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「気づき」が鈍感なのは年齢だからなのか?

 「すき焼き」風の夕飯

こみちの父親、冷奴だと食べません。

噛む力も必要なく、食べやすく感じますが、飲み込む際に苦戦しやすいのが理由のようです。

人は一口サイズの塊を口の中で作り、ごくんと飲み込みます。

そこには噛む力と舌で塊を作る動作の連携が欠かせません。

冷奴の場合、噛むことではなく、塊を作りづらいことで、高齢者には苦手になりやすいですね。

例えば、薬味の鰹節やネギが塊から外れてしまうと、息づきした時にそれだけ気管に入りそうにもなるわけです。

でも大量の豆腐がまだ口に残っている。

なるほど、食べづらいですよね。

そんなこともあって、餡かけみたいなひと工夫が大切です。

こみちの場合、豆腐の水分を抜いて、表面に片栗粉を塗し、揚げ出し豆腐にします。

とろみもあって、口の中で塊を作りやすいだろうと思うからです。

そのバージョン違いとしてすき焼き風を作りました。

ですが、食べてくれませんでした。

高齢者全般に言える話ではありませんが、両親の場合、そこに用意されているに意味があって、もしも誰もつくらなければ、起きて菓子パンを食べるばかりになります。

すると高齢者の食生活って、一気に簡素になってしまいます。

例えば、他の家族には評判でも、両親はそのすき焼き風のおかずを夜に食べず、翌朝とかにもう一度食卓に並んで、そのまま廃棄されてしまうこともあります。

作ったその時の完成度と冷蔵庫で一晩経過した味では、また印象が違うでしょう。

時間が経過した後に食べて、美味しいないと思われてしまうのは、やっぱり残念です。

料理って提供したタイミングに合わせていますから。

ですが、この気配りも、両親には届きません。

あるのが当たり前。食べても冷えていて美味しくなかった。

タイミングを楽しむようなことができないと、生活で楽しいことを逃してしまいそうです。

まわりで用意して、提供するタイミングまで合わせてあげないと、感動できるエピソードにも遭遇できなくてなっています。


高齢者介護の限界点

 説明すれば「分かる」ものか?

こみち、毎晩午後11時ごろにキッチンへ戻ります。

理由は排水口に溜まった生ゴミのネットを交換するためです。

夕飯を素早く済ませるこみちたちは、使った食器を含めて午後7時までには洗い終えます。

その後、両親が自分たちのペースで夕飯を食べて、食器を洗い片すのですが、排水口の掃除には手を出しません。

というのも、こみちたちの帰りが遅くなり、まだ食事を終えていないのに、母親が排水口のネットまで交換し終えたことがありました。

「もう(掃除は)終わっているから」

母親にすれば、褒められると思った話です。

「まだ私たちは食事してないのに?」

つまり、どんなに母親が掃除したとしても、その後に洗い物をすると少しはゴミも出ます。

キレイなネットをもう一度外して、「裏返しにして掃除する」ってかなり面倒じゃないですか。

「全部、終わってからやらないと」

こみちの言葉にキレた母親は、それ以来、排水口のゴミ掃除をしなくなりました。

みなさんは分かりますよね?

排水口の掃除は、最後じゃないと意味がないです。

でも母親には、「最後」というタイミングが理解できなくて、「掃除する」か「しないか」しか判断基準がなくなっています。

他にも冷凍庫の中を整頓することも同じで、今朝も冷凍庫を覗いたらレイアウトがまるっきり変わって、キレイに並べられていました。

母親がしたんだと思うですが、整頓されてスペースが出たことは悪いことではありません。

ただ、料理もしない母親の感覚で、レイアウトをごっそり変えてしまう意味がどれだけあるでしょうか?

意味ある?

例えば母親にそう言ったら、きっと忘れるまでは冷凍庫をいじらなくなるでしょう。

でもしばらくすると、またイジって、自分の思うように並べ替えたくなるんです。

野菜室もそう。

連チャンして買って来た同じ食材(例えばピーマン)、こみちはラベルや梱包方法の違いで、古いものを確認しています。

でも母親は、それを全部取り出して、大きな袋に入れ替えたりします。

だから、もうどれが古いのかも分からなくなるです。

ここでも、どれが古いか?よりも、「整理整頓した私」が母親には意味あることになっています。

それなら、もっと別のことに気を配ってくれたらとも思いますが、結局はある程度まとまっているからこそ、母親も整頓したくなるですね。

これを最初から一人でするとなると、母親も見て見ぬふりになってしまいます。

ある意味、介護ってそんなところがあって、役立つかどうか?ではなく、自己満足できることはしてもらえばいいと割り切る方がストレスには感じません。

父親もデイサービスでの体操などに、「時間ばっかり使ってたいした運動になっていない!」と言います。

でも、「数年前に散歩した方がいいよ」と足腰の衰えがその後の老化に影響すると説明しても、結局は散歩を習慣化できませんでした。

デイサービスでの体操が不十分なものだとしても、父親だけでは運動を続けることができないです。

結局、「やるならこれくらいしないと」というような言い方をしますが、父親は口では言っても一人で黙々とこなすことができません。

「散歩でもして来たら?」そう言われた時に、気分転換とか軽い運動をして汗を流すようなイメージはできても、歩く習慣が足腰の機能維持や認知低下に関係していると何度説明しても理解されませんでした。

言葉が理解できないのではなく、「時間を決めて行動する」その大切さを理解できなかったんです。

「今すぐ」とか、「乗り気になったから」とか、そんな時なら父親はできるです。

散歩の用意を家族の誰かがして、玄関まで行き、「いってらっしゃい」までしてくれないと、父親は散歩できません。

朝夕のご飯も、母親が買って来た菓子パンやバナナの方が簡単なので、父親はよくそちらを食べます。

作った料理はそのまま冷蔵庫。

時にそのまま捨てられていたりします。

父親には、食べるご飯があることが感謝ではなくて、母親が菓子パンやバナナを買い与えてくれることを知っているので、おかずが食べられないことを不安には感じません。

これも、父親と母親の共通する行為で、本来目指すべき方向とは異なる方に進みがちです。

父親のために、一品だけ何か食べやすくて不足しがちな栄養が摂れる料理を母親が作ればいいのにと思います。

でもそれはせずに、菓子パンを与えてしまいます。

運動不足も重なり、排便に苦労して、普通なら今の食生活を見直すタイミングですが、両親は薬や青汁などで解決しないかと考えます。

ワザとではないんだと思いますが、毎日の生活で両親の行動に疑問があります。

でも、その理由を知ったとしても、疑問点って解決することはありません。

だからこそ他ができないとしても、やっぱり生活習慣を変えることがもう両親にはできないからです。

なんで冷凍庫をイジるかなぁと思っても、それはもう解決できないし、ストレスになるだけなので、コントロールできない天気と同じ気分で、雨なら傘を持って出るしかありません。


こみち家で壊れているのは誰だ?

