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本当に話が通じない両親になっている…

 知り合いが「集中治療室」に

こみちの友人が、先々週から入院していて、今も集中治療室にいる。

彼の奥さんから連絡を受けて、ずっと心配していた。

両親には入院していると話したけれど、生命の危険に晒されていることは話していない。

と言うのも、特に母親は彼のことを昔からよく知っているから、万が一でも強い刺激になって欲しくないと思ったからだ。

「もう少ししたら集中治療室を出て、一般病棟に移動できるらしい」

奥さんから連絡が来て、話声も以前よりずっと落ち着いている。

峠を越えたらしいから、「まだ退院はできないけれど…」。

そんな感じの話を両親に聞かせた。

話の途中で父親は話を聞くのに飽きて、途中からいびきをかいて寝てしまった。

「それは心配だね」

そんな感想など父親は思っていないのだろう。

例えばこみちに何か大変なことが起こって、父親に助けてと訴えても、もちろん実際に父親に何かできる話ではないけれど、気持ちとして助けようと心が動くかどうかという意味で、父親は動かないタイプだろう。

一方の母親は繰り返し「病名は何?」と言う。

「だからそれが分からなくて調べているんだろう」

それも同じ繰り返し。

でも「それじゃ、どんな治療をすればいいのか分からないでしょ!」と。

そんな会話をする中で、集中治療室にいる意味を母親も理解できないだろうと感じた。

単なる入院ではない。

強い刺激を避けて欲しくないから話していないとは言え、全てを話しても母親にも現状は伝わらない気がする。

悲観的に受け止めて欲しくもないけれど、両親には毎日が幸せに暮らせていることに感謝して欲しいと思う。

でも、何かから学ぶことが難しくなって、両親は自分が生きていることが唯一なのかもしれない。


悲劇のヒロインに浸る「母親」の人生

 やはり約束は守れないのに

50対50という約束も、次第に70対30になって、その内に80対20になる。

その辺りまで来ると、少しずつ「元の約束はどうなっているんだろう?」と思ってしまう。

その頃から、父親の時も母親の時も残り「20」さえ無くせないかと企むようで、抜けたり、忘れたりが始まる。

そんな時の父親は、決まって「オレは体が痛いんだ!」とか「寝不足なんだ!」と怒り出す。

仕事を持たない父親は、昼間も好きなだけ寝られるのだから、考えなくてもその言い分に意味があるとは思えない。

じゃあ母親はどうか。

母親は見ていないと誤魔化す癖がある。

「20」の部分をしたように見せるのだ。

相手に委ねられない時は、「しない」ことで自身の希望を叶えようとする。

だから、洗うべき物を洗わなくなり、気づけば汚れが目立つようになる。

「洗っているよね?」

あるタイミングでそう確認したくなる。

「何だっけ?」

「ゴメン」とは言わず、忘れたふりなのか、本当に忘れているのか、結果的には「20」ができなくなっている。

母親に、父親の朝食を作って欲しいと頼まれ、「カット野菜とウインナーくらいは買っておいて」と言い続けている。

別にそれらにこだわっているのではなくて、母親から買って来るから作るだけはして欲しいと頼まれたからだ。

それが50対50。

そして今は夕飯の食材を使って、できれば朝食分も賄って欲しいという話にすり替わろうとしている。

と言うのも、父親用の食事は両親が支出しているコスト。

一方で、父親に用意している食べ物は本当にたくさんある。

沢庵は食べやすくカットして大き目のタッパーに入っているし、それ用に買ってある予備も常に2本は冷蔵庫にある。

それ以外に、焼きタラコや味噌和えなどなど、もうご飯さえあれば済んでしまうほど。

でも、母親が父親に与えているのは「愛情」ではなく「物」に過ぎない。

父親は、他人の感情をどこまで察しているのか、こみちにはちょっと判断できなくて、案外大胆な行動を平気で取ったりする。

みんなが躊躇うような場面で、それを平然と行うから、見ようによっては父親はとても頼もしくもあった。

でも大人になって同居して気づいたのは、その大胆さは自分の欲望を叶えたい時に限られる。

誰かのためにするのではなく、「ここでできたら凄いと思われるだろう」と思えた時に行動に移す。

だから、事前の約束のように「できて当たり前」という行動には意欲が出せない。

だから些細なことでも言い訳したり、怒った態度を見せたりで、その場を回避している。

同居してもう十年以上になるが、父親も母親も1ミリも変わることがなかった。

試したけど無理だったではなく、最初からこちらの要望に応えるつもりが感じられない。

残り「20」をいかに間逃れて、相手に全部押し付けられるかだけに見える。

「朝食、作らないと辛いかなぁ」

こみちはそんな気持ちで揺らいでいる。

でも作らない。

これで作ると、この手口をいろんな場面で繰り返し、全部を押し付けて来るから。

無理なことは無理にしておかないと、両親みたいなタイプは、都合よく理解し、自分が得になるようにしか動いてくれない。

それがナルシストというタイプの特徴とも言える。

叶えられないことで悲劇のヒロインになって欲しくはないのだ。

なぜ「父親」は少し不利になると逃げ出すのか?

