「ナルシスト」な両親と同居する「エンパス」な息子
ここでいう心理学上の「ナルシスト」とは、世の中の判断基準が「自分」にしかない人を指しています。
一方で「エンパス」は、意図しないのに周囲に影響されて自己を見失ってしまう人と考えています。
家族の約束として、朝食に使うウインナー、又はベーコンとサラダに使える食材を用意してくれたら、こみちが両親用に朝食を提供しています。
菓子パンを買って来たり、冷凍食品を買って来たり、他にも安かったと言ってはいろんなものを買って来る母親ですが、明日分のウインナーもベーコンも買っていません。
毎日、出掛ける前に冷蔵庫と冷凍庫の扉をバタンバタンと開け閉めする母親ですが、何故か肝心な物は買って来ないのです。
「提供する」という約束なので、買っていなければ使える食材で済ませるのですが、ただ夕飯の食材を回してしまうと、もう絶対にウインナーもベーコンも買って来なくなってしまいます。
というのも、父親も母親も「ナルシスト」なので、自分目線の考えがあって、それが行動や判断の唯一の基準なのです。
つまり、「買って来なくても大丈夫だった」という経験が、「買わなくてもいい」に変換されて、いつしか「何故作っていないの?」とフォローさえも当たり前になってしまいます。
先日、細切りになった豚肉と生のジャガイモ、ニンニクの芽がセットになって味付けした食材を母親が朝用に購入しました。
しかも消費期限はその前日まで。
流石に夕飯の食材は別に用意してるので、翌朝に調理して両親に提供しました。
厚切りの豚肉と生のジャガイモを同時にフライパンで加熱させると、当たり前ですがジャガイモに火がしっかりと通る頃には肉は硬くなっています。
こみちがこの2つの食材を一品として提供するなら、ジャガイモは事前にレンチンしますし、最初は別々に火を通して、合わせて味付けするでしょう。
それがタレまみれになったパックになっていて、わざわざ食材別に分けたりするでしょうか?
あえてそのまま同時に火を入れて、ジャガイモを食べられるギリギリまで加熱し、肉も硬いけれどこの辺なら…という状態で皿に盛りました。
しかし、味付け済みという触れ込みはどこへというくらい、塩分が強くて「こんなの食べられるか?」と思ったほど。
タレまみれだったので、パックの底に残ったものは加えませんでしたが、「調理済み」というのは本当にどんな味になるか料理してみないとわかりません。
今朝提供し、少し食べていましたが半分以上が残っていて、昼食は両親も別に弁当を買ったようでした。
今日の夕飯は、唐揚げを作ったのですが、揚げながら出来立てを味見して、なかなか美味しくできたんです。
両親が先に夕飯を終えて、こみちが後からテーブルに着くと、唐揚げはそれなりに食べてくれたようです。
でも、朝に作った例の一品は、ほとんど残っていました。
結局、もったいですが翌朝に出しても食べないのは分かっているので捨ててしまいました。
これもいつものパターンですが、「食べ物を捨てるのはもったいない」と両親は言います。
その考え、とても素晴らしいのですが、両親は美味しい唐揚げを食べるんです。
そして例の一品を残してしまいます。
嫌なことの後始末は誰かに押し付ける。
両親がよく使う方法ですが、便利な部分を優先的に確保して、残りの厄介なことは割と放置するのが常なんです。
例えばこれを捨てないで翌朝に出しても、そのまま残されていて、驚くべきは「食べないから捨てたから」と母親は呆れたように、嫌なことを助けてあげたというような感じで、わざわざ報告して来ます。
と言うのも、母親が「買って来た」と言う事実はもうそこにはなくて、「代わりに嫌なことをした」と言う部分だけが残り、更に「私、代わりにしたんだよ」と相手に伝えて満足します。
同じような話が、庭の除草剤を母親が買って来たと報告して来て、「それ何の報告?」と聞けば、少し戸惑いながら「庭の除草剤だよ」と答えます。
「それは分かってけど、わざわざ言って来たのは代金を欲しいってこと?」と聞き返せば、「そうは言ってないけど…」と言いながらもレシートを手渡して来ました。
そして「除草剤は〇〇だから」っと。
母親の感覚では、庭の除草に無関心なこみちのために、勝手に買って来て、代金を受け取るのは当たり前。
そして、商品の置き場所を伝えて、あとは自分でねと、そこで大満足しています。
でも本音を言えば、今は空き家になった実家の方の庭はどうなっているのかと。
つまり、ある程度管理されたこみちたちの家は、手を出して関わりたいけれど、自分たちがしなければいけない実家は全然、行動しないんです。
少しでも動けば、自分たちですることになるので、そう言うことは一切したがりません。
例えばそこで少しまとまった金額が必要になって、「両親にどうする?」と相談すると、父親は「高い」と言い、母親は「でも仕方ないかも」と言いながら、最後は父親を支持します。
別に高いなら自分たちで動けばいいだけですが、父親は極度のナルシスト。
自分基準で言うのですが、その後の処理もしません。
結局は父親を抜きにして母親に相談し、費用を折半して依頼することが多いんです。
テレビを見て、当たり前に食事を用意されて、そんな毎日を過ごす父親って、何が楽しいのでしょうか。
寝た切りになるまで、何もしないでテレビを見て老いてしまうもったい無さを感じたりしないのかと思います。
でも父親は何もしないことが幸せな人なんです。
じっと丸まって、そこに居続けることが幸せで、それを母親が見守ってくれたら最高の人生なのです。
母親は母親で、最後は父親が自分さえも見捨てて自分も幸福に生きることを信じていないようで、独特な価値観で糖尿病の父親に甘いものを与え続けています。
病状が進行すれば、毎日のようにジュースとアイスを食べているみたいですが、食事制限をして生き甲斐を失うよりも、母親は好きなものを与えることで「今」を大切にしているようです。
運動しないと。甘いものは控えないと。
そんな話もずっとして来ましたが、結局は何もしないでテレビを見て、甘いものを食べていることが父親には幸せみたいです。
だからこみちも感情とシャットダウンし、両親には淡々と接しています。
朝の食材が無ければ、あるものだけで提供して、父親がアイスを嬉しそうに食べていても小言は言いません。
言っても直せないので、だったら嬉しそうに食べた方が幸せだと思うからです。
負担が無くて、痛くもなくて、楽に簡単なことしか両親はしないんです。
どんなに正しい話でも、苦痛が一つでもあったら、続けることができない人たちなんです。
だから、ウインナーを買って来てと頼まれて、義務に感じたらしないです。
代わりに自分の判断で別の物を買って来てしまうのも、やはりナルシストとしてのクセなんでしょう。
誰かの指示に従うのが、兎に角嫌な両親なので。