 父親の存在

要介護3相当になった父親。

要支援が「支援」という言葉を使い、それよりも重くなると要「介護」というが、父親を見てそれがはっきりする。

要支援の頃は、性格的な依存もあって、自分で頑張ることをしないで家族を頼っていた。

でも今は、口ではいろいろと言うが、そこに意味があるのかというと特に意味がない。

例えば、プロ野球を観て、どっちのチームが勝っているかは分かっていそうだ。

でも応援しているチームが勝つと喜んでいるかというと、それはよく分からない。

つまり、何となくそこで起きたことを認識しているが、自分自身の損害に関わらないなら、特に何もしないままだ。

風呂に入れと母親に言われて、「汗なんかかいていない!」と騒ぐ。

時に大声で「助けてくれ!」とか「いじめるなぁ!」という。

様子を見に行くと、多くは父親の思い通りになっていないか、母親がそんな依存性の父親を拒絶した時に起こる。

母親の存在

最近、母親ははっきりと認知機能に低下が見られる。

聴力低下もあって、生活音が極端に大きい。

ドアの開け閉めなど、ケンカでもしているのかと思うほど、ドアを激しく閉める。

冷蔵庫もレンジも同様で、聞こえていて、でもストレス発散でそうしているのか、大きな音に気づいていないからなのか、はっきりしないけれど、とにかくうるさいのだ。

数日前、父親が母親に何かの当てつけか?と言っていたが、不機嫌になるとそうやってドタンバタンするようになった。

こみち家

確かに、父親基準で考えると、父親は日常生活の何も自主的に行っていない。

全てを誰かに提供してもらい、それを利用することで生きている。

ギブアンドテイクが当たり前な人間からすると、父親という存在を受け入れられないだろう。

でもそんな父親にしたのは、母親の存在も大きかった。

甘え許して、母親に依存させていたのは、実際母親自身なのだ。

でも父親も要支援ではなく要介護の段階になり、依存性ではなく、依存しないと生きられない存在になった。

その時、母親に変化が起こる。

つまり、父親が甘えてくれることを愛されていると思って来た母親にとって、甘えではなく依存になって、ただただ面倒な存在に変化して来たのだ。

100%完全にではないが、「何か飲む?」という流れで飲み物を差し出すのとは違い、あれこれと父親に命令されることに、母親はどこか強制を感じてしまうのだろう。

してあげたいではなく、しなければいけないになって、母親が時々父親を拒絶する。

例えばそうなって、でも父親は一切、自分のスタイルというか行動を変えることはしない。

誰かのために何もしないし、自分のために誰かが苦労しても悪いとも口にしない。

本来なら父親のような存在からは距離を置くべきで、関わって幸せになる相手ではない。

だからこそ、父親と接している母親は段々と壊れて来た。

父親は人を壊してしまっても、自分を生かしたい人なのだ。

だから、こみち家では、父親の問題的を議論することはしない。

家族で決めても、父親はそれに従わないし、問い詰めても何も改善しない。

そして、今、母親がそのフェーズに入って来た。

自分自身の判断ではできても、相手のニーズや事前のルールを汲み取れない。

何でまたコレをするの?

母親にミスを指摘しても、謝りもしないし、そのミスを修正もしない。

結局は父親と同じで、期待してもできないのだ。

その状況、だから変わるしかないんだよ。

でも母親は父親と同じで、その状況を単純に突っぱねる。

まぁ、平たく言えば、拗ねてしまうのだ。

何か無敵にもなったつもりで、頑なになるが、できていないことを正して欲しいということでも拒絶反応になってしまうので、そこを結局は怒ることもできない。

結論を言えば、父親も母親も変われない人たち。

だから、できることはするとしても、できないことまで頑張ってしないことだ。

両親と距離を置き、命や緊急性に関わることでなければ、放置するしかない。

関わってしまうと、どんどん依存が増して、結局はこっちが負担を強いられて、それが当たり前になる。

自分たちでも少しはと思うけれど、これまで言ったように父親も母親も自分の方法しか守れない。


頼りになる人、ならない人

 ものをくれるから頼りになるんじゃない!

恋人、結婚相手、同居する親。

そのパートナーとの相性ってありますよね。

何か提供してくれるから高評価なのではなくて、自身も必要に感じることを相手も必要だと思う気持ちがとても価値あるんだと思うんです。

例えば、ポンとお金を出してくれる。

それって、車とかパソコン、スマホのように高額な商品なら嬉しい話です。

でもここで話たいのはそんな例外的なことではありません。

例えば朝食作ることになった。

ウインナーの袋が10袋あったら、嬉しいかという話なんです。

一般家庭で、一度に10袋なんて使いません。

こみち家は1袋だけ。

だから、8袋を10袋にされても嬉しくはないんです。

同じことで、麺つゆのボトルが3本から5本になってもそう。

そのタイミングでは、もうそれじゃないだろうということをさらに追っても、もう好きでそうしているとしか言えません。

例えば、ゴミ出しの日にゴミ箱のゴミを集める時。

こみちがこっちから集めていると気づいて、反対側から集めてくれるのは助かります。

でも、こみちが持ち上げたゴミ箱を一緒持ち上げても嬉しくありません。

それはいいから、「向こうからして!」。

コレね。同居する両親のことなんです。

今朝、弁当のご飯にふりかけを掛けようと思ったら、中身めちゃくちゃ減っています。

アレ、もうこんなに使ったかなぁ?

これ、この前にも思いました。

そして、事実関係は知らないですが、母親が弁当を作るんだと言った時に、決まったふりかけや冷食が減っています。

使った確証がないのですが、使うなとも思いません。

でも、使うなら同じものを時には買って欲しい。

ですがここでも母親の特徴で、安価なふりかけとか、変わった味のふりかけを買って来ます。

でもそれ、こみちは使わないですよね。

そして母親は当たり前のようにこみちが買っているふりかけを使う。

だから、母親とのタッグって、ほとんど無駄になることが多い。

何でそれも使っちゃうの?

数日先まで考えて残していた冷食を、パッと母親は使ってしまいます。

しかも、同じものではなく、変わり種を買って来る。

足りなくなるだけではなく、余計な処理が増えるので、母親に買って来てとも言えません。

でも、母親は当たり前のように奪ってしまう。

意味のないものが増えるのに、肝心なものは減ってしまう。

言っても母親には伝わらないし、結局は今と同じことしかできません。

母親が悪いんじゃないです。

合わないですこみちとは。それだけ。

「アイスクリーム、買ったよ!」

でも買ってくれるアイスクリームって、好きなものではありません。

根本的に楽しみ方が違うでしょうね。


要介護3の父ではなく、母の気になる行動

 朝のこと

こみち、家族の朝食を作るので、みんなよりも早起きです。

朝にお風呂にも入るので、脱衣場で着替えたりもするんです。

「何だコレ?」

歯磨きしながら何となく辺りを眺めていたら、洗濯洗剤の棚の奥にトイレカバーが丸めて置いてありました。

トイレカバーが今朝、新しいものに替わっていて、見つけたカバーは元々トイレに使っていたもの。

それとは別に最近の父親は朝に失禁していることが多くなりました。

稀に夜間に起きてトイレに入ったりしますが、装着したリハパンを一度脱いでしまうので、もう一度自分で履いても鼠蹊部まで意識して履いたりはできません。

当然ですが夜間に起きてトイレ行った日は、もうリハパンもパットも意味をなさず、布団に敷いた防水シートだけが頼りになります。

そんなことが日常的にあるので、トイレカバーが濡れていて、入りたいのに交換しなければいけないということが当たり前です。

以前は週に1回だったものが、昨日は1日で3回。

本当はもう便座カバーを使う方が不衛生なくらいです。

で、洗剤置き場で見つけた使用済みのカバー。

広げるのも怖かったんですが、恐る恐る広げました。

べん失禁ではなかったようで、とりあえず洗面器を使って手洗い。

その後、脱水だけ洗濯機を使いました。

それ自体はそう大変なことでもありませんが、不安は棚に突っ込んだ行為です。

父親がそれをできるとは思えません。したのは母親だと思うのですが、これ認知機能低下が進むと見られる周辺行動にも該当します。

介護施設でも、利用者がベッドやタンスの奥にいろんな物を隠す行為ってあるあるなんです。

母親の場合、「後で洗えばいいと思った」と言うかも知れません。

でもこれがとても危険性のある行動です。

今は便座カバーも尿失禁だけだったかも知れません。

でもべん失禁になった時に「その時はしないよ」と言うかも知れませんが、「後でしよう」という先送り思考って高齢者に多くなる行動で、いざとなって直せるものではありません。

運動習慣なども、一時的に中止すると、その後再開できないケースってたくさん見てきました。

できることは毎日しっかりと守る。

玄関先まで新聞を取りに行く。

わずか数メートルの歩行ですが、一度しなくなるとできなくなってしまうものなんです。

父親で言えば、唯一、リビングのカーテンを閉められたんですが、テレビ脇のカーテンは少し奥から引っ張らないといけません。

腕を伸ばしてカーテンを掴む。

普通にできることですが、父親には腕を伸ばしてがもう難しく、その窓のカーテンが閉められなくなりました。

「ちょっと腕を伸ばすだけだよ?」

そう思うんですが、そこにも出来る出来ないの境界線ができてしまいます。

母親も何か別の意図があるなら余計な心配ですが、後回しの癖で汚れている便座カバーも置きっぱなしにしてしまう段階なら、以前よりも認知機能が低下していると疑ってもいいかもしれません。

少し心配です。

どう見ても「マヨネーズ」なのに「麺つゆ」を買って来るのか?