 ナルシストの気質だけではなくて

父親にはナルシストの気質がある。

格好をつけるという意味ではなく、自分の価値観でしか行動できるタイプを指す。

例えば、自身の仕事に流儀があって、こだわりを持っているからこその自分の価値観だとするなら、それを尊重したとしても非難される話ではないだろう。

しかし、父親の場合、家族で作業を分担し、父親には比較的簡単にできそうなものを予め与えていても、その仕事が全うできない。

流儀云々ではなく、時間が来ても誰かにできていないと言われても、テレビの前から動こうとしない。

でも例えば、アイスクリームを食べようと誰かが言えば、テレビから視線を向けることくらいはできる。

「あげるから、起きて!」

そんな風に言われても、手だけ伸ばして渡してくれるのを待っている人だ。

子どもながら、父親はこれまでよく生きて来たと思う。

「本気を出せばオレは凄い」というのも、父親が自分自身をそう評価しているだけで、現役時代も知識や技術を見つけるために努力していた姿を見たことがない。

「キミ、その仕事ができていないぞ!」

職場できっとそんな指摘を上司から幾度も受けて、結果、仕事が長続きしなかった。

趣味も本気でできる人はやはり凄くて、楽しいこともとことん追求するにはいろんな経験が求められる。

だから父親の趣味はテレビ鑑賞。

番組を観た感想を記録するわけでもなく、一方的に提供される番組をあくびしながら眺めているだけ。

例えば、映画でもドラマでも、「この監督や脚本家は…」と、彼なりの楽し方があれば一日中テレビ鑑賞したいのも分かるが、特に何を求めている様子もない。

知らないスポーツを観てルールに関心持つことも、料理番組を観て作ってみたいということもなく、毎日が過ぎてしまう。

人付き合いが苦手で引きこもる人もいるが、父親はそんなタイプでもない。

ただ、父親自身に何もないから、優しい人もやがて去ってしまう。

タイプとして同じナルシスト気質な母親は、そんな父親にあれこれといろんなものを運んで来る。

「アイスクリーム食べる?」

「少しお菓子食べたら? 小腹空いたでしょ?」

母親にとって、父親が糖尿病でカロリー制限や運動が欠かせないという認識は薄い。

母親の価値観は父親が幸せになることではなく、尽くす妻である自分でいたいから。

冷凍庫には大量のアイスクリームが常備され、甘いジュースも冷凍庫に入っている。

お菓子もいろんな種類があって、父親は食事しなくてもいいくらい果物やらお煎餅やらを食べている。

以前は、少し習慣になっていた散歩もしなくなり、その時に母親に一緒に行けばとも伝えた。

でも母親は母親なりの考えがあってそれには応じず、結局は運動を全くしない父親になり、筋力は落ちたのにまた太っている。

それで膝が痛くて歩けない。家事もできないが始まるのだが、それを聞いて怒る母親にも不思議に思う。

やっていることに一貫性がなく、どうしたいのかが見えない。

多分、母親も何か考えている訳ではなくて、その場で自分が思ったことをしているだけだろう。

最悪なのは、そんな生き方で取りこぼしたことを、子どものこみちに拾わせようとせがむこと。

何もしないで当たり前のように食事をして、好きに食べ散らかして放置する。

まだ父親がそうするなら分かるけれど、最近は母親の方がひどい。

食べきれなかったご飯をラップも掛けずに放置してあって、「これじゃあ乾燥して食べられないよ!」と言えば、「ごめんごめん」ではなく、「おかずにはラップしないのに?」と飽きれた反論をする。

怖いのは、その考えが負けず嫌いからなのか、前後関係がそれだけ把握できないのか。

何か頼んでも、全くそれに答えてくれない両親。

きっと、冷蔵庫の残りには手をつけず、作った料理か、自分で買ったお惣菜で食べるのだろう。

本当に1ミリとて動かないから、互いに連携することができない。

家庭崩壊と言ってしまうのは簡単だけど、本当にこの状況が変だと分かっていないのかとずっと疑って来た。

でも結論は本当に分かっていないようだ。

何もしないと誰からも支えてもらえなくなる。

まわりから突き放され孤独なった時に、自分は不幸な人だと他人を恨むことになる。

でもその結論までに、多くの人が父親にも母親にも手を伸ばしてくれたはずだ。

でもそのことに感謝もしないで今の年齢になってしまったとするなら、二人の人生って何を得る今世だったのだろう。

多分、今日も母親は約束のカット野菜もウインナーも買っていない気がする。

そして朝は約束だから何も作れなくて、それをまた一方的に不幸に思うのだろう。

「これくらいならいいでしょ?」

そうやって段々とルールや約束を無視して、最後は自分の考えだけに生きる両親。

もう学べとは言いません。

どうぞ、悔いなく好きに生きてください。

もうそれしか言ってあげられないです。


「幸福」と「不幸」の境界線

 こみち家の話

こみち家の朝食と夕食は、こみちが作ります。

基本の食材はこみちが週一でまとめ買いして、それを小出しにしながら賄う感じです。

ですが、「主婦」の役割を潜在的に失いたくない母親は、何度言っても買い物をして、いろんな野菜などを買って来ます。

ただ、「コレを買って欲しい!」と頼んでもそれを買っては来ません。

買うのはスーパーで安かったりするもの。

だから、ピーマンを3日続けて買って来たり、キャベツが3玉あったりします。

それでもメニューを考える時に、できるだけそれらの食材を消費させるのですが、両親が食べるのかというとそんなことはなくて、出来合いのオカズを別に買って来ていたりもします。

毎日、朝夕1時間の調理は何だったのか?

好きなものを食べるなら、むしろそれで統一して欲しいくらいです。

でも母親の言い分は、出来合いは飽きるから、作るのはやめないで欲しい。

母親の立場になれば、好きなものを買っておけば、それを調理して出してくれて、しかも食べなくてもいいのだから気楽かもしれません。

ですが、その気楽さを守るために時間を無駄に使うのは、いつも勿体無いことだと感じます。

「美味しかった」

そんな感想があるならまだしも、作っても食べておしまい。

こみちなどは、自分で作っても食べるのは数時間後で、いつもレンチンしています。

だから味見している時が一番美味しいです。

幸不幸って、本当にちょっとしたことで、美味しく食べたらきっと幸福に感じます。

でも、大量に買って来た食材を処理するために毎日同じ食材が続けば、やはり味にも飽きるでしょう。

そして、美味しい料理も嫌いな料理になってしまう。

母親にとって、「主婦」というポジションがとても意味あるもので、でももう料理はしませんし、元々、上手な方でもなかったので、なおさらもう作りたくないのでしょう。

料理を作ることが嫌いな人の買い物は、どうしてもパターン化しますし、その食材で作れるメニューも多くありません。

例えば、今度はハンバーグを作ろうと思っていたら、温めるだけのハンバーグを買って来ます。

「温めるだけだから楽でしょ!」

そんな母親です。

でもそうではありません。

ハンバーグって、添え物も大切で、ポテトを揚げたり、玉ねぎやコーンを炒めたり、ソースなんかも重要で、こねて焼く作業と同じくらい手間が掛かります。

なので、出来合いを温めてそれだけで食べるなら簡単ですが、意外とトータルでは行程の多い料理です。

でもそんな風に作っていない母親には、「こうして食べたい!」が伝わりません。

ハンバーグだけではなく、それがいろんな場面で起こるので、ここはサラッと済ませたい時にあれこれ言い出したり、逆に「ここはこだわらないの?」はあっさりだったりして、結局、お互いに価値観が合わないんです。

これが同じ方向を向いて協力し合えたら幸福なのですが、いつも相手に対して「何で分かってもらえないんだろう?」では、やはり不幸ですよね。


作った夕飯を食べないで買って来たものを食べる両親

 今晩のメニューは…

今晩、両親用に作ったメニューは、炒飯と餃子、インゲンの胡麻和え、味噌汁です。

そしてこみちたちは、冷凍パスタをチンして食べるつもりでした。

しかし、先に両親に食事してもらうと、餃子は1つも食べていません。

どうやら母親が何か買って来たのでしょう。

今、野菜室もいろんな野菜でいっぱいです。

買わなくてもいいからと母親に伝えても、「ないでしょう!」と言っては買って来ます。

母親は自分の価値基準でしか考えられないナルシストのタイプ。

まわりで説明しても、母親の考えは変わりませんし、変わらないことを誇りにすら感じているようです。

インゲンを茹で、明日の米も研ぐので、今回も調理に1時間以上を費やしました。

自分たちで買って来たいなら、そう言っていくれたら何も反対はしません。

両親用にわざわざ作って、結局は全部残される方が後々面倒です。

しかもパスタを食べるつもりだったのに、丸々残された餃子を味噌汁で流すように食べる食事でした。

午後6時に作って、食べるのは8時過ぎ。

熱々の餃子もすっかり冷めて、チンして温かくなったものの、作りたてとは違います。

好きなようにしたいのなら、最初にそう言ってくれたら、餃子を作ることはありませんでした。

何でこんな食事をしなければいけないのか?

両親は、いつも複数の選択肢を欲しがり、その中で好みなものだけに手を伸ばし、後は気にしません。

だから、今回も餃子は1つも食べないと言うことができます。

そんなのが、当たり前ですか?

