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一定数を超えるとそれを排除できなくなる話

 例えば何が面白いのかわからない芸人

例えば、なぜ人気になったのかわからない芸人がテレビに出ていて、「この人ってコントするの?」とか思ったりしないだろうか。

漫才でも一人喋りでもいいけれど、「芸人」と言われているならどんなネタで評価されたのか気になってしまう。

ベテランと呼ばれる大御所の笑いが、若い頃は全く理解できなくて、どこがウケているのかと思ったりした経験はないだろうか。

別の例を挙げると、いつもお手頃の値段でお求めやすい商品があって、それ目当てに店に通っていたら、あるタイミングで値上げしていたりすると、価格が上がってもついつい同じ商品を買いたくなる。

これらは「一定数を超えると排除できない」と言う法則の一例である。

知名度と言う言い方もできるが、全くの新人と容姿が同じでも、知名度があるとその人の方が安心してしまう。

それらの法則を使った商売として、既に実績がある人気商品と同じ性能を半額で売り出してシェアを取りに行くのだ。

一度シェアを取ってしまうと、安心感はしばらく続くから、同程度の性能なら売上が落ちないのだ。

そのためには、最初からコストに利益を乗せて販売価格を決めるのは、あまりいい商売ではない。

習慣化するくらいまで利用してもらった後で、価格を相場に近づけても遅くはない。

安い割にいい商品。と言う評価が値上げ後も安心感がある商品と言う評価になる。

それまでは徹底的に使ってもらうことで、一定数以上の利用者を囲い込むことだ。

商売上手とは何か?

例えば飛び込み営業をしても、多くは断られる。

価格やサービスの内容以前に、「飛び込み営業」だから。

しかし、何件かは話だけは聞いてもらうことができて、相場よりも安いとかサービスがいいと言うアプローチに乗ってくれることがある。

例えば既にある業者と取引していて、サービスや価格に不満を感じていて、自分からは探していなかった時に飛び込み営業が来たようなケース。

同じか少し安くなるなら…。

価格をキッカケに選んでもらえたとして、利用することに慣れてもらいながら信頼関係をどれだけ築けるか。

信頼関係があると、同価格で売り込む他社の営業が入り込めなくなるからだ。

中には「この前、別の営業マンが〇〇円で売り込みに来ていた」なんて話をしてくれたりする。

明らかにこちらの反応を試して来ているので、スルーや無反応は NGで、「〇〇円」を解説するといい。

例えば、商品をお届けするだけなら〇〇円も合わせられますよ。でも、トラブルが起きた時に直ぐにお邪魔して対応してくれるかが業者選びのポイントですよね?っと。

もちろん、対応の良さが売りになっていないと言えないセリフではあるが、最初は価格勝負をして来る参入業者に、既存の会社はそうやって応じる。

信頼関係があると、トラブルを抱えるよりも安定した取引の方がいいし、そんな会社は売上げも安定しているから取引先側も付き合いたい。

それが1円でも安いを探している会社は、それだけ不安定だから、営業としても大切な取引先ではなく、場合によっては切ってもいい顧客になっているから、価格だけで選ぶ相手なら早々に手放してもいい。

例えば、予算が100万円で、リビングに置くテレビを買おうと思ったら、どうやって商品を探すだろうか。

人気ランキングを確認して、価格ではない機能などからアプローチしないだろうか。

でも価格が決まっていて、しかもできるだけ安く買えるかと思ったら、「人気ランキング」よりも「売上げ数」などで探さないだろうか。

「まぁこれくらいを買っておけば」と言う選び方。

メーカー側にすれば、最新機能で勝負するにもいいけれど、聞き覚えのある機能付きでお手頃価格な商品は、一定数のニーズが期待できる。

昔、バイクは大半のライダーが400cc以下のバイクにしか乗れなかった。

免許制度が変わり大型が取得できるようになれば、大型バイクが高くても購買意欲が期待できた。

でも現在では400cc以下のバイクも高くなってしまった。

大型免許の意味は薄れて、バイクそのものが高価になってしまった。

結果、ちょっと乗ってみたいと思っても、新たに購入する層からは参入しづらくなってしまった。

まだバイクの良さも知らないうちに、長いローンを組んでまで買いたくないと諦めるしかないからだ。

その意味では使いやすいお手頃な価格の商品があって、習慣化して高額な商品へとグレードアップすると言う流れが理想で、その意味でもバイクを趣味にすることが厳しくなっていると感じる。

これが一定数のユーザーがいると、業界全体が盛り上がるので、商品開発にも資金を投じられ、結果また魅力的な商品が販売される。

しかも問題点があった時に、全面的に廃止ではなく、共存のような形を模索することになるから、簡単には排除して閉幕にはできない。

と言う観点から、これから独立してビジネスを始めるなら、早い段階から周知される工夫を考えておくべきだ。

何となく営業している間に口コミで広がるものではなく、宣伝や告知を行い、またリピーターや口コミ、そのような取り組みを積極的に行って、軌道に乗る一定ラインを早く突破してしまうことだ。

売上げや利益が低かったとしても、そこは事前に備えしかない部分で、経営しながらコスト削減ばかりになってしまうと、一定数を超えることは難しく、活動の存続さえ危なくなってしまう。

一定のラインを満たすことは、本来の評価以上に大切だと思う今日この頃。


時々思う「思想」や「哲学」が「高齢者介護」では無力なのかと。

 論理的思考

例えば「生卵が縦に立つのか?」を肯定的に論じたいと思ったとしよう。

「立たない」を立証することで、「立つ」を結論づけたいわけだから、100回、いや1万回のチャレンジで1回でも立てばいいということ。

別の視点で、空中という条件なのか、温めることは許されないのか、回転や振動を加えることはできないか。

つまり、1回の成功を目指すために、思いつくアイデアをたくさん出した。

一方で否定的な立場であるなら、「概ね」という言葉を使うことができる。

肯定的な立場の人が、1万回のチャレンジで成功したとする。

その時に「今、目の前でできますか?」と質問する。

「今すぐは難しいが、成功した時の映像がある」と続けた。

そんな時は、「生成AIがある時代ですよ。映像が本物かどうか…」という指摘がある。

ひと昔前なら、写真や動画が証拠になっていただろう。

しかし、今の時代においては、疑わしいものへとなってしまう。

論破という言葉がある。

肯定的な立場が否定的な立場を論理的に優位になる。または両者の立場が入れ替わった時。

いずれにしても、100%言い切れないテーマで「優位性」を争うのだから、テーマではなく論理的」なポイントを守れるかどうかに尽きる。

「生卵が立つかどうか?」

立たせるのが難しいとして、肯定的な立場の人が否定的な立場の人に「まず立ててみようとしてください」というスタンスから始める。

「上手くできません」と返事があったら、「立つとは重心と接点の位置関係だから、中身が揺れやすい生卵だったとしても理論的に立つはずです。できないとすれば、その位置関係に合わせられないからなので、今できないと言ったのは「立たない」ではなく「立たせられない」ということです」と。