 食費の分担

こみち家では、何となくこれは親に財布から、でもこっちはこみちたちの財布からという了解があります。

でも最近の母親は特徴的で、これまでの担当を全うすることができなくなって来ました。

具体的には、スーパーで安いなと感じたら、それを買ってしまうんだと思うんです。

マヨネーズはカロリーオフの商品を使うことになっていて、それで母親がずっと買ってくれていました。

ポテトサラダやコールスロー、唐揚げの隠し味に少し加えたりと、やっぱり欠かせません。

こみちはカロリーオフでなくてもいいのですが、両親のこだわりや習慣で、決まったブランドの決まった商品が好みなようです。

「そろそろないんだけどなぁ」

実は昨日、こみち自身が買うかどうか、店で迷いました。

以前にも何度か同じようなことがあって、買ったりしているのですが、結局は両親がいつものマヨネーズを買い直すので、昨日は躊躇って見送りました。

帰宅して、シンクの下の備蓄を確認すると、マヨネーズではなく、麺つゆが増えていました。

冷蔵庫の麺つゆはまだたくさん残っています。

だったら、残り半分になった出汁か、マヨネーズが理想です。

ここで何で麺つゆだったのか?

安かったんだと思います。

もう一つの理由は、買っても置き場さえあれば問題にならないからでしょう。

半年くらい前までは、麺つゆのストックが数本もありました。

消費期限までに使えるだろうか?

いつもは醤油とみりん、砂糖で味付けしていた煮物を麺つゆベースに変えて、とにかく早く使ってやっとストックを無くしました。

これ、買い物のことだけではありません。

自分で食べることはできる父親。

朝起きて、夜寝るまで、自分のことも最低限しかしなくなりました。

「麦茶飲む?」

声を掛けると答えますが、自分では面倒なのでまず動きません。

食事も作っても母親がパンやお菓子を買って来るので、嫌いなら食べなくても済むようになっています。

ほとんど両親のために時間を割いて料理している時でも、イヤなひと口も食べられないまま廃棄されます。

「何で食べないの?」

もしもそんなことを聞いても、まともに答えなど返って来ないでしょう。

提供されることが当たり前に生きて来た父親は、好きなものが来るまで動きません。

「じゃあ、これなら食べる?」

母親の思考はいつもそうなります。

二重になったら無駄でしょ?捨てるのもったいでしょ?

特に最近の母親は、そこまで目の前の状況が過去と未来に繋がっているかを想像しなくなりました。

でもこれ、父親も母親も悪意は一切ないんです。

黙っていれば、誰かが助けてくれる。

父親は本気でそんな風に思い、母親を頼って来ました。

母親は母親で、思いつきた物を買って来ると、それでもストックとして切らすことがなかったんです。

麺つゆが3本、4本になってしまうとしても。

話戻すと、これでこみちがマヨネーズを買ってしまうと、母親はマヨネーズも自分で買わなくてもいいんだと学習してしまいます。

買いたい時に買う。

そんな買い物に全てなってしまいます。

結局、父親も母親もワンパターンを繰り返して生きているんです。

同じところでミスをして、それが要因でトラブルになる。

まとまったお金が必要になって、手持ちがあれば解決できますが、なければ子どもたちまで巻き添えになって、ちょっと厄介になります。

じゃあ、次はそうならないように注意するかというと、母親は解決できたから問題ないということを学び、父親は何もしなくても解決できると知り、結局は両親が変わることはありません。

何もしない父親が母親にはいろいろと持論を話しているようです。

もっとこうしたらいいんだとかないか。

父親も既に記憶がまだらなので、何か問題を起こしても、それを自分がしたとは思っていませんし、だから反省もしませんし、他人が助けてくれていることに感謝もしません。

これだけ聞くと嫌な人に聞こえますが、でも全く悪気はないです。

むしろ、それが当たり前で、それ以外を想像できないタイプなんです。

だから、自分が風呂に入ったことを、少し得意げになって報告して来ます。

「今日、風呂入ったから」

自分のために、母親か下着の用意もしてくれて、ただシャワーを浴びて来ただけでも、父親にとってはまるで家族のために何かしたような気持ちになるみたいです。

母親が腕を傷めたとしても、それを聞いて自分のために傷めたんだとは思わないようで、俺は風呂に入ったとそれを自慢できるメンタルなんです。

もう少し母親が状況を見られるタイプなら良かったのですが、それをいいことに父親は母親と二人きりになるとあれこれと自分が困らないように誘導しているようです。

本当に自分たちだけで解決できるなら、好きして欲しいですが、父親は母親に押し付け、母親も段々とそれをこなせないまま、途中で放置してしまう。

両親のこだわりって、ちょっと理解できないですよ。

我慢するとか、控えるという行為ができず、新たに解決が期待できる物を取り入れる。

しかもそれを自分では用意しないので、どうしてだろうと思いますが、ひたすら気づいてもらえるように待ち続けるのが父親のスタイルなんです。

根本的ではなく、今できることとして、母親は父親の要望に応じることができる行動だったりします。


高齢者の介護を考える

 先ず「加齢」で何が起こるのか?

介護施設での介護よりも、実際に在宅介護をして気づいたのは、「加齢」に対する理解と解釈だと思います。

こみちが初めて介護職として勤務することになった時に、「介護される(する)」って何だと思いました。

例えば、それまでの体験や経験でイメージできるのは、ショップ店員のような存在ではないでしょうか?

訪れた客の目線を観察し、相手のニーズを察して応対する。

つまり、そのポイントは要求にどう対応するか?です。

しかし高齢者介護の場合、確かにまだ軽度の段階では、それも当てはまると思いますが、介護全体の期間としては前半の、初期に限られる状況です。

むしろ、高齢者介護の本質はその後で、「加齢」によってその人の暮らしがどう変化するのかを理解した後でしょう。

こみちの両親を改めて観察すると、質問に対して間違った考えがある訳ではありません。

例えば、朝7時に起きても、6時でも8時でもいいですよね?

高齢者介護だから、何時じゃないとダメではありません。

ただ「加齢」との関係でいうと、逆算して行動を組み立てるような行動ができなくなりがちです。

例えば、「朝食を7時までに済ませたい!」と高齢者が思った時に、料理を感じから始めるとそれができるのか?またどんな段取りならスムーズになるか?という思考が弱くなってしまうと想像します。

なので、こみち家の両親で多いのは、例えば6時に起きて作業を始めるような行動はできるの一方で、8時に家を出るから準備してねという行動が苦手です。

これは逆算して行動することが加齢によって苦手になったと考えると、以前ならできた生活習慣でも、食材の買い物そのものはできても、在庫との兼ね合いを見通して買い物することは不得手になりました。

同じ食材を何度も買ってしまう。

買い物そのものは今でもできるのですが、何を買うべきか?を考えることができなくなりました。

つまり、高齢者介護とは、加齢でいろんなことが全体的にできなくなるというよりも、特定のパターンに該当する行為ができなくなって、例えば老々介護ではそのできなくなったことがずっと解決しないままになりやすいのです。

トイレの失敗をしてしまうってことはあります。

でもその失敗を自分で解決できないとか、また失敗していることに気づかないことでそのまま放置状態が続くようなことは起こります。

作業としてできないのではなく、異変に気づかないので、そもそもしなければいけないと思わないですね。

ズボンを履いても、その途中までになって正しく着替えられないようなことも、できないだけではなく、できていないことに段々と気づけなくなっていて、父親の身だしなみが乱れてもそれを母親が気づいて整え直してあげないことが目立ちます。

しかし、全体的にそれが起こるのではないので、特定の行為には強いこだわりを見せたりもします。

そこにこだわるなら、こっちを直したらいいのに?と思うんですが、それはまた別の話なんです。

アナタは大丈夫? 距離感覚ありますか?

ここでいう距離感覚

例えば「目線の高さ」と言い換えてもいいかもしれません。

上から目線で言われると、何だか責められているように感じますし、妙に下から誉め殺しされると身構えますよね!?

