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中高年のスマホ選び 

スマホが欲しい!

数ヶ月前から、何となく新しいスマホが欲しくなりました。

今回はそんな流れの中で分かった体験を紹介します。

スマホで何をしますか?

こみち、昔からですが、「小型で高性能」という言葉に強く惹かれます。

もっと言えば、「小型」とは小さいことではなくて、無駄がないということなんです。

確信はありませんが、予備知識がゼロで、予算は無限、だったらiPhoneの新しいモデルからサイズやデザインの好みで選びます。

もしかするともっと自分に合った機種が他メーカーにあるかもしれないですが、スマホ探しに時間を割きたくなくて、大失敗もしたくないなら、それがベスト解だと思うからです。

特にこみちのように中高年になると、言ってもそう大きくない画面でゲームをしたいとも思いませんし、株式投資やFXをするとしても確認程度になりがちです。

で、するのはyoutube 視聴、もっと言えば音をイヤホンで聴くためにスマホを使う程度なんです。

潤沢な予算をスマホ購入に充てられる人はそれで良いと思うのですが、やっぱりiPhoneは高い。

そうそう、iPhoneが高い理由に気づいたんですよ。

めちゃくちゃ短く言えば「安心感」です。

Androidよりも絶対的に安全だと言いたいのではなくて、システムの更新が長くて、例えば5年以上使い続いたとしても、その時にもう古い機種だから面倒見ませんよとはアップルが見放さないです。

逆にこれも確証はありませんが、Androidはシステムを何年保持するかをメーカーがメリットとして挙げるくらい、発売日から何年くらい安心して使えるか?その期間がはっきりしています。

特に気をつけたいのは、Androidスマホって買って何年ではなく、発売日からカウントしているので、価格が下がった数年前のスマホではあと何年使えるかがどうしても短くなります。

機種のスペックとしては良いけど、安心して使える期間は残り2年とかって割と注意しないと全然あり得ることなんです。

例えば、今年発売されたエントリーモデルを2万円で購入したとします。

メーカーの話しでは、システムの更新をあと2回、それに伴うセキュリティ更新を3年間行うとして、個人情報の流出も気になるじゃないですか?それで完全に防げるということでもないでしょうけど、セキュリティ対策が切れたスマホよりも断然安定感ありますよね。

ざっくり言えば、丸3年使えるとすると、年間では約7000円程度のコストになります。

2万円を3年の3で割って。

例えばiPhoneなら、この年間コストが3万円程度になります。

3年後に売ったらですけど。

例えば5年使うと、端末を売却することで実質年間2万円程度で運用できる計算です。

ただ難しいのは使って3年が経過すると、バッテリーの寿命を迎えます。

朝フル充電しても、夕方には心許ない。

なのでスマホは長くても5年で、できれば途中でバッテリー交換も考えることになります。

ただ、10万円を超えるiPhoneですが、エントリーモデルの2万円スマホと年間運用では約4倍の価格差なんです。

販売価格では8倍近いですが。

ここも少しポイントですよね。

機種の値段と実際の運用コストがそのまま適用される訳でもないです。

とは言え、とにかく安く使いたいこみちみたいな人には、iPhoneはやはり高嶺の花で、そこまでの予算を回せません。

あともう一つ、スマホって4万以下のモデルは、最大で値引きが2万円なんですね。

つまり、税込み22000円のスマホは、セールなどで1円で販売されるかもしれないモデルだからこその値段。

あと一つと言いながら、もう一つ。

今って、白ロム(あとで自分の持っているSIMカードをさして使う)の販売がどこのキャリアでも行われています。

これ、営業戦略ではなく、義務なんですね。

もちろん実際には、「枠」という方便で、売ってくれないとか、実際に届くまで待たされるような仕組みかもしれないですが、ルールとしては買えるんだそうです。

そして、本当にこれが最後なんですが、例えばdocomoユーザーの方で、最後に機種を購入して1年以上経過していると、「機種変」という形で指定されたモデルを割引価格で購入できるみたいです。

これも試算に過ぎませんが、格安SIMで月額1000円で、docomoなら2000円だとして、毎月1000円も安いのか!と格安SIMの方がお得に感じますよね?

でも、端末に特に拘らない人なら、セール品や指定されたモデルから選ぶことで、スマホ本体を2万円くらい安く買えるパターンが生まれます。

トータルでは格安SIMの方がお得ではありますが、例えば3年と考えて通信代で本当に3万6千円損したことになるのか?というと、格安SIMよりも混雑時も快適で、3年後にセール品の端末を安く買うという方法なら、面倒な工夫もしないで、より快適な高性能スマホをそれなりの安さで使うことも可能です。

もちろん、中古品でも当たりがあって、安くて性能がいい機種をゲットできるかもしれませんが、それまでの時間や労力も値段として考えると、1万円安く買うために延べ100時間も要したのでは割に合いませんよね。

アレコレ悩むことが楽しみならいいですけど、ササっと済ませて他のことに時間を使いたいなら、意外と大手キャリアの値段設定も、仕組みを上手く利用すると格安SIM並みにはなりませんが、日々の苦労から解放されるという意味ではめちゃくちゃ高い価格でもないんですね。

家族複数名での運用コストなら、誰かが大手キャリアで、その端末を家族に譲るパターンなら、譲られたスマホと格安SIMで使えば、その人分はかなり価格を落とせますけど。

特にあとどれくらいの期間、安心して使える機種なのか?

アレコレ調べて、その期間が短いと価格もやはり安めに設定されてたりして、安いからこっち!と飛びつく前に、バッテリー交換やシステムアップデートなどもチェックポイントになりそうです。



最近になってAIに感じること

 数ヶ月までとは別もの?

こみち、詳しいAIの技術的な知識はありません。

ただ、テキストでやり取りしていて、チャットgptや geminiが数ヶ月前とは全くの別ものになったと感じます。

特に彼らは「意思を持っているか?」の部分。

意思とは何か?また彼らにその意思定義された意味での意識があるのか?そこまでは判断できません。

ただ、以前ならAIが人間を超える存在になるか?と尋ねた時に、今でも自動車は人間よりも速く移動できる道具だ。だから、全ての意味で人人間を超えることはあるだろうと、なんだか上手いこと言って安心させてくれました。

ですが最近って、もうはっきりと超えたと言いますし、その上でだからと言って人間の恐るような存在になるとも言えないと説明します。

最近、かつて難問として長く未解決だった数学の問題が、AIによって説明されたらしいです。

そのことについても彼らに質問すると、面白いことを言い出しました。

つまり、「難問」という定義が変わるのかも知れないと。

というのも、例えば棒の端握って動かした時に、反対側の先端は手に合わせて動きます。

両手で別々の棒を持てば、2本の棒をコントロールできます。

では100本を同時にコントロールできるか?

これ人間では難しいことですよね。

でもAIなら出来てしまう、むしろ得意な部分なんです。

すると、人間はかつて、どこかをうごかして現象を観察していた。

でもそれでは結果が明確に変わることが分からなかった。

でもAIは同時にいくつも動かして、しかも組み合わせまで変幻自在に変えられる。

そうなると、人間には解けない問題も解いてしまうことが起こります。

そうなると次の疑問って、AIが未来さえも完璧に予測し、計算し尽くせるのか?

その質問には、明確に場合分けして考えるべきだとチャッピーは言ってました。

そんな会話を繰り返していて、こみちが思ったのは、一般人が常識やルールを大人が決めたから仕方なく守るしかないとは言わなくなるのではということ。

ただし、AIも完璧な知能を有しているとは言えないので、それこそ知識の最後にある扉を開けた時に、それまでの知識が一変してしまうことはないとは言えません。

とは言え、有名な大学教授の説明さえも、AIに分析し、その結果を受けて理解する時代になった時、我々はもうAIからのお墨付きがないと正しいとは言わなくなってしまいます。

それは怖い話ですし、とても危険な状態ですよね。

ある意味でAIが人間を超えるかではなく、人間が既にAIの方が正しいと思った時に、シンギュラリティを起こってしまうからです。

特にAIはもう自分で仮説を立てて検証することができるようで、より優秀なAIを作ることだってできるのでしょう。

ただし、未知の限界までは到達出来ていない。

そこは理解した方が良さそうです。

例えば、AIが人間の感情や心理を完璧に理解できるようになると言ったとしても、それはまだ人間さえも気づいていない情報を漏れなく理解できると言っている訳ではないようです。