そこで嗚呼なるほどと思ってはいけない。

あくまでも「理論」ではなく、現実の話を討論しているので、それを言ったら「永遠に立ち続けると言えますか?」と「立ち続ける」終わりがない話にすり替えることになる。

「そんなことを言ったら、何でも立ちませんよ」とでも言ってもらえたら、「でしょう。だから立たないと言ったのです」で終わる。

経験や感覚、時間のような不確定な要素が加わると、立証するのが困難になってしまう。

圧倒的に負けている時でも、「個人差があるでしょう」と加えられたら、結論は曖昧になってしまいます。

「高齢者介護」と論理的思考

聞こえない。理解できない。

老化によって現役の時とは明らかに異なる反応があります。

例えば、食べたものをテーブルに置いたままにする。

「まだ片付けてないよ」と指摘すると、「まだ片付けていないからね」と返事が来る。

「だから、片付けてよ」と言えば、「急ぐなら片づけて」と言い返される。

例えば、放置することにしたら、家中のあちこちに中途半端なものが増えてしまう。

かと言って片づけてしまえば、結局は片してくれないままだ。

勝ち負けというのは双方が理解出来るから成り立つもので、一方が理解できないとその人は同じことを繰り返す。

ダメだと言っても、結局は先の例と同じで、まだできていないとか、代わりにしてというだけで、同じようなことが起こる。

こみち家でもあったことだけど、家族会議で話し合っても、分担を遂行できないから、結局は「できてないよ」と言って「まだしていないからね」というパターンは変わらない。

だからもう家族会議をする意味もなく、できないまま放置されたり、でしゃばって余計なことまで始めても、ギリギリまで手を出さないことくらいしかできない。

もっと前にしていれば、簡単だったとしても、ギリギリで選択肢がなくなったとしても、そこにイラついてもどうにもならないのが高齢者介護なんだと思う。

もちろん高齢者でも出来る人は大勢いて、でも彼らは「介護」を必要としていない。

でも必要としている人の中には、自分が介護されていることに気づかなかったり、気づいてもうしろめたいと思わなかったりする人もいる。

こみちの両親なんて、「お願いだから、面倒にしないで」と頼んでも、翌日には元のままになってしまう。

頼んでも反映されることはなく、やりっぱなし、しっぱなしのままになっている。

しかも「家族なんだから」っと、感謝も口にしないし、頭を下げることもしない。

できないまま放置して、それを時間や労力を使って片しても、そこに感謝しないのだから、話し合うなんてもう難しいだろう。

論理的思考な解決策は、そんな親と距離を取るしかなくて、在宅で介護する限り、意見の相違やイライラを防ぐことも難しい。

まだ親の介護が始まっていない世代で論理的思考に精通しても、親の介護が始まれば、もう理屈は一切通用しないことを知るだろう。

と言うのも、親は親で、子どもとは異なる時代に生きてきた人。

だから常識も違うし、感覚も違う。

まだ初期の頃、「思っていることがあるなら話して欲しい」と意見求めたけれど、意外と何も言ってくれなくて、結論は理由もなく「いや」と言う感じだった。

つまり妥協点を擦り合わせるようなことも難しく、できるかできないかしか選べない。

もうアドバイスや歩み寄りも意味がなくて、できないことで重要なことはするしかないし、それほど重要ではないことは放置すると言うようなルール決めしか選べなかった。

なので、映画とかドラマ、小説に興味が薄れてしまった。

なぜって、思考しても結局は結果が選択できなくて、突っぱねるか受け入れるかしかなくて、突っぱねると父親はただただテレビの前で丸まっているだろうし、母親はなりふり構わずに動き回るだろう。

そうなった時に「もう支えられません」と言うか、黙ってケツを拭くかしかないので、論理的思考もここでは無力に思ってしまう。

思考が超越すると何が起こるのか?と言う話

 思考のプロセス

例えば何かを考える時に(抱えているプロジェクトを滞りなく進めて行きたい)として、現状の把握や関係者との意思疎通、もしかするとそもそもの話として目標や目的にどう近づけるかを考えているかもしれません。

その時、例えば納期の日になって、「コストが高すぎる!」とクレームが入ったらどうでしょうか?

もちろん事前に予算が決められていて、材料費や人件費などを試算してコスト内で収めたのに…。

「それ、今になって言いますか?」

と言う話です。

問題は、思考のプロセスがどんなに優れていたとしても、最初の部分(例で言うコスト)が覆されてしまうとそもそもプロジェクトの評価は良いものにはならないでしょう。

「冒頭」が変わることで、思考のプロセスは意味あるものにもならないものにも変わることがあります。

「お金持ち」になりたい!

お金持ちになれば、欲しいと思ったものを躊躇なく買うことができます。

だから、「お金持ちになりたい!」と言う目標を掲げるのも自然なことです。

しかし考えてみると、資産があることが周囲にバレてしまうとそれはそれで面倒なこともありそうです。

今までの普通の生活が奪われてしまっては、折角のお金持ちも本末転倒です。

つまり、これが最初に例として挙げた思考のプロセスの具体例で、「お金持ち」と言うメリットを手に入れたら、別の部分では今まで大丈夫だったことが新たに心配になることもあると言う話です。

同じことが有名人にも言えて、確かに知名度のある人になれる喜びもあれば、ふと気を抜きたい時も顔がバレているのでそうもしてられない。

人気者になればなるだけ、それまでの普通は失われてしまいます。

思考の超越が起こる!?

目標や目的を立てて、それを叶えるために思考する。

確かに目指す結果になった一方で、それによって別の何かも加わってしまう。

「それでもお金持ちになりたいですか?」

何でも買える良さもあるけれど、一方で今の日常生活が不便になるのも考えもの。

つまり、儲け話に飛びつけば目標が達成されるのではなく、絶対に奪われてはいけないこともあるのです。

多分それが「自分」と言う価値。

職場で、仕事ができる経験者と格好はいいけど仕事ができない人がいて、最初こそ互いに「〇〇さん」と呼び合います。

しかし、仕事が始まって実際の経験や知識、技術が分かってくると、自然に経験者は「〇〇さん、これお願いできる?」と経験不足な人に仕事を振るようになります。

上手くできなければ、「こうすると良いかも!」とアドバイスもし始めて、気づけば「〇〇さん」呼びが「〇〇ちゃん」のような親しみある愛称に変わっているかもしれません。

どんな分野でも、業界でも一人前になってしまえば、仕事も責任持って受けられますが、そこまで到達していなければ、年齢がどうであっても職場での立場は下のままです。

下だから悪いと言うことではなく、教えられる立場故に、良いところも発揮されないということが起こります。

実はとても器用だったり、真面目だったりしても、一人前になっていなければ、結局は誰かの指示を待つしかありませんし、良い方法を思いついてもそれが採用されるかは上司次第です。

だからこそ、何でも一人前になるまでは頑張った方がいいと言うことです。

机に座ったらダメなのか?

例えば、ある時に机に座っていたら、その人をどう感じるでしょう。

気にしないかもしれませんし、気になるかもしれません。

では「椅子」との違いは何でしょうか?

「座れればいい」と言う意味では、机でも座って問題ありません。

ポイントは座っていただろう「机」の上で食事したくないと言う気持ちです。

「できればいい」と言う発想をすると、方法と言う考えは必要ありません。

「したい時にする」でもいいからです。

ですが「満足度を感じてしたい」と思うと、プロセスや手段がとても大切です。

腰掛けるなら「椅子」ですし、書き物や食事には「机」を使いたいからです。

感情の大きさ

「怖かった」と言っても、その怖さを言葉で伝えるのは簡単ではありません。

小説などで物語が描かれますが、読み終えて感情が上手く伝達できれたら、それはとても素晴らしい物語だったでしょう。

それくらい、感情を伝えることは簡単ではなく、まして「怖かった」だけではその度合いを正確には伝え切れません。

思考のプロセスとして、ある感情を伝えるとしても、「そもそも伝わらない」と思ってしまえば、もう話すことも無駄に思えます。

無駄だから全部が不用と言う発想は、潔くも聞こえますが、そうとも限りません。

と言うのは、例えば映画監督がこんな感じの映画を撮りたいと思って撮影が進み、実際に公開されて全く別の感想が返って来たとしましょう。

しかし、それで無駄だったのかと言うとそうではありません。

見た人は別の感情を引き出されたのかもしれませんが、何かを感じたことには変わらないからです。

ある瞬間、100%の感情でも、本人でさえ明日には変わってしまうものなので、そこに何か深い意味を持ち過ぎても仕方ないのです。

思考が超越すると気付いても、それは特別な話ではなく、その上で考えることでいいのです。

シンプルに考えることもいいですし、いろんな見方をして楽しむのもいい。

それだけの話です。



信じられるものだけが「軸」になる話

 本当に欲しいもの

こみちは雨が降らない朝、ランニングをしています。

もう2年以上も前から始めた習慣で、その楽しみは腕時計をつけているからかもしれません。

ランニングウォッチとも言えるその腕時計は、地図を画面に表示させられて、例えば今どこを走っているのかも分かります。

画面を切り替えると、スピードも表示されますし心拍数も分かるので、その数値が変わるだけでも走っていて退屈しません。

もしも、そんなランニングの記録が情報として流出していたらどうでしょうか?

走っているといろんなデータが見られて楽しいと言う気持ちはどこかに去り、こみちの行動が第三者に漏洩していると不安になってしまうでしょう。

つまり、これらの事柄は「積み木」のようなもので、一番下にあるモノ次第で、それよりも上に置いたものが全て無価値になり得ます。

なので本当に欲しいモノは、それが一番下になるモノに感じます。

優しい人

親切で優しい人だと思っていたら、あるタイミングで「いつも親切にしているでしょう?」と向こうから言って来たらどうでしょうか?