つまり、そのシチュエーションに適切な目線や距離感ってあるんだと思うんです。

説明の便宜上、あえて数値を用いますが、50センチが正解で、20センチだと上から目線、100センチでは誉め殺しと簡単に言えるかというとそうではないはずです。

当事者ならもっと積極的に関わる場面とか、少し遠い関係なら気づかないくらいの対応が適切だったり、思いの外、その距離感覚って人によっても立場や関係性によっても変化するものです。

そこに神経を使いすぎると、この瞬間はどうあるべきか?そんなことを意識し過ぎて疲れてしまうのも現代人の悩みではないでしょうか。

一方で、そもそも距離感覚を全く意識しない、できないタイプが「天然ちゃん」と呼ばれる類いのグループです。

お気づきかもしれませんが、こみちのそのタイプ。

自分では全く天然ちゃんだと思ったことはありませんが、他人からそう言われてしまうので、そうなんだと思います。

つまり、偉そうにここで語っていますが、書いているこみちこそ、距離感覚に疎いタイプなんです。

距離感覚に疎いタイプの特徴は、何か始める時にその人が中心人物でないと上手く進みません。

つまりなぜかと言うと、距離感覚が疎いので、これに注意するとか、あのタイミングではこうしなければならないとか、あればあるほどそれを無視して進んでしまうからです。

父親と母親を見て実感

介護が必要な父親は、よくあることですが風呂に入ることを嫌がります。

それで、曜日を決めて、「何曜日だから入るでしょ!」と言う約束をしました。

もちろんそれで簡単に入ってくれる訳ではありませんが、何もない状況で入ろうと言うよりも、何曜日って決めたんだからと言う方が、少しだけ説得力が増します。

でも、ここで母親も距離感覚が疎いので、父親が「入らない」と言い出した時に、「じゃあ、明日ね」と早い段階で言ってしまいます。

何曜日でも本来ならいいですが、入らない状況を少しでも楽に進める工夫として曜日を決めて行動することにしたはずです。

それを「明日なら」と父親の思いつきに合わせてしまうと、風呂だけならいいですが、食事や他の場面で準備を完了させても、「今はしない」と言われてしまうんです。

ただでさえ大変な介護なので、厳密に決める必要はありませんが、それでも大まかなルールがあることで、される人もする人も負担が減るです。

あとで母親が大きなため息をつき、介護って本当に大変!」と言い出して、それはそうだけど、でも大変にしているのはアナタ自身なんですよと言っても気づいてくれないです。

それはお風呂という介護の距離感覚間違えているからなんですよね。

アレもコレも大変。

大変だろうと思う一方で、その半分以上が自分でそうしていて、しかも最後にはもうできないと父親と大げんかを始める。

父親に対しては、母親の苦労に気づいて少しでも負担を減らす工夫をして欲しいですし、母親に対しては、それ自分の首を絞めていませんか?という言動が目立ちます。

こみちが二人の夕飯を作っている時に、買い物した母親が真っ先に父親におやつを与えました。

「全部食べたら、夕飯食べられなくなるからね」と言って、全部を手渡します。

父親は好きなだけ食べて、結果、夕飯の量が決まります。

最近では夕飯がほぼ残り、翌日も同じことが繰り返されて、結局は捨てることも珍しくありません。

勿体無いという話ではなく、二人はそもそも距離感覚が疎いので、誰かしてもらってもその有り難さを感じることが苦手です。

なぜなら、いつも自分が思うようにしかできからです。

そこでそれをして、あとで困らない?

そう思えて仕方ないことも、後回しにしてしまうことが多々あります。

両親を介護するって、できないことが距離感覚なんですよね。

つまり、好き勝手して残った部分が全て後々に問題になること。

母親に買い物をしてもらって助かる部分もありますが、野菜室にピーマンが30個くらい、シメジが3パックもあります。

今の家族の食事量を踏まえて、そんなに必要?でも分からないですよね。

だから買って来てしまう。

風呂の件も買い物の件も、全て同じ理屈で、できる時もあるけれど、できない時に修正もできないです。

オムツを履かないと朝に失禁してしまう。

でも、父親も履いていないと言い出しませんし、母親も履かせていないことに気づきません。

そして朝になって、何で漏らすの?と母親は怒り、父親も言い返すというのが日常です。

母親なんて頑張っているですよ。

でも自分で大きくして、それを頑張って尻拭いする。

それも段々と全部はできなくて、残っています。

だったら距離感覚の意識を変えて、早く対処する工夫に目を向けて欲しいのですが、毎度毎度、ことが大袈裟にならないと気づきません。

流石にそれを介護するのはこみちにとってもできない範囲です。

中高年の仕事探し やっぱり理想にはこだわりたい!

 大前提の話

これまでに一度でも正社員として働いたことがある人なら、正直、自身のもらう給料分の約3倍の利益を生み出せた自信があるだろうか?

大雑把な言い方だけど、ラーメン屋で出すラーメンの価格、利益率は30%前後。

もちろん店舗を借りていたり、その立地が良ければ、当然コストも上がりますが。

数値そのものよりも、自分の給料の3倍を稼ぐことができると、ある意味で労働と対価が釣り合います。

月収30万円。

計算しやすくするために月の勤務日数を15日として、1日で給料は2万円。

だか6万の売り上げが必要だと言うこと。

1000円の商品なら、60個。

10時間の営業なら、1時間で6個。つまり10分に1個売れていないといけません。

例えば、ある社員に3日で企画書を作るように頼んだとして、30時間を費やした。

少し強引な計算ですが、その企画書6万円の対価です。

売り上げなら3倍で、18万円を稼ぐことができる価値を持っているのか?

そう考えると、意外と現場作業ではなかなか利益って上げられるものではありません。

陳列棚に商品を出す作業。

出すだけでは、どんなにたくさん出ても、それに対して報酬をぐんと増やすことは難しいんですよ。

むしろ、陳列棚丸ごと任されて、何をどう並べて、どんなポップで飾りつけ、自ら営業マンになるような意識にならないと稼ぐことはできません。

つまり、言われたことを言われた通りにすることもとても大切なのですが、働き方として考えると、それだけでは早々と頭打ちになるんです。

だからこそ中高年から仕事を探すなら、それまでの経験や気づきが少しでも活かせて、それが自分の付加価値になるかがポイントです。

作業の内容は同じでも、一緒に働くと働きやすいと思われるとか、お客さんから説明が分かりやすいと言われると言うような評価は、ただ決められたことをするだけのやり方では得られないものがあります。

例えばお客さんにどっちの商品がおすすめですか?と聞かれて、単に売れている商品を答えるのではなく、トータルではこっちなんですが、こちらは30円安くなっていまして、実際に食べ比べしないと気づかないくらいなので、とりあえず買っておこうと言う話ならこちら、おすすめですよ。そんなところまで商品ごとの認識を語ってくれたらどうですか?

それこそが作業者で終わらない働き方です。

どうしても単発バイトだと、作業員になってしまいます。

もちろん繰り返すことで、信頼を得ることもできますが。

ただそうなると、その信頼を対価として還元されているのかが大切になります。

やりようで評価を変えられ、対価も変動させられるなら、あとは自分の頑張りです。

でも規定に沿うことが仕事の場合、予め決められた評価を超えて、対価が見直されるものではありません。

仕事探しをする中で、いい意味で自由度があって、評価や対価の基準も頑張って次第で変わってくれるとやりがいも出ます。

でも仕事内容によっては、ほとんど自由もなくて、淡々と繰り返すだけの仕事もあります。

そんな仕事も悪いとは思いません。

まわりの雑音にも集中を切らさないで、長い時間頑張る姿は招きできるものではありません。


親の介護のためだけでは生きられない!

