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「大人の発達障害」とどう向き合うのか?

 大人の発達障害

大人の発達障害とは、見当識や常識から判断すると、理解できない言動が見受けられるように思います。

こみちは専門家ではないので、介護士としての経験や親との同居で気づいたことをベースに紹介しています。

多分、程度や傾向は異なりますが、両親は何らかの意味で「大人の発達障害」ではないかと思うのです。

母親の場合、「完結」ということができません。

99%までしても、1%を残します。

例えば夜、風呂場の中に専用のスリッパをキレイに並べて自分の部屋に戻ります。

その理由は風呂場や脱衣室の湿気を取り除きたいからで、開け放った窓を最後に閉めるためのスリッパを用意しているみたいです。

ココからが理解できない部分ですが、準備をしても責任を持って完結させるとは限りません。

ふとした時に、「スリッパ出しっぱなしだよ」と妻に伝えたら、「そうだよ」と言って窓を閉めていました。

「いつもしているの?」

「誰もしないでしょう!?」っと。

そんなことが、日常生活の至る所に起こっていて、誰かが片さないと放置されたまま時間が経験してしまいます。

キッチンのゴミ箱の上に買って来た野菜を置くのも、母親にとっては何か意味があるようです。

ちょっと忙しくてということもあるりますが、朝に置いて夕方や夜までそのままで、ゴミ箱を使う人が毎回、その野菜を別の場所に置き直します。

野菜を置く棚も用意しているのですが、「みんなに見せたい」のか、ゴミ箱に置く習慣を変えられません。

父親に関しては、加齢による認知でもないですが、役割を担うことができません。

「ゴミを出す」のをお願いするには、ゴミ袋にまとめて、それを玄関まで持って「ゴミ置き場までお願いします」と、そこまでお膳立てしなければ、確実ではありません。

みんなが寝ている時間に、ササっとまとめて片しておくことなど、できたことがありません。

昼食用に、4人分の目玉焼きを作り、それぞれの皿に盛って欲しいまでできるはずもなく、一緒に「タマゴを4個出そうか?」と声掛けでもしなければ難しい状況です。

しかし、高齢者施設の利用者と比べて、加齢による認知機能の低下があるとも言えません。

ただ、何か完結させることが難しいのです。

お寿司の話

もう随分と前になるのですが、母親がお寿司を奢ると言い出して、ある日の夕飯がお寿司になりました。

妻も喜んでいて、その夜を迎えたのですが…。

値段の高い安いではなく、「奢るから」という言葉に期待してしまっていたので、現物を見て正直、「こんな感じかぁ」と思ってしまいました。

妻も寿司には触れず、ほぼ無言で食べていて、「味噌汁が美味しい」と言います。

二人だけになって、「今度、好きなの買って来ようよ!」と伝えて、「そうだね」などと話ました。

そして、価格は人それぞれなので、どこからが満足なのかは異なる話ですが、二人には「お寿司を食べた」と思うくらいの握り寿司を用意して、それぞれが食べたのです。

妻もそれなりに前回とは違って、「美味しいね」と言っていました。

しかし、両親の反応は、逆に「…」なのです。

もしかすると、前回と今回のネタの違いに価値見出していないのかもしれません。

そんなに値段が高くなったら、もったいないとでも思ってしまったのか。

むしろ、母親が用意してくれたお寿司を2度3度食べた方がよかったのかもしれません。

結局は、価値観が違うのでしょう。

そんな両親とどう暮らすのか?

両親と暮らして、両親には両親の価値観があって、それを守って生きて来たのです。

こみちにすると、ココを改善してくれたら、時々はお寿司だって食べてもらえると思えても、そのお寿司が満足できるものではありません。

食事の提供方法を改め、基本的な料理をこみちが提供し、それ以外は両親で好きなものを買って食べて欲しいということになったのです。

それは出来合いの料理を買う習慣がやめられず、食費が高くなり過ぎているので、金額を抑えるための方法でした。

ところが最近、出来合いの料理を昼に食べて、夜用にかまぼこだのきゅうりだの、買って来るのはいいけれど、「自分たちで食べてね!」と言いたいのですが、これも母親特有の行動で、そこまで準備したことに満足なのです。

きゅうりばかり買って来た頃に、サラダで使ったり、浅漬けにしたりして消費していたのですが、連続で3本5本と買ってしまうので、「もうきゅうりはいらない」と言うと、今度はピーマンやにんじんを連続して買って来るようになります。

結局は、何があると作りやすいという視点に立てないので、安いとか目についたという感じで買って来るのでしょう。

そんな買い物がまた始まったように思います。

説明しても理解や改善はないので、それこそ話しても無駄なのです。

以前、「お肉と魚を買って欲しいと頼んだけど、それをするには難しい?」と聞いて、「そんなことないよ。買って来る」と言ってくれて、一回はできても、2度3度目は元に戻ります。

助けてあげたくても、何をしてあげればいいのか分かりません。

言われるまま、振り回されるように動ければいいのですが、そこまでできません。

理由があってほうれん草を控えていると説明しても、ほうれん草を買ってしまうので、少し放置していたのですが、3袋になったので全部茹でて食卓に置いてみました。

鰹節でも掛けて食べてくれたらいいのですが、「遠慮しないで食べて!」となるでしょう。

「だからほうれん草は…」という繰り返しなのです。

朝、両親がサラダを食べたいということで、カット野菜と肉、タマゴなどのセットを作るのですが、そのカット野菜を買って来ないで、生のブロッコリーを買って来ました。

「カット野菜は?」と聞いても意味がありません。

ほうれん草とは別に、ブロッコリーも茹でて、タッパーにでも入れて置けばという流れですが、じゃあそれを食べるのかというとそうでもなくて、皿に盛って出してないと減っていきません。

だから「カット野菜」なのですが、なぜか母親は完結できないのに、気まぐれでアレンジしたがります。

助けがいると、そこで満足しないで、さらに可能性を見出して本領を発揮させるので、まわりの家族が面倒見切れません。



「天然」が嫌いな「天然」の話

 「天然」と言われても

本物の「天然」は、天然と言われて嬉しくないと言います。

その理由は、その人にとって「天然」なことが「普通」だからです。

オーラを見ることができる人は、オーラは見えるものでしかありません。

なので「凄いね!」と言われても、逆に「見えないの?」と驚きます。

つまり、その人に感じられる世界観はその人には「普通」なのです。

「天然」の世界観

例えば、こんな話があって、「昨日、友だちと一緒に映画館で話題作を観て来た」と話します。

普通の人であれば、いつ?と思った時に「昨日」と記憶を呼び出せます。

誰とどこで何を?と思った時も同じように思い出せるでしょう。

しかし「天然」は違います。

いつ?と思った時に、頭の中で「???」となります。

映画館や友だちと行ったことを覚えていても、それがいつの話なのか記憶にありません。

もっと変わった反応なら、「ネェネェ、キノコって何?」と言ってしまうでしょう。

聞かれた方もびっくりしますが、よくよく聞けば「昨日」が「きのう」で「キノコ」と聞こえただけの話です。

普通の人なら、話の内容から「キノコ」と聞こえても、「きの…」から「昨日」と認識するでしょう。

しかし、その場の状況を踏まえて予測できないと、聞こえた「音」で理解してしまうのです。

「天然」は状況や情報を他の人に比べて整理できないのかもしれません。

興味があちこちに向いて、その時に聞き漏らしてしまったり、何かが気になり過ぎてその後の話を一切聞かないことで、全体を見失ってしまうので、結果的に場違いな言動になります。

