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中高年の仕事探し 現実と希望の狭間

 なぜ働くのか?

例えばもしも資産が1億円あったら、貴方は全く働かないで遊んでいるだろうか?

仕事と遊びの境界線が曖昧なので、消費するだけを遊びだとしたら、ときめきをずっと感じると思うでしょうか?

言ってしまえば、それって介護施設にいる利用者と同じで、彼ら何か求める介護士は少なく、快適にその日を送って欲しいというスタンスになります。

朝、起きてご飯を食べて昼にも食べて、夜にもたべる。

お風呂に入る日があって、みんなでレクリエーションをして運動をする。

そこが満たされた最終形なのか?

言ってしまえば、そんな環境で誰にも迷惑を掛けずに老いていけたら人として最高なのかもしれません。

でもそうなる前にもう一つ何かあるとするなら、健康で働ける自分でいることではないでしょうか?

年齢という意味ではなく、もしもこみちがショップの店員だったとして、その店員さんから買いたいと思うか想像すると、できれば別の人が嬉しいなぁと思ってしまいます。

商品を受け取り決済するだけなので、誰でも良いはずですが、鏡に映った自身を見て、進んで彼から買いたいとは思えません。

自己評価を下げたいという意図ではなく、素直な感覚として「店員」と言っても手順ができることだけが重要なのではないと思うんです。

自分はどこで働けばいいのだろう。

自分にできることではなく、自分が求められている場所を探すことが大切になって来ます。

同じ働くなら少しでも時給がいい所が嬉しい。

でも時給は、働く地域や職種である程度決まるもので、同じ職種で比較するよりも根本的にお金が活発に動いている業界を目指した方が希望に添いやすいのは言うまでもありません。

そして、責任というか、業務に対して責任を持つポジションほど、時給も高くなる傾向です。

つまり、その作業にスキルがあって、仕事に責任を持って担うことができる働き方になれば、その業界で目指せる上の方の時給になるのであって、スポットで誰でもできる仕事を責任持って頑張っても、それだけでは望むようなポジションにはなっていないのです。

結局、キャリア形成って誰しも理想的な働き方には最初からなれないので、技術や経験を重ねて段々と成長して理想的な働き方に行き着くのですが、中高年の場合、多くは育成期間など設けられていないので、どうしても未経験でも受け入れてくれる職種ほど、成長して理想的な働き方には成りにくいように思えます。

とは言え、それが厳しい現実だとしても、働かせてもらえるなら本当にありがたいと思っていて、そこには自分よりも有能な若者がたくさんいる中で、わざわざチャンスを与えてくれたと思えるからです。

やっぱりどこかで思う希望

こみちは絵を描くことが好きです。

ある意味でただ楽しくて続けて来た趣味です。

でも、その楽しいという感情、伝え方次第で娯楽にならないかとも思います。

才能を感じさせる画家やイラストレーターではなくても、等身大の目線でこんな楽しみ方もあるかなぁと思ってもらうことができたら、そこに少しの気晴らしや気分転換のキッカケにならないかと。

もしもそんな目的で描くとするなら、プロレベルで上手いことよりも、全く違うアプローチで描く意味を伝えられるように思うんです。

そして、この「どう見てもらうといいのか?」は、仕事でスキルや経験を重ねて仕事を任せてもらうことそのものにも思えます。

結局、理想も現実も明確な差はなくて、目指す方向は全く同じです。

今の自分に合った環境で働けば、それが結果的に理想にも繋がるので。

仕事ができる幸せを感じつつ、でもどこかで理想的な働き方に憧れてしまう。

今はまだ少し形が違うかもしれませんが、段々と理想と現実が近づいて来たら、それは自分にとって目指す生き方になると思います。

今日も元気に行って来ます!


なぜ人は自分から追い詰めてしまうのか?