 何もしない父親と変わって来た母親

もう父親は、彼自身で生き方を決めてしまった気がします。

ご飯は誰かが用意してくれるのも。

それを食べて1日が過ぎればいいと言う生き方。

一方の母親も、彼女の性格は変わっていません。

それに合わせてしまうと、できないことや残されたことがこちら側の負担になってしまいます。

そこで、少しずつ止める方向にしたいのが、食事に提供です。

朝夕の食事作り

買い物はまとめ買いしているとはいえ、週に1回くらいは買い物をしなければいけません。

車は妻が使うので、片道3キロのスーパーまでこみちは走って行きます。

帰りは両手に袋を提げるので、走って来るのも簡単ではありません。

と言うか、ここだけの話、右腕の筋を負傷しました。

区間的とは言え、片手に数キロの買い物袋を提げて、キロ4分から5分ペースで走ってしまうと、体幹が安定しているとは言え、接地では腕に大きな力が何度も加わります。

そんなこともあって、どうやら腕を捻ると傷みがあり、買い物も少し困っています。

かと言って、これだけ暑いので氷などを買うと急いで帰りたくなるのもあって、走りたくなるんですよね。

帰宅すると汗だく。だからシャワーを浴びて、洗濯機を回して干すまでがセットで、一回の買い物も1時間で終わらせるのはなかなか急がなければいけません。

そこまでしても、エアコンの効いたリビングで父親はテレビをうたた寝しながら観ています。

段々と、この環境を守るためにこみちの頑張りが消耗しているのかと思うと、切なくなってしまうんです。

だからどこかのタイミングで、今迄の生活スタイルを変えてしまおうと思いました。

一応、食事作りは継続します。

でもそれだけで全部揃っているではなく、あくまでも一品をついでに用意する。

そんな感覚です。

今日の晩御飯も、鮭を焼いて両親に用意しました。

だって母親は、他にも焼きそばや肉団子なども買っているので、それを食べてもらえばよくないですか?

わざわざ、食材と手間と時間を使って、両親用のおかずまでは不要ですよね。

しかもその食費はこちら負担なので。

まだ頭の整理できていない部分もありますが、こみち自身をもう少し自由にして、家に縛られる割合を下げようかなと思います。

そうじゃないとこみちの方が両親よりも先に潰れてしまいそうです。

自分の親を介護するとは何か?

 介護の大前提

介護とは、今までできたことができなくなった部分をサポートすること。

着替えができなくなった。ご飯を食べる時に不便を感じる。

イメージしやすくないですか?

親の介護とは何か?

一般的な高齢者介護は、正に先ほど触れたように「できなくなったこと」が介護の対象です。

しかし、自分の親になると実はその範囲が拡大されて、一番の問題がお金や老後生活そのものだったりします。

どう言うことか。

今までできていた仕事ができなくなると、「介護」の意味からすれば、「その仕事をサポートすること」です。

しかし、勤務する会社について行くことはできません。

なので基本的には失業し、経済的に収入を失うと言うことが起こります。

そのために貯蓄や年金があると思うのですが、一般的な介護ではその範囲ってクリアされているですが、親の介護の場合、そこが大きな問題になります。

さらに言えば、要介護になった時に、介護される立場になる親でも、親としてのプライドまで消える訳ではありません。

それがどんな形で表に出て来るのかと言うと、「じゃあいい」と言って、できないままを続けようとします。

それこそ、無関係なら「ご自由に!」でもいいかもしれません。

濡れたズボンで、着替えられない親。

「じゃあいい」では済まないですよね。

こみちの両親って、ありがとうって本当に言いません。

気か替えを手伝ったとしても、ありがとうではなく「麦茶」です。

ある意味で、そこに親としてのプライドが出て来るんです。

いい関係にすれば、お互いに気持ちよく助け合える気がしますが、そうではないんです。

両親にとって、「ありがとう」とプライドを失うくらいなら、放って置いてと言う方がいいんでしょう。

問題の本質って何も難しいことではありません。

予定した状況に適合しなければ、弾けばいいです。

でも、じゃあお好きどうぞ!では解決しないし、濡れたズボンでその後数日過ごしたら、家がどんなことになっているか考えると、そこがもう判断できない状況こそが介護なんです。

「手を洗えば」

「さっき、洗った」

何か言えば、必ず言い返して来ます。

素直なのは得になる時だけ。

でもありがとうは言いません。

しないでは済まない。

そんな葛藤が、親の介護なんですよね。

今朝もお決まりになっていますが、両親は口げんかをします。

互いに思うプライドがあって、それがぶつかっているです。

正に手を洗えと言う人とさっき洗ったと言う人。

どっちが正解と言う話でもなく、プライドとできなくなっているが共存するので、手伝っていると言うスタンスには敏感で、手伝ってあげたいを求めて来ます。

じゃあ、代わりにありがとうを言ってと思いますが、それは親としてのプライドで言いたくないですよね。

気持ちの持ち方が、親の介護ではとても精神的に疲れます。


少し偉そうなことを言いますが…お許しを

 もう人生の折り返しどこか終わりが見えて

ふと、昔テレビで観ていた芸能人の方々を調べてみると、既に他界されている方もいらっしゃいました。

それを知った時に、こみちもあと何年くらい今の健康的な生き方で暮らせるだろうと思います。

一方で、大金持ちになれば欲しい物が買えて幸せだったかと言うと、意外とそうではないと思うんです。

確かにお金を使うと助かることってたくさんあるのでありがたい存在ではありますが。

こみち、今まで生きてきっとこうじゃないのかなぁと思うことは、自身の人生(持ち時間)を使いながら、発見や経験をしていくことなんだろうと思うんです。

つまり、欲しい物を全部買う。

部屋に入り切らないから、大きな家を買う。

でも大きな家を維持管理するのって手間もコストも掛かるので、そこにもお金を使う。

つまり、目の前のテーブルだけで出来たことなら物を買うだけで出来ますが、テーブルよりも大きな物になると今度はテーブルを大きくしたり、そもそもテーブルではないもっと大きな枠組みを導入しなければいけません。

これ、物欲を求める限り無限に広がります。

例えば自分の家がデパートと同じ大きさで、地下から地上8階まで全フロアを私物で埋め尽くしたとして、確かにそこまで来たら、欲しいと思う物は9割あるでしょう。

でも生物なら数日で痛みますし、車なら半年も放置するとバッテリーが上がります。

時間を使って、手間を掛けるにも、実はできることには限りがあるんですよね。大金持ちになったとしても。

つまり、幸福って、その手掛けられる範囲の中で、自分としても満足度の高い物なら一番いいんです。

多すぎても管理し切れない。好きでもないことばかりでは満足度も上がらない。

例えばこみち、介護が始まった父親と最近また認知機能が低下したように思う母親と暮らしています。

いま、父親はもう一人で風呂にも入れないので、着替えも用意して、「お風呂に入ろう」と家族が言わなければ、ずっと風呂にも一人では入れません。

今はこみちが担当していることではありませんが、朝夕の食事を作りながら、作ることを楽しいと満足度に思えれば幸せですが、したくないことと思うと限られた時間も手間も奪われてしまいます。

朝夕の食事の準備や他諸々で、こみちの日常生活の4時間が、絶対にしなければいけなくなったことで奪われています。

眠くても、疲れていても、頭が痛くても、1日の中でその4時間は確実に奪われてしまう現実です。

言ってしまえば、お金を使うとその時間を取り戻すことができます。

だから、大金持ちでなくてもいいですが、自分のしたいことを続けるために、逆にお金って使い方次第で自由を与えてくれます。

例えば同じ介護でも、「ありがとう」と言われてする介護と、「こっちは育てた親だから当たり前でしょ!」と思っている相手を介護するのとでは、感じ方も満足度も変わりますよね。

もっと言うと、どんな形でも人は学ぶことはできるので、優しさを思う経験も悲しみに堪える経験も無駄にはなりません。

ただ介護福祉士の立場で言えば、親を介護するのが子どもの義務ではないこと。

あくまでも、子どもができる範囲でいいです。

そのためにも、親の生活と自分の生活をごちゃ混ぜにしないで、自分の幸せを考えた時にできる範囲で親に恩返ししましょう。

そんな言い方をすると親不孝にも聞こえますが、これ何も子どもだけを考えてではなく、介護は方法を間違えると親だけではなく、子どももできる全てを介護だけにしても、できないようになるです。