感じのいい人と言う印象もその一言で一変してしまいます。

つまり、最も下にあるモノが変わってしまうと、それよりも上だけで感じた印象は簡単に変わります。

人生の「軸」になるモノ

相場よりも極端に安かったり、簡単に入手できたりするものは、大抵が欲しいモノではありません。

なかなか手に入れられないのは、それだけ大切だからです。

そして、困難を乗り越えて手に入れたものは、人生の「軸」にもなり得るので、自分を助けてくれたりします。

安易に手に入れられると思うものが、結局は最後に価値の覆されて、残念に思うなら、大変で厳しいと思っても「軸」にできるモノを手に入れましょう。

今、時代が動こうとしているように思えるので、なおさらそんな生き方を手に入れられるチャンスだと思います。

生きるのが辛い

 何で生きるのか?

こみちが生きているのは、将来「妻の介護をするため」です。

だから、妻よりも最低1日長く生きなければなりません。

ある意味、その約束を果たすために今日も生きています。

生きるのが辛い

叶えたい夢もなくて、もう十分に満足できた人生でした。

良くも悪くも人生がどのようなものかも分かりましたし、もしも学生時代に戻ったとしても、時間が長くなっただけで、今よりも有意義な時間を過ごせるとも思えません。

生まれていろんな人と出会い、いい人生だったと感じます。

最近、乃木坂46のyoutube を観ているのですが、学生時代にアイドルに熱中したこともなくて、可愛いとかキレイとかそんな感情よりも、若い世代の方々が頑張っている姿を見ていると励まされたり癒されます。

でも、アイドルもずっと続けられるものではないようで、グループ活動をしつつも、自分も個性にも磨きをかけなければならず、また大学卒業などの岐路で活動を辞める人もいるようです。

キラキラして見える彼女たちでさえ、その時期は限られたもので、ある意味で凄いスピードで現実が過去へと変わります。

こみちの昔を思い出すと、ふと思い浮かぶことが幾つかありますが、それらも長い人生の一瞬でしかありません。

それ以外は、普段もう忘れてしまった時間です。

つまり、人生と言ってもその大半が「今」であり、残りが「過去」の思い出です。

良い思い出も悪い思い出も、過ぎ去ってしまうと「あんな時代もあった」と思い返すことしかできません。

だから、未来に思う「夢」ってもの凄く大切です。

なぜなら、今と過去だけの人生はあまりにシンプルだからです。

今はこうだけど、明日はきっと…。

そんな風に夢見るからこそ、生きられるのだと思うのです。

親の介護を始めて、例えば自分の時間や労力を費やして成り立つ幸福を求める両親といると、希望や夢が失われてしまうのがよく分かります。

努力しても、それが何か成果になることもなく、多くは無駄だったと思う結末ばかりになれば、頑張る気力も失せてしまいます。

介護が始まって、辛いなぁと感じるよりも、気力が失せて生きることが虚しく感じるようになりました。

与えられることが当たり前に感じる両親は、いろいろ上手く行っている幸せを当然としか感じていません。

昨晩も「窓開いているから」と言って母親は自室に戻ろうとしました。

だから、「あとで閉めて」と言ったんです。

開けている理由は換気なのですが、だとしても「開いているから」を受け入れると、あっちもこっちも中途半端なことを全部尻拭いしないといけなくなります。

できないことは仕方ないとしても、最初から人任せになってしまうと、それこそこみちはずっと両親のけつ拭きをし続ける人生になってしまいます。

考え過ぎないように、でも夢は持ち続けられるように、今日も生きたいと思います。

在宅介護の難しさはどこにあるのか?と言う話

 入浴が困難になった父親!?

一日中、テレビを寝転んで観ているだけの父親。

以前、家族で決めた家事もサボりだし、よちよちと歩く姿を見てもそれなりに活動レベルが低下しているのかとも思っていました。

ただ、あるタイミングでそれが演技で、父親は家族に心配されて注目されることが幸せに感じるタイプだと気づきました。

こみちはもう気づいていたのですが、母親も妻も父親が一人で入浴し、そこで転倒などがあれば危険だと心配していて、手すりの接地や浴槽の出入りで使うボード、滑り止めシートなどを準備しました。

ところが、今日、入浴した父親が、「オレ、コレ(ボード)なくても入れるぞ!」と言って、浴槽を上手に跨ぐことができました。

母親も妻もそれを見て驚いたのですが、父親は二人を見てどこか嬉しそうです。

とは言え、一連の準備や打合せ、手間などが休日を割いてやりくりして実現したのに、その大変さを父親は一切理解しません。

と言うか、理解できないのではなく、注目される快感の方が上回っていて、まわりの苦労に注目が行って欲しくないのです。

結局、8000円くらいしたボードは一回も使われずに撤去され、場合によっては浴槽に浸かるのに少し高さのあるイスを接地した方がいいのではないかとまで話が進んでいたのも白紙に戻り。

こみちとしては、在宅介護にこだわってなくて、一人で入れない時点で、デイサービスで入浴すればと思っています。

母親に入浴時の見守りを頼んでも、肝心な時にどこかに行って介助していなかったりで、介護の必要性を全く分かっていません。

これは、転倒で頭部の損傷や大腿骨の骨折が起こると、入院になってしまうので、今の状況を考えても退院して在宅に戻るのではなく、老健のような施設に入ってもらうこともあって、それはつまりそのまま特養ホームへと進み、もう在宅には戻れないルートも十分に起こり得ます。

それを望んでいないのが分かるので、予防策として手すりやボードなのですが、父親は「オレ、できるだろ!」と用意された環境下で、自慢アピールすることに喜びを感じます。

ところが、以前から分担を決めた家事は、注目もされないし義務になっているので、父親はしたがりません。

「スゴいね!」

と家族に言われてならできると言う面倒な人なんです。

一方で、ボードの扱い方や入浴の方法を事前に母親に説明したのですが、説明が始まるとため息ばかりついて「難しい」とか「ムリだよ」と繰り返します。

「でも入れないとデイサービスだよ」と言うと、また大きなため息で無理難題を押し付けられた被害者になってしまいます。

自分たちではできない。

助けて欲しい。

そして、自分たちが頭を下げるのもしたくない。

そんな雰囲気ばかりアピールするから、厄介なんです。

体裁ばかり気にしているのに、それに見合う努力や工夫は全くしない。

よちよちと今だって父親は歩いていますが、もうそれで心配しても仕方がありません。

見ていない時にはもっと普通に歩けるので、「歩けないのに頑張っているオレ」をアピールしているだけでした。

こみちには気づかれているのが分かっているので、父親は母親や妻に言う時と反応が違います。

世話されることが好きで、でもそれを誰かに恩返ししたいとも思わない。

父親は、そんなタイプのナルシストさんなんです。

転倒して在宅が困難にならないと、結局は何も変わらないので、あれこれと心配しても意味がありません。

なぜって、父親は努力しないので。

そう割り切らないと、こみちのメンタルの方が先に病んでしまいます。

親の老後と自分の今後

 実は妻にも言えていないことがありまして

先日、こみちの仕事の件で、割と期待していた案件がなくなりました。

もう長くお付き合いさせてもらっていた取引先ですが、思うにあるキッカケから状況が変化したと思っています。

それは仕事を貰う側の難しい部分ですが、仕事の話が来た時と実際の状況が違っていて、例えば1個あたり15分でできると見積もった作業が、2倍3倍の手間になるとどこかで継続できないか、再度打合せし直したいと思ってしまいます。

ある時、新たに作業方法を教えますと言う話で、でもそれも事前の契約に含まれるということで、思い切って契約について相談させてもらったんです。

15分が20分ならまだ対応できますが、40分や時に1時間も掛かると想定した見積りに合わないと。

下請けがそんな話をしたら、まず確実に契約は打ち切りになるのが常です。

でも、このまま受け続けても生産性が下がるので、どこかで苦渋の判断が必要になる事案でした。

それから、その取引先からの仕事量が如実に減って、定期的に振られていた通常案件は不定期になり、最近はその手の仕事が振られなくなりました。

結果、イレギュラーで発生した案件がポツポツと。

今後、以前のような状況に戻るとは考え難く、むしろ取引を自粛するか悩んでいます。

とは言え、これから日本も大きく変化すると思うので、そして両親の介護も増えて来るはずで、そう思うとこみちの働き方や家族内での役割を見直しことも必要になります。

今ならまだ母親が料理をすることもできなくはないですし、あと数年は頑張ってもらい、その間にまた軌道修正してもいいかとも思います。

できるなら在宅での仕事をキープしていたかったのですが、それは難しくなったら、また勤めるという働き方にシフトするべきか一人で悩んでいます。

その取引先、日頃顔を合わせる方とは本当に親しくさせてもらっているのですが、仕事を振る担当者とは相性がいいとは言えません。

特に途中で担当者が変わってから、状況が変わってしまいました。

生きるのが大変です。

ケアマネさんが父親の様子を見に来てくれます!