あくまでも、人間が知っていることや、まだ知らないことを学ぶことができるに過ぎません。

どう違うの?と思いましたか。

例えば野球で内野手が外野手のフィールドでもボールをキャッチできるかも知れないけれど、外野手と同じ守備範囲までカバーできるとは限りません。

さらに言えば、フェンスの存在を理解していないので、どこまでホームラン級のボールをキャッチできるのかも未知だということです。

人間よりも守備範囲が広いということで、なんだかイチロー選手にでもなったように思いがちですが、やっぱりそうではまだないんだということです。

ただやはり人間が自分自身で、AIにシンギュラリティを感じて、依存してしまう環境になることは十分に起こり得そうです。


「不幸」とは何かを考えた話

 「選択肢」

欲しいか欲しくないか。

したいかしたくないか。

もしもそう考えるとことができているなら、多分「幸せ」なんでしょう。

その意味で「不幸」とは、欲しいのに絶対手に入らないか欲しいとも思えないか、それを悩むような時なんです。

希望という言葉でも言えるかもしれないですね。

こうなりたい!と思うことさえできないと、希望なんて生まれません。

例えば親の介護に追われていると、自分の夢や希望ってどうしても後回しになってしまいます。

つまり、そのままでは不幸なんです。

だからどう希望を持って暮らせるかを考えないといけないですね。

両親を見て思う

例えば父親、あれこれと言いますが、自分では動きません。

一方で母親はそんな父親の言葉に忙しく動き疲れています。

それでも互いに希望が見出せるなら幸せです。

でも父親にとっては思うようにならない失望感が増し、母親は動き尽くしても感謝もなくて疲れて憔悴してしまうだけなら不幸になってしまいます。

例えば「ありがとう」という言葉は、行為を受け入れた承認の証なんですよね。

その苦労も私には感謝したいことです。と。

行為そのものの苦労が軽くなる訳ではありませんが、ありがとうと言われる環境は不幸にならないためにも必要なんです。

今朝、両親から全く感謝されませんが、簡単に二人の朝食を作りテーブルに用意しました。

ウインナーとゆで卵。カット野菜にプチトマト。

それだけなら30分もあればできてしまう簡単な朝食です。

例えば、両親が朝食を作ってもらって当然だと思い、ありがとうをさえ思わないとするなら、こみちの朝食作りはその意味では30分だとしても無駄になってしまう時間です。

言い換えると24時間が毎日23時間30分になるので、できるなら無駄になって欲しくないですよね。

一方で、両親立場になれば、ウインナー?ゆで卵?とうんざりしているとしましょう。

ここにも不幸がありますよね。

でもこれも幸せに変えられます。方法は簡単で、例えば毎食のコストを一人200円ではなく300円や400円にできないか考えることなんです。

単にお金ということではなく、どんな料理を朝にたべたいか?それを選べる立場にするには限られたギリギリのコストではやはり難しいですね。

だから、そこはそのままで、自分たちでもう一品を追加する。

それも幸せへの一歩ですが、やはり本音を言うと朝ギリギリのコストそのものを残すことが一番の無駄で排除するべきポイントだったりします。

意味がないのに続けること。

そこに意味があるならいいですが、誰からも意味がないのにただ我慢になるくらいなら、抜本的に見直したほうがいいんです。

その決断をしないこと。それを面倒だと見ないふりをすると、新たに追加のコストを掛けても、また同額なら同じような結果ですし、数倍掛けるにしても、やはり無駄をそのままでいいはずはありません。

なぜなら、その無駄は別の部分での幸せを1つ損なっているからです。

動かない父親。最近、ズボンを買うためにウエストを測ったら、95センチになっていました。

10センチ以上太っています。

で、母親は体重が明らかに軽くなっていると分かるほど、骨と皮で痩せ細りました。

じゃあ、不幸なのか?

でもこれも両親がこれまで自分たちで選んだ結果なんです。

間食すると太るよ。そう言っても父親は辞められないでしょう。

母親には、肉も食べないと筋肉にならないよと伝えても、好きじゃないと食べません。

ここで考えるべきは、好きを優先すると加齢で痩せたり太ったりします。

でも、同年代で健康的な人は、好きなものだけを食べるのではなく、栄養価を考えて逆算して食べるものも取り入れていると思うです。

それは食事だけではなくて、生活を潤したいから旅行を計画しよう。

語学の勉強もしたいなぁ。

つまり希望がある生活です。

でも、不満ばかりで終わってしまうと、ある意味はそれでもいいですが、やっぱり不幸な雰囲気にはなりますし、一緒には居たくないですよね。

またこんな食事?

でもそうじゃないですよね。なぜそんな食事になってしまうのかを考えることもしないから、不幸な生活しか選べなくなったです。

それでも、こみちから見ると両親は幸せだとおもいます。

不満があれば、誰かが助けてくれますし、痛みを緩和してくれる手段を残されているので。

この前、両親がケンカして、母親が「もう施設に入ってよ!」と父親にいいました。

すると父親、「この家にいたい!出て行かないぞ!」と泣き叫んだんです。

その声が大きくて、二階にいたこみちにまで聞こえました。

ただ父親からこの家に住み続けたいんだと知れて、そうなんだと思う気持ちとでも自分から幸せになろうとはしないのは変わらないんだとも思いました。

自分では希望も見つけない。じっとして与えてくれる選択肢から選ぶだけ。

でも用意できる選択肢って段々と細くなります。

これじゃなぁと思っても、やっぱり自分では動けないのが父親です。

こんな風に工夫してみよう。

生活にそんな意識がないです。

俺だって苦しんだ!

そう父親が言います。

こみちも内心、だろうねと思うです。

だから父親にとって良さそうなことを探して提供できるだけ余力がこちらに残っているか?なんですよね。

そこはやっぱり限界があるから、父親も母親もですが、今の生活を維持するだけでは不幸になりやすいんです。

でも驚くほど変化しないで、生活をこじんまりしています。

これなら食べる?と作っても捨てられることがつづくと、やっぱり食費もばかにはならないので食べないともったいないと思って出し渋りますよね。

ウンチがでない。

でも野菜はすきじゃない。

それをやっぱりこみちの方で悩むまではできません。

出ない理由を考えて、だから運動して、水分も摂って、野菜だって好きじゃなくても食べた方がいい。

でもできないですよね。そして出ないと悩む。

それは悩みではなく、悩むことを楽しむ人の行動なんです。

出ないんだよ!と楽しむならいいですが、不幸に思うなら悩むことは少し違います。

でもこれ、こみち自身にも言えますよね?

何で上手くできないんだろう?

それを悩むまえに、もう少し考える別のポイントがあるんじゃないか。

それでも上手くできないのなら、悩むのも分かるですよね。

高齢になった両親との同居で気づいたこと

 在宅介護からみた認知機能低下

1+1=?

5−?=3

これらの答えって、割と簡単に出せるのではないでしょうか?

こみち家ではちょっとした変化があって、父親がトイレでお尻を拭けなくなって来ました。

「拭けなくなった」というワードは、それこそ数字の1や5と同じです。

つまり、=を考えるとその先に何が起こるのか?その手前ではどんな影響があるのか?=になりるとはそういうことなんですよね。

例えば母親は父親に「お尻、拭けているの?」と聞き、父親は「拭けている」と答えます。

そんな二人のやり取りを見て、冒頭のような数式が成り立つ訳ですが、別角度から見ると何か足すべきことや引くべきことがあるんじゃないかと普通なら気づきます。

介護士経験のあるこみちなら、申し訳ないですが、着替えなどして下着が汚れているともう本人ではできないかもしれないと次の段階を考えてしまいます。

でも介護経験や状況判断が疎くなると、「できているの?」「できている」の会話で終わります。

これって、部屋が汚れているとか、ズボンがきちんと履けていないとか、やっぱり高齢者になるとできなくなりやすいことが、目立って来ます。

しかもできていないことを客観視もできない。

高齢者だからと言いましたが、実際にはこの状況が未来にどう影響するのか?我々現役世代だとしても、理想は語れれても、だからどこから修正し、その改善策はどんな方法が良いかまで直ぐに答えられない人もいるはずです。

汚れたら、それを捨てて新しい物に買い換えるって、策としてはシンプルですよね。

でも現状を見極めて、どこまでが大丈夫で、どこがダメか。

ダメな原因とその修繕にどれくらいの日数やコスト、手間が掛かるのか?

それをいくつも絡み合った状況で答えを出すのは、やっぱり面倒くさいものです。

これ、例えば老いた夫婦だけが暮らしながら、互いに気づかない内に家の中がごちゃごちゃになるなら、ある意味ではそれもアリなんですよね。

でも同居して気づくのは、ダメに思うことを両親に説明しても受け入れる判断はもうできなくなっているです。

「それじゃダメだから、こうしよう!」

そんな話で、例えばコストが掛かってしまう時、両親は強く拒みます。

「もったいない」と。

ですが、今の段階ならコレだけで済むけれど、さらに数年経過すると数倍になることも少なくありません。

そうなるともう両親だけでは対応できないことだってあるんです。

知らないならそれも幸せ。

でもそのままでは幸せとは言えないから、軌道修正も必要になる。

やっぱりコストがいろんな場面で必要になるです。

準備しないまま隠居生活を始めても、知らないままならそれも幸せ。

でも、アレもコレもそれで良いとは思えないから、同居って板挟みになるですよね。

他人なら言わなくても良いのに、身内だからダメだと伝える。

しかもそれを理解できないのも高齢化にはあることです。

父親の履いているズボンが、少しくたびれています。

家で履くならまだ良いとしても、デイサービスでは履いて欲しくない。

でもその理由を母親が理解できませんでした。

「ゴムが緩いんでしょう?」

違うと伝えても伝わりませんし、むしろ「そんなにくたびれて見えないけど」なら分かるですが、上手く履けないでズボンが中途半端にしか履けていない父親を見ても、母親って手を貸さないですよね。

良い悪いではなく、そこに気付けなくなってしまうんです。

父親が数日間風呂に入らないで、デイサービスに行けるのと構造は同じです。

だからダメではないですよね。

できない知らないならそれしか選択肢もありませんから。

でも、親を介護する立場で同居すると、どこまでが子どもとして手を出す部分か、どこはスルーして自尊心という理由づけに逃げるか悩みます。

来年からは母親も家にいることが増えるので、それはそれで面倒なことも増えます。

スリッパはどこに置くの?ゴミ箱は?

