではなく、「なぜそのような行為へと走らせてしまったのか?」という部分を解明することが大切で、法曹界が幅広い業界から人材を集めようとした過去の転換期にはそんな狙いもあっただろう。

アメリカでは、法学部でいきなり学ぶことよりも、別の学部で学んだ後に法というものの意義を学びことにしているのは、条文を記憶することを望んでいる訳ではないからだ。

「心地よい」という感情

香水の匂いには、リラックス効果がある。

でも同じ香水だけが、万人にウケるとは限らない。

和食を食べたい時もあれば、洋食だという時もあって、気持ちに変化があるのが人間だからだろう。

好きな料理でも今は要らないと思うのも、タイミングが合っていないからだ。

絵を描く時に、純粋な美しさだけが全てとは限らない。

ふと見せた表情にその人らしさと魅力に満ちている瞬間を感じたりもする。

いい写真とはそんな瞬間を逃さずに写せた時であり、いい絵とはそんな瞬間を描き手が作り出せた時だ。

それを鑑賞した我々は、「美しい」という感情以外にも様々なことを揺さぶられて、時に動いていない一枚の絵や写真を前に、ドキドキと心拍数が上がってしまうこともあるだろう。

なぜそこまで感情を揺さぶられてしまうのか。

それは「心地よい」という感情さえも紡ぎ出してしまうからだろう。

こみちが思う上手い絵を描く人は、仔犬を三匹描いて、そのそれぞれを描き分けられることだと思う。

単に可愛い仔犬が三匹なのではなく、それぞれの可愛さをどう感じて描いたのかがポイントだ。

そのためには、造形を追うだけでは不可能で、良さが表れる瞬間を見逃さない観察力にあると思う。

つまり、「絵が上手い」ことを、「描く上手さ」だと理解してはいけないくて、「ものの見方や感じ方に長けていること」でなければいけない。

つまり単に美しい人を描くだけでは不十分なのだ。

最も描き手が感情など求めていなくて、外見だけを重視しているというなら別だとは思うけれど。

少なくとも、こみちが描けるようになりたい領域は、そんな感情を見つけて描けるようになるまでを言う。


ゴールデンウィークなのに…という話

 価値観の違いはあって当然!

たまたま、あるニュースを見ていて、稼ぐために努力する方法を間違えてしまうという事件を知った。

知識や技術を会得しても、さらにいくつかの条件が整わないとその成果が発揮されることはない。

そもそも、知識や技術を身につけるだけでも、こみち個人的な見解では3年は必要だし、そこからさらに経験を重ねてトータルで10年が経験した頃、やっと一人前と呼べるレベルになると思う。

その頃には、知識や技術だけでなく、さらに必要とされる条件にも一定の理解が深まり、トラブルやアクシデントが起こってもその対処方法も分かっているから、仕事として稼ぐことに行き詰まることはないだろう。

一方で、その10年を耐えきれずに、5年や3年、もっと言えば半年くらいで表面的な理解をして、プロっぽい話をしたがる人も出てくる。

最初は一人前になった人で、それこそ価値観の違いなのだろうと思っていたことが、ある時と境に何か違うと感じることが見えてくる。

それは見解の違いやプロデュースの差ではなく、努力するべきことをしっかりとできていないからだ。

こみち自身も趣味でイラストを描いている。

しかし、なぜ趣味で仕事にしないのかというと、イラストを描くことで稼ぐのは本当に難しいからだ。

作者として有名になり、「その人が描いたイラスト」という領域にならないと、それこそイラストを描くだけでは稼ぐことは難しい。

例えば、イラストに文章力をプラスして、さらに取材力までをセットにして、トータルで価値あるものを作れることができないと、食べていけないと思っている。

しかもそうなると、イラストを描く能力はとても比重が低く、今ならカメラ撮影ができることがより求められるだろうし、トーク力やビジュアルなど、より広範囲能力がないと万全にはならない。

だからこそ、縁とかキッカケが重要で、チャンスを活かせる瞬発力がないと、生き残ることは難しい。

イラストレーターになりたいと思うなら、正統派の模写はもちろん、それ以外のタッチで2、3種類くらい描けて当然だといわれる。

今にして思えば、知名度の低い駆け出しの新人のために仕事が与えられるのではなく、ある仕事を誰かに頼みたくて、その条件に応じられることが求められるから、作風にバリエーションがないとそもそも仕事を請けることができず、経験を重ねることも難しい。

もっと上手くなって、プロになりたいという目標にできないのは、画力向上が面倒なのではなく、仕事を依頼されてそれに応じることの難しさがあるからだ。

例えば、全く絵を描くことができない依頼人は、雰囲気で話す。

それを聞いて、サンプルを出し、雰囲気を掴んで一回目の案を出す。

これはイラストではないが、デザインなのでは3案欲しいとかいわれることが当たり前で、サンプル出しで価格に乗せるのは厳しい。

つまりこの作業はサービスになる部分で、仕事としては1時間くらいで仕上げないと、効率が悪いことになる。

ということは、イラストレーターが絵を描くことに精神の集中が必要と言っていたら、まず仕事として続けるのは難しくて、描くことの半分くらいは無駄になり、だからこそトーク力をつけて無駄にならない交渉力がないと仕事にはできないと気づく。

絵が好きな人が、時間を忘れて描いてしまうのは、もう当たり前過ぎる話で、経験的なことと重ねれば、夕方に依頼を受けて、翌朝までに納品できるレベルのカットを20枚描けるのかというような振られ方をする。

つまり、一枚あたり1時間も掛けられない中で、でも手を抜いているとは見えない仕上がりで描けることも大切になる。

半年掛けて渾身の作品を描くのは、イラストレーターではなく、芸術家の仕事だ。

異業種にも言えること

やっぱり、どの業界でもプロである以上は、好きというだけでは稼ぐことができない。

だから、いわれてできるとか、自分から動けないという段階では、そもそもプロにはなれない。

だからこそ、好きな業界で働くことで、少しでも好きになれると思いたいし、頑張れるキッカケにしたいと思う。

でも現実は、見ない大変さをいちいち露呈させていては、仕事にはならないから、各業界で働く人は知識や技術を身につけて、さらに経験を加えることで乗り切れるパワーを持つ。

「他に当てがあるならどうぞ!」

と言えるのはプロだからの言葉で、少しかじった素人の意見にも落ち着いて答えられるのは、知識や技術の話だけでは回せないことを知っているからだ。

今は時代も変わって、それさえ成立しない状況になっているから、頑張ることの意義を見つけるのは厳しいだろう。

でもだからと言って、知識や技術を持たない人が業界を動かし始めると、その下にいる素人からプロまでの様々な立場の人たちは身の振り方を強いられてしまう。

楽しいから続ける人。苦しいけど続けるしかない人。耐えきれずに業界を離れる人。

いろんな決断をすることになる。

よく若者の中に何を仕事として選んでいいのか分からないという話を耳にするけれど、ポイントは知識や技術の部分はどの業界でも結局は同じようにあって、仕事をする中で段々とやり方が見えてくる。

それがきっと3年くらいの経験ではないだろうか。

その時に異業種に行っても、その3年の経験を再び感じられるような体験があって、つまりどんなに転職しても同じ3年なのだ。

転職の回数も、その中で一つでも稼げるレベルになっていたら、回数はもう意味を持たない。

つまり、知識と技術を習得するステージを終えて、その先に来たことになるから。

アルバイトやパートの経験しか無い人を会社的に高く評価しない理由があるとするなら、困難をどれくらい克服できるのかという経験値を求めたいからだ。

全て準備されて、手順通りにできるのは3年で学ぶこと。

でもその先は、仕事の進め方や交渉、人材管理や育成と、仕事を進めるもっと大きな枠で考えたい。

だから正社員として採用されるためには、3年の経験しか話せないのは採用側にアピールが不足する。

35歳を過ぎて正社員採用が難しいのは、実は3年の部分を繰り返す人と思われてしまうからではないだろうか。

でも言い換えれば、一人で稼ぐことができる人なら、あえて就職を選ぶ理由はなんだろう。

自分に自信があるなら起業すれば良いし、働きやすい環境を求めたいなら3年の経験をしている時から将来の目標を掲げるべきだろう。



どうしようかなぁ?という話

 やはり、考えてしまう自分がいる

社長との会話をきっかけに、あえて避けて来た感情に向き合ってしまった。

若い会社、まだ発展途中の会社だけに、エネルギッシュな部分と拙い部分が混在している。

ただこみちにしてみれば、会社の体制や将来性などは重要ではなくて、自身が納得できる仕事を請け負えるのかがポイントだ。

不完全な仕事を押し付けられて、その瑕疵までもこちら側の業務に組み込まれるのは、そもそもとして信頼関係を保てない話にも繋がる。

「面倒な仕事は、内部で作業するのは御法度なんです!」

「分かりますよね!? コストのこと…」

これは社長から聞いたことではなくて、その後に現場の若いスタッフが教えてくれた内部事情のことだ。

正社員は人件費が高く設定されていて、アルバイトやパートはそれよりも単価が安い。

さらに下請けはもっと条件の悪い仕事をもらうために、時給換算で100円になるとしても仕方がないという理屈だ。

経営という言葉を分かっているようで分かっていない人が口にする典型例で、例えばクリエイターとして仕事を受けるとは底値でもなんでも有り難がっていてはいけない。

「〇〇くらいなら〇〇日掛かり、その時のコストは〇〇円です」とはっきりと伝えて仕事を始めないと、後になってその一方的な修正や根本を覆した場合でも同じコストで担当する流れには乗れない。