しかし、本人は本当に聞いていなかったり、そうだと思い込んでいるので、指摘された時に逆に驚きます。

「そんな話だったっけ?」っと。

大人の発達障害との類似点

知能的には問題なく、でも一般的な反応を示さない大人の発達障害。

特に対人との関係で、「癖」があります。

自身が思うことは当たり前に実行できますが、相手がその場所を使っていたりする時にどんな対応をするべきか、一般的な反応が分かりません。

無言で使い始めたり、何も言わずに諦めたり、あと何分で空きますかと聞くこともできなかったり。

つまり、無制限の時間と空間があれば自分目線で良いのですが、生きていれば他人との関係性が絡むこともたくさんあります。

「天然」の人は、時にちょっと変わった行動をしますが、本人はいたって真面目にしているので、「それ、今しないといけないやつ?」と聞かれて、ちょっと驚くでしょう。

本当に「今」なのかと聞かれて、本人もはっきりと今だとは思っていないけれど、でもいつなのかと考えても答えはでません。

そんな状況を時系列でたどれればいいのですが、場合によっては「怒られた」と処理してしまうこともあるでしょう。

天然と話していて、「明日って言ったよね?」と言ってしまい、「今、できるから」とさらに返事が返って来て、「今じゃ置き場所がないから、明日って言ったよね!」っと。

情報を正確に汲み取れないことで、なぜ時間指定されたのかを聞き漏らしてしまうのです。

それをお茶目と笑えれば場も和みますが、何度失敗したら分かるの?と思ってしまうと天然のやることにイライラします。

父親も母親もど天然

こみちの両親、ど天然です。

こみちよりも器用ですが、「何でそれをそこに置くの?」ということが日常茶飯事です。

なぜしているのかも本人も分かっていなくて、でもやり始めたものの、途中でどうすればいいのか分からずに放置されることが多いんです。

母親は、玄関に自分の靴を出しっぱなしにします。

でも、靴を放置するのではなく隅に何足も並べるんです。

靴箱が空いているのに。

普通なら靴箱に仕舞えばいいだけなのですが、「仕舞う」が抜けて、玄関の隅に並べて邪魔にならないようにしているんです。

本人としては努力もして気も使っている。

でもまわりにすれば、「しまって欲しい」なのです。

階段に買い物袋を置いてあって、「片付けてよ!」と思うのですが、本人にすれば思うところがあるのです。

聞き間違いや誤認、誤解があって、そうなっているのですが、状況を説明されてもそれだけでは認識を変えられないので「階段の登り降りの邪魔になるからここには置かないで」とでも説明されないと、「気づいてくれ」ではことが進みません。

父親に対しては、「食べたら食器を洗って棚にしまって」と、始めるタイミングまで告げないと上手く進みません。

「時間が空いたら」という曖昧さを処理できないので、いつから始めればいいのかが分からないのです。

なので、本人がしたいという時はできても、時間を見て、とか状況に応じてという行動が苦手で、次第にできなくなっています。

それをそのままにしたら、みんなの邪魔になるだろうという視点を持てないので、何でこれを?と思うようなことでも平気で放置してしまうのでしょう。



人生にとって一番大切なものとは何か?を考える話

 図書館で見つけた本

図書館に立ち寄り、司書がオススメの書籍を展示されていた。

残念ながら、タイトルは覚えていないのだが、アメリカのビジネススクールの講師が書いた「人生にとって一番大切なもの」をテーマにした一冊を見つけた。

覚えている概要を紹介すると、作者は講師を務めるスクールの卒業生でもあり、同期生には卒業後に華々しい成功者になった人物がたくさんいたという。

5年おきに開催される同窓会で、そんな彼らのサクセスストーリーを幾度も羨ましく聞いていたそうだ。

しかし、同窓会が5年後、10年後と年を重ねて、出席者が減ってしまったという。

最初は、ビジネスが順調で同窓会にも参加できないのだろうと思っていたらしい。

でもある時に欠席者の理由を知り、それが健康問題に関することだった。

それを機に、ビジネススクールの入学者には必ず「人生にとって一番大切なもの」を話しているという。

若い時は、ビジネスに成功することが最も大切に思うかもしれないが、ある程度の年齢になれば「健康的な体と心」がどれだけ大切なのかと知る。

健康を失ってしまえば、どんなに資産を持っていてもそれを活かす時間はあまり残されていない。

だからこそ、健康である今日に感謝し、精一杯生きてみることが大切なのだ。

そんなことを紹介していた。

本当にそうだと思う。

みなさんはどう思うだろうか?

いわゆる「天然さん」とは「大人の発達障害」なのか?

両親の理解できない行動

父親は、役割を果たすということができません。

それは難易度ではなく、些細なことだったとしても、したりしなかったで、担当者として責任を全うできないのです。

そんな行動に気づいたのは、同居して割と早い段階からですが、母親がそれぞれに担当を決めることに反対し、両親とこみちたちで2当分することになりました。

つまり、できていないことに対して、父親だけを責められないように釘を刺された感じで、実際に家族会議でも父親は体調不良などで出て来ないことが多く、かと言って母親が父親のフォローをしている訳でもありません。

しかも、父親は出来ていないことに心を傷めている訳でもなく、むしろ上機嫌におどけて見せたりもします。

子どもっぽい行動にも見えますが、そんな一面もあります。

一方の母親は、いわゆる「ど天然」で、言葉のキャッチボールができません。

母親から何か話すことはできますが、こちらから話をしても「質問とは異なる話」をします。

なので、母親の話を聞きながら、該当する話題を組み合わせて質問の答えを探します。

実際に診断を受けた訳ではありませんが、「大人の発達障害」と違うのか気になります。

こみち自身も妻には天然だと指摘されます。

ただこみちは自分で天然だと思ったことはありません。

むしろ「どこが天然なのか、具体的に指摘して欲しい」と頼んだことがあって、実際に「その行動!」と言われた時も「どこが?」と思ってしまいました。

自分が天然であることを否定したい訳ではありませんが、正直、指摘されたことのどこが天然なのか理解できません。

妻に「あなた達は一緒だよ!」と言われて、何がどう一緒なのか理解はできませんが、確かにそうなのでしょう。

つまり、こみちには理解できない両親の言動も、相手にすればこみちの考えも理解できないのかもしれません。

真逆な感じがして、なぜそこで片付けないのかとか、やり切れば後が楽なのにと思う時に放置していることが分からないのです。

それでもバタバタしてやり切ればいいのですが、老いてしまったこともあって、時間ばかり掛かって何も片付きません。

「これだけは約束して欲しい!」と頼んだことで、1つとして守ってくれたことがないのですが、両親にとってどう理解しての結果なのかは分かりませんが、例えば「使った食器は棚にしまって欲しい」が守れません。