 帰宅した妻が玄関ドアを開けようとして

帰宅した妻が施錠された玄関ドアの鍵穴に鍵を差し込みました。

こみち、その音に気づき内側から解錠したんです。

「おかえり!」

声を掛けましたが、妻は不機嫌で「何で開けるの?」と言って来ました。

確かに内側から解錠されたら、鍵を取り出した手間が無駄になってしまいます。

でももうそこはいいじゃないと思って「それで怒らないでよ!」と場を悪くしたくなくて言ってしまったんです。

ですが妻は激昂しました。

説明が完全に届かない状態

普段、両親に対して文句を言うのは、憎しみではありません。

こみち家が破綻しないためにどうみんなが生きると良いのかを考えた時に、これだけは守って欲しいということさえ全く聞き入れならないので、それだとフォローもできないと嘆いているだけです。

それは妻に対しても同様で、優しい気持ちだけでは介護はキレイゴトになってしまいます。

それで「私はこんなに頑張っている」と言われてしまうと、「頑張り」ではなく「それがどう役だったのか?」で考えないと最終的には上手くいきません。

両親にこれだけはとお願いしていることも、できないならフォローすればいいんです。

でもそこもできないことになると、同じようなことが至るところにあるので、体力やメンタルをこみちがまた壊してしまうでしょう。

継続するためにも最低限ここだけはということを提案しているつもりですが、両親は全くその意図も理解できません。

そして、昨日の妻もまた両親と同じようなことを話しているように見えました。

妻も結果を求めます。

それは当たり前で、そうなんです。

でもだからこそそうできるように環境を整えませんか?ということを家族全員で共有したいんです。

でもそれもしません。でも結果は欲しいでは両親の1ミリも譲らない生き方と変わりません。

それこそ譲る必要などなくて、両親は両親で生きればいいんです。

立ち行かなくなった時にどうしましょう?と考えるしかできないのだから。

それを妻は必死でカバーしようとして、「こんなに頑張っている」と怒るんです。

どんなに説明しても通じません。

妻はこみちに不満をぶつけます。

でもその不満もこみちにも理解できるのですが、だからこうしようという提案には全く耳を傾けてくれません。

何も変えたくない。でも幸せにはなりたい。

そんな話などあるはずないです。

幸せになるためにも、その方向に向かって歩かないと。

でもそんな話をするとズルいとかいつもそう逃げるという話しになります。

在宅介護の注意点

絶対にしてはいけないポイントが、親の財布と区別つかなくしてしまうことです。

なぜかというと、介護が始まると働けなくなります。

つまり両親はそれまでの蓄えと年金で生活します。

その金額が十分ならいいのですが、それでは厳しいとなるとその補てんで介護はさらに負担を増します。

その時に親の財布と混ぜてしまうと、ケアマネに経済的な相談をする時、こみちたちの生活も破綻しなければ支援を望めません。

仮に両親が経済的に支援されても、ほとんど預金を使い切ったこみちたちは、もう何かあれば終わってしまう瀬戸際に立たされます。

だからこそ、自分の財布と親の財布を混ぜるべきではありません。

絶対にしてはいけないポイントです。

ですが、妻は両親に対して優しくしたいと言いますし、そうしないこみちに不満を持ちます。

数年前から貯金してねと両親に言って聞かせ、その意味を理解していないのか、貯金が減っている現状に加えて、財布まで混ぜてしまったら、一家で破綻する以外に支援を相談することができません。