でもそんな話をしていたら、そもそもその会社との繋がりは早々に切るしかなかった。

当時のこみちはコミュニケーションが取れなくて、毎日働くことが辛かったから、淡々とできる仕事を選び、時間給での金額はあえて考えなかった。

でも段々と気持ち的に回復し、やりたいことや変わりたい自分が芽生えてくると、他の仕事を選んだ方がずっと稼げてしまうと気付かされて、やっぱりそれでもその会社の下請けを続けるメリットをどこに感じるのかになるだろう。


クリエイターって何だ?という話

 こみちの苦い経験

ご存知かもしれませんが、こみちはめちゃくちゃ不器用です。

もっと器用に立ち振る舞うことができたら、今よりももっと人生は違っていたはずです。

でも、性格や信念、カッコつけな所もあって、今に至っていると思います。

例えば、クリエイターと呼ばれる端くれにいた頃、先輩たちにも大変お世話になって来ました。

簡単に言えば、「仕事」というものにどう取り組むのかいう部分で、とても時間を掛けて指導してもらったと感じます。

だからこそ、下請けになった時に思うのは、発注元のポテンシャルがどれくらいあって、どれくらいの品質管理をしていて、さらに言えば互いに高め合える関係を築けるのかという部分でしょう。

下請けだって考えている!?

コストカットや値下げ交渉など、発注元の求めることをある意味で当然です。

しかしながら、下請け側も同じで、利益率の低い仕事からどう抜け出せるかを考えていて、時にはメインとなる元請会社をシフトさせることも起こります。

つまり、日常業務の中で、目の前の課題ばかりではなく、発注元に選ばれる、そして選ぶことができるような体制を目指して仕事をしていかないと、太刀打ちできないことになるのは当然です。

こみちにとって、今の下請けとしての働き方は、将来性を見込んでというよりも、小遣い稼ぎになったらという感覚でした。

その仕事の品質向上をどう目指すのかではなく、納品レベルに到達する最短の労力を考えて、実践していただけです。

ところが、昨日の社長からの話で、仕事に対する基本的な考え方や目指している方向性が単純に違っているのではなく、クリエイターという仕事を根本的に誤解していないかとも感じました。

一日が経過しても、こみちとしてはあまり考えたくなかった懸念部分を改めて突きつけられたことが頭から離れなくて、今後の働き方にも影響を与えそうです。


「人生を変えると決めた時は…」の話

 変わろうと決めたら

明るい未来を信じて、前に進むしかありません。

すこなくとも、しばらくの間は後ろを振り返ったりしないで、息が続く限り前に進んでみましょう。

こみち自身も、「人生を変えるならこのタイミングしかない」と思うほど切羽詰まっての決断でした。

本音を言えば、そう簡単に未来が変わるなんて無いのかもしれません。

でも、ここでそう信じて決断しなければ、5年後、10年後、今よりも数段未来を失った自分が待っているでしょう。

逆を言えば未来を変えることは、そう難しいことではなくて、あれこれと人生を見て来た中高年になったからこそ、自分らしい居心地のいい暮らしになりたいだけです。

だから、そんな暮らしになれるように、例えばこみちなら、イラストを描いて、アニメーション動画を作って、ジョギングや料理、ギターもして、自転車やバイクも復活させて、さらにそれらを上手く組み合わせ、「このオッサン、人生を楽しもうとしているなぁ」と誰かの励みになりたいです。

キラキラ輝く存在ではなく、「これなら自分にもできるのではないか?」と思ってもらえるような心地よいくらいのキッカケに。

こみちは本当に不器用で、ポンコツです。

多分、同じくらいの素質でも、その後の生き方さえ間違えなければ、プロのクリエイターとして活躍できる人もいるでしょう。

肝心の時にミスをして、得なければいけないものをことごとく逃して来た。

ある意味で、こみちはそんなど天然なんです。

昨日も妻に「僕は変わる!」と宣言したら、「ハイハイ、もう天然さんは好きにして」と。

こみちは自分で天然とは思っていないし、逆に天然的な行動をする人が嫌いです。

なぜなら、「その時にそれをする?」という行動をしてしまうから。

でも振り返ると、そう言われても仕方ない結果にも気づきます。

別にこみちが天然だろうと養殖だろうとどっちでもいいのですが、ダメダメなりに、自分らしく生きられるように諦めずに進もうという話です。


人生を変える一歩を踏み出しましたという話

 不幸ネタもいいけど

実は覚悟を決めて、こみちとしては大きな一歩を決断しました。

数万円の自己投資ですが、親の介護費に貯めておいた方がいいんじゃないかななどと、生活がとても消極的になっていて、そんな我慢もあって親の言動が変わらないことに焦りや戸惑い、苛立ちも感じていました。

母親が先に自室に戻ると、テレビの前を陣取る父親の背中はやっぱり孤独に思えます。

変化のない毎日で、三食の食事とテレビ鑑賞だけが全てになっています。

そのことが悪いのではなく、そこしかないと思い込んでいることに孤独があるのです。

例えば、頑張ってくれる母親に感謝してもいいはずです。

ちょっと出掛けた時に、「ケーキを買って来たよ」という心遣いがあっても不思議はありません。

優しいとかではなく、自分自身のためにも、そんな余裕を持って生きていたからです。

「オレはこれしかしない」と決め込んで、後の面倒な生活は全て人任せにする。

それでは普通の人なら離れてしまうでしょう。

孤独だと感じるのは、やっぱりどこかで自分自身もそれを招いている所があると思うのです。

もちろん、父親だけではなくて、こみち自身にも。

「楽しくなりたい」をテーマに活動したい!

どうしたら自分の生活をもっと楽しめるかなと考えて、こみちの場合は趣味でもあるイラスト制作とジョギングをキーワードに挙げました。

そこに動画編集とアニメーションアプリを加えて、さらにさらに今回、gpsウオッチとアクションカメラを購入しました。

一眼レフカメラの撮影経験はありますが、動画撮影の経験はなくて、これから学ぶという感じなのですが、プロ級の美しい映像を目指すのではなく、「楽しもうとしていること」をどう伝えられるかをテーマに活動したいと思っています。

その内、youtube チャンネルにも掲載したいと思うので、公開した時は覗いてくれたら嬉しいです。


気力と体力があるうちに到達したい景色の話

 若い頃とは違って

年を重ねれば、誰だって歩みが鈍くなる。

時に瞬時の判断を間違えてしまうこともあるだろう。

だから、若い頃と同じペースで、感覚では進めない。

じゃあどうすればいいのか。

それは、影響が大きくなる重要なポイントほど、絶対に間違えないことだ。

つまり、全部をそれなりに頑張るのではなく、気づいたことの中でも、どれが大切なのかと見極めよう。

中高年にとっての逆転劇とは?