「あとで洗うつもりだった」とか、「また使うから」とか、そんな言い訳はたくさん出て来て、結果的に棚にしまうことはありません。

シンクに残った食器があることで、例えば料理を始められない時があっても、それで困るということが理解できないのです。

「棚に戻す」が、言葉通りにしか理解できないのか、誰かが困るという想像には至りません。

特に母親はすぐに嘘をつくようになり、していないのに終わったと答えたり、使ったのに使っていないと言ったりして、責められないために作話します。

「知っているよ。したでしょう!」と問い詰めると、笑って誤魔化して謝ることはしません。

すると、急に別の話題を持ち出して、どこどこのスーパーで何が安かったとか、話題を変えようとします。

「そんな態度なら、もう一緒には住めないね!」と言ったら、急に態度が変わって、今度は妙にベタベタして来たりで、どこまでが正常で、そこからが欠陥なのかさっぱりわかりません。

しかし、根本的に改善することはなく、どんなに態度を変えても、両親のやり方は同じなので、食器を棚に戻すことはありません。

脳内で情報がどう処理されているのか、とても気になりますが、こみちとしては大人の発達障害に近いと思うことで、両親の理解不能な言動に無理やりでも納得しようとしています。

そうでないと、嫌がることをして、それでも一切改心しない人間性が分かりません。

話しも気持ちを語ってくれません。

「そんなつもりじゃない」と否定しても、そのあとはそんなつもりにしか見えない行動をします。

だから余計に理解できませんし、歩み寄ることも難しいのです。

最後の片付けをしない両親の性格(大人の発達障害との関係)

 あとコップ半分のジュース

ペットボトルに残されたジュースは、もう一週間前からコップ半分ほどのままです。

父親が母親に「ジュースの予備ってあるの?」と訊ねて、こみちが次に見た時は冷蔵庫に新しいペットボトルが冷やされていました。

そして、今朝になって朝食を作るので冷蔵庫を開けてみると古いペットボトルはそのままで、新しいペットボトルが半分くらい飲まれています。

最近、こみち自身の性格も含めて、「大人の発達障害」について個人的にネットなどで調べていますが、大まかな括りとして「対人関係など距離感」が苦手だと分かりました。

母親は、「大人の発達障害」の特徴の一つ、落ち着きがないタイプで、あれこれと興味が変わってしまいます。

化粧の途中で、掃除をしたり、父親と雑談したり…。

その様子を見て、洗面台に行くと、化粧品が出しっぱなしのままということも珍しくありません。

やっと出掛けたと思ったら、まだ玄関前で何かしていたり、本当に出掛けてもすぐに戻って忘れ物を取りに戻ったりと、ことがなかなか進みません。

一方で、父親は自分視点で考えることはできます。

「やりたいことをどうすればできるのか?」を考えるのは得意なのです。

なので「ジュース、まだあるかなぁ?」と母親に言えば、母親が冷蔵庫の古いペットボトルを確認して「先にこれを飲んだらね!」と言わないことも知っています。

つまり、「あるかなぁ」で古いペットボトルとは違う新しいペットボトルを手に入れられることを経験として理解しているのです。

じゃあ、古いペットボトルはどうなるのでしょうか。

母親は興味が移りやすい性格なので、「処分しなくては」と思えたら何か行動するかもしれません。

しかし、「まだいいか?」と思ってしまうと、あと一週間、一ヶ月はそのままの可能性があります。

以前、母親がご飯を作っていた頃、冷蔵庫の約半分は使われていない食材がずっと入っていました。

数年前のもう食べるにも食べたくないだろうという食材が棚の上や奥に残されていて、「片付けてね!」と言ったりしましたが、結局はこみちが断りもなく捨てました。

「確認してね!」などと言えば、また一週間以上が必要なので、選択肢を与えても活かしてくれません。

ジュースのペットボトルは、1.5リットルのサイズです。

それが新旧で2本。さらにお茶のペットボトル。ヨーグルトが10個以上。梅干しのパックが5つ入っています。

これらだけでも、冷蔵庫の3割から4割を占めていて、加えて出来合いの惣菜パックがいくつも置いてあったりもします。

「どうして片付けをしないのだろう?」

母親に対してそんな疑問を持っていましたが、移り気で状況を認識することが苦手な性格が「大人の発達障害」の特徴と重ねてみると、ある意味でできないのも仕方ないことなのでしょう。

これまで、父親は残り少ない時は、自分で処分したくなくて「我慢する」ことを選んでいました。

しかし、今回の件をキッカケに、新しいものを使って行くことにならなければいいのですが。

例えば、こみちが咳き込み、どう見ても体調を崩してキッチンで料理していても、母親は「自分もして来た」と考え、父親はそもそも相手の様子を把握しません。

以前、父親に「少しはできることはして!」と怒った時も、「じゃあ、好きにすればいいだろう!」と言い残し自分の部屋にこもってしまいました。

状況が悪くなると自室に篭る。

その内に状況は改善されると理解しています。

ですが、段々とこみちも両親に気を回してあげられません。

ここまででも十分だろう。と思うポイントが早くなりました。

夕飯は食材の買い物も料理もこみちが担当する。

朝食の食材は母親にお任せで、作るのはこみち。

でも、母親は、イチゴなど父親と食べているのに、ウインナーもベーコンも買って来ません。

これで、夕飯の食材を使ってしまうと母親は「買わなくても大丈夫だ!」と理解してしまいます。

両親との同居で一番苦労するのは、散らかした状況になっても二人ともそれを片せないタイプだということ。

そして、古いジュースのペットボトルをこみちが片付けても「ありがとう」とは言わず、当たり前のように何もないからこみちがストレスで病んでしまうのです。

加えて、加齢によりさらに判断力が鈍くなっていて、安易な結論を選んでしまいます。

そこに置いてそれを誰が片付けるのかということが、毎日何度もあって、すればするだけ自分たちはそのままでもいいと都合よく理解してしまいます。

突き放してもそのままで、抱え込んでも依存度をさらに増してしまう。

あまりにもタイプが真逆過ぎて、こみちには両親との同居が苦痛なのです。

もしも「エンパス」気質なら…

 youtube で調べていても

神秘的な存在として「エンパス」を考える人がいて、その方が自身のどんなところに「エンパス」さがあるのかを話しているのを聞いていると、こみちは自分が「エンパス」には当てはまらないと思えます。

例えば子どもの頃の体験ですが、バスケのドリブルシュートを習得する時に、その動きに長けた人のプレーを繰り返し見ていると、いざ自分がする時になってすんなりとすぐにできたりします。

共感力が高い故に、動きまで簡単にコピーできてしまうということになるのですが、そんなことが「エンパス」なのでしょうか。

また、光や音に敏感とも言われますが、視界に見える照明の光量をより眩しく感じるということなのでしょうか。

じっとしている時に、照明の明るさを変えていないのに、その空間が部分的に暗く感じたり、逆に明るくなったり、それに気づいて視線を向けてもその時には特に変化を感じません。

スマホ画面の明るさが眩しいということとは違う気がします。

また、人混みが苦手で疲れるとも言いますが、「疲れる」という感覚はこみちの場合、ありません。

あるとするなら、挙動が不自然になったり、冷静な判断ができなくて困ったりするだけです。

なので、普段は外から受ける刺激を完全にシャットアウトし、「自分から」動きます。

歩く時も自分のペースで。

そうすることで周囲のペースに合わせ過ぎないで済むからです。

こみち自身、エンパスな人がどんな人なのか分かっていないのですが、エンパス気質だとこんな特徴があるという説明を聞いていると、また自身がエンパスだという人の話を聞いて、そんなタイプではないと思いました。