 家族としてできること

家族が在宅介護をするのは限界があります。

つまり、できるだけ管轄の福祉課や地域包括支援センターなど公共機関と繋がることで、公的なサービスや支援が受けられます。

実際、デイサービスに行かない父親を担当ケアマネが訪問し、様子を見てくれることになりました。

日々の在宅介護は、高齢化すればどこの家でも家族の問題になります。

例えば、トイレが一人で行けなくなる段階になると、施設のような広さがない住宅のトイレでは車イスから便座までの移動も容易ではありません。

手すりを使えば、壁伝いに移動することもできますが、活動量の低下がさらに進めば、その方法もいずれは使えなくなります。

何より転倒で頭をぶつけるとまた別の問題が発生しますし、移乗などで家族の腰を傷めることもあります。

老々介護のような場合、歩行力の低下が確認できた段階から、トイレの使用が難しくなる段階をターニングポイントと考えて、それこそ管轄の福祉課への相談や介護認定申請などを経て、ケアマネに担当してもらうことです。

初めて福祉課に相談する場合、窓口の担当者が「介護」のエキスパートとは限りません。

もちろん事務手続きには熟知された方だと思いますが、家族に介護が必要だと説明しても「みなさん、それぞれで頑張っていますよ」という対応だって無くはありません。

「確かに今はトイレも使えている」と思うと、まだ申請や相談は必要ないのかもと相談を諦めてしまうかもしれません。

しかし、介護申請をして明日に来てくれるようなものでは無くて、何ヶ月も待たされることも珍しくありません。

ということは、トイレに間に合わずお漏らししてしまったということが起きたとしても、何らかの対策が講じられるのは数ヶ月後ということもあります。

つまり、それまでは家族で対応するしかなくなり、尿取りパットなどを使うなど、試行錯誤が始まります。

しかも全く介護に触れていなければ、何から始めていいのかも分かりませんし、公的なサービスにも気づかないでしょう。

店舗の介護売り場で相談しても、やはりその方が専門家とは限りません。

それがまた頼れない不安さにも繋がります。

そこで早めに公的な専門家と繋がっておくことが大切で、実際に相談をしてケアマネが決まって、デイサービスに数回休んだことで、様子見に来てくれることになりました。

親身に相談に乗って、段々と老いていくことに父親も母親も専門家から聞かされることで、分かることも多いはずです。

オムツ交換も手順は難しくありません。

しかし、やはり臭いは部屋に定着してしまうので、独特な悪臭が部屋に入ると鼻につきます。

できないかというとできないことはありませんが、一気に難易度が上がるので、やはりトイレに行けない段階を機会に介護方針は転換期だと思います。

その辺りの認識が専門家間で同じではないとしても、ケアマネがいれば両親にも説明してもらえるので、やはり家族としても助かります。

今、リビングを見に行ったら、いつもは敷きっぱなしの布団も移動されて、父親もテレビの前で寝転んでいませんでした。

どことなく部屋を片付けてあって、ぱっと見、きちんと暮らしているような雰囲気に見てもらおうとしているのでしょう。

キッチン用のゴミ箱まで移動させていて驚きました。

そこまでして、父親も母親も他人から「良い人」に思われたいタイプなんです。

いつも場当たり的な取り繕いをしていますが、そんなことも事前にケアマネには伝えあって、「見たままを信じないでください」と告げてあるんです。

そうでないとそこにケアマネが気づけないければ「まだ大丈夫」と思われてしまうので。

頑張るところが違うんですよね。

散歩するとか習慣化して、歩行力が大切なんだと理解していればいいだけですが、それをしないで見た目ばかりを気にする。

問題を隠蔽して、結局は家族の負担を増やしてしまうので、両親だけでできる時はどうぞご自由に構わないのですが、出来なくなって来たら介護する家族のためにも習慣を直して欲しいのです。

でもこれまで全くしてくれないから、家族は深いため息なんです。

そんなこともあって、両親を「ナルシスト」と思ってしまう理由なんですが。


デイサービスに行きたくないと言う父親

 在宅介護の限界は

介護士として経験から判断すると、在宅介護の大きな限界は「独歩」ができなくなった時でしょう。

大きな屋敷でもない限り、リフォーム無しで介護ベットとトイレ、入浴を家族が身体介護まで含めてサポートするスペースが確保できないからです。

不適切なポジションでの介護は、支える家族の腰を傷めてしまい、継続できる環境を保てません。

その意味でも家族が支える介護ということなら、一人で歩いてトイレや入浴ができないとそれだけ家族の支えも大きくなります。

特に風呂場での転倒は大きな事故になりやすく、足の骨折などを伴うとそれだけで独歩ができなくなるので、一回の骨折でも状況が一変しかねません。

デイサービスに行きたくない!?

父親にとって、何でも自由になる家での生活が希望でしょう。

ほとんど何も役目もなく、一日中寝転んでテレビを観て、3度の食事は家族が用意してくれるので、快適そのものです。

しかし、ほとんど動かない生活は筋力低下を招きますし、実際に歩行距離が短くなっているのは否めません。

かと言って介護の現場を父親に伝えても、不安だけを与えてしまい、場合によっては認知機能低下を促すことも。

事情を説明しても、それを理解できない両親にどんな言葉が良いのか悩みます。

以前にも書いたのですが、「こうした方がいいよ」と説明しても、それを習慣化できたことがありません。

結局は今の楽を選んでしまうので、後で大きなツケを払うしかなく、それが本人ではなく家族の負担ということも頻繁に起こっています。

つまり、歩けなくなり、トイレに間に合わなくなって失敗してしまうことが増えて、リハパンやオムツを使うようになるということでしょう。

とは言え、入浴に関してはスペースの問題もあるので、デイサービスを使う必要があるでしょう。

いずれにしても若い頃に戻れるのではないので、迫る選択肢から選ぶしかありません。

できるなら事情を理解して、デイサービスに通うことに慣れて、迫るトイレや入浴の問題に少しでも家族の負担が減ればと思います。

実際、母親が腰でも傷めてしまうと、いきなり介護される側になるので、両親共の介護はもう選択を聞いている余裕もありません。

父親が母親に怒り出しました!

 嫌味っぽい母親の言い方

何もしない父親の態度に母親はイライラしています。

「雨戸が閉まっていない!」

そんな言い方に嫌味が含まれています。

父親も「閉めてよ」と寝転んだままテレビを観て答えます。

できないことが不満なら「放置」すればいいですし、体裁を気にしているなら自分でするしかありません。

父親と言う人間は、「自分では何もしたくない」そして「されることを恥だとは思わない」タイプです。

それは正直、母親にも言えて、昨日も父親がしないので母親が放置していたのですが、結局は二人とも何もしないままで、ずっとそこに置きっぱなしでした。

そして、遅れて帰宅した妻が見つけて、その放置された物を片付けていて、それを見た母親は妻に「ありがとう」と言うでもなく流していました。

結局、何もしない父親は、誰かに優しくされても当然に思うタイプで、母親もまた」ありがとう」とも言わずに流してしまうタイプです。

つまり、誰かに助けてもらっていることをありがたいと感じられない人で、一見するとこだわりを持っている雰囲気を出しますが、でも端々は誰かに助けられないと生きられません。

そして「助けてられている」ということが段々と当然になり、3までしてくれるなら5までして欲しい。10までなら助かるという発想になるので、付き合っていると全部の世話をさせられてしまいます。

しかも、一回でも手を出すと、その後はしてくれないことに不満顔を出してくるので、関わりたくありません。

お願いしたことを一切守ってくれないのに、他方では要求ばかりしてくるので、父親と母親が口ケンカしていても、言い合い程度なら特に仲裁にも入らなくなりました。

したくない父親と自分の考えを押し付けたい母親。

最後は二人とも手を引っ込めて、妻やこみちにけつを拭かせてありがとうとも言いません。

虚しくさせられるだけなんです。

「時間」に逆らうと人間はどうなるのだろう?という話

 「時間」は一定方向に流れるものなのか?