偶然が重なって、もしかすると宝くじの一等に当たるかもしれません。

でも何も準備していないのに、そんなラッキーがあったなら、望まないことが降りかかる可能性だってあるはずです。

つまり、逆転劇も、その全部が偶然だけの話なら、やっぱり一時的に良かったことでも、長く考えればその後はしっかりと自身の立ち振る舞いを見直すべきでしょう。

こみち自身、確かに逆転劇を望んでいて、今の生活から抜け出したいと思っています。

でもそれは大金持ちになるというようなことではなくて、働かないで毎日遊んで暮らせるということでもなくて、自分が望む仕事をして役に立って暮らしたいだけです。

そんな風に考えた時に、こみちの場合はイラストをベースにできることを組み合わせて、何か意味あるものにすることで評価されるようになることではないかと行きつきました。

それが逆転劇だと言われたら、そうかもしれません。

でも、もうそこしか前に進める可能性がないようにも思えます。

昨日、取引先の社長から声を掛けてもらい、仕事をもらえるかもしれません。

以前なら直ぐにでも喜んでいた話ですが、正直なところ、生活費のために請けるかどうかを考えるのであって、未来を考えた時に必須かというとそうではありません。

否定しているのではなくて、もう気力と体力が続く時期が長くはなくて、だからこそある程度の形まで作りあげたいと思っているのです。

少し愚痴

父親なのか母親なのか、フライパンを買って来ました。

今までよりもワンサイズ大きなもので、しかも今まで使っていたフライパンと一緒にコンロに重ねて置いてあります。

物を片付ける時、無理に重ねて見た目の体積を小さくしても、頻繁に使う物ほどそうはいきません。

フライパンを使おうと思ったら、結局は重なったフライパンをどこかに置いてからでないと使えないのです。

つまり、使う度に不要なフライパンをどこかに置くという手間がこのままではずっと続いてしまいます。

逆転劇のところでも触れましたが、中高年になるとどうしても瞬発力はなくて、今までしていないことをどんどんと増やしてしまうと、前に進む力は低下します。

ということは、もったいないと思っても、古いフライパンは捨てなければいけません。

そして、今まで使っていた蓋との関係では、安易にサイズを変えてもいけません。

結局、そこの判断をミスってしまうと、使えないフライパンを蓋のために残すことになり、新しいフライパンと併用させ、またキッチン周りが乱雑になってしまうのです。

「買い間違えた」とか、「良いと思って買って来たのに!」と言われてしまうかもしれませんが、このようなミスはしてしまうと、後でどんなに頑張ってもそれはミスのカバーでしかなく、前に進むことにはなっていないのです。

「頑張った」を意味あるものにしたい

結局、頑張ることは必要なのですが、あれもこれも頑張れる力が失せてくる中高年になると、もう大切なことだけを絞って、時にはもったいないなと思う時でも、抱えきれないことは置いて進むしかないのです。

タイムアウトで何もかも無駄になってしまうよりも、1つでも2つでもゴールまで届けることが重要です。

欲を捨てて、恥を晒しても、前に進むというためには覚悟しなければいけません。

いつも頑張ってくれている妻に、自分のわがままを伝えるのは躊躇いますが、もしも成功するために不可欠なことなら、そんな話を正直に話して、理解してもらう必要があるでしょう。

頑張りを推進力に繋げたいのです。

実は今の仕事を辞めたくてという話

 請負の仕事をして来たけれど

実は最近、生活費を稼ぐためにしていた請負の仕事から手を引きたいと思っていました。

もちろん、どうやって生活して行くのかということ大切な問題はありますが…。

そんな中、取引先の社長に声を掛けられ、新たな仕事を受け持てないかと打診がありました。

作業内容も報酬も明かされない探りのような会話だったのですが、前向き考えてくれるのなら時期を改めてもう少し深い話をしたいというのです。

どうすれば良いかなぁと思いながら家に帰ったのですが、買ったばかりのフライパンの中に、古いフライパンが重ねられているのを見て、何か切なさしか感じませんでした。

最近のフライパンはフッ素加工などが施されてあって、表面の状態何よりも大切です。

にも関わらず、買って早々に重ねてしまうという状況は、ちょっと残念というか、今日の職場で担当したクズみたいな仕事を思い出させます。

クズみたいな仕事

我々は生きて行くために稼がなければいけません。

時に意味や価値の乏しい仕事もあります。

しかし、理想を言えば、たとえ儲けが薄くても、自分らしく生きられたり、誰かの役に立てていたりできる仕事は、決してクズなどではありません。

ところが、価値の乏しい仕事、発展しない仕事はクズな仕事です。

なぜなら頑張りようのない仕事は、それこそ人生の残り時間が少なくなった中高年、こみちのような人間は避けなければいけません。

それこそ報酬がいいと言うなら違いますが…。

勝負に出たいと決断を迫られる!?

何ができるのかという段階ではなく、何かで結果を残すことに期限が切られた感じです。

社会から話をもらえたことはありがたいことですが、じゃあそこで頑張るべきかというと、それは生活費を稼ぐため以外には選択する価値は感じません。

というのも、その会社の業績が落ちているのも、何となくですが分かります。

こみちが個人で何かしたいと思う時に必須となることと同じ感じだからです。

だから、その会社で頑張り結果を出せるなら、個人でしても同じことで、結局はやるべきことに変わりはありません。

ただ、妻の負担を解消するためという理由を最優先にするなら、社長の話次第では考える余地もありそうです。


「価値観の合う人とどう巡り会えるのか?」という話

 多分、天才は幸せ

マイペースで生きられたら、多くのストレスは解決できる。

でも学校や会社、さまざまな人間関係のある世界で生きるためには、マイペースも制限されてしまう。

同じ会社や学校だったとしても、配属先やクラス分けというちょっとしたタイミングの違いで、その人が受ける印象は違うだろうし、それが些細に感じることもあれば、重く大変なことになってしまうこともある。

そんな意味で、天才は幸せだ。

彼らは天才と呼ばれ、その存在を肯定的に認められている。

あることが人よりもできるということで、別の何かができなかったとしてもそれがマイナスにはならない。

むしろ、人間らしいとか、意外な一面として良い方に受け止められる。

プロとは何か?

youtube のある動画を観た時、その動画を作った人を本物のプロだと思った。

プロ級というほめ言葉ではなく、その道のプロだ。

理由は、一切の非がないこと。

カット割からテロップの出るタイミング、ナレーションの滑舌やスピードに至るまで、観ていて不快さや違和感がない。

きっと、個別に作業を分解すると、同じことができる人はたくさんいる。

言うなれば、80点以上を取れる人たちだ。

でもプロだと思った人は、100点満点ではないのかもしれないが、きっと98点くらいなのだろう。

つまり、「とりあえずできる」というギリギリではなく、「何度でも確実にできる」というレベルなのだ。

きっと、「最近、誉められることが増えた」と仕事ぶりを周囲から評価された時期を過ぎて、「今度、新人向けにレクチャーしてよ」と講師のような立場も経て、さらにさらに三周くらい回って、プロだと周知されたのだろう。

プロが砕けるから面白い!?

笑いを緩急だと説明する人がいる。

つまり、人が思わず微笑んでしまうのは、意外性を感じるからだ。

もちろん、真面目風から一転して、バカをしても面白い。

でも大学の教授が専門分野の難解な説明をしている途中で挟んだ言葉に、聴いていた学生たちが2テンポくらい遅れて、わざつく面白さもある。

聞き流してしまえるほど些細なワードだけど、専門家とそれを学ぶ学生だからこそ分かり合える笑いがある。

例えば、お笑いの世界で、師匠のような肩書きで呼ばれる人がいて、その人がプロとしての笑いを間違えてしまうことがある。

それが、周囲の笑わなくてはという接待を、うけていると思ってしまうことだ。

笑いを緩急とするなら、急になる部分は専門性を磨くことで向上させられる。

しかし、緩の方はどうボケるのかだから、その外し具合が難しい。

師匠という肩書きは、専門家である教授とは異なり、このボケの部分まで含めてプロとして評価される。

だから、ボケに笑いが起こるのではなく、「なるほど勉強になります」と聞いている側が笑うのではなく、真剣に最後まで受け入れてしまうのだ。

でも、師匠の立場を考えて、笑いをくっ付ける。

とても不自然な笑いになってしまう。

そこを最後まで笑いにできる人は、そうそういない。

緩急の落差が想像の範囲内で、上手いなとは思えても、面白いにはならないからだ。

年を重ねるとは何か?

つまり、年を重ねるとは、価値観が熟成する時期を迎えるということ。

もっといえば、価値観が確立し、その中で生きたいと思う年になったとも言える。

中高年の仕事探しでも、経験や知識がないのではなく、ある程度まではできるし知っていたりする。

そんな人が改めて仕事を探すのだから、若い頃よりも大変になるのは想像できる。

中高年の人が求人で仕事を探すよりも、独立し自分で思うような働き方で稼げたら、もっと生きやすいだろう。

しかし、それを実現させるには、知識や経験が知っているというレベルではなく、プロと呼ばれるレベルでなければ難しい。

かと言って、「それだけ」ではなかなか芽が出ないから、緩急をつけた演出までも強いられる。

それをするには、同じ価値観を持つ人とどう巡りあい、協力できるかがポイントだ。

そもそも、不満や愚痴を言うのは否定しないし、こみちもいろいろと呟いてきた。

でも言えるのは、やっぱりそれでは現状を打破することはできない。

つまり、いかにして前に進むべきを考えて、自身も成長しなければ、やっぱり同じ目標や価値観を持った人には出会えないだろう。

そんな気がする。

「自分に何ができるのか?」を考えていたらという話

 趣味と実益を兼ねて!?