共感力が強いという理由で、泣いている人を見るともらい泣きしてしまうこともありません。

自身が想像していない状況に身を置くと、それが理由でドキドキして落ち着かないのはありますが、泣いている人の隣りに座ったのに、そこで明るく笑えないのはみんな同じでしょう。

どうしたのかな?とか、大丈夫かなぁ?とか、気になるのは誰だって同じはず。

笑ってくれたら、やはりホッとしますし、エンパスかどうかで、何が違うのかよく分かりませんが、「エンパス気質」と「エンパス」でも違うのでしょうか。

「気質」は「傾向」みたいに、「雰囲気」や「感じ」なのかもしれません。

「些細なことも気にしがち」なら「エンパス気質」で、根っからのエンパスなら、共感していることも気づいていないのかもしれません。

でも、怒っている人を見て、笑っているとは思わないでしょうし、怒っていたら無意識に観察してしまうのもみんな同じではないでしょうか。

怒りがこちらに及ばないのか気になりますし、どれくらい怒っているのか、それはある程度見れば分かる話です。

本当にエンパスな人を見てみたい気がします。

どんな表情でどんな雰囲気なのか…。

こみちはまだエンパスな人に会ったことがないので、本当のエンパスを知らないんです。


「0」か「100」かではなく、「100」か「それ以外」か

 「少しだけ関わる」というやり方

昨日、近所でも有名な激安スーパーで一週間分の買い物をしました。

以前は母親が担っていましたが、同じ食材ばかり買ってしまい、それでは料理ができないので、こみち自ら買い物に行きました。

肉や魚、野菜など、いろいろ買って7000円の買い物。

帰宅して、肉は小分けにして冷凍したりもして。

その後、母親が冷蔵庫や冷凍庫を何度も開け閉めしている音が聞こえて、チェックされているなと思いました。

以前は冷蔵庫の管理も主婦をしていた母親が担当していたのですが、こみちが関わるようになって、半年近く使っていない食材を片っ端から捨てて、かなり冷蔵庫がスッキリして、他の食材も入れられるようになりました。

でも時々、母親は主婦というプライドなのか、冷蔵庫内を整頓したりします。

つまり、こみちの置いている場所から全く違う場所に移動させたりするんです。

夕飯用に解凍したくて冷蔵庫に入れたものをまた冷凍庫に戻りたりと。

先日は、夕飯にお稲荷さんを作ったのですが、そのために前日の米研ぎで1合分多めに炊いていたのですが、夕飯前にお釜を覗いたらいつもよりもご飯が残っていませんでした。

「今日、お稲荷さん作るんだよ!」

「エエエ、知らなかったから」

説明しても覚えていられないようで、あったら食べるというその場限りの判断で行動しているようです。

実は昨日、大切に使っていたフライパンがあって、夕飯に使ったら内側が傷ついていました。

フライ返しが2つあって、プラスチック製と金属製。

こみちは内側のフッ素加工が傷つかないようにプラスチック製を使っていたのですが、母親は厚みの薄い金属製が好みで、しかも扱いが荒いんです。

「傷つけたでしょう?」と責めても、「知らない」と答えるでしょう。

最近では「半分するから、残りをしてね!」とお願いしても、結局は予定通りにはできません。

夕飯用に買って来た食材の多さを見ると、朝食用のウインナーやベーコンを買って来てねとお願いしたことももう忘れているかもしれません。

少しでも手を貸すと、丸投げして来るというか、同じペースでことが進まないので、終わるまで待っていてもいつになるのか、こちらがヤキモキすることに。

「明日、ゴミ捨てだから、今日まとめておけば?」とでも言えば「時間がない」で動かずに、当日にバタバタして一人で頑張っている雰囲気に。

おまけに父親は寝ても起きてもテレビを観ているだけですし。

介護では自立支援という言葉がありますが、そもそも「自立」していないので、「支援」だけでは済みません。

言ってしまえば、いくつも料理を並べて、好きなものを食べてもらうなら、両親にもできるのです。

しかし、それを時間内に作ることも、食材を買って来ることも難しい話なんです。

もしかすると、こみちが買って来た食材を自分が買ったと思い込んで食べてしまうこともあり得ます。

「食べたって、自分では買っていないよね?」と聞いても、「知らなかった」で終わりそうです。

母親、今日、明日分の朝食用の食材を買って来られるでしょうか?

親との同居で恐れていたこと

 家計を一緒にすると…

生活費を事前に渡して、買い物を母親に担当してもらっていました。

しかし、同じ食材を何度も連続して買ってしまったり、お願いした食材を別の食材で買って来たりと、ここの所、母親の行動に心配していました。

家族会議があって、お試しでこみちと妻で食費の管理を一部担うことになったのですが、妻とは込み入った話ができなくて、ざっくりとした流れだけでの見切り発車となっています。

時折、妻の言動を聞いていると、昨今の物価高を忘れて、4人分の食費を考えているように思えて仕方がありません。

と言うのも、こみちは親と家計を一緒にすることはずっと避けていて、割と倹約なこみちたちと気にせずに使ってしまう両親とでは、使い方が合うとは思えないからです。

無職で家事もしない父親の食生活は、かなり優雅なもので、定期購入している複数の栄養補助食品なども安くはありません。

しかも、それを小遣いで支払っているのではなく、巡り巡ってこみちたちも食費から支払われています。

この手の話で問題なのは、問題の部分がしっかりと全員に認識されて、そこを改善することです。

しかし、ただ食費を合同にしただけでは、父親の無駄を見直すこともできませんし、妻が描いているような金額で収まるとも思えません。

だからこそ、このままの生活状態では厳しいだろうと家族会議になったのに、何だか簡単に解決できるような認識に思えます。

妻に「そんな考えをしていると、ダメだったと答えができるまでに、こちらから20万円以上支出しないとダメになる」と伝えたら、とてもヒステリックに怒り出して、話ができなくなってしまいました。

話はできないのに、方針だけはどんどんと進むという状態です。

母親に朝の食材として必要なものを買って来てと頼んだ所、買って来たのは「ハム」だけでした。

正直、すぐに破綻するのが見えているので、この先の出来事には不安しかありません。

お金の流れを図に書いて説明できれば、もしかすると誤解や誤認に気づてくれるかもしれませんし、もしかするとそれを含めて受け止めようとしているのかもしれません。

本当に頭が痛いです。

老いる親を見捨てないための家族会議のはずが…

 親の行動が理解できない!