だから自分たちで作ってと言うと、それは困ると訴えます。

母親が困ると思うのは、「食べるものがない」と想像するから。

でも、こみちに作られて、さらに自分でも好きなものを買って来るということ無駄が、母親には幸福なのです。

無駄ができることを余裕と思っているようで、まわりが振り回されるとさらに満足度が上がるという面倒な性格をしています。



優しさに貪欲でもっともっとを求める体質

 今日は暑いので冷やし中華を作ったわけですが…

いつもの時間になって、晩御飯を作るためにキッチンへと向かいました。

キッチンから見えるリビングには父親が寝転んでいて、テレビのチャンネルを変えながら退屈そうです。

流石にエアコンを使っているのは助かりますが、ナルシストな父親なので、スイッチをつけたり消したりを繰り返しています。

設定温度や風量、風向を調節することができないのか、ちょうど吹き出し口からの風が当たる父親なので余計にスイッチイジってしまいます。

キッチンに立っていると、火を使うので汗もかきます。

「大変だろう?」

そんな感情は父親にはありません。

そして、遅れて帰宅した母親もリビングに現れて、「表は暑かった」と父親に言います。

ですが、こみちがキッチンで火を使っていても、全く気にならないのは変わりません。

期待していませんし、変に手を出されても面倒なので、仕方がないことになっています。

数日前、両親用に作ったパスタを残し、少ない冷やご飯を温めて食べていた両親。

昨日豚バラを使った野菜炒めとお稲荷さんでしたが、好物のお稲荷さんはたくさん食べていました。

「美味しかったよ」「いつもありがとう」

両親からはそんな言葉はありません。

家族だから当たり前。

助けられたことに対して、いつもそう思っている感じです。

汗だくになって冷やし中華を作っても、やはり二人の考えは全く変化無しです。

一般的に、世の中はギブアンドテイクなので、何かを求めるなら何自分にできるかを考えなければいけません。

しかし、今の両親は特に、自分たちの私用とみんなに関係することが同じ感覚で扱われているので、父親は自分が風呂に入ったことを義務を果たしたつもりになり、母親は買い物することが義務になっているのです。

野菜室に、きゅうりが10本。

ここ連日、増えています。

そしてジャガイモに玉ねぎなどなど。

「買って来なくてもいい」

母親の負担を考えてアドバイスしているのではなく、家族4人では捌き切れないくらいの量を次々に買ってしまうのです。

優しさはもう伝わらず、伝わったとしてもそっと感謝する程度。

受け身でされることを望む気持ちに変わりがありません。

50対50を望んでいるのではなく、ギブアンドテイクを目指したかったのですが、父親も母親も基本的にナルシスト気質なので、自分基準でしか行動できません。

甘い菓子パンをこみちに買って来る母親には、「お菓子」的なものが優しさなのでしょう。

湯煎して食べるとうもろこしを冷蔵庫に入れて満足するのも、父親がそれをレンチンすると思うからです。

とうもろこしはもう数ヶ月、食品棚に置いてあって、それと同じものをこみちが提供した時に、父親は美味しくないと言いました。

だからこそ、そのままになっているのを知っていても、買い続ける母親のためにも提供しないで放置して来ました。

かと言って、母親は冷蔵庫に移動しても、レンチンして父親に提供することはしません。

多分、父親は一人にならない限り、自分から動くことはしません。

そして母親は、助けられることに当たり前を感じ、感謝することが出来ません。

「人様にはありがとうって言うよ。家族だから」

母親はそんな風に言いますが、「ありがとう」って家族と他人でそんな区別されるものではなくて、嬉しいから「ありがとう」と伝えたくなるもの。

でも母親には、マナーや礼儀のようなもので、だからこそ、ありがとうともごめんなさいとも言いません。

なのに、買い物だけは続ける母親。

そこには変な彼女なりの基準があるようです。

冷蔵庫を漁るように何度も開け閉めしていますが、常々お願いしている朝食用のカット野菜は2日も買って来ません。

今朝も、ウインナーに目玉焼き、きゅうりのスライスにトマト、ブロッコリーを人数分作りました。

それをすると、母親はますますカット野菜を買って来なくなります。

理由はどうにかしてくれると思うからです。

なので、惨めだろうと手を差し出すと、もうそれが当たり前になってしまうのが両親です。

欲しがる癖がどこまでも抜けないので、搾取されている感覚だけが残ります。


そもそも役に立てない父親の存在

 昼間もリビングで怒っていたようですが…

1日中テレビの前でゴロゴロして、その態度を母親に指摘されて、「こっちは体が痛いんだぞ!」と怒ってしまう父親です。

めまいがするとか、膝が痛いとか、現時点の状況で判断すると父親の疾患からそうだろうなと思うことはあります。

ですが、なぜそうなったのかと言うと、基本的に自己責任の話で、特に糖尿病に関することはもう十数年前からいろんなタイミングで助言されて来ました。

特に膝に掛かる負担を減らすには、体重を増やさないことが大切ですが、運動はしないし、日中も好きだけオヤツがあって、その結果、足が痛いと言われても、「そりゃそうでしょうね」としか言ってあげられません。