数日前に、『toonsquid 』というアプリを手に入れた。

このアプリは、ipadでアニメーションを作れるというもの。

日本語版なく、英語版のみなので、まだまだ分からないことも多い。

30分だけと思いながら、気づいたら2時間くらいアプリをいじっていて、例えば絵を描く時に愛用しているprocreate のような相棒感はまだ全然感じられない。

最初の印象としては、かなり高評価していいアプリで、youtube で見つけたチュートリアル的な解説動画で使い方を覚えているところだが、動画編集アプリのlumafusion とも組み合わせたら、これまでとは異なることができるように思う。

どう稼ぐのか?

こみちの場合、やっぱり絵を描いたり、映像を作ったり、かつてして来たことの中から、今の自分にできそうなことと組み合わせて考えた方がいいと思う。

youtube では、旅ランチャンネルを立ち上げたくて、当初は100キロを目標に何ができるのかを考えていた。

しかし、いろいろと考えるに従って、もう少し考えることがありそうに思えて来た。


「動きながら考える時代」に付いて行くという話

 かつては「完璧」が当たり前だった!?

製造の分野で厳しいコスト管理を強いると、商品の根幹部分をいかに共通部品で賄うかが課題になってくる。

一方で、そんな根幹部分に欠陥見つかると、一種類ではなく、時に数種類、最悪な場合には全ての商品がリコールや回収の騒ぎになることも無いとは言えない。

ミスを減らし、より完成度の高い商品開発を目指そうとすれば、結果的に開発期間が延びてしまう。

しかしながら、現代におけるニーズは、そんな根幹部分への信頼性ではなく、時にアイデアや工夫で補えるインパクトだったりする。

「〇〇はこうでなければいけない」

そんな考え方でこれまで働いて来た人にとって、売り出す商品に欠陥や不具合があるなど考えられないだろう。

ファームウェアのアップデート!?

ある商品に導入されたプログラム言語を、売り出した時点では気づかなかった不具合が市場で見つかると、ファームウェアのアップデートという形で補われることがある。

ある意味、商品発売日をずらして、1年とか2年の猶予を設け、バグの修正を済ませてから発売にこぎつけることもできる。

しかし、今の時代、1年で技術は大きく変化するし、市場ニーズも180度変わってしまう。

だからこそできるだけ早く発売し、ある程度の良さを体感してもらいながら、その時々で浮上したバグや問題点に合わせて、ファームウェアのアップデートで補うスタイルが増えたのだろう。

日本人の良さとは!?

海外の人と働いて思うのは、瞬発力の高さだ。

手順や方法を入念に説明し、相手もそれを熟知して、ミスや間違いのない状態で仕事へ移るのは日本人らしい特徴にも見える。

何かを決めるために会議を開き、その会議で話す内容を会議資料として担当者が作る。

一人で難しい時は、数名、さらには部署全体で手分けして行うこともあるだろう。

それだけの時間を掛け目的はなんだろうか。

会社として、利益を上げる話題ではなく、社内会議としての体裁ではないだろうか。

一方で、海外の人をみると、スタイルもタイミングも結構違う。

しかし、彼らの評価でポイントになるのは、真面目さではなく、対応能力にあるように思う。

つまり、準備部分ではなく、課題や問題点にいきなり立ち向かえるだけのパワーがあるということ。

あれこれと思案している間に、もう取り掛かっていて、時に動き出そうとした時には「終わっている」ということが起こる。

昔、デジタルとアナログの違いを理解することが求められたことがあった。

簡単に言えば、整頓されるのが当たり前なデジタルと、意図的に整頓しなければいけないのがアナログだ。

幅1センチで、魚の切り身を正確に切るには訓練が必要だ。

時に包丁の研ぎ方にまで及ぶ。

しかし、デジタルでは数値を入れてしまえば、誰がしても1センチにしかならない。

時代が変化し、アナログ的な技術がデジタルでは全て不要になった。

一方で、課題に気づき、対処するスピードが評価される時代にもなる。

つまり、準備をして、それをまとめて、誰もが見やすい形式にする技術は、アナログ的な要素で、その先にある「だからどうした?」という部分が求められる。

問題を最初に戻そう。

この商品、またバグがあるよ。

でも実際に商品は販売されて、市場で利益を生み出せている。

そしてそのまま放置されるのではなく、ファームウェアのアップデートがそんなバグを修正してくれる。

さらに2年も過ぎれば、新たな技術が生まれて、商品そのものが変わることもある。

例えば、準備を重視するあまり、確かにミスは少ないけれど、発売時期を過ぎた商品が飛ぶように売れることは期待できるだろうか。

国内の商品を待ってでも求めていた時代から、安価でも多機能な商品や高級で所有欲を満たしてくれる商品が街に溢れ、人はそれぞれの用途や目的に応じて選べるようになった。

本気で遊べたら仕事になる!?

昨日、そんなことを記事に書いた。

その真意は、自身が楽しいと思うことを多くの人に伝えられたら、もうそれだけの技術で仕事にできると言いたかったのだ。

手順や準備を知ること。努力して来たことを評価されるのも、実は結果を出す前段階の話に過ぎない。

つまり、結果というか、スタイルや形にできるところまで持って行くことが大切で、現代の教育もそれを学ぶべきだろう。

ゆとり教育という時代に、個性を磨かせるのではなく、自由に考えることでもなく、何を求められているか?を敏感に感じ取る教育が必要だった。

ちょっと面白いなともうのは、例えば100円ショップで買い物をして、それらで何かを作り、実際に販売して利益を上げる。

そんな経験をすることが大切ではないか。

もっと言えば、水道の蛇口から出る水を、何か工夫して、別の場所までどう水を運べるかを考えてグループで解決することだ。

それはつまり、本気で遊べるということにも通じる。

「本気で遊ぶ」ことができたら…という話

 仕事探しの中心にあるもの

言われたことをするだけの仕事ぶりはもう評価されない。

ある意味で、限られたことだけを繰り返す働き方は、近年開発が進む人工知能の強みとも被る。

消え行く仕事としてどんな業種が該当するのか悩むよりも、今の仕事を自分で分析した時に、工夫や改善があるからこそ意味がある。

スタートボタンを押し、しばらくして希望する商品が製造されたとしても、その準備や検査といった周辺の作業はまだまだ人の手が必要だ。

それこそ、仕事をサボる職員に、機械から「〇〇さん、真面目にしてください」と指摘される時代になれば、もしかすると準備を機械が行い、人間がそれを使って仕事をするという逆転現象が起こるのかもしれない。

でも今はまだそうではないだろうから、人が常により良くなる工夫をすることが、仕事の中心となるだろう。

「本気で遊ぶ」のは難しい!?

例えば、ドライブをしようと思って、いきなり車に乗り込んで行き先を何となく決めることがあるだろう。

道に詳しい人なら、山や海、美味しいものなど、運転しながら行き先を決められるかもしれない。

でも、急に決めたドライブで、どこに行けば良いのか分からないと、道をただただ走るだけのドライブにもなってしまう。

それはそれで本人は不満ではなくても、誰か一緒に行った人も同じ気持ちとは限らない。

同じ車で走るということでも、どこにポイントを作り、何を目的とするのかで、印象が変わるように、例えば仕事でも遊びでも、本気で楽しめることがこれから特に大切になる。

仕事探しの前に自分の趣味を見直してみる!?