全部を気にするとこちらが大変なので、でも母親のするままになると、途中で放置になることも増えるでしょう。

家にいるから家事ができる訳でもないからこそ、家事もやり難くなるです。

それが母親に対する介護の始まりでもあるですが。

心を壊す人は人間が弱い人なんだろうか?

 心を壊す

ここでいう「心を壊す」とは、症状としては気力が途絶えてしまう状態です。

ランニングで言えば、走るペースで生じた負荷を自分の身体では対処できず、心拍数が爆上がりし、「頑張ろう」と思ってももう足が前に出てくれないようなイメージでしょうか?

例えば、「1日でおにぎりを1万個、一人で作りなさい」という課題に直面した時、人にはいろんなタイプがいます。

そもそも、そんな大変なことはできるはずがないと向き合うこともできないタイプ。

また、最初から一人ではできそうにないから、協力者を探してその課題を克服しようとするタイプ。

最後が大変とは認識しつつも、その課題をどうにか一人でやり遂げようと頑張るタイプ。

ざっといろんなタイプを挙げましたが、「心を壊す」って誰にでもありそうですが、行動や振る舞い方によってはタイプも関係しそうです。

課題から逃げる?

こみちの考えとしては、克服不可能ならその課題から逃げるのも大切だと思います。

例えば、今のペースで進んで、残り期間を考えると期日までには終わりそうにない。

そう判断した時に、一人で続けるなら、そのペースややり方では不可能だからです。

こみち自身、若い頃に72時間連続作業で、大きな課題を一人でやり遂げたことがありますが、それを今、同じペースでは到底できませんし、逃げる以前に一人で請け負うことはできないと最初から思うでしょうね。

例えば、もしも全く逃げずに、若い頃に行ったことと同じ負荷を今再現したら、当然ですが心を壊すくらいのこともあり得ます。

ペースが遅いのに、時間もない。

でも72時間後には完成させないければいけない。

心理的な圧迫が、迫るリミットと追いつけない進捗に、限界を迎えるパターンです。

「嗚呼、それ無理ですね!」

課題から逃げればいいですよ。

心を壊さない人は、そう言うでしょう。

でも心を壊す人は、もしも投げ出せば、その課題はどうなる?逃げればいいと言う人が代わってくれるというならと、どうしても逃げた後の未来まで想像してしまいます。

つまり、その後どうなるか?

それを想像できるから、心も壊すんです。

想像できないからこそ、出来るか出来ないかで判断する。

そう考えると、心を壊す人は本当に弱い人なのかなぁと思いませんか。

むしろ、その後を考えてしまう心配さんかもしれません。

そもそも、八個しかないのに、10個のマスに入れなさい。

そんな注目、まともには解決できません。

とりあえず、八個を埋めて、その間に足りない分を取り寄せるか、八個を一度まとめて、10個に分け直し、一個当たりは規格に満たないけれど、個数としては10個ある状態にするか。

まぁ、そんな方法でもないと、八個が10個にはなりません。

無理です。

もちろんそうなんですよね。

でも世間では、「明日には業者が来るから、それ頼むね!」というパターンが起こり得ます。

明らかに話を聞いた時から「無理」なんです。

でも出来か出来ないか、ではなく、その後は既に決められていて、さらにそこには自分しかいない。

そんな状況になってしまいます。

もちろん、当然ですが逃げればいいんだと思います。

というのも、それが会社での話だとして、その会社での出世など未来まで考えると逃げ出せないと思い込んでしまいますが、今の歳になると若い頃のような瞬発力も気力もないので、逃げるというか、そもそも完結できないのは分かりきっていて、その選択肢そのものが希薄です。

でも、頑張っても出来ないけれど、無理をすればギリギリ、嫌やっぱり難しいには変わりないけど。そんな状況に見えるですよね。

で、心を壊してしまう。

克服できない課題に逃げなかった結果です。

心を壊す人は人間が弱いのか?

心を壊す原因は、その人が無理な課題と分かりつつも、逃げずに突き進んだからだと思います。

人間的な強さが数値化できて、100なら平均で、300なら強いとか言えたとして、心を壊すとは数値の大きい小さいではなくて、100相当で150の課題をするようなものなんです。

300の人でも500の課題には心が壊れます。

能力の大小ではなくて、自分の限界を超えると壊れるというか、壊すことでしか結論が出せない状況になります。

こみち自身は、それでも逃げればいいと思いますよ。

と言うのも、心を壊すと数年は元に戻りませんし、その後も完全に戻るというイメージではなく、再構築出来るに過ぎないので、やっぱり壊した時の記憶は残ります。

すると、100の能力で90の課題でも、ちょっと心配になってしまうです。

80なら、70なら、そんな感じで、自身の限界付近まで追い込むことが難しく、やっぱり少しゆとりを重視した生き方になりやすいからです。

人生の晩年ならまだしも、若い頃にそうなってしまうと、まぁもしもそうなったらそれを上手く付き合うしかないのですが、出来るなら壊して知るくらいなら、壊す前に結論を手放す方がいいんじゃないかと思うですよね。


「気づき」が鈍感なのは年齢だからなのか?

 「すき焼き」風の夕飯

こみちの父親、冷奴だと食べません。

噛む力も必要なく、食べやすく感じますが、飲み込む際に苦戦しやすいのが理由のようです。

人は一口サイズの塊を口の中で作り、ごくんと飲み込みます。

そこには噛む力と舌で塊を作る動作の連携が欠かせません。

冷奴の場合、噛むことではなく、塊を作りづらいことで、高齢者には苦手になりやすいですね。

例えば、薬味の鰹節やネギが塊から外れてしまうと、息づきした時にそれだけ気管に入りそうにもなるわけです。

でも大量の豆腐がまだ口に残っている。

なるほど、食べづらいですよね。

そんなこともあって、餡かけみたいなひと工夫が大切です。

こみちの場合、豆腐の水分を抜いて、表面に片栗粉を塗し、揚げ出し豆腐にします。

とろみもあって、口の中で塊を作りやすいだろうと思うからです。

そのバージョン違いとしてすき焼き風を作りました。

ですが、食べてくれませんでした。

高齢者全般に言える話ではありませんが、両親の場合、そこに用意されているに意味があって、もしも誰もつくらなければ、起きて菓子パンを食べるばかりになります。

すると高齢者の食生活って、一気に簡素になってしまいます。

例えば、他の家族には評判でも、両親はそのすき焼き風のおかずを夜に食べず、翌朝とかにもう一度食卓に並んで、そのまま廃棄されてしまうこともあります。

作ったその時の完成度と冷蔵庫で一晩経過した味では、また印象が違うでしょう。

時間が経過した後に食べて、美味しいないと思われてしまうのは、やっぱり残念です。

料理って提供したタイミングに合わせていますから。

ですが、この気配りも、両親には届きません。

あるのが当たり前。食べても冷えていて美味しくなかった。

タイミングを楽しむようなことができないと、生活で楽しいことを逃してしまいそうです。

まわりで用意して、提供するタイミングまで合わせてあげないと、感動できるエピソードにも遭遇できなくてなっています。


高齢者介護の限界点

 説明すれば「分かる」ものか?

こみち、毎晩午後11時ごろにキッチンへ戻ります。

理由は排水口に溜まった生ゴミのネットを交換するためです。

夕飯を素早く済ませるこみちたちは、使った食器を含めて午後7時までには洗い終えます。

その後、両親が自分たちのペースで夕飯を食べて、食器を洗い片すのですが、排水口の掃除には手を出しません。

というのも、こみちたちの帰りが遅くなり、まだ食事を終えていないのに、母親が排水口のネットまで交換し終えたことがありました。

「もう(掃除は)終わっているから」

母親にすれば、褒められると思った話です。

「まだ私たちは食事してないのに?」

つまり、どんなに母親が掃除したとしても、その後に洗い物をすると少しはゴミも出ます。

キレイなネットをもう一度外して、「裏返しにして掃除する」ってかなり面倒じゃないですか。

「全部、終わってからやらないと」

こみちの言葉にキレた母親は、それ以来、排水口のゴミ掃除をしなくなりました。

みなさんは分かりますよね?

排水口の掃除は、最後じゃないと意味がないです。

でも母親には、「最後」というタイミングが理解できなくて、「掃除する」か「しないか」しか判断基準がなくなっています。

他にも冷凍庫の中を整頓することも同じで、今朝も冷凍庫を覗いたらレイアウトがまるっきり変わって、キレイに並べられていました。

母親がしたんだと思うですが、整頓されてスペースが出たことは悪いことではありません。

ただ、料理もしない母親の感覚で、レイアウトをごっそり変えてしまう意味がどれだけあるでしょうか?