例えば、こみちだって、頭が痛いとかあります。

でも朝夕の食事を作るのは義務だと思っていて、それは帰宅する妻の心配を減らす目的も含まれます。

疲れて帰宅したのに、家でケンカしていたら楽しくありませんよね。

こみちとしては、心配させない気持ちと、両親の理解に苦しむ言動の狭間で揺れて、できるだけ料理を作ります。

今晩の予定は、野菜炒めと餃子、お稲荷さんとジャガイモと玉ねぎの味噌汁でした。

しかし、キッチンに行って気持ちが変わり、野菜炒めの食材を減らし、5分で作った一品だけで自室に戻ってしまいました。

理由は帰宅した母親が寝転んでいた父親に買い物したものを冷蔵庫に入れて欲しいと頼み、また出掛けてしまった結果です。

楽しくテレビ鑑賞していた父親が舌打ちをして、その態度母親もササっと出掛けしまいます。

そして、大きなため息をついて父親がしたのは、買い物袋ごと蓋つきのゴミ箱の上に置くことでした。

料理中もそのゴミ箱を使うのは誰もが知っていて、買い物袋をそこに置くことがどれだけ作業の邪魔になるかも分かります。

何より父親はまだその関係を察することはできるので、自分がした行動によって結果が上手く行かないことを何度も繰り返し知るしかありません。

「この行動がダメ」をナルシスト気質の父親が理解するのは容易ではありません。

特に、自分のためではなく、家族のために買い物したものを冷蔵庫に入れるのはナルシストが苦手とすることだからです。

では母親ができるのかと言うと、案外そうでもなくて、昨日もラップした皿を数枚重ねたりして、一番下の料理は潰れてしまっていました。

そうするしか収納方法がなかったのかと言うとそんなことはありません。

でも母親は自分で洗わない時に限って、油で汚れた食器を重ねたりして、洗う人の手間を増やします。

「そこで重ねるのって意味ある?」

大昔にはそんなことも質問しましたが、母親の行動は父親に似ていつも自分基準で思った通りです。

それで上手く行くこともありますが、ミスになると繰り返してしまいます。

多分、父親は「アレ、料理が止まっている」と思っているでしょう。

だからと言って、買い物袋が邪魔になったことを自分で解決することはできないでしょう。

母親は父親の状況を理解しないで、「冷蔵庫に入れて」と頼むのですが、ある意味で段々とそれさえも父親には難しくなっています。

冷蔵と冷凍の区別も曖昧ですし、野菜と肉、魚をどこにしまえばいいのかもそもそも覚えていないからです。

結局、父親は老化も含めて何か頼まれたことを滞りなく完結させられません。

それを理解している母親さえも、「頼めば側にいる誰かがフォローする」と思っているのです。

父親と母親と暮らして、もう笑えなくなってしまった背景には、依存体質が段々と面倒に感じるからです。

頑張っている雰囲気を出す割に、やっていることはいつも中途半端なので、まともに付き合っていると全部をフォローしないといけません。



家族の崩壊はある日突然に起こる

 これくらいなら…

「これくらい大丈夫だろう」

約束を破ったり、相手の利益を奪ったり、両親とこみちの間には、価値観の明白な違いがあります。

イラっとすることが起こり、話し合いで解決したいと思ったこともありますが、両親はナルシストというタイプ。

相手に利益を尊重することができません。

自分のしたいことは誰の利益と重なっていても、全く気にしないのです。

夕飯を作る時間になり、キッチンに行くと、父親はダイニングテーブルを占領し、自分のしたいことをやめません。

母親も家にいて、その時間にこみちが使うことを知っていても、父親には何も言えません。

なぜなら、母親の価値観が頑張っている父親は偉いと心の底から思っていて、意味あるかどうか、誰かの邪魔になっていないかどうか、そんなまわりのことよりも、父親は偉いが最優先されるからです。

今更、そんな考え方を否定するつもりはありません。

ただ、ダイニングテーブルが使えないなら、夕飯も作らないというだけです。

料理をしないと言っても、明日の米を研いだり、湯を沸かしたり、ゴミの後片付けなどなど、こみちが当たり前のようにしているのは変わりません。

こみちがごねたとしても、だからその日だけは母親や父親が代わりに済ませるという考えはもう彼らにもなくて、全てを放置し放棄することしか出来ません。

必死で守ろうとしている日常生活が、空しく思えてしまいます。

なぜって、自分が頑張っても誰かが協力していくれる訳では無いからです。

明日には、ダイニングテーブルを占領し、これが理由で夕飯を作らなかったことも覚えていないでしょう。

むしろ、こみちが勝手に作らなかったくらいの記憶に置き換わっているかもしれません。

助けられていることに慣れすぎて、感謝さえしなくなった両親。

かと言って、些細な抵抗をしても、それを理解するだけの気持ちもないでしょう。

家族が互いを信頼できなくなるタイミングは、もうダメかもと思った時に起こるので、意外と呆気なく崩壊してしまうでしょう。


父親との会話、母親との会話

 隣りの愛犬の話で

普段、テレビの前を陣取り、そこで1日の大半を過ごす父親。

なので話題も限られます。

天気か、プロ野球か。

それで「あのさぁ、隣りの犬、名前何だっけ?」

庭で草刈りをしていた時に久しぶりに遭遇したこともあって、父親に名前のことを質問したんです。

「金太郎」

「それはウチで飼っていた犬でしょう!」

「そっかそっか、龍馬だったなぁ」

「それは向かいの犬でしょう」

すると父親はもうテレビを見ていました。

興味がなくなったようです。

別に名前を知りたかった訳ではなくて、「そうそう、さっき草刈りしていたら寄って来たんだ」と些細な出来事をキッカケに会話したかったんです。

でも、まさかの思い出せないという流れになって、会話もそこで終わり。

母親も相変わらずシメジと玉ねぎ、じゃがいもを連日のように買って来て、玉ねぎは悪くなり始めていろんなおかずに入れて消費しているというのに。

話しても分かってはもらえないので、わざわざこに手の話もしなくなりました。

両親と普通に話せる話題が見つからないんですよね。

母親がボケ始めている!?

 ナルシストの父親と母親

ここでいうナルシストとは、心理学的な意味で、「価値基準が自分にしか無い」タイプの人を指しています。

例えば、自分は全く興味がないことで、でも誰かがとても熱心に思っているような時に、特徴的な行動が見られます。

それが無関心です。

「楽しそうだね」とか「どう楽しいの?」と言葉が出ることではなく、相手の興味に寄り添う意識があるかがポイントなのですが、ナルシストはそれが特に苦手です。

ナルシストな父親は、都合の悪いことがあると寝たふりをしたり、体が痛いからできないと言い出したり、逃げるためにはどんな手でも使います。

例えば、自分が逃げた時に、代わりに誰かがその面倒を被るとしても、父親は特にそれで行動をやめたりしません。

つまり、「嫌だな」という価値基準が全てなので、父親は誰がその後に困ろうとも関係ないのです。

一方で、母親はそんな父親に寄り添うフライングモンキーで、価値基準が自分にしか無いのは同じですが、違いはナルシストである父親を守ることを価値としています。

父親が逃げるために、母親は使命感を持って頑張るのです。

「可哀想でしょ?」と。

でも母親も父親の代わりをするのかというと、守ることが価値であるだけで、負担が他の人になっても気にしません。

こみちが苦労してもそれは価値基準外なので、母親は無関心です。

買い物を頼んでもそれを買って来ないで、勝手に別の物に変わるのも、母親としては良かれと思っての自己判断です。

ですが、他人の気持ちを理解できないので、買って来て欲しいと思っている商品を買ってあげようとはならず、自分が買いたいなら買うという基準になります。

徘徊してしまう高齢者の心理に近くて、「早く会社に行かないと」「家で家族が待っている」と、そんな気持ちに満ちてしまい外へ出てしまうのに似ています。

「何かしなければ」というのは、母親の優しさでもあります。

ただ、段々と優しさが自己判断に偏りが出て、「こうしないと」というワンパターンになって、家族が嫌なことでも繰り返します。

そうなるとやめさせることがとても困難で、注意してもお願いしても、数日後には忘れてまた同じことを始めます。

他人がどう思うのかよりも、自分がどう考えるかだけで行動するので、今以上にボケてくると頼んだ買い物ができないどころか、何をし始めるか分からないので、父親以上に大変になりそうです。

何が起こっているのかが伝わらない!