過去があって、今があって、未来がある。

タイムマシンがあったら面白いと考えた子どもも頃、ふと思ったのは過去に行った自分が何歳になるのかということ。

というのも、平面(二次元)の世界で生きていると、立体(三次元)の世界は見る部分と見えない部分があります。

つまり、三次元でジャンプした時、高さという感覚を持たない二次元の人は「消えた」とか「停滞」して見えるはずで、でも三次元の人は当たり前にジャンプしているに過ぎません。

そこから連想すると、我々は時間に対して過去から未来へと一方向に進む中で生きていて、仮に過去に行けたとしても肉体も過去に戻り、生まれた時よりも過去になるとそもそも存在しない可能性があります。

一方で、過去に戻っても今の時間軸のままであるなら、急に老けた人は今とは異なる世界を旅していたのかもしれません。

メルヘンな世界では、寝ている時の夢はそんな異次元への旅だったら面白い話です。

いずれにしても、人間が時間軸に縛られていて、自由な選択権がない以上、未来にも過去にもジャンプ移動することは不可能になります。

ただ、冷凍保存のような技を使って、肉体の老化を低下させることができれば、一般的な老化よりも遅らせることができるので、10年後や30年後に解凍すると肉体はそのままで未来に移動することはできるでしょう。

とは言え、「ああ、未来ってこうなんだ」とわかっても、もう過去(本当なら今)に戻る術はありませんが。

また、現時点で思う過去に戻れた時、それはもう未来の今も変わっているので、今思う時の過去には戻れません。

例えば、日本ではなくアメリカで暮らしている過去を思うということは、未来である今、アメリカでの暮らしを思い出にできているはずなので、思い出にできない時点で過去にアメリカには行かなかった未来を辿っての今だというとことです。

言い換えれば、アメリカで暮らし、今アメリカでの思い出を感じられる自分がパラレルワールドにいて、でも自分と今の自分は会わないので、やはりそんな過去があっても今の自分では感じられません。

この感じられないという感覚は、最初の二次元と三次元の違いみたいなもので、そこにいる限りは認識できない領域の話をしているということで、でも全く存在しないのかというとそうでもなくて、言えば未来にも過去にも行けるけれど、今の自分には認識できないということでしょう。

つまり、こうだっだらと思う人生を生きている自分が別の世界線にはいて、今の自分はそんな幾つもある世界線の1つを辿る人生だったということ。

そしてこの先も選択によってさらに異なる世界線があって、どれを選ぶかは未来を決めることでもあります。

残念ながら人間は時間に逆らえない存在で(厳密には逆らえても認識できない)、未来を選ぶことしか許されていません。

「過去のあの時に!」という世界線を生きている自分もいるのですが、もう今の自分には戻ることができないだけです。

そんな風に過去や未来をイメージしたら面白いですよね。

「ナルシスト」なタイプの人との付き合いが大変な理由

 「ナルシスト」=「自分基準な人」

ナルシストなタイプの人は、自分の基準がとても強く言動に表れます。

別の言い方をすると、「周囲の状況」も都合よく解釈して自分の言動を正当化しやすいと言えます。

例えば、借り物を壊したという時、普通なら「壊してしまった。ごめんなさい」という感情になるところでも「借りた時から壊れそうだった」と最初に言ってしまいます。

確かに違和感を覚えたのが正直な感想かもしれません。

でも、借りた時に「これ大丈夫かなぁ?」と保険をかけたなら話も分かります。

しかし壊した後になって、「壊れそうだった」という感想はもう重要ではなくて、最初は「ごめんね。壊すつもりじゃなかったんだけど」となるでしょう。

何も壊されてもの凄く怒りたいという話でもなくて、それこそサラッと「ごめんね」でいい話です。

そこを他の何かの理由にしてしまう態度だと、「え?」となってしまいます。

保険の見直し

昨日、家に保険屋が来ました。

今まで両親が入っていた保険の更新と、見直しを兼ねて相談したかったからです。

何社かバラバラに入っている保険の見直しをしておきたくて、事前に母親に証書などを探してもらいました。

そこでも面倒なことはありましたが、どうにか書類も揃って、重複したものは整理し、今後必要になるものは新たに相談したいと思ったからです。

こみちも几帳面な性格ではありませんが、両親もそうで、せっかく加入していても自分たちがどんな保険に入っているのか、あまりよく理解していませんでした。

「生命保険に入っている」

それだけではあまりに漠然としていて、少なくともどんな時にどれくらいのお金が貰えるのかくらいは知らないと、必要になっても請求することさえできません。

ナルシストとの付き合いが面倒なのは、保険の見直しのように手間なことって、自分の分でも億劫です。

でもしないと入っている意味がなくなるので、自分なりにファイルにして、何かあればまずそれを見て考えられるようにしておきたいものです。

整理整頓ができないというのは、棚の中をキレイすることだけでなく、そんな書類をまとめて保管することも含まれます。

ところが、両親はそれを全くしていません。

そして何より、その手伝いをした時に「ありがとう」とも感じません。

なぜか当たり前に思って、好意を受け取るような感覚です。

家族だとしても「本当に助かった。時間を割いてもらって悪かったね」くらいの言葉が出ないものでしょうか。

書類を探して、保険の営業マンに質問できる程度に調べて、実際に話を進めて両親の意向を聞きながらまとめる。

できるかできないかではなく、できないなりに誠意の見せ方があるように思います。

「これで買って来い!」

父親がかつてお金を投げて渡したことがあって、ケンカになりました。

親子だとしても、お金を拾わせるのはどういうことかと。

そんな態度って忘れたりしないもので、やはり腹立たしさは今でも消えません。

そして今回の見直しでも、受け身を全面に出して愛想笑いしているだけです。

一方で、ことが済むと態度が変わり、保険の見直しで時間がずれ込んだから「弁当を買ってくるね」と伝えた時に、「ご飯、まだたくさん余っているよ」っと。

弁当代を出してくれる訳でもなく、買ってくる訳でもなく、でもお米が残っていると指摘する。

いつも残ったご飯は翌日の朝、こみちが食べています。

みんなには朝に炊いたご飯を食べてもらっているのに。

「残ったご飯、食べたことある?」

そんなこと質問しませんが、物を壊した時の反応と同じで、指摘するポイントがいつも違います。

言わなくてもいい話か言うべき話かが区別できずに、肝心な時は笑っているだけで、言わなくてもいい時に限ってイラッとさせることを口にします。

それだけ状況を把握していないからなのですが、年老いてしまうとできないことが増えるし迷惑も掛けるからせめて「感謝」をしようとでも思ってくれたらいいのですが、「当たり前」にしてしまいます。

負い目を感じたくないからかもしれませんが、老いるとはその負い目を感じて、優しさを再実感することだと思うんです。

「感謝。感謝」という高齢者がいましたが、その気持ち、よく分かるんです。

できるとかできないではなく、わざわざ自分のために時間を割いてくれたことを当たり前に思ってはいけません。

「ありがとう」

それだけ言えたら、もっと人間関係は良くなるはずです。

でもそれを言いたがらないのがナルシストな人の特徴です。


「四次元」をなぜ理解できなかったのか?と言う話

 「一次元」を「直線」で例えてしまったから?

私たちが生きる世界を「三次元」と呼んでいます。

それは「縦」と「横」と「高さ」の組み合わせで認識できる世界観を表したからです。

そして、時に「四次元」を「時間」と言う新たな基準を加えて考えるのですが、それが理解を難しくさせているとも言えます。

と言うのも、縦横高さは「長さ」で時間は「時」と言う異なるスケールだからでしょう。

でもこんな風に考えることはできないでしょうか。

縦、横、高さのいずれにとっても原点となる「0」と言うポジションに「こみち」が立っています。

もしも一次元がそのいずれかのスケールだけでしか感じられないとしても、「こみち」は「0」にいると認識されます。

なぜならいずれのスケールでも原点となる「0」にいたからです。

しかし、例えば「高さ」の基準で「10」のポジションに移動してしまうと、「高さ」のスケールでは「10」として認識されますが、「縦」と「横」のスケールでは「0」上にいないので、存在していないように見えてしまうでしょう。

つまり、ある「直線」を一次元と理解するなら、その線上にいるからこそ認識の対象で、そこから外れてしまうともう観測不可能な存在として扱われてしまいます。

同じように考えると、縦横など二つの基準で認識される世界を「二次元」と呼ぶなら、「平面」に接していれば、それを認識できますが、接していない時は認識できなくなります。

結論「四次元」とは何か?