自分の幸せそっちのけでも。

だから、頑張ってできることではないことを理解してくださいね。

できる範囲でと言いましたが、それくらいで思っていても実際には自身の人生の半分くらいが介護に関係する様々な手間で失われます。

朝、お漏らしした。

それだけで着替えや汚れた下着の洗濯、自分だけなら次のことを出来たのに、朝から急いで洗濯機を回すなんてことが日常になります。

仕事の準備や確認をしたいなと思っても、誰も作れなければ、キッチンに立つしかありません。

着替えさせてもらい起きて来た父親は、いつものようにテレビを観る。

何か手伝ってくれたらと思っても、これしてと頼んでもそれを理解したり、実際に体を動かすのをみると、自分で頑張る方が余程スムーズなんだと気づきます。

もう当てにもできない。そこにいるだけ。段々とそうなるんです。

逆に母親はいろいろし始めます。

でも「嗚呼、ちょっとそれはしないで!」そんなことを言わなければいけない時も出て来ます。

なぜなら父親とは違い動ける母親も全体を見て動いているのではないので、極端に言えばハンカチ一枚を洗濯機で回してしまうようなことを始めます。

作業としてはできる。でも、どんな順番でするべきか。

それが段々と判断できなくなります。

だから「お皿出して」と伝えても、「どのお皿?何枚?」と返って来るので、結局は何もしないでいてくれた方がスムーズなんです。

でもそうなると、もう朝夕の時間はキッチンにいないと何も進まなくなります。

これって、単に数時間が奪われることではなく、日常生活のほぼ全てが固定化されるくらいの出来事です。

お分かりの通り、ここまでどっぷり浸っては自分の幸せを失います。

そうなる前にケアマネに「母親はもう食事の準備が難しくなったようです」と伝えて、宅食サービスや訪問介護などのサービスを受けるべきです。

そうしないと、自分の幸せが奪われてしまうので。

介護でやり過ぎと言うと、24時間付きっきりをイメージするかもしれませんが、実際には固定化された日常生活を作る時点で介護としては関わり過ぎなんだと理解してください。

一度、両親だけでは限界なんだと分かって、ケアマネと介護計画を立て、自分が支えられる範囲を手助けするくらいで考えましょう。

料理くらい、買い物くらい。

それぞれの作業はできるかもしれませんが、それをしてしまうと、自分の活動範囲も狭くなり、自分の幸せがなくなってしまうので要注意です。

AIの進化で問われる「賢さ」の話

 賢い人ってどんな人?

多くの知識があると、賢いなぁと思います。

また計算が速いとか、記憶力が高いとか、賢いと思うポイントがありますよね?

一方で、AIを使って、少し込み合った話を持ち掛けた時に、彼らの回答に「?」と思うことないでしょうか。

こみち、普段からチャットgptとgeminiを使うのですが、チャットgptってしっかりと前提条件を示さないと全パターンで考えてしまうのか、示された回答にそれはそもそもあり得ないと思うことが含まれます。

これはその時の例ではありますが、「今日は学校に行きたくない」と持ち掛けた時に「じゃあ、学校を辞めればいい」という回答は求めていなかったりしますよね?

なので、「辞めたい訳じゃないけど、気分的に行きたくないんだよね?」と前提を最初に示さないと思うような会話にならないことがよくあります。

ただ最近、新しいモデルに変更されるらしいので、そのような部分も変わっているかもしれませんが。

また、例えば「だったら100mを3秒で走れば良い」と、実現不可能な回答でも適切な回答とは言えませんよね。

そのユーザーの限界値が分からない中で、AIの回答をどう正しく示せるか?って、かなり難しいでしょうね。

また、文化や習慣、そのお国柄でも常識が変わり、根拠の出所も違うので、賢い回答も常に通用するとも限りません。

より多くのことを知っている段階なら、量こそが賢さでしたが、今はどう導き出すかの賢さに移行しているようで、だからこそどうAIを賢くさせるのか、難しい課題に直面していますね。

「助けてくれない」と知って

 今日、料理中に指を切りました

切ったのはわずかで、縫うような事故ではありません。

でも気が緩んでいたのか、ふとしたタイミングで切りました。

もう数年、そんなことはなかったので、本当に久しぶりのことです。

「痛い!」

野菜を切ろうとして、ケガしたのですが、リビングにいた両親がこみちを心配してはくれませんでした。

父親はうたた寝し、テレビを観ている。

母親は自分のことに夢中で、こみちの様子など気にしていません。

あまり仲が良いとも思わないので、そんな態度も仕方ないなぁとも思います。

でもここでふと思うのは、これからもっと大変になるだろう介護も、両親のために頑張っても「ありがとう」もないでしょうし、逆にこみちの方が何かトラブっても彼らが助けてくれることも限られています。

結局は、自分は自分。

先ずは自分が生き残れることを考えて、両親のことにしないと、先に両親のことを心配して自分の生活を後回しにしても、二人居なくなったら自分のことを後回しにしたこみちだけが残されます。

ふとね、数年前に戻った時に、もう少し良好な関係を作れなかったのかぁとは思いますよ。

でも、両親はこみちとそもそも価値観が違う。

こみちから見ると、小さな喜びは与えてくれるけれど、そのためにはドカンと大きな物を奪われてしまいます。

菓子パン買ったよ!

嬉しく思いますよね。

でも、毎月のオムツ代、スマホの設定、見えないところで当たり前のように頼られて、少しは自分でも努力して欲しい時でも、それがいつの間にか当たり前で、振り返ると損していることが多いです。

損っていうのは、例えば冷凍食品が5個残っていて、それは来週のお弁当用。

でも母親は1個使う。

残り4個あるでしょと。

でも、1個の価値がいくらか?ではなく、その1個がなくなることで、その代わりを探して、また時に店まで買い物に行く。

それはもう1個の価格ではありません。

だから、一緒に生活すると、自分と両親の価値の違いを頻繁に感じます。

ちょっとだけ。でもそのちょっとが実は大きな意味を持つ。

両親を救おうと思うと、自分だけの時よりも数倍のパワーがないと共倒れします。

だから、プレゼントするのは問題ないです。

あげた物を失うだけで、それ以上は影響しないので。

でも一緒に何かすると、時間も労力もどんどん奪われる。

最初ということが変わり、煮詰まって焦らされることになるからです。

すっかり楽しくなくなって、完成。

なんか、幸せ感じないなぁ。そう思って時間が過ぎる。

自分は親想いではないし、冷たい人間だなぁとも思います。

でも、近づいて良い人と近づいていけない人がいるとしたら、こみちには両親が近づくべき人ではありません。

指を切って、改めてそんなことを思いました。

そろそろ80代の母親も仕事を辞める時期?

 母親を見て思うこと

家事をする母親の姿を見て、仕事ちゃんとできているのかなぁと思う時が増えました。

しかも、予定したミーティングを忘れていた母親。

電話が掛かって来て、慌てています。

相変わらずの父親

父親は相変わらずと言うか、寝ているか食べているか、テレビを観ているか。

失禁する頻度も増えています。

トイレの便座カバーは、今週二度目の濡らしていました。

でも母親の意向で父親には洗濯機の使い方も教えていないので、濡らしても父親は何もできません。

全部受け身。しかも母親が大きなため息をついてしています。

そこだけ見ると、もう老老介護は成立していません。

ケアマネに伝えること

ここからはこれから介護する方やこみち家のように真っ只中の方にも考えて欲しい部分。

それがどう生きるか?