メンタルまでボロボロになって、そこで助けてくださいと伝えても、両親だけでなくこみちたちだってかなり厳しい状況になるでしょう。

それでも立ち直れればいいのですが、そう簡単ではありません。

こみちは父親の要介護認定を受けるように提案したのも、デイサービスを使いたいからだけではありません。

むしろ両親の経済力を早い段階からケアマネにも把握させたかったんです。

というのもこの先、絶対に問題となる部分で、そこが家族だけの支援ではどうにも立ち行かなくなるからです。

例えば、ホームヘルパーに来てもらい、父親の食事の用意をお願いする。

それだけでも、こみちが料理しないで働く時間に回せます。

両親が家にいるようになっても、もう家事を完全に任せることはできないと思うので、今年は良くても3年後は家にいるだけの二人と考えるべきです。

病院に連れて行くのも両親だけではできない。こみちのどちらかが休んで連れて行くか、ヘルパーに楽しむしかありません。

してあげられるならしてあげればいいんです。

でも自分たちが立ち行かなくなるほど頑張っても、一家が行き詰まります。

だから「優しくしたい」という感情の話ではなく、どう生きるべきかをケアマネにも関わってもらおうと提案したいんです。


1ミリも変わらないから一緒に居てもつまらない両親

 1ミリの従ってくれない両親

今まで家族会議で決まったことでも、両親が1ミリとして従ってくれたことがありません。

「こんな風に置いてくれたら、その後に使いやすい!」

そんな要望をどんなに事前に伝えても、合わせてくれません。

では何ならしてくれるのか?

それは両親が自主的に思ったことです。

ほうれん草をなぜか3束も買って来た母。

それを見てどう使うというのか。なんて思い間ながら、一週間でそのほうれん草も消費しました。

ところがです。数日前にその3束を上回る量のほうれん草を買って来たようで、もう処理し切れないと思いました。

以前ならそんな買い物をする母に怒ったり注意したりしましたが、結局は何も変わりません。

「もう買い物しなくていい」か「好きに買い物して」の二択しかないんです。

買い物に限らず、生活のいろんなことがそんな感じで、両親のしていることだけを見ると無駄なことって一切ないんです。

ただ、それが独立しているので、どう使うとか利用するかをまわりがフォローすれば破綻しません。

昨日、カレーを作ったのですが、その時に使ったカレー粉、母親が買って来たものです。

こみちはあまりカレーが好きではないので、カレー粉を好きな物にしたりして、やっと作ろうと思えます。

それが、安いから買ったルーが何箱も買ってあって、カレーを作るとなればその好きではないルーを使うと思うとやる気は上がりません。

でもそんな気持ちを封印すれば、カレー粉が既にあって便利とも言えます。

つまり、両親との生活って、両親の価値観に合わせればそれなりに生きられます。

でもどんなルーでも食べられたらいいと思ってカレーを作り食べたいのかというと、そうではありません。

ただただ作る、食べるという生活に、テンションは上がりません。

しかも、両親は作りもしないし、食べるだけ。

作った鍋も洗うのが面倒だから、作ったら早々に皿に分けて、鍋も先に洗うんです。

だから両親は用意されたカレー(昨日は焼き魚とほうれん草のバターソテー)を食べてもらいました。

結局は、「用意したら食べてくれる」でも、作る方にすればそれが何も楽しくないから楽しめるようにルール化したくなるのです。

でも両親はできないこともできないまま自分のスタイルは何も変えません。

ほうれん草を大量に買って、こみちが作らなければ母親が何か作るのかと言うとそうではありません。

結局は両親だけの生活って破綻しているように思います。


日雇い派遣は「例外規定」がポイントでした!

 日雇い派遣とは?

一般に「派遣」とは、自分を雇っていくれる派遣会社と実際に就労し働く会社が異なる働き方です。

どのタイミングか、それまでは事前に定められた職種だけしか派遣で働けなかったはずですが、それが緩和されて一般的な業務でも派遣として働けるようになりました。

では日雇い派遣の「日雇い」とは何でしょうか?

どうやら希望者と派遣会社との間で結ばれる契約期間が30日以下の場合を指すようです。

契約期間の話なので、結果的に働けた日数ではありません。

つまり、その日だけの雇用や1週間だけのような30日以下の雇用期間で働く場合に「日雇い派遣」という通常の派遣とは異なるルールが適用されます。

ただ簡単な話ではなく、デザインや翻訳など、ある意味で専門職の派遣ではこの「日雇い派遣」の規定も問われないようで、一般的な職種に設けられた国からの禁止条項です。

例えば、倉庫業務で、リストに従い商品をピックアップするピッキングなど、軽作業ってこみちのような社会復帰したい人には理想的な働き方です。

ですがこの軽作業は、例外規定に該当するので、希望者の年収や世帯年収、学生だったり60歳以上だったりとそのどれかに該当しないと「日雇い派遣」として働くことが認められていません。