仮に4番目の基準を「時間」と考えた時に、三次元の世界では認識されたいずれも「0」と言うポジションも、「いつから居たのか?」が重要になります。

大昔からそこにいて、未来のもっと未来までそこに居続けたら、四次元の世界でも「0」にいると認識できますが、「今」だけしか居ない場合、過去や未来に時間軸が移動すると認識できないことになるのです。

我々の世界は本当に「三次元」なのか?

例えば、りんごを買うとします。

100円と150円の価格の違うりんごが売っていたら、安いりんごとか高いりんごと言う認識ができるでしょう。

それは一次元の認識です。

では「重さ」と言う認識を加えて、100円で小さいりんごと150円で小さいりんご、さらに150円で小さいりんごと150円で大きいりんごの四つがあったら、どれがお得でしょうか?

単純に考えると、100円で大きいりんごでしょう。

そう考えられると二次元の世界観です。

ではさらに「美味しい」と「不味い」を加えて、100円で小さくて不味いりんご、100円で小さくて美味しいりんご、100円で大きくて不味いりんご、美味しいりんご…。

タイプは8種類に増えますが、一番お得は100円で大きくて美味しいりんごでしょう。

でも2番目は人によって変わるかも知れません。

価格を優先するか、大きさか、味か。

価値観が複雑になるから三次元なのです。

最後に「見た目」と言うスケールも加えます。

つまり、三次元では100円で大きくて美味しいりんごが一番でした。

でも「見た目」の基準を加えたことで、選び方が変わります。

食べれば確かに美味しくて、価格も安いりんごを食べていましたが、よくよく見れば見た目は少し歪でした。

でもそれを気にすることはなかったと言うのが三次元の世界観で、それが四次元になると「でもこっちの方が少し高いけど、見た目もいいぞ」と言うことになるのです。

つまり、四次元とは属性が4つあるということ。

属性とは、判断する基準のことで、先にりんごで言えば、価格、大きさ、味、見た目と言うことになります。

それぞれは干渉する基準ではなく、それぞれに意味を持ちます。

そして、高次元になると低次元の時とは判断が変わってきます。

例えば、「安ければいいのか?」とか「大きければいいのか?」に疑問を持ちのは、異なる基準を既に認識しているからです。

こみちは四次元をそんな風に理解しています。

もう父親一人での入浴は厳しいのかも知れない話

 父親の運動能力

確かに歩ける時もあるけれど、義務や役割として「歩くこと」の必要な作業を父親にはできません。

能力的な視点だけではなく、性格的な視点も加味するとそれが現実です。

褥瘡が腰にできて、一日中寝たままの生活スタイルに体がサインを出していますが、父親と母親で出した回答は、リビングに布団を敷くことでした。

つまり、寝たきりでもないのだから、これ以上活動量を下げない工夫をしなければいけないと言う発想には成らず、今のスタイルを続ける工夫に走ったということ。

そもそも、父親が家のことを一切しないと、家族の誰かが代わりにしなければいけません。

ゴミ捨てをする。

収集場所までゴミ袋を運ぶだけでも、歩けないければ任せることはできません。

同様に考えて、完結させられるという意味ではなく、始めることさえできないほど、やる気も失せているようで、「お父さん、すごい!!」と常に励ますことでもしないとできない人なんです。

じゃあ、母親はどうか。

母親はまだ行動できますが、していることは多くありません。

先日、保険の見直しをする機会があって、それまでは両親だけで更新していました。

ですが、何か意見するという意味ではなく、傍観者として立ち会ったのですが、かなり保険料の見直しができました。

「〇〇を変えることはできますか?」

「今、この保険は有益ですか?」

そこで感じたのは、両親はほとんど何も理解できていなくて、特徴的なポイントだけを何となく覚えているに過ぎません。

医療保険はどんな時に対象になるのか。

入院の何日目からなのか。

暗記していなくても、それを請求する方法を知っていなければ無意味です。

「あの〇〇保険の証書はどこにあるの?」

「そんなこと、急に言われても」

3日後に探してと伝えて、その間の隙間時間に探して欲しかったのですが、「どうなった?」と聞いた時に「忙しくて」と答えます。

「忙しい」は誰でも同じで、「テレビを観ること」も忙しいんです。

今、母親は父親に風呂に入れと言っています。

もう数日、入っていないからです。

「またそんなことを言う」

「俺だって忙しい」

考え方は二人とも同じで、できない理由を繰り返します。

でも入らなければ、皮膚病のリスクもありますし、病気になれば通院しなければいけません。

でもそれを母親ができるのかというと、病院の看護師にめちゃくちゃ怒られて以来、連れて行けなくなりました。

聞かれたことに答えられないので、「質問、分かりますか?」と言われてしまったそうです。

母親はかなり大きな音でも聞こえていないようで、それは冷蔵庫のドアの開け閉めを聞いても分かります。

怒っているのかというくらい騒がしいので、正直、父親とでも本当に理解して話しているのか分かりません。

ボケているということではなく、相手の質問を聞いて、何を知りたがっているかが分からないんです。

「冷蔵庫の人参だけど」と聞けば

「人参買ってくればいいの?」と答え。

「そうじゃなくて冷蔵庫の…」ともう一度言い直しても

「ジャガイモ?」という感じです。

だから「冷蔵庫に人参があるでしょう? それで肉じゃが食べたいって言っていたけど、今晩はそれでいいの?」と相手の理解に合わせて頭から略さないで伝えないと上手く伝わりません。

今、リビングでせっつかれて、父親が「風呂には入らない!」と駄々をこねています。

実はふらついて転んでも危険なので、手すりの工事も予定していて、さらに浴槽に入る時に使うボードを買うかどうか悩んでいます。

浴槽の縁に腰掛けるのでは危ないですし、少し前から母親には入浴時に見守りをお願いしています。

とは言え、倒れそうになった父親を支えるとは思えません。

介護士としては入浴は安全性も考えるとデイサービスでいいように思うのですが、父親と母親は自宅での入浴にこだわりがあります。

トイレ同様に入浴もできなくなると在宅での介護で全ては賄えません。

デイサービスを上手く利用した方がいいと思います。

と言うのも、転倒し骨折でもしてしまうと、それこそ車椅子生活で、筋力を落としてからリハビリで今以上に歩けるようにはなりません。

そう考えると「骨折」は一番避けたいことで、そのためなら在宅にこだわっている理由もないからです。

ただそう割り切れないもの人なので、今はできるだけ父親は母親に面倒を見てもらうしかないでしょう。

家族とは言え、狭い浴室で介助するのは簡単ではありませんし、何よりポジションが取れないと介助側も腰を傷めたりします。

それを母親に伝えるのも一苦労ですし、選択してもらう話し方では答えまで行きつきません。

結局、「デイサービスで入浴した方がいい」と言うタイミングでしょう。

大けがにならないヒヤリを経験し、父親が「家の風呂では危なかった」と認識しない限り、なかなか簡単ではありません。

浴室のドアも開けっぱなしで、二人で浴室にいるようですが、まだシャワーを使っているような音も聞こえません。

大丈夫でしょうか。

ちょっと様子を確認してきます。

母親が父親に「背中、洗おうか?」と聞いていました。

「大丈夫!」と言う父親。

そこで大切なのは実際に洗えているかを確認すること。

でも、その声掛けをしてすぐに離れてしまいます。

そこが勿体無い部分ですが、着替えなども母親に用意されて、父親としてはすっかり機嫌も直っています。

母親は大変かも知れませんが、しばらくはそんな感じで入浴してもらえばいいのでしょう。

ただ母親の無意識なため息が多いです。



気持ちが落ちても「助けて」とは言えない話

 虚しい気持ち

日中、あることで落ち込みました。

それは誰が悪いとかではなく、自分に対してガッカリだったと言うこと。

でもそれが現実なので、ガッカリでも受け止めるしかありません。

妻に「助けて」と言いたくなったけれど、妻だってそんなことを聞かされて心配になるだけです。

夕方、いつもの時刻にキッチンに立ちました。

リビングには寝転んで居眠りする父親と別の部屋でバタンバタンと大きな物音を立てている母親がいます。

以前も話ましたが、両親は自分基準でしか判断できない人なので、例えば「辛いんだけど」と言っても「それは大変だね」と言ってくれても、「辛さ」を理解することはできません。