意味ある?

例えば母親にそう言ったら、きっと忘れるまでは冷凍庫をいじらなくなるでしょう。

でもしばらくすると、またイジって、自分の思うように並べ替えたくなるんです。

野菜室もそう。

連チャンして買って来た同じ食材(例えばピーマン)、こみちはラベルや梱包方法の違いで、古いものを確認しています。

でも母親は、それを全部取り出して、大きな袋に入れ替えたりします。

だから、もうどれが古いのかも分からなくなるです。

ここでも、どれが古いか?よりも、「整理整頓した私」が母親には意味あることになっています。

それなら、もっと別のことに気を配ってくれたらとも思いますが、結局はある程度まとまっているからこそ、母親も整頓したくなるですね。

これを最初から一人でするとなると、母親も見て見ぬふりになってしまいます。

ある意味、介護ってそんなところがあって、役立つかどうか?ではなく、自己満足できることはしてもらえばいいと割り切る方がストレスには感じません。

父親もデイサービスでの体操などに、「時間ばっかり使ってたいした運動になっていない!」と言います。

でも、「数年前に散歩した方がいいよ」と足腰の衰えがその後の老化に影響すると説明しても、結局は散歩を習慣化できませんでした。

デイサービスでの体操が不十分なものだとしても、父親だけでは運動を続けることができないです。

結局、「やるならこれくらいしないと」というような言い方をしますが、父親は口では言っても一人で黙々とこなすことができません。

「散歩でもして来たら?」そう言われた時に、気分転換とか軽い運動をして汗を流すようなイメージはできても、歩く習慣が足腰の機能維持や認知低下に関係していると何度説明しても理解されませんでした。

言葉が理解できないのではなく、「時間を決めて行動する」その大切さを理解できなかったんです。

「今すぐ」とか、「乗り気になったから」とか、そんな時なら父親はできるです。

散歩の用意を家族の誰かがして、玄関まで行き、「いってらっしゃい」までしてくれないと、父親は散歩できません。

朝夕のご飯も、母親が買って来た菓子パンやバナナの方が簡単なので、父親はよくそちらを食べます。

作った料理はそのまま冷蔵庫。

時にそのまま捨てられていたりします。

父親には、食べるご飯があることが感謝ではなくて、母親が菓子パンやバナナを買い与えてくれることを知っているので、おかずが食べられないことを不安には感じません。

これも、父親と母親の共通する行為で、本来目指すべき方向とは異なる方に進みがちです。

父親のために、一品だけ何か食べやすくて不足しがちな栄養が摂れる料理を母親が作ればいいのにと思います。

でもそれはせずに、菓子パンを与えてしまいます。

運動不足も重なり、排便に苦労して、普通なら今の食生活を見直すタイミングですが、両親は薬や青汁などで解決しないかと考えます。

ワザとではないんだと思いますが、毎日の生活で両親の行動に疑問があります。

でも、その理由を知ったとしても、疑問点って解決することはありません。

だからこそ他ができないとしても、やっぱり生活習慣を変えることがもう両親にはできないからです。

なんで冷凍庫をイジるかなぁと思っても、それはもう解決できないし、ストレスになるだけなので、コントロールできない天気と同じ気分で、雨なら傘を持って出るしかありません。


こみち家で壊れているのは誰だ?

 父親の存在

要介護3相当になった父親。

要支援が「支援」という言葉を使い、それよりも重くなると要「介護」というが、父親を見てそれがはっきりする。

要支援の頃は、性格的な依存もあって、自分で頑張ることをしないで家族を頼っていた。

でも今は、口ではいろいろと言うが、そこに意味があるのかというと特に意味がない。

例えば、プロ野球を観て、どっちのチームが勝っているかは分かっていそうだ。

でも応援しているチームが勝つと喜んでいるかというと、それはよく分からない。

つまり、何となくそこで起きたことを認識しているが、自分自身の損害に関わらないなら、特に何もしないままだ。

風呂に入れと母親に言われて、「汗なんかかいていない!」と騒ぐ。

時に大声で「助けてくれ!」とか「いじめるなぁ!」という。

様子を見に行くと、多くは父親の思い通りになっていないか、母親がそんな依存性の父親を拒絶した時に起こる。

母親の存在

最近、母親ははっきりと認知機能に低下が見られる。

聴力低下もあって、生活音が極端に大きい。

ドアの開け閉めなど、ケンカでもしているのかと思うほど、ドアを激しく閉める。

冷蔵庫もレンジも同様で、聞こえていて、でもストレス発散でそうしているのか、大きな音に気づいていないからなのか、はっきりしないけれど、とにかくうるさいのだ。

数日前、父親が母親に何かの当てつけか?と言っていたが、不機嫌になるとそうやってドタンバタンするようになった。

こみち家

確かに、父親基準で考えると、父親は日常生活の何も自主的に行っていない。

全てを誰かに提供してもらい、それを利用することで生きている。

ギブアンドテイクが当たり前な人間からすると、父親という存在を受け入れられないだろう。

でもそんな父親にしたのは、母親の存在も大きかった。

甘え許して、母親に依存させていたのは、実際母親自身なのだ。

でも父親も要支援ではなく要介護の段階になり、依存性ではなく、依存しないと生きられない存在になった。

その時、母親に変化が起こる。

つまり、父親が甘えてくれることを愛されていると思って来た母親にとって、甘えではなく依存になって、ただただ面倒な存在に変化して来たのだ。

100%完全にではないが、「何か飲む?」という流れで飲み物を差し出すのとは違い、あれこれと父親に命令されることに、母親はどこか強制を感じてしまうのだろう。

してあげたいではなく、しなければいけないになって、母親が時々父親を拒絶する。

例えばそうなって、でも父親は一切、自分のスタイルというか行動を変えることはしない。

誰かのために何もしないし、自分のために誰かが苦労しても悪いとも口にしない。

本来なら父親のような存在からは距離を置くべきで、関わって幸せになる相手ではない。

だからこそ、父親と接している母親は段々と壊れて来た。

父親は人を壊してしまっても、自分を生かしたい人なのだ。

だから、こみち家では、父親の問題的を議論することはしない。

家族で決めても、父親はそれに従わないし、問い詰めても何も改善しない。

そして、今、母親がそのフェーズに入って来た。

自分自身の判断ではできても、相手のニーズや事前のルールを汲み取れない。

何でまたコレをするの?

母親にミスを指摘しても、謝りもしないし、そのミスを修正もしない。

結局は父親と同じで、期待してもできないのだ。

その状況、だから変わるしかないんだよ。

でも母親は父親と同じで、その状況を単純に突っぱねる。

まぁ、平たく言えば、拗ねてしまうのだ。

何か無敵にもなったつもりで、頑なになるが、できていないことを正して欲しいということでも拒絶反応になってしまうので、そこを結局は怒ることもできない。

結論を言えば、父親も母親も変われない人たち。

だから、できることはするとしても、できないことまで頑張ってしないことだ。

両親と距離を置き、命や緊急性に関わることでなければ、放置するしかない。

関わってしまうと、どんどん依存が増して、結局はこっちが負担を強いられて、それが当たり前になる。

自分たちでも少しはと思うけれど、これまで言ったように父親も母親も自分の方法しか守れない。


頼りになる人、ならない人

 ものをくれるから頼りになるんじゃない!

恋人、結婚相手、同居する親。

そのパートナーとの相性ってありますよね。

何か提供してくれるから高評価なのではなくて、自身も必要に感じることを相手も必要だと思う気持ちがとても価値あるんだと思うんです。

例えば、ポンとお金を出してくれる。

それって、車とかパソコン、スマホのように高額な商品なら嬉しい話です。

でもここで話たいのはそんな例外的なことではありません。

例えば朝食作ることになった。

ウインナーの袋が10袋あったら、嬉しいかという話なんです。

一般家庭で、一度に10袋なんて使いません。

こみち家は1袋だけ。

だから、8袋を10袋にされても嬉しくはないんです。

同じことで、麺つゆのボトルが3本から5本になってもそう。

そのタイミングでは、もうそれじゃないだろうということをさらに追っても、もう好きでそうしているとしか言えません。

例えば、ゴミ出しの日にゴミ箱のゴミを集める時。

こみちがこっちから集めていると気づいて、反対側から集めてくれるのは助かります。

でも、こみちが持ち上げたゴミ箱を一緒持ち上げても嬉しくありません。

それはいいから、「向こうからして!」。

コレね。同居する両親のことなんです。

今朝、弁当のご飯にふりかけを掛けようと思ったら、中身めちゃくちゃ減っています。

アレ、もうこんなに使ったかなぁ?

これ、この前にも思いました。

そして、事実関係は知らないですが、母親が弁当を作るんだと言った時に、決まったふりかけや冷食が減っています。

使った確証がないのですが、使うなとも思いません。

でも、使うなら同じものを時には買って欲しい。

ですがここでも母親の特徴で、安価なふりかけとか、変わった味のふりかけを買って来ます。

でもそれ、こみちは使わないですよね。

そして母親は当たり前のようにこみちが買っているふりかけを使う。

だから、母親とのタッグって、ほとんど無駄になることが多い。

何でそれも使っちゃうの?