買い物を担当する母親ですが、最近の買い物はちょっと偏っています。

「生肉と生魚は買って来て欲しい!」

そんな風にお願いしても、店に並ぶ商品を見て気が変わるのか、味付けされた肉や出来合いのフライなどだけを買って来ます。

なぜ、生肉や生魚なのかというと、翌日分の弁当のおかずも兼ねているので、一品になることが重要です。

しかし、セール品となった出来合いのおかずは、当日の夕方までが消費期限。

そうなると弁当には使えません。

そんな理由や背景のことはこれまでにもずっと繰り返されていて、開封されていないピーマンの袋が2つあっても、買って来た買い物の中にまたピーマンがあったりします。

人参、人参、人参。

ジャガイモ、ジャガイモ、ジャガイモ。

どんなイメージで買い物しているのか、改めて家族会議を開いて聞いてみたいと思ったのが先日の話です。

もう一つの懸念が、両親だけで食べる昼食のこと。

買えるなら好きな物を食べた方がいいのですが、父親は糖尿病を患っていて、服薬していますが食事には気をつけたいはず。

でも、母親は父親が好きな物(揚げ物など)を買っています。

健康的で長生きすることが人間の選択肢ではなく、好きな物を食べられるのも悪い判断だとは言い切れません。

しかし、デメリットを理解しているのではなく、今まで続けて来た食事を今日も明日もしているだけに思うのです。

掛かり付け医から「糖尿病は特に食べてはいけないものはない」と教えられ、「好きなように食べていい」と理解しているようです。

先にも言いましたが、節制することが全てではないのですが、根本的に考えるべきことを考えることが難しくなってしまったのかもしれません。

久々の家族会議でしたが…

まず声を掛けても父親は部屋からもできて来ませんでした。

大切な話だからと母親に起こしてもらったのですが、「起きない」とごねてます。

実際、そんな父親の介護度合いが増すことが一番の課題なのですが、同時に母親も様子も段々と変化しているようです。

こみちが朝夕の食事を作るのですが、食事があるという安心感が母親に出来合いのおかずを買わせるのだそうです。

「じゃあ、好きな物を買って来たら?」というと、「無いと困る」が口癖です。

しかも、母親は家計簿を付けていないので、一月の食費さえ本当に分かっているのか気になります。

ほとんど毎回、昼は500円前後の弁当などに何か惣菜という感じなので、それだけでも金額はかなりのはずです。

小腹空いた時用にと、父親が好きなおやつもかなり買ってあります。

どうしたらいいのかと出した結論が、一度それぞれで好きなように食事を用意しようということでした。

ところが、なぜか今度は買い物をしなくなって(おやつ的なものは買っていますが)、例えば明日の朝、両親の食材がありません。

もちろん、たまごなどで何か用意はできますが、根本的に話したことが理解できていないようにも思うのです。

それこそ、惣菜パンなどを食べるような食事になるか、こみちたちのおかずを食べてしまうか。

食費も毎月手渡しているので、新たに持ち出しで用意するのは大変で、この感じだとこの先もずっとそうなりそうです。

かと言って、両親から食費を預かることになれば、それはそれで大変なのもあって、上手くことが進みません。

しかも最近は妻もその話題を拒絶するので、相談や話を聞いてもらうこともできなくなってしまいました。

全部受け止められればいいのですが、それもできそうに無いので、だからこそ親の介護は簡単ではないのです。

その意味では、介護施設での介護は、経済的にも介護方針としてもクリアされてからのことで、家族が親を介護するのは、そんな大前提がやはりネックになります。

覚悟を決めるか…見捨てるか…

 今朝、妻との大喧嘩から

日頃からストレスが溜まっていたようで、些細な言い方から妻が怒り出しました。

そして、朝から家族で話し合いに。

とは言え、母親を見てもやはり昔とは違います。

そんな様子を見て「もっとハッキリ言いなさいよ! 何も分かっていないでしょう!」とこみちの話を遮り、さらにヒートアップします。

時間があれば、もっと家事をするという母親。

「そればっかり」

確かに時間があっても、もう母親が一定水準の家事をできるとは思えません。

一方の父親。

「話を聞いていて、自分の意見はどうなの?」

そう問い掛けた時の反応が、こちらが泣きそうになってしまうほど、気に抜けた表情でした。

プレッシャーが強くなると、どんどん認知症へと進みかねないと思ったほどです。

年々、状況が悪化する中での今日。

両親を守るのか、見捨てるのか。

本当に切迫詰まって来ました。

何かいい知恵はないものでしょうか。

仕事で家を出た妻にLINEしましたが、全く返事もありませんし。

もしかすると、こんな状況に耐えかねて帰って来ないということも可能性としてはあるのかもしれません。

見かねて親に注意したら「全面拒否」に!?

 人参10本、ピーマン3袋…

買い物を担当している母親に、肉と魚を買って来て欲しいとお願いしています。

昨今の物価高もあるとは思うのですが、同じお肉でもタレ付きなどで、価格が抑えられたものしか買って来ません。

炒め物しかできないと思うこみちもダメなのですが、どうしてお願い通りできないのでしょうか。

耳が遠く、それが原因なのか少し認知機能の低下している母親は、元々の負けず嫌いな性格が変な状況で現れて、「じゃあ、やらない!」とでも言うのか、昨日は父親の惣菜を買っただけで他は買っていませんでした。

みなさんは、人参をたくさん使う料理って何を思い浮かべますか。

カレー、肉じゃが、きんぴら…。

ピーマンになるとさらにレパートリーに困ります。

それを連日一袋ずつ買って来るので、無理矢理に炒め物にしてしまうのですが、母親は父親用にタラコやミニパックの惣菜を何種類も常備しているので、作っても食べないという流れができています。

しかも、両親が先に食事をするので、残り物をこみちたちが食べるのですが。

作った味噌汁も気に入ればかなり飲み、気にいらないと残しているという感じで、こみちだけでは食べ切れないので残りが多くて具だけ食べて捨ててしまうこともあります。

以前は朝に味噌汁を作っていたのですが、鍋を洗いたくないらしく飲みません。

なので夜に回し、用意しておくのですが、最近はいい意味で好きな時に手を出している感じです。

それとは別に、父親が一人でご飯を食べる時、しゃもじを釜に残してあります。

通常は、使ったら洗うというのが習慣ですが、面倒なのでしょうか。

家族それぞれに対等の責任を課してしまうと、父親は逃げ出します。

以前はしていた米釜を洗う作業も、今は一切しなくなり、誰かがしていてもそれを当たり前に思っているようです。

父親には自分だけのルールがあるようで、それに当てはまる時はたとえ誰かが助けを求めていても、助けようと慌てることもなく、いつも通りテレビを見ていられるタイプです。

大人のアスペルガーが多いと聞きますが、ある意味で鋭い部分があり、ある意味では人間性が乏しくも感じます。

一方の母親もまたいわゆる「天然」で、自分の考えで行動するので、場違いなことをしたり言ったりします。

思わず「話を聞いて!」という状況が多く、かと言って黙っているだけで内容を理解していない様にも思うのです。

つまり、結局は元々の性格から自分たちが思うようにしか行動できないので、さらに加齢でできないことが増えるとますます扱いに苦労します。

母親に「もう少し買い物を考えてして欲しい」と伝えたら、昨日から一切買って来なくなりました。

今朝も冷蔵庫を見てため息が出たのですが、父親用の常備食がたくさんあるだけで、使えそうな物がウインナーと生卵だけでした。

朝食として人数分の小鉢にウインナーが2本ずつ。あとは玉子焼きです。

認知機能が低下し始めると、状況の全体を把握できないので、都合よく話を理解してしまいます。

特に被害に合ったという感情は残りやすく、10いいことしても、1嫌なことをされると、嫌な人となることもあります。

疲れました。

だって家族で一緒に笑うってことがないんですよ。

また沢庵を一枚だけ残している!?

 食べたら洗う!?