これが地味に厳しい制限です。

こみちの場合

いろんな事情で、「明日なら働けそうだ」と思っても、例外規定に該当しなければ応募しても採用させることが派遣会社としてもできないからです。

かと言って、毎週何日、シフト制で働けるのかというとそうも決められない。

やはり、こみち家で言えば、朝夕の食事を家族の誰かに代わることもそうできる話ではありません。

それだけに決まった曜日や時間に働けるということがありがたいのです。

そう思うと、法律が懸念する意図も理解できますが、その制限によって働ける機会や方法が減ってしまうのも残念に感じます。

こみちの場合、縁あって仕事を不定期に回してくれる会社がありますが、本当に有難いと思います。

一方で、40代以降になると広く一般的な仕事ではなく、何か専門性のある仕事ができるといいですよね。

でもAIがこれだけ身近になると、簡単な作業の多くは彼らが瞬時に捌いてしまうので、これができれば良いと言える仕事も限られそうです。

いろいろと仕事探しをする中で、発見もあります。

働けることの有り難さを今だからこそ強く感じることができるのかもしれません。

朝の失禁頻度が気になったら ― 「ちょっとの工夫」で心も体も軽やかに

「朝、起きたらシーツが濡れていて……」

在宅介護をしていると、そんな朝を何度か経験することもありますよね。毎日のこととなると、どうしても気持ちが沈んでしまいがちですが、実はこの「朝の失禁」、体の仕組みを知ると少し見え方が変わってくるかもしれません。

今日は、少しでも皆さんの朝が笑顔で迎えられるような、ちょっとした「知恵」をご紹介します。


なぜ「朝」に漏れてしまうの?


私たちの体は、寝ている間も一生懸命に尿を作っています。通常なら、脳が「今は寝ているから、まだ出しちゃダメ!」と排尿をストップさせる制限をかけてくれています。

だからこそ、朝起きた瞬間に「あ、トイレに行きたい!」という強い尿意を感じるのです。この仕組みがうまく働いている証拠なのですが、同時に「ギリギリまで溜め込んでいる」状態でもあるため、少しのズレで漏れにつながりやすいという側面もあるんですね。


リハパンの「弱点」を味方につける工夫


「リハパンは動きやすくて本人も嫌がらないけれど、寝ている間の横漏れが心配」というお声は非常によく聞きます。特に鼠蹊部(足の付け根)のフィット感は、寝姿勢だとどうしても緩んでしまいがちですよね。

そこでおすすめしたいのが、「重ね履き作戦」です。


いつものリハパン+伸縮性のある大きめのパンツ


リハパンの上から、少し大きめで伸縮性の高いパンツを重ねて履いてみてください。これだけで、鼠蹊部の隙間を物理的に「ギュッ」と押さえることができ、隙間漏れをグッと減らすことができます。

オムツへの切り替えに抵抗があるご本人にとっても、いつものパンツの延長なら受け入れやすいはず。まずは「漏れを防ぐサポーター」のような感覚で試してみるのがコツです。


大切なのは「完璧」よりも「心地よさ」


介護において一番大切なのは、介護する方の心の余裕です。


• 「漏れても、また洗えばいいか!」と割り切る

• 便利なグッズにはどんどん頼る

• 完璧を目指さず、昨日より少しだけ楽になれば100点満点!


そんなふうに、肩の力を抜いてみてくださいね。少しの工夫と前向きな気持ちで、穏やかな朝の時間を一緒に取り戻していきましょう。


母親の買い物が出鱈目になった!?

 同じものを買っている?

もしも今、スーパーの入り口の立っていたら、ジャガイモ、醤油、味醂、シナモン、精肉、ワカメなどを買うでしょうか?