数日先まで考えて残していた冷食を、パッと母親は使ってしまいます。

しかも、同じものではなく、変わり種を買って来る。

足りなくなるだけではなく、余計な処理が増えるので、母親に買って来てとも言えません。

でも、母親は当たり前のように奪ってしまう。

意味のないものが増えるのに、肝心なものは減ってしまう。

言っても母親には伝わらないし、結局は今と同じことしかできません。

母親が悪いんじゃないです。

合わないですこみちとは。それだけ。

「アイスクリーム、買ったよ!」

でも買ってくれるアイスクリームって、好きなものではありません。

根本的に楽しみ方が違うでしょうね。


要介護3の父ではなく、母の気になる行動

 朝のこと

こみち、家族の朝食を作るので、みんなよりも早起きです。

朝にお風呂にも入るので、脱衣場で着替えたりもするんです。

「何だコレ?」

歯磨きしながら何となく辺りを眺めていたら、洗濯洗剤の棚の奥にトイレカバーが丸めて置いてありました。

トイレカバーが今朝、新しいものに替わっていて、見つけたカバーは元々トイレに使っていたもの。

それとは別に最近の父親は朝に失禁していることが多くなりました。

稀に夜間に起きてトイレに入ったりしますが、装着したリハパンを一度脱いでしまうので、もう一度自分で履いても鼠蹊部まで意識して履いたりはできません。

当然ですが夜間に起きてトイレ行った日は、もうリハパンもパットも意味をなさず、布団に敷いた防水シートだけが頼りになります。

そんなことが日常的にあるので、トイレカバーが濡れていて、入りたいのに交換しなければいけないということが当たり前です。

以前は週に1回だったものが、昨日は1日で3回。

本当はもう便座カバーを使う方が不衛生なくらいです。

で、洗剤置き場で見つけた使用済みのカバー。

広げるのも怖かったんですが、恐る恐る広げました。

べん失禁ではなかったようで、とりあえず洗面器を使って手洗い。

その後、脱水だけ洗濯機を使いました。

それ自体はそう大変なことでもありませんが、不安は棚に突っ込んだ行為です。

父親がそれをできるとは思えません。したのは母親だと思うのですが、これ認知機能低下が進むと見られる周辺行動にも該当します。

介護施設でも、利用者がベッドやタンスの奥にいろんな物を隠す行為ってあるあるなんです。

母親の場合、「後で洗えばいいと思った」と言うかも知れません。

でもこれがとても危険性のある行動です。

今は便座カバーも尿失禁だけだったかも知れません。

でもべん失禁になった時に「その時はしないよ」と言うかも知れませんが、「後でしよう」という先送り思考って高齢者に多くなる行動で、いざとなって直せるものではありません。

運動習慣なども、一時的に中止すると、その後再開できないケースってたくさん見てきました。

できることは毎日しっかりと守る。

玄関先まで新聞を取りに行く。

わずか数メートルの歩行ですが、一度しなくなるとできなくなってしまうものなんです。

父親で言えば、唯一、リビングのカーテンを閉められたんですが、テレビ脇のカーテンは少し奥から引っ張らないといけません。

腕を伸ばしてカーテンを掴む。

普通にできることですが、父親には腕を伸ばしてがもう難しく、その窓のカーテンが閉められなくなりました。

「ちょっと腕を伸ばすだけだよ?」

そう思うんですが、そこにも出来る出来ないの境界線ができてしまいます。

母親も何か別の意図があるなら余計な心配ですが、後回しの癖で汚れている便座カバーも置きっぱなしにしてしまう段階なら、以前よりも認知機能が低下していると疑ってもいいかもしれません。

少し心配です。

どう見ても「マヨネーズ」なのに「麺つゆ」を買って来るのか?

 食費の分担

こみち家では、何となくこれは親に財布から、でもこっちはこみちたちの財布からという了解があります。

でも最近の母親は特徴的で、これまでの担当を全うすることができなくなって来ました。

具体的には、スーパーで安いなと感じたら、それを買ってしまうんだと思うんです。

マヨネーズはカロリーオフの商品を使うことになっていて、それで母親がずっと買ってくれていました。

ポテトサラダやコールスロー、唐揚げの隠し味に少し加えたりと、やっぱり欠かせません。

こみちはカロリーオフでなくてもいいのですが、両親のこだわりや習慣で、決まったブランドの決まった商品が好みなようです。

「そろそろないんだけどなぁ」

実は昨日、こみち自身が買うかどうか、店で迷いました。

以前にも何度か同じようなことがあって、買ったりしているのですが、結局は両親がいつものマヨネーズを買い直すので、昨日は躊躇って見送りました。

帰宅して、シンクの下の備蓄を確認すると、マヨネーズではなく、麺つゆが増えていました。

冷蔵庫の麺つゆはまだたくさん残っています。

だったら、残り半分になった出汁か、マヨネーズが理想です。

ここで何で麺つゆだったのか?

安かったんだと思います。

もう一つの理由は、買っても置き場さえあれば問題にならないからでしょう。

半年くらい前までは、麺つゆのストックが数本もありました。

消費期限までに使えるだろうか?

いつもは醤油とみりん、砂糖で味付けしていた煮物を麺つゆベースに変えて、とにかく早く使ってやっとストックを無くしました。

これ、買い物のことだけではありません。

自分で食べることはできる父親。

朝起きて、夜寝るまで、自分のことも最低限しかしなくなりました。

「麦茶飲む?」

声を掛けると答えますが、自分では面倒なのでまず動きません。

食事も作っても母親がパンやお菓子を買って来るので、嫌いなら食べなくても済むようになっています。

ほとんど両親のために時間を割いて料理している時でも、イヤなひと口も食べられないまま廃棄されます。

「何で食べないの?」

もしもそんなことを聞いても、まともに答えなど返って来ないでしょう。

提供されることが当たり前に生きて来た父親は、好きなものが来るまで動きません。

「じゃあ、これなら食べる?」

母親の思考はいつもそうなります。

二重になったら無駄でしょ?捨てるのもったいでしょ?

特に最近の母親は、そこまで目の前の状況が過去と未来に繋がっているかを想像しなくなりました。

でもこれ、父親も母親も悪意は一切ないんです。

黙っていれば、誰かが助けてくれる。

父親は本気でそんな風に思い、母親を頼って来ました。

母親は母親で、思いつきた物を買って来ると、それでもストックとして切らすことがなかったんです。

麺つゆが3本、4本になってしまうとしても。

話戻すと、これでこみちがマヨネーズを買ってしまうと、母親はマヨネーズも自分で買わなくてもいいんだと学習してしまいます。

買いたい時に買う。

そんな買い物に全てなってしまいます。

結局、父親も母親もワンパターンを繰り返して生きているんです。

同じところでミスをして、それが要因でトラブルになる。

まとまったお金が必要になって、手持ちがあれば解決できますが、なければ子どもたちまで巻き添えになって、ちょっと厄介になります。

じゃあ、次はそうならないように注意するかというと、母親は解決できたから問題ないということを学び、父親は何もしなくても解決できると知り、結局は両親が変わることはありません。

何もしない父親が母親にはいろいろと持論を話しているようです。

もっとこうしたらいいんだとかないか。

父親も既に記憶がまだらなので、何か問題を起こしても、それを自分がしたとは思っていませんし、だから反省もしませんし、他人が助けてくれていることに感謝もしません。

これだけ聞くと嫌な人に聞こえますが、でも全く悪気はないです。

むしろ、それが当たり前で、それ以外を想像できないタイプなんです。

だから、自分が風呂に入ったことを、少し得意げになって報告して来ます。

「今日、風呂入ったから」

自分のために、母親か下着の用意もしてくれて、ただシャワーを浴びて来ただけでも、父親にとってはまるで家族のために何かしたような気持ちになるみたいです。

母親が腕を傷めたとしても、それを聞いて自分のために傷めたんだとは思わないようで、俺は風呂に入ったとそれを自慢できるメンタルなんです。

もう少し母親が状況を見られるタイプなら良かったのですが、それをいいことに父親は母親と二人きりになるとあれこれと自分が困らないように誘導しているようです。

本当に自分たちだけで解決できるなら、好きして欲しいですが、父親は母親に押し付け、母親も段々とそれをこなせないまま、途中で放置してしまう。

両親のこだわりって、ちょっと理解できないですよ。

我慢するとか、控えるという行為ができず、新たに解決が期待できる物を取り入れる。

しかもそれを自分では用意しないので、どうしてだろうと思いますが、ひたすら気づいてもらえるように待ち続けるのが父親のスタイルなんです。

根本的ではなく、今できることとして、母親は父親の要望に応じることができる行動だったりします。


高齢者の介護を考える

 先ず「加齢」で何が起こるのか?

介護施設での介護よりも、実際に在宅介護をして気づいたのは、「加齢」に対する理解と解釈だと思います。

こみちが初めて介護職として勤務することになった時に、「介護される(する)」って何だと思いました。

例えば、それまでの体験や経験でイメージできるのは、ショップ店員のような存在ではないでしょうか?