都合悪いと丸まる父親、訳が分からずウロウロする母親

気持ちを切り替えて、遅くなりましたがキッチンへと行きました。

全く何もされていないので、炊飯器のお釜も洗ってはくれません。

湯を沸かして麦茶を作り、お釜を洗い米を研いで明日の用意。

そこから食器を片付けてようやく料理になるのですが、冷蔵庫にはピーマンとキュウリがもう買ってあります。

キャベツがまだ2玉あって、ジャガイモも2袋。

玉ねぎは少し腐り始めていたので、積極的に消費します。

とは言え、まだ昨日の冷やご飯が残っていて、でも昼はやはり弁当を食べているみたいです。

まともに処理していたら、食べ切れないのも事実ですし、使えば使っただけ急いで買って来る母親なのです。

「もう買い物はしなくてもいいから!」

理由を何度も告げていますが、なぜかそれを止めることができません。

むしろ、母親としては、いろんな食材があることに豊かさを感じているところもあります。

でももう全く料理をしませんし、少なくなっているミリンやサラダ油は全く買って来る様子もありません。

不足分を確認して買い物していると言うよりも、主婦として「買い物」していたいという感じなのでしょう。

昨日、やっと消化できたキュウリなのに、もう今日には5本も買っています。

漬け物類もたくさんあるので、浅漬けなどで消費も出来ず、少しずつサラダに使ったり、冷やし中華で使ったり、やっと使い切ったのですが。

事情を話しても、もう理解できないというか、翌日には記憶が曖昧になるみたいで、母親が思うようにしか行動できません。

出来合いのオカズもまだ冷蔵庫に入っているので、今日使った料理もほとんど手をつけないでしょう。

なのに、「無いと困る!」という母親。

用意されているからこそ、追加であれこれと買ってしまうみたいです。

これでは食費を抑えるために作っている意味がありません。

無駄なのに何も変えられないんです。

しかも今から風呂に入るらしく、食事は8時になってしまうかも。

その後にこみちたちで、さらに後片付けもするので、一段落つく頃は10時近くになってしまうでしょうか。

そして3時過ぎには起きるという生活。

たまに6時くらいに起きて来て、でも起きて来てもそれはそれで邪魔だったりで、何とも複雑な気持ちです。

あと数年だと思いますが、本当に介護が始まった感じです。

思っている以上に深刻かもしれない

 エンパスなタイプの欠点

まわりの雰囲気に流されやすいエンパスな気質のこみちは、他人に従順ということではなく、無意識のうちに感じ取った「でなければ」という自己暗示に束縛されやすいんです。

なので、場の雰囲気が悪いと感じてしまうと、そこにいるだけで気分も落ち込んでしまいます。

ケンカの場面や言い争う場面などは、できる限り避けて通りたくなってしまいます。

こみちがエンパス気質がどうかよりも、そんな状況がとても苦手なことがこみちの克服できない欠点です。

嫌になったらもうリセットはできない!?

一晩寝たら、嫌なことも忘れてしまえるタイプの人が羨ましいです。

忘れようと思って、意識を逸らしていると、こみちだって忘れられることがあります。

でも、あるタイミングになると、「あの状況だ!」と感じ取り、さらにはその時の気持ちまでも一瞬で甦り、過去に思った感情に染まってしまうんです。

気づかなければいいのに「アレ?」と違和感を覚えて、最近ではできるだけ考えないようにするのですが、無意識に小さな確認を施してしまい、感覚が事実へと変わってしまいます。

同居中の両親との信頼関係はもう破綻している!?

信頼関係をどう解釈するといいのか分かりませんが、「嬉しくない」という感覚をもう心が覚えてしまっていて、楽しい気分だったとしても、その一瞬で萎えてしまいます。

もう強い自己暗示に掛かっていて、そこから自分を解放させることができなくなっているようです。

自身の役割(両親用に作る夕飯)ですが、母親は冷蔵庫を意味なくいじるのが癖で、こみちが用意していてもそれを自分の思うように移動させたりして、その度に注意したり改善を求めて来ましたが、やはりそれを直すことができません。

いつもの予定時間にキッチンへと向かっていたら、母親が冷蔵庫をしばらくあさっていて、予定時間も15分以上も過ぎてしまいました。

それでは予定していた献立の仕込みが出来ず、急きょメニューを簡単なものへと変更しなければいけません。

それが段々と落ち込みへと変わり、キッチンへ行くのが段々と嫌になっています。

我慢するしないではなく、心が覚えていて、どうすることもできないんです。


「したい事」と「してもらう事」の区別

 最近の話

父親も母親も、いわゆる「ナルシスト」と言う特性です。

価値観が常に自分基準にあって、したい事はしますが、他者から言われたことはしません。

する時は、したい事になった時だけです。

朝夕の食事

こみちは昔から料理を作ることが苦ではありません。

誰かのためなら、自分が食事を終えていてもキッチンに立てる方です。

だから、億劫になっている母親に代わってキッチンに立つのですが、いやいやしている訳ではありません。

例えば、唐揚げを作るとしても、この調理方法が美味しそうだと思えば、事前に手順を調べて確認し、食べてもらった感想をよく聞きます。

美味しいと言ってもらえたら、今後のレパートリーに加えているので、ますます料理が楽しく思えます。

ですが、いつもの時間にキッチンへ向かうと、そこには父親の姿があります。

母親から頼まれた父親の好きな作業があって、父親は母親に「上手にできるね」と褒めて欲しいのです。

だからそうなると、時間守ることよりも「できた」と言う事実が優先され、作業をやめようとしません。

両親の夕飯が6時から始まるので、仕込みや片付けを含めると、4時半にはキッチンで作業したいと思うのです。

ですが、その時間を過ぎた今も父親は作業を続け、一緒にいる母親も何も言いません。

5時過ぎに様子を見に行きますが、時間が短くなった分、献立を変更し、時短でできる物にします。

あれとこれとと考えていましたが、仕方ありません。

キャベツの外側の葉を剥く作業

これは昨日の話。

キッチンに行けば、キャベツがシンクの調理台に置いてありました。

その意味では、今朝は大根があって、多分、そのまま置きっぱなしでしょう。

キャベツの外側の葉を剥くと生ごみが出ます。

それを母親が事前に処理してくれたと言う事ですが、作業をし終えてこみちが見える場所に置いてあるのは褒めて欲しい母親のアピールです。

「凄いね。ありがとう!」

そんな言葉を期待しているのですが、キャベツの葉を剥いて、それをまとめて置くことが作業的にどれだけ大変なのかと言う意味で、普段はこみちも当たり前にこなしながら料理をしています。