何をしている時が楽しいだろうか。

もっといえば、何をどうしていると時間も忘れて没頭できるだろう。

そんな経験があると、仕事にもきっと活かせるし、興味や面白さを細かく分割できれば、仕事にも転用可能なことが見つかる。

その意味では、誰かに言われたことだけをしているタイプは、いつも受け身になりやすく、仕事ぶりの評価も機械同様に、数値化されやすく評価が上がらない。

特に中高年にとって、若い人と同じペースではキツいことも多いから、結果的に評価されない流れに進む。

そうならためには、自分から作り出す意識を持って、試行錯誤することだろう。

仮に結果が出なくても、その意識を持つかどうかで、これから働き時にチャンスも違うはずだ。

自分にできることをもう一度、探してみようという話

旅ランチャンネルの話を妻に打ち明けた

昨日、妻と二人で外食をして来ました。

料理が美味しかったということもあって、今後のことに話題が進みます。

実は一昨日、ちょっとしたきっかけで妻の口げんかをしていて、原因はどうあれ、いつも迷惑を掛けているという気持ちもあって、こみち自身の大人気なさに後悔感じていました。

「ちょっとやってみたいことがある」

そう口に出すまで、実はもう1ヶ月くらい、何度も躊躇して来ました。

自身のこと。妻とのこと。両親とのこと。

いろんな課題があって、でも自分のことだけを先に考えることが許されるのかという想いもあって、「してみたい」とは言い出せなかったんです。

ただ、両親は今後も変わらないだろうし、良い方に変わって成果が見えて、それも当たり前に受け取ることになるでしょう。

悪い意味ではなく、やっぱり父親は父親だし、母親も段々とこちらが話しても内容をあまり理解できていないことが増えました。

「だからあの時にどうするって聞いたし、詳しく説明したでしょう?」という繰り返しになってしまいます。

妻に今後の希望を受け開け、その反応が怖かったのですが、意外にも「いいじゃない。頑張れば?」と笑顔で言ってくれました。

すると、妻からは東大の入学式のニュースか何かで見つけた記事を見せられ、そこには夢や希望、経験について書かれてあります。

こみちとは全く異なる世界で活躍された人の、とても勇気づけられるような言葉だったのですが、こみちにそれを読んで欲しいと思ってくれていたようで、こみちから「してみたい」と言い出したことを願ってくれていたのです。

不真面目に生きているつもりもなかったですが、もう一度、自分に何ができて、何が足りなくて、どう準備をして進めるのかを考えることにします。

「広告」「芸能事務所」「プロデュース」の共通点と現代社会との結びつきの話

 「商品」のスペックをどう評価するのか?

今から、こみちが自力移動(走ったり歩いたり)だけで100キロ先の目的地まで行きたいと思ったとします。

まず、そこに到達できる体力が必要です。

走るのであれば、速く走るのではなく、長く疲れない方法を身につけることでしょう。

仮に1時間で10キロ進めるとして、それでも10時間掛かることになります。

スタート時点である程度お腹がいっぱいでも、流石に10時間も走れば、喉も渇けば、腹も減ります。

ということは、食べ物や飲み物の選び方も必要です。

汗もかいてしまうでしょう。

着替えを持参するなら、それを背負えるリュックがあると便利です。

両肩に通せるタイプと片方にしか通せないタイプ。さらに素材は革とナイロン系、どちらが適しているでしょうか。

ざっと100キロ移動する時に必要そうなことを書き出しました。

言い換えると、何をするにも、同じようにニーズと呼ばれるポイントがあって、できるならそのニーズに近い商品がより好まれます。

「広告」という意味

ある人気タレントが、ある商品を持って微笑んでいます。

そして、その商品の特徴を紹介し、たまたまそれを見つけた視聴者が買おうかやめようかと考えます。

企業は商品を作ります。

形のあるものないものは別として、それを知り、先ずは手に取って良さを確認して欲しいでしょう。

できるなら、どこが良かったのか、どこが悪く改善して欲しいのかを知ることができたら、次回にも反映させられます。

つまり、「何をすればいいのか?」が分かるということが、成果を発揮させる上でどれだけ価値あるものかはもう説明する必要などないでしょう。

そして「広告」の意味はいろいろあると思いますが、「手に取って品定めしてもらう」という意味でも大切です。

「芸能事務所」の役割

スカウトやオーディションを経て、昨日まで一般人だった人が所属タレントとして歩き出しました。

芸能事務所に入ったからというだけで、簡単に売れて人気者になれるとは限りません。

なぜなら、テレビ番組の制作者が、わざわざ新人タレントを調べて、「次回、出演して欲しい」と向こうからオファーしてくれるとは思えないからです。

つまり、芸能事務所の売り込みをする人が、取引先の担当者と会って、「今度、〇〇な新人が入りまして」と雑談のように「広告」同様にまずは使ってみて欲しいと紹介しているのでしょう。

利益を考えるよりも、まずは使ってもらうことが優先とするなら、初回の出演料は破格でも構いません。

視聴者から「あの人誰?」と気になってくれて、制作サイドも次回もまた出演して欲しいと反響を得られれば、今度はそのタレントの良さをより活かして売り込めます。

「どう生きるのか?」を考える時も

生き方を自己プロデュースする場合、自身の特徴や個性、売り込みできるものとして何があるのか考えることが大切です。

冒頭で紹介して100キロの移動も、それを達成したからと言って、何がどう変わるとも思えません。

でもそこに理由や物語があって、車でもなく、電車でもなく、自身の足で移動することに何か意味づけできれば、それは急に価値を持ちます。

つまり、どこの会社で作られたのかも分からない商品やいつどこにいるのかも気づかれないタレントがどんなに有能でも、「見つけてもらう」「価値を知ってもらう」ことができなければ、能力をどんなにアップさせても評価されることはできません。

言い換えると、みんなと同じことができる必要はなくて、むしろできないことに悩むのはあとでもいいはずです。

個性に自分自身が気づくこと。

そのために必要なことを始める。

そして、そんな自分に合った環境を見つけることです。

例えば、ラーメン屋を営み、毎朝3時からスープの仕込みをしているとしましょう。

仕込みの方法は、それこそ知識として得ればいいことです。

でも仕込みの方法を知っていることが大切ではなく、実際に毎朝3時から仕込みをしていることはポイントです。

知識を増やして、何を聞かれても答えられるだけでは、それこそインターネットの膨大な情報量を上回り、誰かが凄い人がいると気づいてくれたらまた別の話ですが、普通に考えるとやはり環境を手に入れること(ここでは仕込みをしていること)に価値があります。

ついつい知識や経験に意識を持ちますが、環境こそポイントにするべきではないか。

そして、そのためにはストーリーとなる背景があって、そこにどう価値を感じてもらえるのかを意識できれば、求めている環境を手に入れて、もっと生き生きと生きられるように思います。


「社会にどう役立てるのか?」をいう視点で生き方を模索したいという話です。

親との同居

現状、上手く回っているとは思えません。

両親も両親なりに頑張っているとは思いますが、現状を維持することができても、低下したら回復できる勢いもありません。

つまり、父親、母親が日常的に介護を要するようになれば、他方が全面的に支援することも難しく、それはつまりこみち自身が自身の未来と親の介護を担うことになるという切実な問題です。

じゃあ、妻はどうか。

ある意味で支援してくれることに感謝できますが、親のため、こみちのためという理由だけで引き止める理由はなく、もしも離婚したいと言われれば、それに応じる覚悟です。

何より、こみちが妻に対して幸せを届けられているとは思えないからです。

もちろん、できることはしたいです。

でも、親の介護が始まれば、状況は一変し、それこそ何のために生きているのか?という悩みもさらに切実さをますでしょう。

懸命に生きているのに、上手くことが運ばないという人をできる範囲でサポートするという話と、1ミリも譲ることをしない両親の生き方を見て、それでも支えるしかないという支援では、心の整理も全く異なります。