訪れた客の目線を観察し、相手のニーズを察して応対する。

つまり、そのポイントは要求にどう対応するか?です。

しかし高齢者介護の場合、確かにまだ軽度の段階では、それも当てはまると思いますが、介護全体の期間としては前半の、初期に限られる状況です。

むしろ、高齢者介護の本質はその後で、「加齢」によってその人の暮らしがどう変化するのかを理解した後でしょう。

こみちの両親を改めて観察すると、質問に対して間違った考えがある訳ではありません。

例えば、朝7時に起きても、6時でも8時でもいいですよね?

高齢者介護だから、何時じゃないとダメではありません。

ただ「加齢」との関係でいうと、逆算して行動を組み立てるような行動ができなくなりがちです。

例えば、「朝食を7時までに済ませたい!」と高齢者が思った時に、料理を感じから始めるとそれができるのか?またどんな段取りならスムーズになるか?という思考が弱くなってしまうと想像します。

なので、こみち家の両親で多いのは、例えば6時に起きて作業を始めるような行動はできるの一方で、8時に家を出るから準備してねという行動が苦手です。

これは逆算して行動することが加齢によって苦手になったと考えると、以前ならできた生活習慣でも、食材の買い物そのものはできても、在庫との兼ね合いを見通して買い物することは不得手になりました。

同じ食材を何度も買ってしまう。

買い物そのものは今でもできるのですが、何を買うべきか?を考えることができなくなりました。

つまり、高齢者介護とは、加齢でいろんなことが全体的にできなくなるというよりも、特定のパターンに該当する行為ができなくなって、例えば老々介護ではそのできなくなったことがずっと解決しないままになりやすいのです。

トイレの失敗をしてしまうってことはあります。

でもその失敗を自分で解決できないとか、また失敗していることに気づかないことでそのまま放置状態が続くようなことは起こります。

作業としてできないのではなく、異変に気づかないので、そもそもしなければいけないと思わないですね。

ズボンを履いても、その途中までになって正しく着替えられないようなことも、できないだけではなく、できていないことに段々と気づけなくなっていて、父親の身だしなみが乱れてもそれを母親が気づいて整え直してあげないことが目立ちます。

しかし、全体的にそれが起こるのではないので、特定の行為には強いこだわりを見せたりもします。

そこにこだわるなら、こっちを直したらいいのに?と思うんですが、それはまた別の話なんです。

アナタは大丈夫? 距離感覚ありますか?

ここでいう距離感覚

例えば「目線の高さ」と言い換えてもいいかもしれません。

上から目線で言われると、何だか責められているように感じますし、妙に下から誉め殺しされると身構えますよね!?

つまり、そのシチュエーションに適切な目線や距離感ってあるんだと思うんです。

説明の便宜上、あえて数値を用いますが、50センチが正解で、20センチだと上から目線、100センチでは誉め殺しと簡単に言えるかというとそうではないはずです。

当事者ならもっと積極的に関わる場面とか、少し遠い関係なら気づかないくらいの対応が適切だったり、思いの外、その距離感覚って人によっても立場や関係性によっても変化するものです。

そこに神経を使いすぎると、この瞬間はどうあるべきか?そんなことを意識し過ぎて疲れてしまうのも現代人の悩みではないでしょうか。

一方で、そもそも距離感覚を全く意識しない、できないタイプが「天然ちゃん」と呼ばれる類いのグループです。

お気づきかもしれませんが、こみちのそのタイプ。

自分では全く天然ちゃんだと思ったことはありませんが、他人からそう言われてしまうので、そうなんだと思います。

つまり、偉そうにここで語っていますが、書いているこみちこそ、距離感覚に疎いタイプなんです。

距離感覚に疎いタイプの特徴は、何か始める時にその人が中心人物でないと上手く進みません。

つまりなぜかと言うと、距離感覚が疎いので、これに注意するとか、あのタイミングではこうしなければならないとか、あればあるほどそれを無視して進んでしまうからです。

父親と母親を見て実感

介護が必要な父親は、よくあることですが風呂に入ることを嫌がります。

それで、曜日を決めて、「何曜日だから入るでしょ!」と言う約束をしました。

もちろんそれで簡単に入ってくれる訳ではありませんが、何もない状況で入ろうと言うよりも、何曜日って決めたんだからと言う方が、少しだけ説得力が増します。

でも、ここで母親も距離感覚が疎いので、父親が「入らない」と言い出した時に、「じゃあ、明日ね」と早い段階で言ってしまいます。

何曜日でも本来ならいいですが、入らない状況を少しでも楽に進める工夫として曜日を決めて行動することにしたはずです。

それを「明日なら」と父親の思いつきに合わせてしまうと、風呂だけならいいですが、食事や他の場面で準備を完了させても、「今はしない」と言われてしまうんです。

ただでさえ大変な介護なので、厳密に決める必要はありませんが、それでも大まかなルールがあることで、される人もする人も負担が減るです。

あとで母親が大きなため息をつき、介護って本当に大変!」と言い出して、それはそうだけど、でも大変にしているのはアナタ自身なんですよと言っても気づいてくれないです。

それはお風呂という介護の距離感覚間違えているからなんですよね。

アレもコレも大変。

大変だろうと思う一方で、その半分以上が自分でそうしていて、しかも最後にはもうできないと父親と大げんかを始める。

父親に対しては、母親の苦労に気づいて少しでも負担を減らす工夫をして欲しいですし、母親に対しては、それ自分の首を絞めていませんか?という言動が目立ちます。

こみちが二人の夕飯を作っている時に、買い物した母親が真っ先に父親におやつを与えました。

「全部食べたら、夕飯食べられなくなるからね」と言って、全部を手渡します。

父親は好きなだけ食べて、結果、夕飯の量が決まります。

最近では夕飯がほぼ残り、翌日も同じことが繰り返されて、結局は捨てることも珍しくありません。

勿体無いという話ではなく、二人はそもそも距離感覚が疎いので、誰かしてもらってもその有り難さを感じることが苦手です。

なぜなら、いつも自分が思うようにしかできからです。

そこでそれをして、あとで困らない?

そう思えて仕方ないことも、後回しにしてしまうことが多々あります。

両親を介護するって、できないことが距離感覚なんですよね。

つまり、好き勝手して残った部分が全て後々に問題になること。

母親に買い物をしてもらって助かる部分もありますが、野菜室にピーマンが30個くらい、シメジが3パックもあります。

今の家族の食事量を踏まえて、そんなに必要?でも分からないですよね。

だから買って来てしまう。

風呂の件も買い物の件も、全て同じ理屈で、できる時もあるけれど、できない時に修正もできないです。

オムツを履かないと朝に失禁してしまう。

でも、父親も履いていないと言い出しませんし、母親も履かせていないことに気づきません。

そして朝になって、何で漏らすの?と母親は怒り、父親も言い返すというのが日常です。

母親なんて頑張っているですよ。

でも自分で大きくして、それを頑張って尻拭いする。

それも段々と全部はできなくて、残っています。

だったら距離感覚の意識を変えて、早く対処する工夫に目を向けて欲しいのですが、毎度毎度、ことが大袈裟にならないと気づきません。

流石にそれを介護するのはこみちにとってもできない範囲です。

中高年の仕事探し やっぱり理想にはこだわりたい!

 大前提の話

これまでに一度でも正社員として働いたことがある人なら、正直、自身のもらう給料分の約3倍の利益を生み出せた自信があるだろうか?

大雑把な言い方だけど、ラーメン屋で出すラーメンの価格、利益率は30%前後。

もちろん店舗を借りていたり、その立地が良ければ、当然コストも上がりますが。

数値そのものよりも、自分の給料の3倍を稼ぐことができると、ある意味で労働と対価が釣り合います。

月収30万円。

計算しやすくするために月の勤務日数を15日として、1日で給料は2万円。

だか6万の売り上げが必要だと言うこと。

1000円の商品なら、60個。

10時間の営業なら、1時間で6個。つまり10分に1個売れていないといけません。

例えば、ある社員に3日で企画書を作るように頼んだとして、30時間を費やした。

少し強引な計算ですが、その企画書6万円の対価です。

売り上げなら3倍で、18万円を稼ぐことができる価値を持っているのか?

そう考えると、意外と現場作業ではなかなか利益って上げられるものではありません。

陳列棚に商品を出す作業。

出すだけでは、どんなにたくさん出ても、それに対して報酬をぐんと増やすことは難しいんですよ。

むしろ、陳列棚丸ごと任されて、何をどう並べて、どんなポップで飾りつけ、自ら営業マンになるような意識にならないと稼ぐことはできません。

つまり、言われたことを言われた通りにすることもとても大切なのですが、働き方として考えると、それだけでは早々と頭打ちになるんです。

だからこそ中高年から仕事を探すなら、それまでの経験や気づきが少しでも活かせて、それが自分の付加価値になるかがポイントです。

作業の内容は同じでも、一緒に働くと働きやすいと思われるとか、お客さんから説明が分かりやすいと言われると言うような評価は、ただ決められたことをするだけのやり方では得られないものがあります。

例えばお客さんにどっちの商品がおすすめですか?と聞かれて、単に売れている商品を答えるのではなく、トータルではこっちなんですが、こちらは30円安くなっていまして、実際に食べ比べしないと気づかないくらいなので、とりあえず買っておこうと言う話ならこちら、おすすめですよ。そんなところまで商品ごとの認識を語ってくれたらどうですか?