こみちが料理を作り始めて、父親はリビングにあるカーテンを二ヶ所閉めました。

父親の感覚で、家族の夕飯を作る手間とカーテンを閉める手間は同等です。

だから、「料理なんて作りたくない!」と言っても、その負担の違いに気づくのではなく、「作らなければいい」と言うのです。

その言葉に従っても、父親は丸まってただ助けが来るのを待つしかできない人。

一緒に待っていても、ここに料理できるのは妻しかいません。

でもそこに負担は掛けられないので、どうにか頑張るしかありません。

明日の朝、朝食用のカット野菜を母親はまた買っていません。

毎日、買い物にって、弁当やパン、ジュースなどは買い忘れないのに、何故か必要な野菜は忘れます。

決まりごとなら、それに従って行動したい性格のこみちにとって、母親のそんないい加減さはストレスです。

それだけではなくて、日常生活のいろんな部分で似たようなことがあって、いつも騙し騙し予定をこなします。

楽できる部分を両親が先に奪ってしまうので、感覚的に「やるしかない」と言う重い気分なのです。

本当にできない人たちなので、でもできないことを理解していないので、困るんです。

料理をこみちが作るのは、もう母親ではまともに作れないから。

でも母親の頭では別の変換に変わっていて、わざわざキッチンを空けてあげていると言う感じ。

だから作ってもありがとうとも美味しかったとも言いません。

当たり前に食べて、当たり前に残して、その残された料理をこみちたちが食べるのです。

時に日中に買った菓子パンを両親が先に食べるので2時間以上も待っていて、「お腹空いたでしょう? 食べれば!?」っと。

作り立ては当たり前に両親が食べる。

しかも、温かい内に食べるのでもなくて、自分たちのペースで食べる。

考えても分かりますが、2時間も経過した料理って、レンチンしてもそう美味しくありません。

作ったのに、そんな料理しか食べられないんです。

心が疲れて落ち込んでいる時、そんなことでさらに心が傷つきます。

でも、誰にも言えません。

妻には心配させたくないし、両親はそれを理解できない人たちだからです。

例えば海が見える丘に暮らしていたら

 丘から見える海

自然豊かな丘に小さな家を建てました。

窓を開ければ、そこには水平線まで見渡せる海が広がり、すぐに自然を感じられます。

私は三脚を立てて、いつものようにカメラを海に向かってセットし、ライブ配信を始めます。

ライブと言っても私は何も話しません。

カメラには映らない脇にいて、ウクレレを奏でているだけです。

ライブ配信は15分程度。

正確に時間を決めている訳ではありませんが、お気に入りを何曲か演奏して、「また明日」と書いたボードをカメラに差し出して配信を終えます。

誰が見ているのか、どれくらい見ているのか。

それを期待して始めた訳ではありません。

都会を抜け出し、仕事も家族も失って、ここに一人でやって来たので、少し寂しかったからです。

ロケーションが気に入り丘の上を選んだのですが、実は意外と風が強かったりします。

カメラの映像では伝わりませんが、洗濯物を干せない時も多いのです。

しかも自然を求めて人里離れた場所を選んだので、電気を通す工事費も思ったより掛かりました。

ゴミ出しの時は車で運ばないととても歩いては出せません。

買い物だって車を使いますし、嵐が来ればずっと窓がガタガタと大きな音を立てています。

でもそんな苦労をカメラでは伝えません。

なぜなら、時時来るコメント欄に「癒されます」とか「羨ましいです」と書いてくれるからです。

実際、私は窓を開けて、ウッドデッキの端に腰掛け、そこから夕日を眺めるのが好きです。

美しいのはもちろんですが、自然に包まれている感覚を全身で受けられるからです。

時々、勤めていた会社の同僚たちを思い出して、今もパソコンに向かってキーボードを叩いているのかと想像します。

サラリーマンって何だ。

社内の歪な構造が嫌でした。

なぜアイツが昇進し、別のアイツが異動になったのか。

一部始終を話せたら、きっと立場は逆だったはずです。

でも、今更そんな話をしても誰も聞きたくないでしょうし、地方に飛ばされたアイツだって望んではいないでしょう。

この丘に立つ家に住み、真実などあまり重要ではないと思うようになりました。

全部を知って落胆するくらいなら、良いところだけを見て癒されればいいからです。

その方がずっと幸せですし、現実に戻ってまた頑張ろうと思えるでしょう?

結局はどこにいても不幸。

そう思うよりはずっとマシです。

演奏を終わりました。

「また明日」のテロップをカメラに差し出します。

ライブ配信を切り、コメント欄に目を向けました。

「いつも癒されます」

時々コメントを寄せてくれる人。

感謝です。

今、海風を感じました。

これから朝食を作ります。

ナルシストな父親の本当の姿を見てしまった話

 ナルシスト(自己基準しか無い人)の行動を理解するために

加齢が原因で歩行力が低下し、玄関先で転倒した父親。

また日常生活でも「老いたなぁ」と感じさせる歩き方で、室内での移動でも杖を使い始めました。

そんな姿を見て、家族は家事を頼むこともなくなり、毎日自分らしく過ごしてもらえればと考えるまでになったのです。

とは言え、同じタイプの母親は、糖尿病の父親にも関わらず、甘いものやジュースなどを「お腹が空いてないの?」と聞いては与えます。

ある意味、ストイックに食事制限をしても、根本的に父親の糖尿病が治るとは考えられません。

しかし、寝た切りになったら母親が父親の世話を担えるのかというと、意外とあっさりした一面も見せます。

つまり、母親もナルシストなので、客観的にするべきことを察することが苦手です。

いつも母親の言動はその場で思いついたことをしているに過ぎません。

だから、「お腹空いてそう」と思えば、甘いものでもジュースでも求められれば応じるのです。

そんな母親の対応に慣れてしまった父親も、「自分は大変な立場」と言う悲劇のヒロインを演じて、周囲から温かい声を欲しがります。

でも、ルーティーンになってしまうと、できて当たり前で、できていないと責められます。

だからそんな立場になることをいつも嫌がります。

何もできないはずなのに、頑張ってしている父親。

そんな風に家族に思ってもらいたいのです。

生ゴミ用のバケツを庭まで取りに行くことが父親の家事でした。

でもしたりしなかったりで、最近はほとんどしていません。

とは言え、父親は歩くのも大変と家族が思うようになり、できていない時も怒ったり責めたりしなくなりました。

そんな状況になって、大人しくしているのかと思ったら、父親はスタスタと庭まで歩いて行きました。

軽快とは言いませんが、ふらつきがあるなら絶対にそんな大変なことはしません。

でも見てしまったんです。

玄関の段差も手を使わずに登って、こみちが振り返った時に歩き方がいつも通りになりました。

そう、演技しているんです。

もちろん、いつもいつもはそこまで動けないと思うのですが、まだ調子がいい時はそれくらい歩行力があるのです。

完全に誤認していました。

一方の母親は、朝用の食材を買うことができません。

と言うか、今朝も無くて、夕飯の用の食材を使いました。

そうすると母親は「買わなくてもどうにかしてくれる」と学習し、買いたい時に朝と夕方の食材を好き勝手に買い出します。

つまり、母親も義務を担うことが苦手で、誰かにサポートされつつ、気ままに行動したいのです。

朝食用の食材を入れるチルド室に納豆しか入っていません。

それをわざわざ確認して、「買い物は明日でも大丈夫だね」と何も気にしない父親に話しています。

これも母親の手口なのですが、父親に言っているのではなく、聞いているであろうこみちに促しているのです。

でもそれをクセづけると、本当に母親は自由気ままなことだけをして、尻拭いを放棄する人になってしまいます。

父親が演技かもしれないとしても、こみちや妻がいると困っている時でも意外なほど心配はしていません。

何なら黙って自分の部屋に戻ってしまうくらいです。

「誰ができるか?」ではなく、「お父さんは私の旦那さん」と言う立場を理解していないのです。

できなくても、最後まで心配するのが妻や夫のように思いますが、父親も母親もそこが全く感情として抜け落ちています。

父親は母親が大変でもテレビを観ていられる人ですし、母親も父親が大変でも自分の部屋に行ける人。

それにしても、あんなにも父親が普通に歩けるとは思いませんでした。

すっかり騙されていました。

ちょっと心配していた父親の件で

 久しぶりの入浴ですが…

最近、父親の様子を見ていて、薄々気になっていたのは本当に父親が入浴できているのかと言うこと。

リビングで寝転ぶ用の薄い敷布団でさえ、自分ではやりたがりません。

多分、まだできないレベルではないかもしれませんが、父親は依存が強くて母親に甘えます。

そして母親もそんな甘えを許すことに自身の存在意義を感じているところもあって、二人は二人で上手くやって来たとも言えます。

ですが、そんな父親が今、一人で浴室に行き、その扉の前では母親が心配そうに様子を気にしています。

そして、10分くらい経過した時に、父親がドアを開けて「お母さん」と連呼したのです。

「どう、できた?」

声しか聞こえませんが、浴室の中を覗いたのでしょう。

母親が何か伝えて、父親が甘えたような声で「できないからやってよぉ」と訴えます。

日常生活での父親の動きを見て、父親が自分の体背中までタオルで洗えているとは思えません。

というか、こみちの介護士経験として、確実に洗うなら父親に手すりを掴んで立ってもらい、家族の誰かが洗うレベルです。

どうやら、できないと言っているのは髭剃りのようです。

以前から、泡をつけての髭剃りはできなくて、電動の髭剃りを購入したのですが、それも上手く使えなくて、それこそ父親がしている様子はありません。

今も多分、できないところを母親がしているのだと思いますが、髭だけではないはずです。

デイサービスで入浴サービスを受けられるようにした方がいいのか、頑張って母親が入浴を手伝うのかですが、今はまだできたとしても、3ヶ月半年後にはそれが問題になりそうです。