家族全員でもう一度話し合ってみたいと思う反面、以前と同じように質問に一切答えられない父親を再び見るだけになるとも思います。

「どう生きて行くつもり?」

「……」

「何か考えを言ってよ」

「……」

そんなやり取りの末に「分からない」とひと言。

じゃあ母親はどうか。

「お父さん次第なぁ?」

「ええ、お父さん?」

何も言えない父親を見ても、まだ父親を立てたがる母親。

それでは何も解決できないと告げたとしても、母親も本音ではどう生きればいいのか具体的に分かっていないのでしょう。

いつまで母親だって働けるとは限りません。

問題が少ない母親も、最近作ってくれる料理を見ていると、薄味を超えてほとんど味付けしていないことも。

昔から一切味見をしないで作るスタイルで、なので日によって味もバラバラ。

センスとタイミングで美味しい時もあったのですが、油と塩気が体に悪いと思い込み、料理でもやり過ぎなくらいにパサパサで何の味もしない料理が普通に出て来ます。

一方で、惣菜や揚げ物を買うことも多く、味のない手料理か揚げ物というパターンが続きます。

その根底にあるのは、両親たちのルールというか、スタイルで、それは継続するものという認識です。

父親は一家の大黒柱。

母親は家事をして家を守る。

でもそれらは時と経て、無職になってテレビを見て1日が終わる父親。

だから働き続ける母親は、疲れた体で品数だけを揃えたい料理を作る。

自身のプライドと居心地を変えられない父親は、家事を分担することができません。

常に母親に依存し、面倒を見てもらわないとできない人なんです。

「お母さん! お母さん!」

何度も連呼する父親がいて、何があったのか思って様子をみたら、両手が泡で汚れていて、水道の蛇口から水を出せずに母親を呼んでいるのです。

父親にすれば、泡で汚れた蛇口を後で洗うよりも、母親を呼んだ方が都合がいいのでしょう。

何もかもがそんな感じなので、自分たちの食器を洗ってもらうと、それを毎回食器棚に戻すことをルールにはできません。

なぜか途中で放置して止めてしまいます。

そこでこみちも同じように途中で放置してみたんです。

それを見てどう思うかと。

すると今朝、全ての食器を棚に戻していました。

でもココがポイントで、義務を果たせるということではなく、助けてあげたという貸しに思うから厄介です。

つまり、あの時に助けたから、何かの時は手伝って欲しいと。

大したことをしてもらっていないのに、お願いされることは1日掛かりの大仕事という風に、全くバランスを欠いたことだから、段々と何も言えず近寄り難い存在になります。

一方で、今のこみちはどんなに雄弁に語っても、自分のことで精一杯の状況で、両親のことを全面的に支える余裕もありません。

そっけない態度も増えましたが、まともに付き合っていたらまたストレスで体を壊してしまうでしょう。

その意味でも、既に家族としては機能を失い、崩壊しているのです。

それでもこのままではいけないので、何ができるのかと思うのですが、基礎を固めることもできないので、そこを起点に作り上げることも難しい感じです。

こみちにもできることは何か?

まず、「終わり」になってしまう期限が迫っていると感じます。

しかし、それを意識し過ぎると、不安や行き詰まりばかり感じて何もできないので、短期間の目標、長期の目標という具合にある程度の区切りを設けるしかありません。

例えばこみち自身は将来的な夢として、旅ランというチャンネルを運営したいです。

簡単に言ってしまえば、日本国内の見て回ることになるのですが、特徴としては原則「脚力」だけを使います。

つまり、走るか歩くかという移動方法です。

以前は、キャンピングカーやマイカー、バイク、自転車などを検討していたのですが、本当に知って欲しいことは楽して楽しんでいる姿ではなく、ある意味で無意味だけど、それでもそこに意味を見出して継続している姿です。

その準備と実行できる可能性を踏まえて、約2ヶ月前からジョギングを始めました。

最初は1キロでもきつかったのですが、歩きを含めれば20キロや30キロの距離を4、5時間掛けて移動できるようになりました。

運動が得意な人なら、それこそ2時間以内に走り切れる距離ですが、希望としては50キロ、100キロと距離を延ばして、全国各地を歩きたいです。

というのも、メンタルを壊して以降、マイペースに作業はできても、誰かと一緒にすることがとてもストレスで、分かっていることでも他人が関わることで数日前から落ち着かないくらいどこかで気持ちは回復していません。

働きたいという気持ちと、働きさえすれば悩みも消えると思うのですが、それを知っていてもできない自分がいます。

介護福祉士の資格を活かせば、パートでも時給で1000円以上の求人はたくさんありますし、上手く好条件を見つければ1400円以上も珍しくありません。

日当で1万円以上も十分に狙えます。

そう考えると、月に5万円を稼げない理由はありません。

でも、実際には思うように稼げていないのが実情です。

好きなイラストで、似顔絵を描くという仕事も自信がないのでできません。

描く自信というよりも、依頼者とのやりとりに不安があるのです。

マイペースで他人と関わらないことで仕事にできないか。

そう考えて出した答えが「旅ランチャンネル」という選択肢でした。



元介護職員が介護業界に戻りたいと思うのかって話

 これでも介護福祉士なんです!?

まず介護福祉士が国家資格なのを知っているでしょうか。

国内にはいろんな資格と名のつくものがありますが、「国家資格」に属するものは、多くが命や健康、財産などに大きく影響を与える役割を担うものに課せられています。

医師や弁護士などを筆頭に、国家資格はあるんです。

もう一つ別の見方をすると、その資格が試験に「合格すること」以上に、一定期間の「専門教育を受けること」を追加していたりします。

医師になるには、大学の医学部を卒業すると言う条件もそうでしょう。

弁護士はどうでしょうか。

昔は、一次試験が学力テストで、大卒者などは免除されて、二次試験からでした。

そんな風に、大卒や専門学校などに在籍していなければ、試験だけ合格しても資格がもらえないですね。

じゃあ、介護福祉士ってどうなのか。

よく試験の難易度を偏差値などで紹介しているサイトってありますよね。

「簡単」とか「普通に対策すれば合格できる」とか。

でも、もっと大切なことが、その「受験資格」です。

介護福祉士の場合、以前は専門学校などを卒業すると「もらえる資格」でした。

なぜなら、卒業するくらい学習していたら、間違いなく試験に合格できたからでしょう。

しかしある時から、「卒業」は「実務経験」と言う尺度に変わり、卒業していない人は介護施設で3年以上勤務することで受験資格を得られます。

言い換えると、「介護福祉士です!」と名乗る人は、どこかの専門学校を出たか、施設で3年以上働いていた人ということです。

試験の難易度については、若い人や記憶力に不安がない人であれば、集中すれば1ヶ月でも十分に合格できるでしょう。

一方で、こみちが来年の試験でも確実に合格できると思えるには、半年くらいの期間が欲しいです。

というのも、試験を終えて、結果的に合格していたというレベルならもう少し期間は短くても大丈夫だと思います。

でも100回受けて100回合格できるくらい確実となると、それくらい準備しておきたいということです。

介護職員という仕事

まだ一回も介護職員として働いたことがないという人は、介護の仕事がどのようなものかイメージできないかもしれません。

事実、こみち自身がそうでした。

とは言え、こみちは仕事に就く前に、実務者研修という介護福祉士を受験するために必須の講習を済ませていて、主に知識として介護業界がどう進もうとしているのかを学んでいました。

少し言えば、ケアマネがケアプランと呼ばれる計画書を作り、そこには医師や看護師の意見、もちろん本人や家族の思いなども聞き、今後の活動を計画書として作ります。

例えば、介護施設でお世話になっても「のんびりと暮らしたい」と思いを託すこともできるのです。

一方で、リハビリを頑張って家に戻れる生活を目指すということもケアプランに盛り込めます。

ということは、現場で働く介護職員は、個々の方のケアプランを理解し、それ沿ってスタッフとして動かなければいけません。

「今日はお風呂に入りたくない」と言った人にどう接すればいいのでしょうか。

「ダメです!」なのか、「やめておきますか? 次回は二日後ですけど…」なのか。

施設にもいろんなタイプがあって、計画通りに利用者がメニューをこなすことを重視する場合もあれば、利用者の心地よさを尊重して一歩下がって接する場合もあります。

その違いはどこにあるのかというと、もちろん施設長の考えもありますが、こみちが経験として思うのはスタッフの人数と利用者の人数の割合が大きく影響しています。

当然ながら、利益を考えるとスタッフの人数は多過ぎないことが重要です。

夜間、スタッフ一人で利用者20人から30人くらいを担当することも珍しくありません。

一人の体調が急変した場合は、まだマニュアルに沿って対応可能ですが、二人三人となれば、お手上げです。

そんな場合、いくつかのグループがあって、応援を頼んでしのぐのですが、夜間勤務が回ってくると別グループの夜勤担当者が誰なのか気になるのも事実です。

場合によれば、助けを求められないことも起こり得るからです。

つまり、スタッフとしては個々の意向に応じる余裕がそもそもありません。

朝、別のスタッフが出勤するまで、どうかみんな無事でいてくださいと思うのが本音です。

では日中の時間帯はどうでしょうか。

朝昼晩と提供される食事の時間を、利用者の好みで選べたら嬉しいですが、あっちでは食事でこっちでは別のことをしているという状況にスタッフの手が回るのかということ。

もちろん人件費を高く設定し、利用者に請求される金額をアップすれば、それこそ自由気ままでも十分に対応できます。

ざっくりとした目安を挙げるなら、施設選びは利用金額の他、提供される食事の内容、さらにそこで働くスタッフの人数もポイントになります。

3度の食事を弁当形式にすれば、弁当を配るだけで仕事は済みます。

一方で、食事をスタッフが担当するなら、調理の技量も必要ですし、大人数の食事を作る経験も問われます。

味付けも同様で、塩分濃度が高いのは避けたいなど、いろんな制約の中で対応するのはまた経験を要します。

弁当形式なら一人でもできますが、やっぱり調理までとなると簡単な味噌汁だけという場合でも調理開始から後片付けまで含めて15分で作るのはかなりの慣れが必要でしょう。

はっきりと言ってしまえば、弁当形式でも調理形式でも、介護スタッフの受け取る単価給はほとんど変わりません。

やりがいを求めて、それこそいろんな経験ができる施設で働くのもありなら、決まった作業だけをする働き方も同じ介護職員です。

こみちの場合は、限られた人数の利用者により細やかなサービスを提供する部署で、一般的な介護サービスはもちろんですが、少人数ゆえに個々の性格も熟知できて、家族に近い感覚で持て成すことができました。