小さな幸せを集めて、日々を幸福に生きるというのも本来なら悪いとは思いません。

しかし、両親との同居をして気になるのは、タッパーに一切れだけ沢庵を残してあること。

今晩の食事では、三口くらいの冷やご飯を皿に残してありました。

めちゃくちゃ小さな話ですが、朝に炊いたご飯を両親が食べます。

こみちは昨日の残った冷やご飯。

レンチンして食べるんです。

なぜ、三口だけのご飯を残したのか。

1つは空いた皿を洗わないで済むから。

もう一つは、残せば明日は炊き立てが食べられると思っているからです。

妻に「そんな残し方ある?」と不満をこぼせば、「そこまで考えていないでしょう?」と両親の肩を持つます。

「これから食事をするって時に、皿にこれだけ残されたご飯を食べるのかと思ったら切なくなるよ」と伝えました。

こみちが晩御飯を作っている時も、父親はテレビを観ています。

作りたてを両親が食べて、その残りをこみちたちが食べる。

以前は両親用と別々にしていましたが、こっそりと間食していたりして、毎回の食事量がバラバラで丸々残したりもするのです。

こみちが担当していると分かりながら、母親が出来合いのおかずを隠れて買っていて、それを両親で食べていたりもするんです。

「別に食べて欲しいってことじゃなくて、別々でもいいならそうして欲しいんだけど」

そんな提案をすると、「作って欲しい」と母親には言われます。

母親にすれば、食事の用意義務化したくなくて、作ってあると分かっていながら、気分でおかずを買って来たいみたいです。

こみちたち向けではなく、両親用に煮物を作ったとしても。

さっきの食事で、冷やご飯を三口だけ残していたのは驚きました。

これをサラッと済ませてしまうと、次回から二口とか一口とか残すようになりそうです。

それを見た後から来た人がどんな風に思うのかを想像できないんです。

それが悲しい。

自分たちだけ幸せなら、家族が嫌な想いをしても気にしないって。



近づいてはいけない人がいる!?

 人として善人か悪人かではなくて

生活スタイルや性格の不一致というと割と幅広いですが、近づいてはいけない人っています。

それが、こみちにとっては両親なんです。

例えば今から60分の持ち時間と課せられた課題があったとして、こみちはスタートと同時に作業をします。

器用なタイプではないので、一瞬で仕事を片付けられないことも知っているからです。

一方で両親は、その仕事を何分で終えられるか見立てて、前半は何もしないで後半に一気に作業します。

しかし、これまでの経験で、体調不良や急な用事があると、その仕事は未完成になり放置されます。

本来なら、その残った仕事をあとで全うしなければいけないのですが、そこで放置が通ります。

例えば、食器を片付けないのような。

また、掃除機を使って、ゴミが溜まってもゴミパックの交換はしないとか。

できないこと、残った仕事は、みんなこみちに回ってきます。

しかも厄介なのは、「できていない」という認識がありません。

なぜなら、本人としては、予定通りするつもりだったからです。

主観的な立場で考えるので、結果は関係ありません。

ですが、あまりにそれが多くて、感覚的には8割以上も中途半端になります。

しかも注目される時は、何かやりがいすら感じさせる勢いなのです。

「そこだけ何で?」

そんな感覚になりますが、両親の感覚からすれば自然なことで、できていない過去を気にする様子はありません。

特に、一回ではなく、数回でワンセットのようなことでも方法が同じなので、最初を飛ばして結局は未完成になることもあります。

不思議で仕方がないのですが、それも感覚の違いでしょう。

今日も疲れました。

好きな音楽でも聴いて自分の世界に浸ります。

親の介護っていつまで続くのでしょうか?

「理屈で話すのはやめた方がいい」という話

 「正論」も「論破」も前提あってのもの

例えば美味しい料理を食べるとして、レシピや食材にこだわるのは正論でしょう。

意外と切り方や部位によっても食感が変化するので、繊細な部分まで気配りすることも忘れずに。

しかし、そもそも論として「美味しい料理を食べたい」のであれば、「自分で作ること」を条件に加えずに、「食べに行く」という解決策もあるはずです。

その店が高級店なら、その代金を稼ぐ方法を見つけることが、「美味しい料理を食べる」手段にもなり得ます。

ここで言いたいことは、「正論」も前提があるからで、見方を変えると全く異なる答えが見つかるかも知れないということ。

持論を持ち寄って、相手の意見を論破したとしても、やはり前提を覆せば結果は変わってしまうでしょう。

つまり、「正解」というものは存在しても、それを納得し受け止めるからこその話で、自分はそうではないと思えば、どんな正論もその人にとっては意味がないのです。

人はなぜ生まれて来たのか?

自分が生まれた理由や目的を考えても、答えなど見つからないかも知れません。

その理由は、そもそも論として生まれた理由や目的が「自分のため」ではないのかも知れないからです。

にも関わらず、「自分は何をしたいのか?」と悩んでも、その答えは「自分で納得する」他にはありません。

例えば、あと1m避けていたら、濡れずに済んだということがあって、その1mを避けることができるのも生きているからこそです。

「あの丘の先まで行ってみよう!」と思って、実際に歩けるのも生きていなければできませんし、生きているからこそ行ってみることに意味があると思うのです。

しかし、介護士として施設で働くと、どんな人もいつかは老います。

思ってもできなくなり、その内に思うことさえしなくなるでしょう。

それを悲しむかも知れませんが、そうやって老いることでその人生をいい感じで綴じられるのです。

だからこそ、体が動いて、してみたいと思うことがあったら、迷わずに行動してみましょう。

他人の迷惑になることはダメですが、どんなにつまらないと思われても、継続することで初めて発見できることもあるはずなので、要するにやってみなければ分からないということです。

「正論」も前提次第だといいましたが、「つまらないこと」も「つまらなくする」か「楽しいものにする」かは、その人の心の持ちようだということ。

これは、youtube で絵を公開しているのですが、「絵が上手い」から観てくれるのではなく、「続けている」から立ち寄ってくれるように思うのです。

つまり、「楽しく絵を描くこと」がそのチャンネルの存在意義で、活動のモチベです。

義務化されて続けていても、不思議とその雰囲気は伝わるもので、観ていても段々と辛くなってしまいます。

それでは、気楽に立ち寄ることも出来ません。

そんなことを書いていて思ったことですが、人付き合いも同じですよね。

話上手なことやコミュニケーション力の高さが大切なのではなくて、その人なりに接する気持ちが伝わっていれば、他人もその気配りを察してくれるからです。

しかし、分厚い壁を作ってしまうと、何となく声を掛けづらくなってしまうので、気になりつつも距離ができて、やがては別々の場所へと移動してしまうでしょう。

合わない人に合わせる必要はありませんが、最初から壁を作る必要はなくて、でも上手く話そうと思う必要もなくて、「おはよう」とか「ありがとう」とか、そんな気配りさえしていたらいいように思います。

言葉が大切なのではなくて、自分なりの気配りが伝わればそれで十分だということ。

中高年になったら「貫く」という生き方にこだわって欲しい!