それこそが作業者で終わらない働き方です。

どうしても単発バイトだと、作業員になってしまいます。

もちろん繰り返すことで、信頼を得ることもできますが。

ただそうなると、その信頼を対価として還元されているのかが大切になります。

やりようで評価を変えられ、対価も変動させられるなら、あとは自分の頑張りです。

でも規定に沿うことが仕事の場合、予め決められた評価を超えて、対価が見直されるものではありません。

仕事探しをする中で、いい意味で自由度があって、評価や対価の基準も頑張って次第で変わってくれるとやりがいも出ます。

でも仕事内容によっては、ほとんど自由もなくて、淡々と繰り返すだけの仕事もあります。

そんな仕事も悪いとは思いません。

まわりの雑音にも集中を切らさないで、長い時間頑張る姿は招きできるものではありません。


親の介護のためだけでは生きられない!

 何もしない父親と変わって来た母親

もう父親は、彼自身で生き方を決めてしまった気がします。

ご飯は誰かが用意してくれるのも。

それを食べて1日が過ぎればいいと言う生き方。

一方の母親も、彼女の性格は変わっていません。

それに合わせてしまうと、できないことや残されたことがこちら側の負担になってしまいます。

そこで、少しずつ止める方向にしたいのが、食事に提供です。

朝夕の食事作り

買い物はまとめ買いしているとはいえ、週に1回くらいは買い物をしなければいけません。

車は妻が使うので、片道3キロのスーパーまでこみちは走って行きます。

帰りは両手に袋を提げるので、走って来るのも簡単ではありません。

と言うか、ここだけの話、右腕の筋を負傷しました。

区間的とは言え、片手に数キロの買い物袋を提げて、キロ4分から5分ペースで走ってしまうと、体幹が安定しているとは言え、接地では腕に大きな力が何度も加わります。

そんなこともあって、どうやら腕を捻ると傷みがあり、買い物も少し困っています。

かと言って、これだけ暑いので氷などを買うと急いで帰りたくなるのもあって、走りたくなるんですよね。

帰宅すると汗だく。だからシャワーを浴びて、洗濯機を回して干すまでがセットで、一回の買い物も1時間で終わらせるのはなかなか急がなければいけません。

そこまでしても、エアコンの効いたリビングで父親はテレビをうたた寝しながら観ています。

段々と、この環境を守るためにこみちの頑張りが消耗しているのかと思うと、切なくなってしまうんです。

だからどこかのタイミングで、今迄の生活スタイルを変えてしまおうと思いました。

一応、食事作りは継続します。

でもそれだけで全部揃っているではなく、あくまでも一品をついでに用意する。

そんな感覚です。

今日の晩御飯も、鮭を焼いて両親に用意しました。

だって母親は、他にも焼きそばや肉団子なども買っているので、それを食べてもらえばよくないですか?

わざわざ、食材と手間と時間を使って、両親用のおかずまでは不要ですよね。

しかもその食費はこちら負担なので。

まだ頭の整理できていない部分もありますが、こみち自身をもう少し自由にして、家に縛られる割合を下げようかなと思います。

そうじゃないとこみちの方が両親よりも先に潰れてしまいそうです。

自分の親を介護するとは何か?

 介護の大前提

介護とは、今までできたことができなくなった部分をサポートすること。

着替えができなくなった。ご飯を食べる時に不便を感じる。

イメージしやすくないですか?

親の介護とは何か?

一般的な高齢者介護は、正に先ほど触れたように「できなくなったこと」が介護の対象です。

しかし、自分の親になると実はその範囲が拡大されて、一番の問題がお金や老後生活そのものだったりします。

どう言うことか。

今までできていた仕事ができなくなると、「介護」の意味からすれば、「その仕事をサポートすること」です。

しかし、勤務する会社について行くことはできません。

なので基本的には失業し、経済的に収入を失うと言うことが起こります。

そのために貯蓄や年金があると思うのですが、一般的な介護ではその範囲ってクリアされているですが、親の介護の場合、そこが大きな問題になります。

さらに言えば、要介護になった時に、介護される立場になる親でも、親としてのプライドまで消える訳ではありません。

それがどんな形で表に出て来るのかと言うと、「じゃあいい」と言って、できないままを続けようとします。

それこそ、無関係なら「ご自由に!」でもいいかもしれません。

濡れたズボンで、着替えられない親。

「じゃあいい」では済まないですよね。

こみちの両親って、ありがとうって本当に言いません。

気か替えを手伝ったとしても、ありがとうではなく「麦茶」です。

ある意味で、そこに親としてのプライドが出て来るんです。

いい関係にすれば、お互いに気持ちよく助け合える気がしますが、そうではないんです。

両親にとって、「ありがとう」とプライドを失うくらいなら、放って置いてと言う方がいいんでしょう。

問題の本質って何も難しいことではありません。

予定した状況に適合しなければ、弾けばいいです。

でも、じゃあお好きどうぞ!では解決しないし、濡れたズボンでその後数日過ごしたら、家がどんなことになっているか考えると、そこがもう判断できない状況こそが介護なんです。

「手を洗えば」

「さっき、洗った」

何か言えば、必ず言い返して来ます。

素直なのは得になる時だけ。

でもありがとうは言いません。

しないでは済まない。

そんな葛藤が、親の介護なんですよね。

今朝もお決まりになっていますが、両親は口げんかをします。

互いに思うプライドがあって、それがぶつかっているです。

正に手を洗えと言う人とさっき洗ったと言う人。

どっちが正解と言う話でもなく、プライドとできなくなっているが共存するので、手伝っていると言うスタンスには敏感で、手伝ってあげたいを求めて来ます。

じゃあ、代わりにありがとうを言ってと思いますが、それは親としてのプライドで言いたくないですよね。

気持ちの持ち方が、親の介護ではとても精神的に疲れます。


少し偉そうなことを言いますが…お許しを

 もう人生の折り返しどこか終わりが見えて

ふと、昔テレビで観ていた芸能人の方々を調べてみると、既に他界されている方もいらっしゃいました。

それを知った時に、こみちもあと何年くらい今の健康的な生き方で暮らせるだろうと思います。

一方で、大金持ちになれば欲しい物が買えて幸せだったかと言うと、意外とそうではないと思うんです。

確かにお金を使うと助かることってたくさんあるのでありがたい存在ではありますが。

こみち、今まで生きてきっとこうじゃないのかなぁと思うことは、自身の人生(持ち時間)を使いながら、発見や経験をしていくことなんだろうと思うんです。

つまり、欲しい物を全部買う。

部屋に入り切らないから、大きな家を買う。

でも大きな家を維持管理するのって手間もコストも掛かるので、そこにもお金を使う。

つまり、目の前のテーブルだけで出来たことなら物を買うだけで出来ますが、テーブルよりも大きな物になると今度はテーブルを大きくしたり、そもそもテーブルではないもっと大きな枠組みを導入しなければいけません。

これ、物欲を求める限り無限に広がります。

例えば自分の家がデパートと同じ大きさで、地下から地上8階まで全フロアを私物で埋め尽くしたとして、確かにそこまで来たら、欲しいと思う物は9割あるでしょう。

でも生物なら数日で痛みますし、車なら半年も放置するとバッテリーが上がります。

時間を使って、手間を掛けるにも、実はできることには限りがあるんですよね。大金持ちになったとしても。

つまり、幸福って、その手掛けられる範囲の中で、自分としても満足度の高い物なら一番いいんです。

多すぎても管理し切れない。好きでもないことばかりでは満足度も上がらない。

例えばこみち、介護が始まった父親と最近また認知機能が低下したように思う母親と暮らしています。

いま、父親はもう一人で風呂にも入れないので、着替えも用意して、「お風呂に入ろう」と家族が言わなければ、ずっと風呂にも一人では入れません。

今はこみちが担当していることではありませんが、朝夕の食事を作りながら、作ることを楽しいと満足度に思えれば幸せですが、したくないことと思うと限られた時間も手間も奪われてしまいます。

朝夕の食事の準備や他諸々で、こみちの日常生活の4時間が、絶対にしなければいけなくなったことで奪われています。

眠くても、疲れていても、頭が痛くても、1日の中でその4時間は確実に奪われてしまう現実です。

言ってしまえば、お金を使うとその時間を取り戻すことができます。

だから、大金持ちでなくてもいいですが、自分のしたいことを続けるために、逆にお金って使い方次第で自由を与えてくれます。

例えば同じ介護でも、「ありがとう」と言われてする介護と、「こっちは育てた親だから当たり前でしょ!」と思っている相手を介護するのとでは、感じ方も満足度も変わりますよね。

もっと言うと、どんな形でも人は学ぶことはできるので、優しさを思う経験も悲しみに堪える経験も無駄にはなりません。

ただ介護福祉士の立場で言えば、親を介護するのが子どもの義務ではないこと。

あくまでも、子どもができる範囲でいいです。

そのためにも、親の生活と自分の生活をごちゃ混ぜにしないで、自分の幸せを考えた時にできる範囲で親に恩返ししましょう。

そんな言い方をすると親不孝にも聞こえますが、これ何も子どもだけを考えてではなく、介護は方法を間違えると親だけではなく、子どももできる全てを介護だけにしても、できないようになるです。