3年の勤務期間中に、何人かとのお別れもしましたが、その意味では家族にもしっかりと報告できるだけの仕事を全うできたと思います。

現場仕事が多忙すぎると、気になっていてもスケジュールによって組み込まれた業務があるので、様子を見に行くことも簡単にはできない施設もあるでしょう。

その意味では、スタッフが連携し、しっかりと役割を果たせるだけのやりがいもありました。

しかし、異業種の相場と比較すれば、介護職員の給料はまだまだ十分とは言えません。

年末年始も大型連休も、自由に取れたりはしないので、スタッフ間でやりくりして休みをもらうというのが本音です。

年末年始で言えば、正月を休みにするなら、大晦日は出勤でしょうし、その二日を休むなら、前後は連勤しなければバランスが取れません。

しかも大晦日に夜勤担当し、よく正月の午前中まで働く人が毎年何人かいます。

去年役目を果たせば、今年は外れ、来年はまた担当が回ってくるという感じで、介護スタッフとして働くと、一般的な仕事以上にプライベートが他人と合わせ難くなりなります。

また同じ職場で働く人と時間を合わせるのも大変で、日勤だけというような働き方をするなら不可能ではありませんが、早番から遅番、夜勤までを担当すると、誰かと出掛ける約束をしたいなら翌月分で合わせるくらいでないと難しいのが本音です。

年齢不問という募集要項

中高年の方々で、これまでいろんな社会経験をしている方は、年齢不問の介護職員などいかがでしょうか。

正社員(常勤スタッフ)以外にもパート勤務などを設定している施設も多く、何より年齢や経験を問わないことも多いので、介護スタッフとして働くことは割とできるでしょう。

さらに、友だちと遊びに行くというような予定が頻繁ではないなら、時間帯が勤務ごとに変わっても対応できるのはポイントです。

未経験で働き始めると、国家資格ではありませんが初任者研修という研修を無料で受講できたりもするので、介護福祉士同様の知識までは問われませんが、方向性が掴めるので3年頑張って介護福祉士まで取得を目指してみるのも目標としてありです。

今だから介護業界に戻りたい!?

現役の時に担当させていただいた利用者を思い出すと、貴重な時間を過ごさせてもらえたと改めて思います。

しかし、そんな方々の多くを送り出して、また介護業界に戻り、時には当時とは異なる方法で介護サービスを行う職場に入りたいかと自問すると、もう一度とは簡単に言い出せません。

週に一回、しかも日勤帯の長くない勤務ならまだしもですが、たくさんあるスケジュールを漏れなく処理するのは簡単ではありません。

いい施設に巡り会えれば、スタッフ同士も仲良くできますし、利用者との関係も友好的です。

個人的な働きたいという段階では、そこまでの巡り合わせが分からないので、とにかく施設見学をして、雰囲気を実際に確かめてみることです。

こみちも当時、何軒か施設を回りいろんな比較をして決めました。

中にはスタッフ同士の派閥で、殺伐としている施設もあったりで、見学して通り一遍のことを話して断ったケースもあります。

自身の老後を考える意味でも、介護スタッフとして働いてみるのはとても有益な経験にもなります。

興味はあるけど、未経験でも大丈夫かなぁと思っている人は、一度施設見学をしてみるといいですよ。

今日は介護業界に戻りたいのかというテーマで好き勝手なことを話してみました。

新しいビジネスの種を蒔く準備をしようって話

旅ランチャンネルを立ち上げたい!?

自分のしたいことから何ができるだろうと考えて、こみちの場合は「旅ランチャンネル」の立ち上げを検討している。

まぁ簡単に言えば、vlogの一種で、車を使うドライブ、バイクを使うツーリング、自転車ならサイクリングで、走るから旅ランというだけだ。

過去の経験から、車やバイクなら下道でも1日で800キロやそれ以上は走ることができる。

これがアメリカ大陸の話になると、西岸から東岸まで約4000キロあるらしいから、バイクツーリングでルート66を走破するのも大冒険になるだろう。

四国一周が1000キロと考えると、距離に対する意識が国内外で全く異なる。

言っても、国内を走る前提だから、自身が楽しみたいという意味では、移動手段も自転車か徒歩しかないと思う。

問題はカメラで、もっと言えば何を撮影するのかという部分。

その答えを導き出すには、そもそもチャンス立ち上げの目標や目的にまで遡ることになる。

過去のバイクツーリングを思い返すと、オシャレな旅というよりは、ストイックな耐久レースをしているかのようで、とにかく少しでも遠くまで行くことが楽しみになっていた。

特に東北地方は関東から訪れるにはおすすめで、走りやすいし距離も稼げる。

初めて下道で青森駅に到着した時は、日本列島を頭に思い浮かべて、あの辺りにいるという実感で嬉しくなった。

もう少し言えば、高速道路と使うのが最も簡単とするなら、国道4号線や6号線が次に楽だろう。

何度も訪れていると、単純に到達できることではなく、どう辿り着けたのかに関心があって、仙台市から国道45号に乗り換え、海岸線沿いをクネクネと走り、その時もまた自分がどの辺りを移動しているのかと想像して楽しめた。

そんなツーリングに没頭していた頃、時々自転車で旅をしている人や走っていたり歩いて移動する人を見かけた。

「大変そう」と思っていたけれど、日本列島はどんどん大きくなることはないから、移動手段を考えて、旅を楽しむことが大切だと考えるようになった。

これって人生と同じで、効率さえ良ければいいのかって話にも通じる。

例えば歩く時なら、5キロの距離でも発見できることが多い。

こんな店があるとか、ここに道があるのかと、それこそ車で走っている時には見なかった景色がある。

問題は、その楽しさをどう伝えられるのかという部分。

それを考えると、悩みもあるけれど、楽しくもなれる。


非接触型の自動化されたコンビニが登場!?で考える働き方

 効率的なサービスの行末

コロナ禍の長い巣篭もり時期を経て、我々の生活スタイルも意識も変化した。

特にネットショッピングに対する割合が増えたのは、こみち家だけではないだろう。

さらにビジネス系の情報番組では、入店しタッチパネルで注文すると、購入商品をビニール袋に機械が商品を入れてくれるコンビニ店まで紹介されていた。

つまり、そのシステムがあると店員が要らないことになる。

人材不足が叫ばれ、深夜帯の労働者を集めるのに苦労する業界であれば朗報と言えるだろう。

中高年の注目職業にも変化の兆しが!?