 一番に理想は「ニーズ」に応えられること

例えば、「東京大学」に合格すると、その先の人生が明るく開けるとするなら、そこに「ニーズ」があると言えます。

じゃあ「東大を目指そう!」と頑張ることは、確かに正論ですし、達成できれば未来も明るいでしょう。

しかし、そう思って実際に到達できる人は限られていますし、実際にはそこがゴールではなくて、そこから先も同じような試練を乗り越えなければいけないでしょう。

特に、1を聞き10まで理解できる能力がある人も、世間に出れば1を聞いてもできない人もいて、その中で生きなければいけません。

つまり、同じテンポで話が理解されない相手とどう付き合って仕事をして行くのかを真剣に考えなければ、前に進めないということです。

公平で公正な環境は、理想的ですが、実際には学生時代のようには存在しません。

個人的には正しいと思えないことが評価される環境に入ってしまえば、それまでの信念さえ疑うことになり、そのことで悩むこともあるでしょう。

しかしながら、理想は理想であって、自分に合った環境見つけることで、生きやすさも手に入ると思います。

合わない人や合わない仕事を克服し、自身が成長して行くことも長い人生では無駄な経験ではないと思いますが、中高年になったら持ち時間も気になるので、もう少し割り切ってみてもいいように思います。

つまり、少し自分本位に生きてみましょう。

これが好きだと思うものがあれば、そこに生きてもいいでしょう。

もちろん自己中心的であることを勧めるものではなく、若い頃のように「ニーズ」に応えようと言動を選択とは異なり、自分が心地よいと思える生き方もいいんじゃないかということです。


「前、後ろ」!?「横」は?

 ある人の行動

ふとぼんやり、人の行動を眺めていると、前と後ろを行ったり来たりして見える。

「ちょっと聞いてよ!」

そんな時に聞かされる話の多くは、結論が欲しいのではなく、話すことでストレス発散したいだけだったりする。

前に行って、また戻って。

ストレス発散という目的でそう話しているならいいのだけれど、そうではない時でもふとよく観察すると似たような行動になってしまう。

以前、母親の買い物の特徴を紹介したけれど、ほうれん草を食べないのに、小松菜と交互に買い続けている。

こみちは、味噌汁の具に入れると食べられない人が出てしまうから、多くは胡麻和えにして食卓に並べる。

でも、みんな食べない。

だからこみちがどこかのタイミングで一気に食べてしまう。

この前は、味覇と塩コショウ、ニンニク、それにベーコンも一緒に炒めておいた。

父親も母親もそれは食べてくれた。

上手い作れば、また食べたいと思って買って来る。

食べられない人がいるから、ほうれん草の料理は家族の一品ではなく、個別の一品にしかならない。

何度説明しても、時には翌日に「ほうれん草」を買って来る。

ミニトマト、にんじん、ピーマン、きゅうり、しめじ。

昨日も今日も、明日も買って来る。

ピーマンが3袋。にんじんが10本。

野菜室にいつの間にか入れられていて、あれこれと料理に使って消費した。

「やっと無くなった!」

しかし母親の意識は「早く買って来ないと!」。

そして、次の日にはやっと消費した野菜たちが、また購入されている。

つまり、その繰り返し。

少しでも状況を確認する意識があったら、今の生活を変えることができる。

でも、両親の行動が改善されたことは1ミリもない。

言ってしまえば、両親も悪気があってのことではなく、単純に「記憶力の低下」が関係していて、「このタイミングって」と気づけるのは終わった後だ。

買い物で同じものを買わないようにしたいなら、「買うものをメモ」すれば解決する。

でも「メモをする」が習慣化できなくて、何となく買い物に行って、「何があったかなぁ?」と思い、何となく買って来て重複したいることにやっと気づく。

「このパターンではダメなんだ」

そう意識しないと、生活は何も変わらないのに、同じ失敗を何度も繰り返してしまう。

つまり、前と後ろだけを行き来しても上手く行かないので、横にも意識を向けること。

そして横の意識とは、買い物なら事前にメモするようなもので、いつもの行動とは違う意識をさす。

それができるだけで、上手く動き出していく。


「どう生きるべきか?」について

「 人」として生きるなら

我々には、「人」として生きる方法と「人間」として生きる方法の2つが許されています。

両者の決定的な違いは、「人の中で生きる」をどれだけ自身の生き方に影響させるのかでしょう。

ビジネスを始めるために、よく「ヒトモノカネ」と言ったりしますが、その解釈はどうであれ、ある意味で正論ではないでしょうか。

つまり、「人の中で生きる」という視点で考えるのなら、自身の正論や持論はあまり意味を成しません。

むしろ社会がどう動き、だからこそ自身がどう動くべきかを考えなければ、「人の中で生きる」ことは上手い行かないでしょう。

かと言って、社会が全て正しいという話ではないので、ただ従うだけでは「人の中で生きる」ことはできません。

成功した体験や失敗した経験を照らして、何がどこで成功と失敗の分岐点だったのか、しっかりと検証しなければ、この先の結果も社会に翻弄されるでしょう。

大きな社会の大原則を無視すれば、「人の中で生きる」ことはとても単純に見えます。

しかしながら、大きな法則を無視して行う行動は、いつかそのツケを支払う時が来ます。

それを当然と言ってしまえば、そうなのですが、もう少し深く考察すると「あるタイミング」があって、その時に軌道修正できたかがその後を変えたりもします。

つまり、最初から最後まで一点の曇りもないような話は稀で、最初は無知や興味本位だったことも、途中で学ぶことができれば行く末を変えられるのです。

「正しいこと」は何ですか?

そんな質問を社会に投げかけても、多分誰も答えてはくれないでしょうし、仮に答えてくれた人がいても、5年後、10年後も同じ考えとは限りません。

大原則としての「正しいこと」ではなく、一般的な意味での「正しいこと」は、人として生きる限り絶えず変化しているからです。

学歴が個人を社会に導いてくれる!?

いい大学を卒業したからと言って、その人が素晴らしい人とは限りません。

まして、そんな素晴らしい人なら、社会の中で悩んだりしているこみちの前に現れるでしょうか。

これも不思議なもので、出会えるか否かがポイントではなく、忙しい人は自由な時間がありません。

なぜなら、持っている時間を忙しいことに使いたいからです。

寝ても覚めても…。

そんな時代を当たり前に過ごしているので、誰かとたまたま出会うということの方が稀なはずです。

どんなに素晴らしい肩書きだとしても、そこにいるということは何かそうなる流れがあるからです。

こみちが漠然と「こんな人と出会いたい」と願っても、それが叶わないのは当たり前の話です。

どうすれば、そんな人やモノやお金に出会えるでしょうか。

今の自分からどれだけ変えられるのかがポイントで、何を変えるべきなのかを社会から学ぶべきです。

つまり、思い込みでマイルールを延々と繰り返しても、それが稀な当たりで成功に繋がることもないとは言えませんが、何を学ぶべきかを理解して行動している人と比べて「当たり」になる可能性は低くなってしまうでしょう。

まして何も行動していなければ、偶然すら起こり得ないので、夢が叶うこともないでしょう。

確かにこの先、AIが我々の生活を一変させてしまうかもしれません。

しかし、それは「人間」と「AI」の関係で、「人」とではありません。

つまり、我々は「人」として生きる限り、「AI」に生活を奪われることは無いのです。

それはAIの導く正解が、どこまで行っても人や社会の正解にはなり得ないからです。

主観と客観の違いみたいもので、理論的にどんなに正しくても、我々には受け入れ難いことがあるから「人」なのです。



今年を振り返ろう!