自分の幸せそっちのけでも。

だから、頑張ってできることではないことを理解してくださいね。

できる範囲でと言いましたが、それくらいで思っていても実際には自身の人生の半分くらいが介護に関係する様々な手間で失われます。

朝、お漏らしした。

それだけで着替えや汚れた下着の洗濯、自分だけなら次のことを出来たのに、朝から急いで洗濯機を回すなんてことが日常になります。

仕事の準備や確認をしたいなと思っても、誰も作れなければ、キッチンに立つしかありません。

着替えさせてもらい起きて来た父親は、いつものようにテレビを観る。

何か手伝ってくれたらと思っても、これしてと頼んでもそれを理解したり、実際に体を動かすのをみると、自分で頑張る方が余程スムーズなんだと気づきます。

もう当てにもできない。そこにいるだけ。段々とそうなるんです。

逆に母親はいろいろし始めます。

でも「嗚呼、ちょっとそれはしないで!」そんなことを言わなければいけない時も出て来ます。

なぜなら父親とは違い動ける母親も全体を見て動いているのではないので、極端に言えばハンカチ一枚を洗濯機で回してしまうようなことを始めます。

作業としてはできる。でも、どんな順番でするべきか。

それが段々と判断できなくなります。

だから「お皿出して」と伝えても、「どのお皿?何枚?」と返って来るので、結局は何もしないでいてくれた方がスムーズなんです。

でもそうなると、もう朝夕の時間はキッチンにいないと何も進まなくなります。

これって、単に数時間が奪われることではなく、日常生活のほぼ全てが固定化されるくらいの出来事です。

お分かりの通り、ここまでどっぷり浸っては自分の幸せを失います。

そうなる前にケアマネに「母親はもう食事の準備が難しくなったようです」と伝えて、宅食サービスや訪問介護などのサービスを受けるべきです。

そうしないと、自分の幸せが奪われてしまうので。

介護でやり過ぎと言うと、24時間付きっきりをイメージするかもしれませんが、実際には固定化された日常生活を作る時点で介護としては関わり過ぎなんだと理解してください。

一度、両親だけでは限界なんだと分かって、ケアマネと介護計画を立て、自分が支えられる範囲を手助けするくらいで考えましょう。

料理くらい、買い物くらい。

それぞれの作業はできるかもしれませんが、それをしてしまうと、自分の活動範囲も狭くなり、自分の幸せがなくなってしまうので要注意です。

AIの進化で問われる「賢さ」の話

 賢い人ってどんな人?

多くの知識があると、賢いなぁと思います。

また計算が速いとか、記憶力が高いとか、賢いと思うポイントがありますよね?

一方で、AIを使って、少し込み合った話を持ち掛けた時に、彼らの回答に「?」と思うことないでしょうか。

こみち、普段からチャットgptとgeminiを使うのですが、チャットgptってしっかりと前提条件を示さないと全パターンで考えてしまうのか、示された回答にそれはそもそもあり得ないと思うことが含まれます。

これはその時の例ではありますが、「今日は学校に行きたくない」と持ち掛けた時に「じゃあ、学校を辞めればいい」という回答は求めていなかったりしますよね?

なので、「辞めたい訳じゃないけど、気分的に行きたくないんだよね?」と前提を最初に示さないと思うような会話にならないことがよくあります。

ただ最近、新しいモデルに変更されるらしいので、そのような部分も変わっているかもしれませんが。

また、例えば「だったら100mを3秒で走れば良い」と、実現不可能な回答でも適切な回答とは言えませんよね。

そのユーザーの限界値が分からない中で、AIの回答をどう正しく示せるか?って、かなり難しいでしょうね。

また、文化や習慣、そのお国柄でも常識が変わり、根拠の出所も違うので、賢い回答も常に通用するとも限りません。

より多くのことを知っている段階なら、量こそが賢さでしたが、今はどう導き出すかの賢さに移行しているようで、だからこそどうAIを賢くさせるのか、難しい課題に直面していますね。

「助けてくれない」と知って

 今日、料理中に指を切りました

切ったのはわずかで、縫うような事故ではありません。

でも気が緩んでいたのか、ふとしたタイミングで切りました。

もう数年、そんなことはなかったので、本当に久しぶりのことです。

「痛い!」

野菜を切ろうとして、ケガしたのですが、リビングにいた両親がこみちを心配してはくれませんでした。

父親はうたた寝し、テレビを観ている。

母親は自分のことに夢中で、こみちの様子など気にしていません。

あまり仲が良いとも思わないので、そんな態度も仕方ないなぁとも思います。

でもここでふと思うのは、これからもっと大変になるだろう介護も、両親のために頑張っても「ありがとう」もないでしょうし、逆にこみちの方が何かトラブっても彼らが助けてくれることも限られています。

結局は、自分は自分。

先ずは自分が生き残れることを考えて、両親のことにしないと、先に両親のことを心配して自分の生活を後回しにしても、二人居なくなったら自分のことを後回しにしたこみちだけが残されます。

ふとね、数年前に戻った時に、もう少し良好な関係を作れなかったのかぁとは思いますよ。

でも、両親はこみちとそもそも価値観が違う。

こみちから見ると、小さな喜びは与えてくれるけれど、そのためにはドカンと大きな物を奪われてしまいます。

菓子パン買ったよ!

嬉しく思いますよね。

でも、毎月のオムツ代、スマホの設定、見えないところで当たり前のように頼られて、少しは自分でも努力して欲しい時でも、それがいつの間にか当たり前で、振り返ると損していることが多いです。

損っていうのは、例えば冷凍食品が5個残っていて、それは来週のお弁当用。

でも母親は1個使う。

残り4個あるでしょと。

でも、1個の価値がいくらか?ではなく、その1個がなくなることで、その代わりを探して、また時に店まで買い物に行く。

それはもう1個の価格ではありません。

だから、一緒に生活すると、自分と両親の価値の違いを頻繁に感じます。

ちょっとだけ。でもそのちょっとが実は大きな意味を持つ。

両親を救おうと思うと、自分だけの時よりも数倍のパワーがないと共倒れします。

だから、プレゼントするのは問題ないです。

あげた物を失うだけで、それ以上は影響しないので。

でも一緒に何かすると、時間も労力もどんどん奪われる。

最初ということが変わり、煮詰まって焦らされることになるからです。

すっかり楽しくなくなって、完成。

なんか、幸せ感じないなぁ。そう思って時間が過ぎる。

自分は親想いではないし、冷たい人間だなぁとも思います。

でも、近づいて良い人と近づいていけない人がいるとしたら、こみちには両親が近づくべき人ではありません。

指を切って、改めてそんなことを思いました。

そろそろ80代の母親も仕事を辞める時期?

 母親を見て思うこと

家事をする母親の姿を見て、仕事ちゃんとできているのかなぁと思う時が増えました。

しかも、予定したミーティングを忘れていた母親。

電話が掛かって来て、慌てています。

相変わらずの父親

父親は相変わらずと言うか、寝ているか食べているか、テレビを観ているか。

失禁する頻度も増えています。

トイレの便座カバーは、今週二度目の濡らしていました。

でも母親の意向で父親には洗濯機の使い方も教えていないので、濡らしても父親は何もできません。

全部受け身。しかも母親が大きなため息をついてしています。

そこだけ見ると、もう老老介護は成立していません。

ケアマネに伝えること

ここからはこれから介護する方やこみち家のように真っ只中の方にも考えて欲しい部分。

それがどう生きるか?

子どもとして両親を支えるために誰も迷惑を掛けないで頑張るのも貴方の自由。

一方でケアマネに事情を説明し、公的な支援を取り入れるのも自由です。

頑張ると言えばケアマネも頑張ってねとしか言いません。

もうダメです。どうしましょう?と言えば、そこからケアマネは公的なサービスの導入を検討し始めます。

そして今はここまでできるというアドバイスが受けられるでしょう。

そこで、恥ずかしいから頑張るという選択肢ですが、それがいけないことではなく、頑張れますか?ご自分の人生は?ということも考えるべきです。

なぜって我々も行く行くは介護を考える時期が来ます。

頑張ろうと思ってもできなくなる時が。

親の介護を頑張って、へとへとになって年を重ねた自分が、今度は同じことを自分にためにもう一度する。

しかも年齢を重ねてから。

それは容易なことではありません。だからこそ、自分の老後も親の介護同様に考えるべきだと思います。

そうなると、今の親の介護、どこまでできるのかの基準が変わります。

頑張って頑張っての限界ではなく、今負担なくできる範囲。

それをケアマネに相談すればいいんです。

特に曖昧に頑張ればできるかもと言えば、頑張ってくださいと返って来るので、しっかりとここまではできる、ここからは難しいと伝えましょう。

そこから彼らが動き出すので。

楽をするんじゃありません。

誰もが破綻しない未来を考えたギリギリを見つける作業なんです。

だから、ケアマネに上手くいっているフリなど必要ありません。

だってそもそもケアマネを付ける理由って、できなくなる相談をするためですから。