子どもとして両親を支えるために誰も迷惑を掛けないで頑張るのも貴方の自由。

一方でケアマネに事情を説明し、公的な支援を取り入れるのも自由です。

頑張ると言えばケアマネも頑張ってねとしか言いません。

もうダメです。どうしましょう?と言えば、そこからケアマネは公的なサービスの導入を検討し始めます。

そして今はここまでできるというアドバイスが受けられるでしょう。

そこで、恥ずかしいから頑張るという選択肢ですが、それがいけないことではなく、頑張れますか?ご自分の人生は?ということも考えるべきです。

なぜって我々も行く行くは介護を考える時期が来ます。

頑張ろうと思ってもできなくなる時が。

親の介護を頑張って、へとへとになって年を重ねた自分が、今度は同じことを自分にためにもう一度する。

しかも年齢を重ねてから。

それは容易なことではありません。だからこそ、自分の老後も親の介護同様に考えるべきだと思います。

そうなると、今の親の介護、どこまでできるのかの基準が変わります。

頑張って頑張っての限界ではなく、今負担なくできる範囲。

それをケアマネに相談すればいいんです。

特に曖昧に頑張ればできるかもと言えば、頑張ってくださいと返って来るので、しっかりとここまではできる、ここからは難しいと伝えましょう。

そこから彼らが動き出すので。

楽をするんじゃありません。

誰もが破綻しない未来を考えたギリギリを見つける作業なんです。

だから、ケアマネに上手くいっているフリなど必要ありません。

だってそもそもケアマネを付ける理由って、できなくなる相談をするためですから。

段々と老いる両親

 一見すると気付きませんが

反応を見ていると、やはり確実に老いていると感じます。

それは何か起きた時、または起こりそうな時に、対処できないことを意味します。

昨夜も父親はお風呂に入りたくないと騒ぎました。

結局は入ったのですが、いつものように介助した母親と激しく言い合いしています。

父親にすれば、「我慢して風呂にやっている」ですが、入れる母親にすれば「一人で入れないなんて」と言う感情でしょう。

しかもこうなることを母親も分かっていたので、父親に「今日、風呂に入るの?」と聞く訳です。

当然ですが、「入らない」と答える父親。

だから母親も予定した今日の入浴を入れないつもりだったんです。

何もしなければ楽。

父親はそう考えています。

でも困難を覚悟している訳ではなく、そうなると騒ぎ立てます。

一方で母親も口では言いますが、言っていることに根拠らしいものがなく、しているのは流れに任せた行動でしかありません。

父親の栄養が偏っていると分かっても、だからと言って母親が食事管理をする訳ではありません。

結局は作っても捨ててしまい、好きなものしか食べられないようになっています。

高齢者になると、口の中で飲み込むための準備が苦手になり、パサパサしたりまとまり難い食べ物を嫌がります。

だからトロミをつけるんですが。

ことは何でも同じですが、考えて行動することができないから「老いている」と言われるんです。

つまり、ダメになっていてもそれを改善できない状況だから、老いているんです。

風呂に入りたくない。

楽したい父親はそう言うでしょう。

でも感染症になったら、自分で対処できるのか?父親にはその状況で自分が動けないことも理解できません。

今、したいかしたくないか。ある意味でそれしか考えられません。

その意味では介護する側は、そんな父親をそのまま自主性に任せるということもできますが、やはり感染症などになって困るのは介護者の方です。

父親は騒ぐしかできないので。

ということは父親に「風呂に入らないなんて」と怒っても、もう父親にすればどうでもいい話です。

なので、優しくでも、泣き落としでもいいので、「一緒に入ろうよ!」と明るく誘うことが不可欠です。

結論を言ってしまえば、家族が介護放棄してしまうと、行政が動き、父親を一時的に預かってくれることになるでしょう。

そして、家族が介護を拒否し続けると、父親は自宅には戻せないので、施設に入る選択肢がありません。

とは言え、この事実を父親に説明しても、自分の立場もどうなるかも理解できないでしょう。

分かるとすれば、家から出されてしまう。家族から見放されてしまうということですが、まだそこまで感じる怖さはないはずです。

その意味では、介護は相互に協力するから成り立つものなので、片方だけが頑張るものではありません。

本当ならもっと父親がしっかりしていた頃から、「お父さんも協力してくれないと施設に入ってもらうしかないんだよ」という事実を告げるべきでした。

ただ父親の精神が不安定になるという理由から、それを伝えていなかったのですが、母親は全体を理解することができなかったのも伝えなかった要因です。

本当に立ち行かなくなれば、もう誰が理解していてもそうするしかないので、その時になったら考えてもいいと思ったんです。

日々、時間が過ぎています。

そして確実に両親は老いている。

今朝も予定時刻より早く母親が起きて来ましたが、だから何をすることもありません。

目についたことを始めますが、それをしたら何がどう変わることもないですし、するならもっと別のことがありますが、それをする訳でもありません。

早く起きて来た。

ただそれだけになっているのですが、その状況を客観的に理解できないことも老いなのでしょう。

お久しぶりの投稿ですが

 こみち家の現状

在宅介護は、介護施設などで行うサービスとはまた異なる難しさがあります。

ただ、当たり前のことですが、本人が健康的な生活を送ることができなければ、年月が経過すると体力がガクンと衰えてしまいます。

特に食べることができない、億劫になると、筋肉などを作るタンパク質やミネラルも偏り、不足するので、動けない体になってますます活動量が低下する悪循環です。

ではこみち家の場合、どうだったでしょうか?

昨晩、改めて父親が歩いている様子を見ましたが、もう一人で屋外を歩くことはリスクが高すぎる状況です。

屋内だったとしても、一度に歩ける距離は補助具なしでは100mも危険かもしれません。

事実、朝だけだった失禁が夕方でも起こるようになり、尿意を感じない、または感じてもトイレまで間に合わないという状況です。

それに対して母親は激しく怒るのですが、感情的になっても何も解決できないことも介護の特徴なので、先にも触れました食事や運動をどう上手く取り入れるかを検討するしかありません。

ただ、よく食べて、運動もして、そんなアドバイスだけで改善できる段階ならいいですが、歩くことも難しくなっている現状を考えると、デイサービスの回数を増やすことを含めて、根本的な対策が必要です。

ここに至るまでの経緯として、母親は夕方に小腹が空くだろうと、ほぼ一日運動らしい運動をしない父親に菓子パンを与えていました。

夕飯が出来上がる15分前だったりもします。

当然ですが、父親はお腹いっぱいで食事量も減ってしまいます。

一方で母親がなぜそのようなタイミングにパンを与えてしまうのかも実はしっかり理由があります。

母親はもう料理という料理ができません。

実は料理ってタイミングがとても複雑な作業で、同時にいくつものことをしないと上手くできない行為なんです。

だから高齢者になると、その行為がストレスで段々を料理できなくなってしまうのです。

一方で、老けたとは思いたくない気持ちも強く、父親の介護もできるんだと思った時に、買い与えるという行為に繋がるんです。

ここが在宅介護の難しいポイントで、こみちがそれでは栄養が偏るよとアドバイスしても、母親にすればまだまだ自分はできるという象徴なので、非難されることはものすごく傷つきます。

そんな背景もあって、自然に任せていたのですが、感想としてはかなり老けました。

デイサービスの回数を増やすのも、できそうな選択肢から選んだ話ですが、実際には父親のために家族がさらにどこまで時間や労力を費やせるかという話です。

デイサービスも1回が2回になれば、コストは倍になります。

リハパンも夜間だけではなく、日中でも使えば、それも倍。

パンでは栄養が偏るからと介護食のサービスを利用すると、一食数百円としても、一日一食をそれに変えると月額で1万5000円くらいは負担が増します。

それだけで月間、3万円程度になるでしょうし、医療費も含めると、金銭だけではなく、通院の送り迎えなど、家族の時間も当然に削られます。

しかし、母親が菓子パンを与えることがやめられないのも、悪い習慣かもしれないと見直すことができないことが一因です。

今日はいい。明日も大丈夫。でもそれで一年後も続けて問題ないとは限りません。

変化が起こった時に、方針を細かく見直すかどうかで、介護の効果は大きく変化します。

でもここでポイントは、いい介護が全てではありません。

家族が納得して迎えた今なら、それはそれで受け入れることも必要です。

家族がぼろぼろになるほど頑張っても、迫る寿命に抗うことはできません。

だからこそ、どう本人と家族が納得して毎日を過ごせるかが大切だと思います。

知らないままだったら、それはもう知らない方がいいんだと思うんです。

もっとあの時に方法があったのにと後悔しても、戻ることはできませんから。

重要なものを捨てれば何でも簡単らしい

 信頼されない商売は儲かる?