逆にそれを母親に褒めたとして嬉しいでしょうか。

数枚を剥いて置く作業がどれだけ助かる話か。

逆にシンクに置きっぱなしにされて、それを片す方が面倒なくらいです。

使う時はまた表面の葉を気にするので、使う前から剥いてもあまり意味がありません。

でも、母親はナルシスト。

彼女の価値観があって、それを基準に物事が進みます。

つまり、「したい事」だけがあって「してもらう事」は見えません。

「料理を作ってもらう」と言うことも、「料理したがっているから…」と言う感覚に近く、だから父親が夢中で作業していると、その作業と料理の優先順位がつかないのです。

時間が来るまで、ウキウキして待っている訳ではなくて、こみちもこみちで個人的にしたいことを調整し時間を合わせています。

だから、作業スペースが空いていなければ、何もしないで待つことは時間がもったいないと感じて、別の作業を始めたりします。

予定が変更されることになったのも今回だけではありません。

もう何度も繰り返されていますが、両親は自分基準の考えをやめられません。

準備していて、それができなくなったら、モチベーションは下がりますし、とりあえずと言うやっつけ仕事ではやり気も起きません。



「昭和」も歌謡を耳にしなくなった理由を考えてみた話

 30歳がとても大人に思えた「昭和時代」

最近になって、「大人」とはどんな状態を指すのか考えました。

と言うのも、若い世代の方々の活躍する様子を見ていると、羨ましくあり、夢を掴んで輝いて欲しいとも思います。

こみちも大人の仲間入りをして、段々とできなくなることが増えて、でもできることに喜びを感じながら毎日を過ごしています。

そんなこみちが思う「大人」とは、令和と昭和でもかなり違っていて、それが何から導かれているのかと考えました。

昔、ある小説に「若者は誠実でなければいけない」と大人が話す場面がとても印象に残っています。

今、その言葉の意味を、公平さ、平等性、などなど、若者には与えられるべきで、だからこそ頑張れば報われる世の中であって欲しいと思いました。

と言うのも、大人というか社会に出れば、正しささえも曖昧で、時に誠実であることが嫌厭されることもあります。

ただ、いろいろな正解がある時代に、これが唯一の正解と考えることは難しく、だから誠実をモットーに生きる若者は社会で戸惑いながら、段々と大人になるのでしょう。

一方で、昭和は令和の今よりも不便でした。

情報も少ないですし、何かしたいと思ってもその手段が分からないこともあって、確かに公平さは保たれていたのですが、可能性は今よりもずっと少なかったように思います。

例えば、駅で誰かと待ち合わせするにも、場所と時間を間違えたら、出先で偶然に会うことは奇跡かもしれません。

待ち合わせ場所の表と裏を間違えて、会えないまま…そんな別れだってあったはずです。

運命がちょっとしたタイミングで変わってしまう。

だからこそ、その時代に生きた人たちは「縁」を大切したのかもしれません。

今、昭和の歌謡曲を聴くと、懐かしさもありますが、今の時代にはそぐわない悲しい別れもあったりして、出会いや別れが随分と様変わりしてしまったように感じます。

不便さにある幸福、便利さにある豊かさ。

どちらの時代がいいのかは分かりませんが、それぞれに色があるように思います。


「やっぱりできない」と言う現実

母親、 「米」を買い忘れてしまう

母親にお願いして、朝食用にウインナーとカット野菜を使います。

それは両親用に用意するもので、だからその食材は母親に任せています。

ウインナーや野菜を買い忘れることも多く、「もう作らなくてもいいの?」と言ったりするのですが、母親は頑なです。

でも買うのを忘れたりするので、ゆで卵や夕飯用の食材を小出しにする時もあるのですが、それをすると余計に買って来なくなるのもパターンです。

ウインナーは買って来ないのに、父親と二人で食べる昼食用の弁当や惣菜は買って来て、食べきれないとそれを夕飯に出して来ます。

父親は糖尿病なのですが、甘いジュースも常に用意してあって、アイスクリームも箱買いしては一人で食べています。

甘いものを欲しがるのは病気の特徴で、そこから腎疾患や失明を考えると、食事には今まで以上に注意しなければいけません。

栄養管理まではできていませんが、肉と野菜、魚などをバランスよく食べられるように、調理方法や油の使い方には気を使います。

でも、そんな気遣いが両親には届いていません。

野菜炒めを作り、野菜をたくさん食べてもらおうと思った時に、母親は作っているのを知りながら揚げ物をたくさん買って来て、食べ切れずに冷凍すると言うことがあります。

そして、冷凍された食品がいつ解凍されて消費されるのかというと、もう次の日には別の揚げ物を買って来たりします。

好きで買うのなら、もう糖尿病だよと言う話はしていません。

言っても分からないので。

さらに、米を買い忘れることが起こりました。

毎日、父親と食べる弁当やお菓子などは忘れません。

それが一番の楽しみになっているのも分かるのですが、他のことはできなくなっています。

何もしない父親ですが、この前、食器を棚に戻していて、感心したのですが翌日はもう前のままでした。

結局、「したいからする」と言う行動は同じだったみたいです。

今、冷蔵庫の野菜室に逆さまになったプリンがあります。

多分、父親が入れたのだと思うのですが、母親がなぜ最後に確認しないのか不思議なんです。

母親にすれば、父親にも家事を任せたいのでしょう。

でも、やはりできません。

こみちもそうですが、母親も自身ができていないことを認識していないのでしょう。

だから父親ができていないことにも気づけないのです。

要冷蔵の食品をテーブルに置きっぱなしにしてしまう母親ですが、パッケージを見て確認せずに、思い込みだけで家事をしています。

野菜の置き方は覚えていて、でも見慣れないものは雰囲気で置いてしまう。

父親の場合はその経験も少ないので、野菜室にジュースもプリンも入れてしまう。

しかも逆さまになったしまうとプリン見た目が悪くなることも想像できないのです。

だから、食べたくなる食事ではなく、食べられればいい食事になってしまいます。

流石に米が家からなくなってしまうとは思いませんでした。

1秒後に忘れてしまう両親の記憶

 記憶が残らないのか?

母親にお願いした朝食用のウインナーを、全く買って来てくれません。

でも昼食用に自分たちの弁当を毎日買って食べているんです。

こみちが何故それを知っているのかと言うと、弁当のパックが置きっぱなしだからです。

記憶がすぐに失われてしまうとして、でもこみちが弁当のパックを処分していたら、両親はどう思うでしょうか。

自分たちの分を…。

実際には、全く状況が分かっていません。

自分たちの後片付けを押し付けても、気にならないし、感謝もしません。

多分、両親にすれば、自分たちの弁当なんだろうと思っているくらい記憶が残っていないようです。

先日、両親を心理学上の「ナルシスト」と紹介し、その性格は己の価値観しか持っていないと紹介しました。

弁当を買うことは、自分たちの判断ですること。

でもウインナーを指示されて買うのは相手に従うこと。

買うと言うのは同じですが、ナルシストの人は他人からの指示を嫌います。

かと言って、自分から歩み寄ることもしないので、結局は自分が思うままにするしかありません。

でもウインナーをお願いしたと言っても、それをこみちが食べるのではなくて、一袋5、6本両親2本ずつ、残り1本か2本を妻用にしています。

でも、自分たちに大半が使われていることも気づかないと言うか気にしないので、優遇されていることに無関心です。

だから、感謝をしません。

妻が出張でお土産を渡した時に、「ありがとう」と口にした母親ですが、「貰うんだからそれくらいはする」と感謝した理由を説明していました。

得だからする。損するならしない。

わかりやすく考え方ですが、全体で損得を考えるならまだしも、細分化した部分でも損得勘定をするので、先に得したらあとは知らん顔ができてしまいます。

かと言って、最初が損なら見向きもしない。

結局、何もしない人たちなんです。

作った味噌汁、鍋に一人分くらいしか残っていませんでした。

食べない時は飲みきれないくらい残していて、少しセーブして作ったら、後も考えないで好きなだけ先に飲んでしまう。

その全部が当たり前に思っているから、両親と暮らすのは疲れてしまいます。

心理学上の「ナルシスト」は感謝しない!?