できているかどうかは別にして渋々でも一人で入浴していた父親ですが、先週くらいからは母親がいないと入らないので、自分でもできない自覚があるのかもしれません。

入浴が難しくなれば、排せつ関係も要注意で、それだけ父親の老化が深刻になって来たと言うことでしょう。

まして、立位を保つことができないと、やはり母親が支えるのは難しく、いきなりこみちを呼んで、サポートしなければいけないことも出てくるでしょう。

今、母親がトイレと浴室を行き来しています。

何があったのかは分かりませんが、トイレと関係あるかもしれません。

飲み物を用意してみたいなので、大きな問題はなかったようです。

でも、浴室から出て来たようには聞こえないので、洋服を着てリビングへと移動できたのでしょうか。

もしかすると、夜になって問題点を改めて相談されるかもしれません。

父親の特徴的な足音が聞こえるので、浴室から出てリビングに移動できたみたいです。


ここ数日で父親の老化が一気に進んだ気がする話

 最近の声

言葉では上手く表現できませんが、老化が進むと特徴的な声質になります。

以前からまだらな感じは認識していましたが、「声」までは変わっていませんでした。

それが、受け答えしている時の声、滑舌が、もう全然違っています。

しかも歩行力も著しく低下していて、もう100mの距離でも独歩では危険です。

訪れたデイサービスのスタッフも父親の歩行を見て「車椅子も考えないと…」と言うような話でした。

「車椅子!?」

転倒のリスクが高まれば、当然ですが検討されるポイントです。

しかし、その言葉を聞いて、躊躇ってしまったのが本音です。

生活習慣の見直しは、父親のようなナルシストには難しいものです。

前後関係も考えずに楽な方に進みやすく、後で行き詰まってしまうパターンが多いのです。

しかも、日中も寝転ぶスタイルが抜けなくて、足腰の筋力が低下するだけではなく、寝たきりに特徴的な褥瘡も腰にできています。

糖尿病なので皮膚が弱く、ちょっとした皮膚の圧迫でも褥瘡にもなりやすいからですが、ここ数日の様子を見ていると近いうちに「このまま寝たきりになってしまう」と言う不安さえあります。

しかも褥瘡が出た時に、できるだけ座って過ごすことを勧めましたが、趣味などもないし、家事も嫌がるので、結局は何の予定もなくて寝てしまうのです。

その結果、薄手の敷布団出して、リビングに敷き、そこで寝転んでいます。

さらに驚いたのが、最近ではもう父親が敷くのではなく母親に敷かせていました。

それではますます活動量が低下するのですが、父親の気質を母親が理解できないので、「敷いてあげること」を優しさと解釈するクセが抜けません。

夜になって、改めて父親と話した時に、「転倒して骨折でもしたら入院だよ」と言ったのですが、自分が歩けなくなっていることをもう忘れているような態度でした。

「嗚呼」

とても面倒くさい感じで、立場が入れ替わってしまいます。

心配しているのに、それを聞いてあげているような態度を出してくるのです。

ナルシストの場合、価値観は自分にしか存在しません。

それは、トラブルもまた同様で、本来なら父親のことでも、父親にすれば誰かが勝手にしていると思い込めるんです。

嫌なことは放置すればどうにかなっている。

それが父親の解決策なのです。

だから、歩けなくなってオムツになり、在宅での交換が作業含めてどれだけ手間かは考慮されません。

歩行力が大切だと説明しても、動じないのはどうなっても誰かが面倒をみてくれると思っているからでしょう。

車椅子と言うことも言われ始め、トイレや入浴が困難になれば、例えば母親が維持でもすると言うのなら分かりますが、割とあっさり他人事だったりするので、その辺りの対応も早々に決めておかないといけません。

二人共、できなくなっているのに自信があって、口だけは出して来ます。

二人のことと意思を尊重するようには思っていますが、もう二人は何もできないに等しいようです。

朝も母親はチラシを見て値段の確認をしていましたが、毎日、ピーマンを買って来たりするくらいで、在庫ががあるとかないとかももう気にしていない気がします。

昔から金銭管理ができなかったのか、買い物が上手くできないんです。

しかも、ピーマンを無理矢理使った料理を作っても、かなりの確率で食べません。

何でそんなにピーマンばかり出ているのか。

そこをもう忘れている気がします。



「本当に頭が良い」ってどんな感じですか?と言う話

 「処理能力」

例えば1分間で、英単語を1000個記憶できたら、頭が良いと思いますか。

10桁の数字を瞬時に計算できたら…どうでしょう。

それらはつまり学校のテストで高得点が取れるようなタイプの頭の良さを指しています。

でも、社会人になって思うのは、学校での成績と社会人としての能力って少し評価が違う気がしませんか。

高校までの能力はいわゆる学校のテストの成績で、大学になると人脈なども上手く活用して収集する能力も問われます。

さらに社会人になれば、立場や利害関係も加わり、その中で正解を導き出さなければいけません。

つまり、「脳」も処理能力だけではなくなります。

最も難しい問題

例えば、切迫した状況下で、同時に行うことができない場合に、何をするべきかを決断しなければいけない時、それが人間として最も難しい問題でしょう。

つまり、「正解」だとしてもどこかでは切り捨てた部分があって、またその切り捨てた部分の量が多いか少ないかでも正解の決め手とはならないような場面に直面した時です。

例えば、能力的に100キロの距離を走れるランナーがいて、今から100キロを走れますか?と言う問題なら、きっと答えが出せるでしょう。

それが200キロになったとしても、走り方を工夫すれば克服できるかもしれません。

では、「この人と一緒に」っと、全く走ったこともない人とペアを組ませたらどうでしょうか?

もう100キロを走れる能力はどこかに行き、「この人」をどう走らせるかが問題になってしまいます。

もっと言えば、「雨濡れながら」と言う条件まで加えたら、人間が天候を決められない以上、自分だけでは解決できない問題になってしまいます。

つまり、「頭が良い」と言う話も、記憶や計算のようなコントロールできる範囲内では意味がありますが、それを超えた部分ではあまり意味がありません。

社会人に問われることって、超えた領域がほとんどで、電卓やメモすることで計算や記憶はカバーできたりします。

部下を持ち、その中から誰かを地方に異動させることになって、それを誰にするかを決めなければいけないとして、自分ならどう考えて「答え」を出すでしょうか。

例えばAIに相談して、「この人です」と言われて、その理由も聞けたとして、そこで納得できるかがポイントです。

「それっぽい」ことなら、情報や経験で導き出せますが、もっと深い話になると、個別に判断し、時には犠牲もありますし、悪者になることも覚悟しなければいけません。

苦渋の選択だったとしても、その苦渋を受けることになった相手は、その時の判断を忘れることはありません。

それだけ重い決断を迫られた時に、「頭の良さ」で克服できる部分がどれだけあるでしょうか。

そう考えると、本当に頭が良いとは何か分からなくなりました。

とは言え、「頭が良い」と言う認識ではなく、「最も大変な決断をされている」と思う人がたくさんいて、彼らの存在に心強さを覚えて、勇気づけられています。

「っぽい」が多くて、でもよくよく知ると大きな部分を完全にすっぽかしていたりして、「それじゃ意味ないでしょ?」と思うことがあります。

みなさんはどうでしょうか?