「価値観の合う人とどう巡り会えるのか?」という話

 多分、天才は幸せ

マイペースで生きられたら、多くのストレスは解決できる。

でも学校や会社、さまざまな人間関係のある世界で生きるためには、マイペースも制限されてしまう。

同じ会社や学校だったとしても、配属先やクラス分けというちょっとしたタイミングの違いで、その人が受ける印象は違うだろうし、それが些細に感じることもあれば、重く大変なことになってしまうこともある。

そんな意味で、天才は幸せだ。

彼らは天才と呼ばれ、その存在を肯定的に認められている。

あることが人よりもできるということで、別の何かができなかったとしてもそれがマイナスにはならない。

むしろ、人間らしいとか、意外な一面として良い方に受け止められる。

プロとは何か?

youtube のある動画を観た時、その動画を作った人を本物のプロだと思った。

プロ級というほめ言葉ではなく、その道のプロだ。

理由は、一切の非がないこと。

カット割からテロップの出るタイミング、ナレーションの滑舌やスピードに至るまで、観ていて不快さや違和感がない。

きっと、個別に作業を分解すると、同じことができる人はたくさんいる。

言うなれば、80点以上を取れる人たちだ。

でもプロだと思った人は、100点満点ではないのかもしれないが、きっと98点くらいなのだろう。

つまり、「とりあえずできる」というギリギリではなく、「何度でも確実にできる」というレベルなのだ。

きっと、「最近、誉められることが増えた」と仕事ぶりを周囲から評価された時期を過ぎて、「今度、新人向けにレクチャーしてよ」と講師のような立場も経て、さらにさらに三周くらい回って、プロだと周知されたのだろう。

プロが砕けるから面白い!?

笑いを緩急だと説明する人がいる。

つまり、人が思わず微笑んでしまうのは、意外性を感じるからだ。

もちろん、真面目風から一転して、バカをしても面白い。

でも大学の教授が専門分野の難解な説明をしている途中で挟んだ言葉に、聴いていた学生たちが2テンポくらい遅れて、わざつく面白さもある。

聞き流してしまえるほど些細なワードだけど、専門家とそれを学ぶ学生だからこそ分かり合える笑いがある。

例えば、お笑いの世界で、師匠のような肩書きで呼ばれる人がいて、その人がプロとしての笑いを間違えてしまうことがある。

それが、周囲の笑わなくてはという接待を、うけていると思ってしまうことだ。

笑いを緩急とするなら、急になる部分は専門性を磨くことで向上させられる。

しかし、緩の方はどうボケるのかだから、その外し具合が難しい。

師匠という肩書きは、専門家である教授とは異なり、このボケの部分まで含めてプロとして評価される。

だから、ボケに笑いが起こるのではなく、「なるほど勉強になります」と聞いている側が笑うのではなく、真剣に最後まで受け入れてしまうのだ。

でも、師匠の立場を考えて、笑いをくっ付ける。

とても不自然な笑いになってしまう。

そこを最後まで笑いにできる人は、そうそういない。

緩急の落差が想像の範囲内で、上手いなとは思えても、面白いにはならないからだ。

年を重ねるとは何か?

つまり、年を重ねるとは、価値観が熟成する時期を迎えるということ。

もっといえば、価値観が確立し、その中で生きたいと思う年になったとも言える。

中高年の仕事探しでも、経験や知識がないのではなく、ある程度まではできるし知っていたりする。

そんな人が改めて仕事を探すのだから、若い頃よりも大変になるのは想像できる。

中高年の人が求人で仕事を探すよりも、独立し自分で思うような働き方で稼げたら、もっと生きやすいだろう。

しかし、それを実現させるには、知識や経験が知っているというレベルではなく、プロと呼ばれるレベルでなければ難しい。

かと言って、「それだけ」ではなかなか芽が出ないから、緩急をつけた演出までも強いられる。

それをするには、同じ価値観を持つ人とどう巡りあい、協力できるかがポイントだ。

そもそも、不満や愚痴を言うのは否定しないし、こみちもいろいろと呟いてきた。

でも言えるのは、やっぱりそれでは現状を打破することはできない。

つまり、いかにして前に進むべきを考えて、自身も成長しなければ、やっぱり同じ目標や価値観を持った人には出会えないだろう。

そんな気がする。