 「ナルシスト」な両親と同居する「エンパス」な息子

ここでいう心理学上の「ナルシスト」とは、世の中の判断基準が「自分」にしかない人を指しています。

一方で「エンパス」は、意図しないのに周囲に影響されて自己を見失ってしまう人と考えています。

家族の約束として、朝食に使うウインナー、又はベーコンとサラダに使える食材を用意してくれたら、こみちが両親用に朝食を提供しています。

菓子パンを買って来たり、冷凍食品を買って来たり、他にも安かったと言ってはいろんなものを買って来る母親ですが、明日分のウインナーもベーコンも買っていません。

毎日、出掛ける前に冷蔵庫と冷凍庫の扉をバタンバタンと開け閉めする母親ですが、何故か肝心な物は買って来ないのです。

「提供する」という約束なので、買っていなければ使える食材で済ませるのですが、ただ夕飯の食材を回してしまうと、もう絶対にウインナーもベーコンも買って来なくなってしまいます。

というのも、父親も母親も「ナルシスト」なので、自分目線の考えがあって、それが行動や判断の唯一の基準なのです。

つまり、「買って来なくても大丈夫だった」という経験が、「買わなくてもいい」に変換されて、いつしか「何故作っていないの?」とフォローさえも当たり前になってしまいます。

先日、細切りになった豚肉と生のジャガイモ、ニンニクの芽がセットになって味付けした食材を母親が朝用に購入しました。

しかも消費期限はその前日まで。

流石に夕飯の食材は別に用意してるので、翌朝に調理して両親に提供しました。

厚切りの豚肉と生のジャガイモを同時にフライパンで加熱させると、当たり前ですがジャガイモに火がしっかりと通る頃には肉は硬くなっています。

こみちがこの2つの食材を一品として提供するなら、ジャガイモは事前にレンチンしますし、最初は別々に火を通して、合わせて味付けするでしょう。

それがタレまみれになったパックになっていて、わざわざ食材別に分けたりするでしょうか?

あえてそのまま同時に火を入れて、ジャガイモを食べられるギリギリまで加熱し、肉も硬いけれどこの辺なら…という状態で皿に盛りました。

しかし、味付け済みという触れ込みはどこへというくらい、塩分が強くて「こんなの食べられるか?」と思ったほど。

タレまみれだったので、パックの底に残ったものは加えませんでしたが、「調理済み」というのは本当にどんな味になるか料理してみないとわかりません。

今朝提供し、少し食べていましたが半分以上が残っていて、昼食は両親も別に弁当を買ったようでした。

今日の夕飯は、唐揚げを作ったのですが、揚げながら出来立てを味見して、なかなか美味しくできたんです。

両親が先に夕飯を終えて、こみちが後からテーブルに着くと、唐揚げはそれなりに食べてくれたようです。

でも、朝に作った例の一品は、ほとんど残っていました。

結局、もったいですが翌朝に出しても食べないのは分かっているので捨ててしまいました。

これもいつものパターンですが、「食べ物を捨てるのはもったいない」と両親は言います。

その考え、とても素晴らしいのですが、両親は美味しい唐揚げを食べるんです。

そして例の一品を残してしまいます。

嫌なことの後始末は誰かに押し付ける。

両親がよく使う方法ですが、便利な部分を優先的に確保して、残りの厄介なことは割と放置するのが常なんです。

例えばこれを捨てないで翌朝に出しても、そのまま残されていて、驚くべきは「食べないから捨てたから」と母親は呆れたように、嫌なことを助けてあげたというような感じで、わざわざ報告して来ます。

と言うのも、母親が「買って来た」と言う事実はもうそこにはなくて、「代わりに嫌なことをした」と言う部分だけが残り、更に「私、代わりにしたんだよ」と相手に伝えて満足します。

同じような話が、庭の除草剤を母親が買って来たと報告して来て、「それ何の報告?」と聞けば、少し戸惑いながら「庭の除草剤だよ」と答えます。

「それは分かってけど、わざわざ言って来たのは代金を欲しいってこと?」と聞き返せば、「そうは言ってないけど…」と言いながらもレシートを手渡して来ました。

そして「除草剤は〇〇だから」っと。

母親の感覚では、庭の除草に無関心なこみちのために、勝手に買って来て、代金を受け取るのは当たり前。

そして、商品の置き場所を伝えて、あとは自分でねと、そこで大満足しています。

でも本音を言えば、今は空き家になった実家の方の庭はどうなっているのかと。

つまり、ある程度管理されたこみちたちの家は、手を出して関わりたいけれど、自分たちがしなければいけない実家は全然、行動しないんです。

少しでも動けば、自分たちですることになるので、そう言うことは一切したがりません。

例えばそこで少しまとまった金額が必要になって、「両親にどうする?」と相談すると、父親は「高い」と言い、母親は「でも仕方ないかも」と言いながら、最後は父親を支持します。

別に高いなら自分たちで動けばいいだけですが、父親は極度のナルシスト。

自分基準で言うのですが、その後の処理もしません。

結局は父親を抜きにして母親に相談し、費用を折半して依頼することが多いんです。

テレビを見て、当たり前に食事を用意されて、そんな毎日を過ごす父親って、何が楽しいのでしょうか。

寝た切りになるまで、何もしないでテレビを見て老いてしまうもったい無さを感じたりしないのかと思います。

でも父親は何もしないことが幸せな人なんです。

じっと丸まって、そこに居続けることが幸せで、それを母親が見守ってくれたら最高の人生なのです。

母親は母親で、最後は父親が自分さえも見捨てて自分も幸福に生きることを信じていないようで、独特な価値観で糖尿病の父親に甘いものを与え続けています。

病状が進行すれば、毎日のようにジュースとアイスを食べているみたいですが、食事制限をして生き甲斐を失うよりも、母親は好きなものを与えることで「今」を大切にしているようです。

運動しないと。甘いものは控えないと。

そんな話もずっとして来ましたが、結局は何もしないでテレビを見て、甘いものを食べていることが父親には幸せみたいです。

だからこみちも感情とシャットダウンし、両親には淡々と接しています。

朝の食材が無ければ、あるものだけで提供して、父親がアイスを嬉しそうに食べていても小言は言いません。

言っても直せないので、だったら嬉しそうに食べた方が幸せだと思うからです。

負担が無くて、痛くもなくて、楽に簡単なことしか両親はしないんです。

どんなに正しい話でも、苦痛が一つでもあったら、続けることができない人たちなんです。

だから、ウインナーを買って来てと頼まれて、義務に感じたらしないです。

代わりに自分の判断で別の物を買って来てしまうのも、やはりナルシストとしてのクセなんでしょう。

誰かの指示に従うのが、兎に角嫌な両親なので。

心理学上の「ナルシスト」とどう向き合うか?

 心理学上の「ナルシスト」とは?