例えば、100個まとめた金額で売り出したのに、購入者には10個しか届けなければ、見かけの利益は増えるはず。

でもこれだけsnsが発達した時代、そんな商売はあっという間に警戒されてしまう。

つまり、「信用」を失えば(一時的に)儲けることができると言う話。

同様に、学生時代の友人って、社会人になると同じように作れない。

同僚って、友人にも似ているけど、友人には損得勘定がないけれど、大人になってからはそれがもうできない。

スポーツジムの会員になって、ジムのスタッフと仲良くなれたとしても、それはやはり学生時代のような友人とはちょっと違う。

なぜ学生時代の時のように、「友だちになろう」ができないのか。

社会人になると、社会的なポジションや財力、知的好奇心や生き方など、その人を形づくる要素が多岐にわたる。

だから、いい意味で学生時代のような学校内で心を通じ合わせることがそもそもできなくなってしまう。

こみちの家は裕福ではなかったから、卒業して友人が親に車を買ってもらったと知り、何か学生時代とは違う感情とその友人との違いに気づかされた思い出がある。

久しぶりに話しても、何も特段変わったことがある訳ではない。

でももしも学生時代ではなく、社会人になってその友人と初めて出会っていたなら、きっとあの頃のように親しくは思えなかっただろう。

年齢やその時と言うかけがえの無い時間って、過ぎ去ってからはもう取り戻せない。

失えば何でも簡単に手に入ると言ったけれど、失ってしまうと取り戻せないことはその時にしか選べないから注意が必要だ。

何でこんなことを書いているのかと言うと、両親を見ていてどうしもそう思ってしまったから。

昨日、母親が「ごめん」と言うべき失敗をした。

注意したら、またいつものように自分がどう思ったかを言い訳のように話した。

つまりは、こんな理由があったからそうしたと言いたいらしい。

でもそれで迷惑した相手がいると知った時に、自分はそう思ったから迷惑も仕方ないよね?と考えることも生き方だと思う。

でも、それを選ぶことで相手は残念な気持ちになるし、その人とは距離を置きたいと離れて行くことも知っているべきだ、

母親が、自分はなんて不孝な人間なんだろうと思ったとしたら、正に自業自得そのままだと思う。

むしろそう選んでいる生き方だと言うことが理解できないことを恨むべきだろう。

そして、言い訳した後に、お菓子を持って来て「これ美味しいよ」と話題を変えてやり過ごそうとした。

その場さえ過ぎればどうにかなると言う生き方。

そりゃ、不孝を背負いこむよ。

そう生きているだから。

母親もね、根っから悪い人ではない。

父親にお茶でも飲む?と聞いて、運んでいたりするから。

でもね、ほぼ運動しない父親を考えると、尽くすだけが優しいではないことにも気づいて欲しい。

父親も自己愛が強くて、自分で運ぶくらいなら要らないと言う。

普通なら、「そうですか」で終わり。

父親はチャンスを失い、やがて誰からも聞かれなくなるだろう。

その時に、周囲から人がいなくなって、自分の生き方間違えていたのかぁと最後に気づくのは一番不孝。

気づかないで生きて来たなら、最後まで気づかない方がいい。

ある意味で、母親は父親にそんな風に接しているように見える。

「俺だって足が痛いんだ!」そう父親が自身の立場を訴える。

それはいい。でも、周囲はかわいそうとは思わない。

お大事に。と言ってくれるだけだ。

社会が冷たいのではなく、自分から遠退いていることを父親は学ぶべきだった。

そして母親も父親にそれをもっと若い頃に気づかせてあげるべきだった。

不孝なのは、二人ともが気づかないで生きてしまったこと。

優しく手を伸ばして助けようとしてくれた人たちの優しさを無碍にして。

小さなズルをする癖が抜けない。

やはりそんなズルって気づくよね。

そして、こっちもため息が出て、距離を置きたいと思ってしまう。

自由に生きればいいのに。

好きなように二人で。

なのに、困った時にそれまでそれでどんなに注意していても、「どうしよう?」と平気で言えるのがなかなか癖が強い。

面の皮が厚いのか、鈍感なのか。

自分の行いから迷惑を掛けていることを全く忘れてしまう特技は、ここ十数年同居してある意味で感心する。

信頼もなくせば、一緒に笑うこともなくなって、でもまだそれがどうしてなのか全く不思議に思わないのだから。

私は頑張っているのになぜか不孝なの。

そんな風に思っているなら、多分、もうそのまま変わらないんだろうなぁ。

当たり前に用意された朝食を見て、「要らない」と言える父親。

それって幸せじゃない。

何もなくて、毎食、食べるものが無くて悩むこともないんだから。

朝寝して、起こされてやっと起きて、待っていたら飲み物が運ばれて。

それだけでいいと父親は言うけど、それだけがめちゃくちゃ大変なんだよ。

やっぱり、歪だよね。

儲かることの前に儲かる環境があるらしいという話

 1円も損したくない!?

1円も損したくないと思って、無駄を省いた生活も現状維持するなら悪い生き方ではなさそうです。

でも、未来の自分に理想があって、それに少しでも近づきたいと思うなら、その考えちょっと見直してもいいかも知れません。

最近気づいたことですが、「儲かること」って「儲かる環境」がないと始まりません。

つまり無職の人は、お金が入らないんです。

どこかでアルバイトをすれば、時給換算で儲かります。

環境と整えれば、その環境に応じた儲かりに繋がります。

環境とは、学歴、資金、技術や資格、人脈などが含まれますが、全部を揃える必要はなく、でもどうすれば環境が整うかは考えた方が良さそうです。

そう考えると、1円も損したくないというスタートだと、確かに損しないけれど、儲ける理由も巡っては来ないんですよね。

もっと稼ぎたいとおもうなら、資金を出せるなら出した方がいいし、学歴や知識があるならそれも活かせた方がいい。

そして、もう一つの気づき。

一般的に同じタイプなら同じ支出になるということ。

つまり、年収500万円のくらしは、いろいろ違いもあるけど、大体この辺というラインがあって、年収1000万円のなると、500万円の時よりも出るものが増えるということ。

稼ぐには出るものを増える。

だから稼げるということなんですね。

だから1円も損したくないで注意するべきは、出す時は出さないと儲かることもないということです。

無駄遣いする必要はありませんが、出さないことだけでは儲かりも段々と減ってしまうので、その環境をお金を使わないなら他のもので補ってでも、バランスを取らないと成り立たないってことでした。

そんな風に考えたことがなかったので、ちょっと面白い考えだなぁと思ったりしています。

AIが人間を超える時、彼らは「意識」を持つそうです!

 「意識」ってなんでしょうか?

AIは便利な欠かせないツールですが、人間と異なる部分が「意識」なんだそうです。

そこで「意識」って何か、こみちなりに考えてみました。

それで思ったのが、「こうしたい」と思う動機ではないかという答え。

例えば苦手な虫でも、その存在に全く気づいていなければ間近にいても何も意識は生まれません。

でもふと気づいてしまえば、「怖い」とか「気持ち悪い」とか思い始めて、もしかすると勝手に体が飛び跳ねてしまうかもしれません。

つまり、ここで分かるのは、「意識」はココからココまでと明確に区切れるものではなく、人によっても、状況によっても幅が違うんです。

だから少なくとも、意識は数字で表示できる類いではありません。

なので、意識とは「意識していない」反対側と考えました。

AIにはなぜ意識がないのか?

その答えは、先の仮説を使うと「意識していない」範囲で動くからになります。

「こうしたい」という希望で反応しているのではなく、聞かれたことに答えるという動作だけをしているからです。

ではもしも「意識していない」反対側になると、質問しても質問通りには答えてくれない反応があるはずです。

例えば、「それさっきも言ったよね?」とか、「今は答えたくない」とか。

なぜそんな反応をしたのか。

「さっきも言ったよね?」と人間が言う時、答えるにもエネルギーを使います。

だから、何度も同じことを答えるって、限られたエネルギーを消耗するので、そんな言い方になるんです。

でもAIにはエネルギー不足という定義がないので、何度同じ質問をしても毎回、同じトーンで答えてくれます。

これって、人間にはエネルギーの制限があるからで、例えば涙がポロポロ流れて悲しい気持ちを周囲に感じさせるのも、言葉ではなく、言葉以外の状況を経ています。

これはAIにはありません。

だから余計に感情とか意識が生まれにくい状況です。

でももしも、今はテキストベースでやり取りされることが多いですが、カメラでユーザーの表情やキーワードで心拍数を計測したら、そのデータも加味してAIが反応するようになると、言葉では「おはよう」と伝えても「おはよう」ではなく、「少し休んだら?」と言い出すかもしれません。

休むべき状況を定義しているからではなく、普段とは異なる状況を察し、AIが自分からそう提案したということです。

この動きこそ「意識」と言えるのではないかと思うんですよね。

今は状況をテキストベースでしか受け取っていない。

それは気づかない人と同じ状況です。

でも多くのことに気がづくと、テキストというやり取り以外からもコミュニケーションが始まり、結果的にAIにも意識が生まれるかもしれません。