中高年のこみちを含めて、年齢不問の仕事を探すと多く見つかるのが、介護、警備、清掃の類いではないだろうか。

こみちは介護福祉士の有資格者で、多少の業界経験はあるけれど、例えば介護も入り口こそ広いが、分かってくると段々とやりがいもあるし、大切な仕事でもあるから極まるのは容易なことではないだろう。

それは警備や清掃業にも言えて、何をどう意識するのかで、難易度は一気に変化する。

一方で、警備という仕事を抑止力という意味ではなく、防犯カメラのような位置付けにしたら、人ではなく機械によって補うこともできるだろう。

定期的に込められたコースをドローンが偵察に回り、自身で充電器に戻れれば、それそこ管理画面で集中管理できるようになる。

掃除に関しては、凹凸の多いトイレ掃除などは機械化し難いとしても、平面部分を機械化することで、少人数の清掃員でより広いエリアを担うことができるはずだ。

ここ数ヶ月愛用しているスマートバンドの機能にある睡眠や心拍数の情報も、介護現場で活かせるだろう。

さらには、運動によって心身の健康をとり戻れることを実感しているから、上手く機械を使うことで、介護サービスのあり方を一変させることも不可能ではない。

そうなると、これまでの介護士に求められるのは、食事や入浴、排せつのようなポイントになるだろう。

例えば施設内でのレクリエーションを機械化できたら、その時間帯でスタッフは別の仕事ができるし、忙しくて十分に取れない休暇も担える。

つまり、機械化によって今度の仕事内容はどんどんと変化していくだろう。

想像する今後の働き方

「遊び」を仕事にできないかと思う。

例えばこみちはジョギングにハマっていて、走り方を教えてくれるyoutube チャンネルを好んで観ている。

一方で、そんなチャンネルを運営しているのは、必ずしも陸上界のトップアスリートだった方々ばかりではない。

例えば、理学療法士が身体の仕組みという視点で、ジョギングのことを解説していたりする。

つまり、栄養学の面やシューズを含む器具の製造販売など、関連する様々な業界が同じジョギングに参入できる。

一方で、「遊び」を体験し、それを伝えることでも仕事に変換させることはできるだろう。

例えば、ジョギングを運動不足解消という意味で始めたとしても、そこにスマートウオッチがあると、また異なる楽しみが増える。

心拍数や睡眠の管理、機種によってはおすすめのワークアウト(運動の内容)を機械が教えてくれる。

つまり、どんなスマートウオッチを選べばいいのかということでも、遊びから仕事へ変換できる時代なのだ。


「高額時給」を勝ち取るために必要だと思うこと

 「犬の散歩代行」で

これはyoutube にアップされていた海外での話。

犬の散歩を代行して、年収1000万円以上を稼いでいる人がいるらしい。

一方で、「犬の散歩」を労働として評価した時に、あなたが雇い主ならいくら支払うだろうか。

例えばこみちなら、時給1000円なら普通にアリだと思う。

でも、1時間だけの労働で1000円稼ぎ、そのために移動で往復1時間を要するなら、実質的な時間給は500円となるかもしれない。

また、散歩中に犬を理由に何かトラブルが発生した場合の責任や過失割合なども含めると、時給1000円という設定で安心かはその他の取り決め次第だろう。

さらには、犬が歩きたがらないという時に、運動不足解消をどこまで担うのか、適切な排泄を管理できているのかなど、単純に犬を連れて表を歩けばいいということでもない。

なぜ「高額時給」が発生するのか?

お湯を注げば食べられるカップ麺でも、十分に空腹を満たせる。

でも、高級なレストランに行けば、一食数万円の料理だって出してもらえる。

その差はどこにあるのだろう。

思うに「信頼」ということだが、それが無ければ誰も高い金額を支払いたいとは思わない。

単純に「美味しい」という体験だけではなく、一緒に来店した人にも幸福な感覚を持ってもらえたり、そのひと時が思い出になる時間なら、そこに普段よりも多くの金額が発生したとしても、それで割高にはならない。

言い換えると、この世にある全てのことは、自分以外にもできる人がたくさんいる。

それこそ「湯を沸かす」ことだけなら、誰でもできるし、もしも時給換算するなら相場観をそのまま利用して決めるだろう。

一方で、「あなただから頼みたい」という付加価値が得られたら、そこには市場よりも高額な報酬に繋がる。

つまり、同じことをしても、ある人には高額時給で、ある人には平均的な時給ということが起こり得る。

肩書きや経歴が大切な理由

同じことをしても、そこで得られる評価は全く異なる。

人はそのものだけで判断しているのではなく、これまでの経緯にも関心を寄せる。

つまり肩書きや経歴は、期待値につながるし、そこには市場価値よりも高額な報酬につながる理由にもなる。

同じくらい上手でも、一回もしたことがないと、そこには不安しかないし、高額時給の査定にはつながらない。

だからこその下積みだったりする。

この人ならこれくらいできるはずだという実績が、正しく評価されるためにも、正当な方法を進むべきだ。

最近のyoutube を観ていても、演者としては同じでも、それぞれの業界で実績を残した人ほど生き残っているように思う。

また、創成期だった時代からyoutube で活動したベテラン勢もまた、これまでの活動で実績を作ったのだろう。


近所で見かけた見知らぬ人の話から

 ふと感じる違和感

駅を出て自宅に帰るまでの道のり。ちょうど、我が家にある区画に踏み込んだ辺りで横切った男性と一瞬だけ視線が合った。

微笑むことも会釈することもできないくらいだったのは、その後ろ姿が想像以上に早足だったからだろう。

ふと感じる違和感。

微かな記憶を思い出しても、あの人を見かけたことはなかった。

大手通販サイトで大規模なリストラが行われている!?

みなさんもよく利用しているだろう大手通販サイトで、大規模なリストラが実施された。

その規模は数千人単位とも言われて、主に単純な繰り返し労働の担い手が対象だったようだ。

倉庫業務というと、手軽に始められるピッキング作業がある。

リストに従って、倉庫内から商品見つけたし、それをコンテナなどに集める作業をする。

一方で、機械化された倉庫では、パレット単位などで管理が行われ、ほとんど自動化された状況で同じ作業が賄えてしまう。

大手通販サイトの場合、どうやら自動化によるリストラということで、その通達は以前から始まり、転職に向けた制度もあったと聞く。

だから、ニュースとしては驚く話でも、現場の労働者たちは適切に準備できる期間が設けられていたのだろう。

日本国内であれば、高校を卒業し、専門学校や大学などに進学し、社会に出るまで数年間を成長期間として準備できる。

その段階では、医師にもなれれば、先生や公務員など、順番を問われることが多い職業にもなれるチャンスがある。

一方で、そのポジションに就くまでの順番が複雑で多い職業は、転職になると諦めるしかないことも多い。

例えば、司法試験は裁判官や検察官、弁護士などになるための必須試験だ。

その内情に詳しい訳ではないけれど、試験合格までに数年間を要し、見事に突破できたとしても、上位の成績優秀者(一回の試験で合格できてしまうような秀才たち)からその後のコースを選ぶという。

周知の事実として裁判官や検察官は公務員という立場で、待遇という意味では社会的にも安定したポジションだろう。

一方で、そんなエリートコースから漏れた形になったら、今度は「学歴社会」に直面する。

国内の大手弁護士事務所には、有名大学を卒業した優秀者たちが若手弁護士として採用される。

有名大学を出ているかいないかの部分が問題なのではなく、「大学生時代」という社会的ポジションを知っているか否かがポイントで、例えば高校を卒業し、コツコツと勉強を続けて、10年掛けて合格したとしても、実際に社会に出て事案を扱う時には社会経験が大きく問われるはずだ。

法律は機械的な当てはめ作業ではないから、そこに至るまでの経緯を社会的にどう判断できるのかがポイントだと思う。

そのためには、弁護士として欠かせないのは、法律理論は必須としても、さらに庶民の暮らしにどれだけ歩み寄れるのかだろう。

ところが、経済的な視点に立つと、一般的にマーケットとなるクライアントは別になることも多い。

むしろ、社会的に助けを求めている人に近づくことは、ビジネスよりも社会的な人助けに近い仕事になるだろう。

ニュースでは「更生の余地がある」とか「故意ではなく過失だった」とか、弁護士による発言には特有の決まり文句があって、資格取得までの厳しい挑戦を突破したはずなのに、自身の求めていた姿とは繋がらないことも増える。

誰かが言っていたけれど、どんな世界でも上位5%に入る人は生き残り、残り95%の中で、それを仕事にしない人は続けることができ、そこにも入らない人は仕事にもできず、続けることもできないまま、結果的に退場するしかなくなるそうだ。

つまり、それを会社で考えると、同期の中で5%に入るトップ集団は仕事を任せてもらい出世していくけれど、残された95%の中で、早々に趣味を生き甲斐にした人は踏み止まることができて、それにも含まれない人は仕事でもプライベートでもどこか満たされないまま生きることになる。

どう生きて行けばいいのか?

「自分の存在って…」

こみちも最近までよく考えていたことだけど、上位5%に入ることはもう不可能だから、それこそ趣味を見つけて、少しでも楽しく生きることしかできない。

これは悲観的になろうということではなく、むしろ現実を知り、生き方を考える時に参考になればと思う。

作業服姿やスーツ姿で、さっきから近所を何度も行き来しているように思える見知らぬ人を見て、ふと違和感を感じてしまう。

その意味では、いかに上位5%に入れるかが重要で、それが難しいと悟ったなら、自分らしく生きる方法を探すことだろう。