心理学上の「ナルシスト」とは、本人の基準が唯一の基準となってしまうタイプの人を指しています。

具体的には、「風呂は入りたい時に入る」とか、「まわりが動き出しても動きたくない」など、自分がどう思うかだけが基準なので、「他人に合わせる」という感覚に乏しいのです。

こみち家では、両親がそのタイプです。

今、ふとキッチンに行ったら空瓶が放置され、蓋つきのゴミ箱の上にコップが置いてありました。

感覚としては邪魔なら「移動すればいい」なのですが、それは価値観次第ではストレスになります。

どんなに部屋を掃除しても、状況に気づいてそこを片してはくれません。

いつもどこか中途半端にしかならないのです。

しかもナルシスト対策の鉄則が、こちらの事情を語らないこと。

なぜかと言うと、例えば「片付けて欲しい」とお願いしても、絶対に片付けてくれることはありません。

片付けるのは本人がしたいと思った時だけです。

なので「困っている」と言うと情報を無駄に伝えると、時にその情報が逆に利用されてしまいます。

つまり、相手は片づけたいと思っていると知れば、もう自分は「片づけなくてもいい」と印象を抱くのです。

ナルシストは自分が思う時しか動かないので、「片づけなくてもいい」と認識すれば、以後改善される可能性はとても低くなってしまいます。

こみち家でのあるあるですが、急に台拭きの場所が変わったりして、それは両親のどちらかが「ココがいい」と思って変えたのでしょう。

そんな感じで、あれこれと勝手に変えたりします。

ですが、その隣ではゴミ箱の上にコップが置きっぱなしになっても片付けることはないのです。

こちらが期待することは一切してくれなくて、両親が思いついたことは前後見境なく変更される。

冷蔵庫の食材が勝手に冷凍庫に移動されるのも、「買っておいてね!」と伝えた食材以外を買ってしまうのも、その動機は同じ構造です。

自分目線で良いと思うと周囲を気にせずに行動します。

でも最後までやり切れないのもあって、いつも中途半端なまま放置されてしまいます。

気分よくキッチンに行ったのに、毎回、なぜか気分が悪くなってしまいます。



「ブロガー」は何を書くべきか?

 AIの進化で

生き残るために考える方法は、2つある。

一つが、「正確な情報」を提供できること。

もう一つが、「個」を楽しんでもらうこと。

つまり、それ以外のエリアは、もうAI を使った方が便利だと思う。

例えば、自分の悩みに対する答えを探しているなら、AIに話してみればいい。

ざっくりとした一般論ならネット検索でも見つかるが、踏み込んだ内容になると思うようにヒットする情報に行きつかない。

例えば、40代50代の人がこれからの生き方に悩んでいて、「これからどう生きればいい?」とネット検索しても、あまり意味ある答えには辿りつけないだろう。

もちろんAIに「どう生きれば?」と同じような聞き方をすると、一般論が返って来てしまう。

でも「〇〇する生き方で収益化できないか?」と少し具体的にするだけで、求めている答えに近づける。

AIからの答えを聞き、そこからさらに具体的に聞き直せば、ネット検索以上に知りたい答えの糸口に近づけるだろう。

その便利さは、遅くとも5年後くらいには当たり前になって、ネット検索以上に身近な相談相手になるだろうから、もうブログ記事を書いても、そこを訪れる人は減ってしまうだろう。

つまり、対話的な情報化はAIに敵わないので、公式サイトの情報と同レベルのより正確な情報を発信し、そこに信頼されるお墨付きを得られたなら生き残れるかもしれない。

でもそれは可能性の話で、確率として考えるといずれば道が閉ざされてしまうだろう。

そう考えると、ブログで扱える分野は、「個」を楽しんでもらうことではないか。

正しいかどうかの基準ではなく、ある人の言動そのものがネタとして扱われ、それを見てもらうようなコンテンツであること。

例えば、オリンピックレベルの運動能力を紹介しても、その凄さと視聴数は比例しないだろう。

でも、中高年が求める手軽で健康的な食事を扱うと、その根底が一般的な情報に基づいていても、視聴される可能性は高い。

ただそれだけだとAIの得意な領域になってしまうので、例えば体重が100キロの人がその食事で痩せて行く過程を掲載したら、「個」を楽しんでもらうコンテンツになる。

つまり、これからのブログも「個」に価値見出すことが求められると思うこの頃。

認知機能が低下していく両親との同居

 約束ができない!

今日も夕飯を作るためにキッチンへ向かいました。

キッチン前に来て、「今日はアレを作って、コレも作って」と少ないレパートリーながら飽きないように考えています。

昨晩が冷やし中華だったので、今日はトンカツ。

しかも厚切り肉ではなく、スライス肉を重ねて使うことで高齢者でも食べやすい工夫もしています。

ところがキッチン前に立って、「ハ?」なのです。

先ず、シンクには桶が置かれて、朝から放置されていた食器が水に浸かったままなのです。

そのままになりそうな予感もあって、コレに関しては覚悟もしていました。

そして、冷蔵庫を開けてまたため息。

解凍してある豚肉の場所が移動されて、冷凍庫に戻されています。

代わりに母親が買って来たベーコンのパックが置いてありました。

母親の心理としては、「料理」と言う発想はもうありません。

夕方になれば自動的に作られてテーブルに置いてある物認識されているのです。

なので、「どんな材料を使う」という考えも飛んでしまい、「コレ、邪魔!」と思えば解凍中の肉も別の場所に移動してしまいます。

皆さんはそんなことが起こったら、感情的になって怒ってしまわないでしょうか?

でも認知機能の低下がもたらす影響は、怒っても直すことができません。

もう数年同じことを繰り返していますが、同居後に両親がルールとして覚えたことは一つもないのです。

「コレ、お願いね!」

そんな約束も、その日か翌日まではまだ記憶に残っていることもありますが、その次になると完全にリセットされてしまいます。

「冷蔵庫の食材はいじらないでね!」

理由も説明していますが、そもそも「言われた」と言う記憶から抜けてしまうので、結局はその瞬間に自分が想像したことで決断します。

つまり、「アレとコレを買って来てね!」。

メモまで渡しても、その夕方に買って来るのは、冷蔵庫にまだ残っている食材たちです。

糖尿病の父親は、マンジャロを使っていましたが、母親に監督しないとダメだよと言ってましたが、母親は「自分にことは自分でするもの」と言う考えが根底にあって、監督する意味を理解できませんでした。

結果的に、一人でしていた父親は、服用方法を間違えてしまい、担当医に相談したところ、薬を替えられてしまいました。

マンジャロをやめて、それまで順調に体重も落ちていたのですが、今は食欲旺盛で甘いものも好んで食べます。

父親に頼まれて母親もコーラやジュースを冷蔵庫に並べて、父親が糖尿病で家族としてどうするべきか理解しているのか心配になります。

ただ、無理やり制限することが介護的なケアではないので、リスクを踏まえて行なっているならまわりで否定するのも違います。

しかし、糖尿病は合併症があり、腎臓疾患になれば「塩分、水分の制限」も加わるので、当事者はさらに苦労します。

そんな話もして来ましたが、先に触れた通り、何も守ってくれません。

実際に何か大きなことが起こって、その時に悩むのが両親の生き方です。

こみちが料理を作りはじめたのも、栄養管理とは言えませんが、出来合いのおかずばかりでは糖尿病に悪影響も考えられるので、できることはしたいと言う家族の意向を汲んでのものでした。

ですが、そもそもとして先のことを見据えて両親は生きていないので、料理を作る話も単純に楽をしたいと言うもので、でも全面的に主婦であることを失いたくないので今でも勝手にいろんなものを買ったり、冷蔵庫を整理してみたりをやめられないのでしょう。

整理しても、それに何の理由があるのかが分からないもので、いきなり似た食材をまとめてみたり、2つに分けてみたり。

結局は整理ではなく、イジりたいだけのようです。

だから「勝手にイジらないで!」と頼むのですが、先にも紹介したように、「自分らしさ」を死守するためにも、他人からの頼みごとを守る気持ちがないようです。

でも、放置されたら何もできないから厄介です。

できないのに、プライドだけは主張してしまう時期なので、本人たちはフォローされているとも思っていないのがとても家族としては苦しい気持ちになるのです。