 親との同居で気づいたこと

段々と老いて行く両親との暮らしは、ある意味で「諦め」の葛藤でした。

こちらが優しくすると、親も優しさを提供してくれますが、その優しさが望んでいることかは分かりません。

最近、母親の買い物は老いもあって同じものを何度も繰り返し買って来ます。

人参が続いて、今度はピーマン、しめじ。

人参の時は肉じゃがやきんぴらなど、頻繁に作って減らしたのですが、気づくとまた増えているの繰り返しです。

「やっと減らしたいのに…」

「無くなって来たから!」

そして、油や味噌、醤油など料理に欠かせない調味料たち。

全く買って来ません。

油などは、サラダ油、オリーブオイル、ごま油をそれぞれで使うのですが、揚げ物などではサラダ油を使います。

冷凍のポテトを買ってくるのに、サラダ油の残量は全く気にしていない。

これって、全てのことに通じるのですが、「食べたい」は本能で分かります。

「ポテト」は食べたいを具現化して。

でも「だからどうする」という手段を考えることが老いると圧倒的に苦手になるようです。

この前も両親が好きなりんごが冷蔵庫にしばらく置いてました。

普段は放置するのですが、りんごをむいて皿に入れてあげました。

それを不定期で二回。2個残っていたりんごをやっと使い切ったのです。

すると翌日、りんごが5、6個買ってありました。

母親の脳には「買ってくれば食べられる」とインプットされたのです。

つまり、味噌や油を買って来ないのは、普段から料理をしない母親には見えていない食材だから。

そんなものが無くても、「買ってくれば食べられる」と覚えてしまっています。

(年齢という区別ではなく、思考力として)老いてしまうと、手順が簡略化されるようです。

時間的にタイミングを外すとか、先にこっちから始めるとか。

ワンパターンになってしまうので、順番が変わったり、半分だけしたりができません。

「何でそんなに買って来るの?」

そんな話を何度もしたのも、「買う」というとそれしかできないのです。

朝夕の食事を作るのですが、母親は「足りないかも…」っと一品出来合いのものを買ったりします。

今朝で言えば揚げ餃子。

朝からって感じですが、「足りないかも」の答えは朝から揚げ物ということも仕方なくします。

そして、約400円もします。

それを結構な頻度で買って来るので、「足りないかも」の気持ちで月に1万円以上は多く食費が掛かっています。

しかも、家族からのウケも良くないので、「朝から…」という贅沢な無駄と直面します。

母親にすれば優しさの表れなのですが、その優しさの出し方もワンパターン化してしまうので、家族としてはしてもらって嬉しいのか、気持ちを受け取るために流しているのか、とても微妙な感じです。

本当にして欲しいこと(味噌や醤油を買う)は、してくれないので。

今年もそんな葛藤と向き合って来ました。

老いはこれからさらに進んでしまうと思います。

そのうち、買い物を頼むこともできなくなる日が来るでしょう。

だから家族そろって年越しできそうです。

来年は、ささやかでも幸せな日が続きますように。

「生きていたくない」と朝も起きなくなった父親

 ここ数日のこと

特に家事分担を強制されていない父親は、気分次第でお釜のご飯を皿に取り分け、冷蔵庫にしまってくれます。

ある意味で、それが唯一の家事なのですが、できていなければ誰かが行うので、割と自由です。

しかも、どんなにご飯が残っていても、山盛りで皿に盛るので、それをレンチンして食べると米粒が潰れていて美味しくありません。

かと言って、こんな風に盛りって欲しいとアドバイスすると、ヘソを曲げて「やらない!」と言い出すので、家族としては本人の意思に任せているという状態です。

ここ数日、何が原因なのかよく分かりませんが、「生きていたくない」「早く迎えが来て欲しい」と口にします。

父親の立場になれば、足が不自由で糖尿病持ち、仕事もありませんし、家での役割も先に紹介したような感じです。

なので、起きていてもテレビを見て過ごすしかありません。

確かに未来を考えると不安だと思いますし、「生きるのが…」と思ってしまうのも分かる気がします。

ただ、こんな風になることを数年前、いや十数年も前から再々話して来て、だから本当に老いた時にどう生きて行きたいのか、自分でしっかりと考えて欲しいとも告げました。

当時、「わかっている」とか「世話にならない。心配するな!」などと言っていたのですが、やはり老いてくれば先延ばしにしていた結論を急に迫られるようになります。

全身が痛いと朝になると言い出し、夕方くらいまで部屋から出て来ません。

家族が居ないとキッチンなどに来ているようですが、基本的には自室にこもっています。

老老介護の現実

段々と老いて来て、しかも夫婦で互いを介護するという状況になれば、家事や買い物など、日常生活に追われて大変です。

しかも片方が介護になると、その世話までもう一人が行うので一気に大変さが増します。

そんな現実を見れば、三度の食事も食べられて、洗濯も掃除もしないでテレビを見ていられる父親は、他の方に比べて楽だと思います。

「生きるのが…」

そんな言葉さえ出すことができない現実を生きている方々も多いはずです。

楽しみがない。家族の団らんが少ない。

そんなことで、生きる意欲を失っているのなら、老いて配偶者を介護しながら懸命に生きている方の大変さを知るべきです。

しかしながら、父親は負担が迫ると逃げてしまいます。

母親が大腸ガンかもしれないと家族に打ち明けた時も、父親は普段と何も変わらない生活でした。

母親に寄り添うこともなく、病院を調べる訳でもなく、いつも通り自室にこもっていたのです。

寝ている間に状況は過ぎて、忘れた頃に顔を出すのは父親のやり方です。

でも、もしも母親が検査してガンだとなった時に、母親のことや自分のこれからをどう考えているのか聞きたいくらいです。

過去には同じような質問したこともありますが、沈黙だったり、「分からない」と答えたり、父親には現実を受け止める力が無いようです。

でも、老老介護なら、そうなれば頑張るしかないですし、そうなる前に地域や行政にも働きかけることが必要です。

つまり、準備を何もしなければ、どんな手も打ちようがないので、ただうずくまっているだけでは解決できません。

夕方に起きて、夜遅くまでテレビを観て、朝は起きて来ない。

最近の父親はそんな暮らしになっています。

でもある意味でそれで生きていられるのだから幸せでしょう。

意味がないことや酷使していると分かっていながら、それでも自分の健康を差し出して生きている時が誰にだってあるからです。

若い頃とは違い、身も心もクタクタになって1日が終わる。

そんな時に、大きな音量でテレビを見ていた父親をどれだけ羨ましく思ったか。

母親も以前よりずっと早く自分の部屋に戻ってしまうので、リビングに最後までいるのは父親だけになってしまいました。

家族が段々と離れてしまうことに、寂しさを感じているのかもしれません。

でも、受け身の姿勢を崩さない父親の生き方を支えてあげるだけも余力が、家族から消えてしまうのも仕方がないことなのです。


生涯の仕事を決めました!

 生涯の仕事は「絵師」

絵を描くことで稼げるのか?

先ずはその課題に立ち向かわなければいけません。

しかし、時代の変化で変わったことは、いろいろなシーンで感じます。

何より、自分には楽しく、時間が経つことも忘れてしまえる仕事なら、その人にとって生涯の仕事候補でしょう。

それがこみちの場合、絵を描くことで「絵師」になりたいと思うようになりました。

なぜ「絵師」なのか

絵を描くことが楽しいのも理由ですが、両親の介護をするためにもある程度時間的に自由がきくと嬉しいです。

会社勤めなら、いい意味で普段の介護から離れられる良さもありますが、朝夕と食事を作っているので、そこは譲れないポイントです。

今の活動

描くことは、いきなりできるものではなくて、描くものも段階的に変えながら、幅を広げなければいけません。

今は女性の方を描くことが多く、髪などの細かな描写を練習しています。

youtube でも活動し、「こみちチャンネル」を運営しています。

3日か4日間隔で、描いた絵を公開しています。