一方で買う必要がないと思うのは、麺つゆと中濃ソース、ピーマン、ほうれん草です。

実は買う必要性が薄いのは、いろんな理由で料理に使うことが少ないからです。

しかも麺つゆや中濃ソースなどは未開封のペットボトルがそれぞれ2本もあります。

高齢者になると買い物が難しくなるそうです。

在庫を確認し、スーパーで手頃な価格の商品を選んで来るには、いくつかその場その場で判断しなければいけません。

絶対に買いたい物もあれば、安ければ買いたい物や車なので買うとか、そのまま帰宅しないので買うべきではない物とか。

夏場の麺つゆはまだ重宝します。

そうめんや蕎麦などを湯がいて食べる時に、冷たい麺つゆは使い勝手もいいですし。

それでもこみち家では年間に1本の麺つゆを使い切るかどうか。

煮物でもあまり使いません。

使うのは、そうめんなどの時くらいなんです。

それが未開封で2本。

どう考えても消費するには積極的に使う必要がありますし、そのために味付けもそれに引っ張られるってストレスじゃないですか?

介護で面倒な原因って、この選択する必要がない選択を強いられる頻度だと思うんです。

正直、食生活を正そうとしたら、やっぱり自分で調理した方が早い。

人任せにして上手くはいきません。

まして、買うべき物を買い忘れてしまうのでは。

みなさんはどうですか?

在宅介護、上手く行っていますか?

こみち家はあまり上手く行っているとは思えません。


「在宅介護」が「施設介護」よりも難しくなる原因

 「対等」だと思っている両親

昨晩、こんなことがありました。

夜の10時、実はこみち既に1時間くらい仮眠しています。

わざわざ10時にアラームするのは、キッチンの排水口を掃除するからです。

両親が自分たちで使った食器を洗い、その後にこみちが自分たちの洗い物をして、排水口の掃除をします。

もちろん、誰かしてもいいのですが、少しでも作業量を減らしてあげたいので、食器を洗うのも後に回し、両親を先に済ませてもらうというわけです。

そして、いつものようにキッチンに行ってみると、両親はまだリビングにいました。

こみちは淡々と食器を洗い、その後排水口掃除を始めたのです。

「もう排水口のゴミ取りも終わっているから」

急に母親が得意げに言い出します。

「でも、食器洗ってゴミを排水口に流したからゴミ取りネットも汚れたよ」

その言葉に母親が酷く怒り出しました。

でもどう思いますか?

確かに母親は自分たちの分を洗ってゴミ取りネットまで交換した。

でも、まだこみちたちは食器を洗っていません。

もう一度、ゴミ取りネットを交換したらダメですか?

些細なこと

今は春も近いですが、gさんをキッチンではまだ見かけません。

ゴミ取りネットの中に少しくらい食べ物が残っていても問題なかったのかもしれません。

でも、最後に交換すると言う原則でそもそも問題なかったのでは。

自分たちの分が終わったから、ネットまで交換したという頑張りを否定はしませんが、何でまだ残っているのに?とも思います。

こみちからすると、母親の行動はどこか中途半端です。

少し残すから、結局はそこも見直さなければいけないのが手間です。

そして翌日の今日、洗い物をしてくれたのですが、洗浄機の中に入れっぱなし。

そのまま出掛けてしまいました。

結局は、次に使う時に中の食器を棚にしまうのはこみちです。

もう助けられていることに気づかないのか分かりませんが、昨日の怒りがそうさせるのか、なんだかんだで母親は今までと変わらない結果になります。

どちらが上か下かを決めたいのではなく、何でできていないと言われてしまうか、考えて欲しいのです。

そして対等とか意地を張るなら、フォローされてしまう実情にも気づいてもらえないか。

できるのなら好きにすればいい。

でもできないからわざわざ方法を変えているのに、そうなった経緯に気づかないで、結論だけを比較したがる。

やっぱり、もう疲れました。



「天然気質」な人を介護することになったら

 「天然気質」とは?

例えば、「大きな動物は?」と質問されて「象」や「クジラ」を答えたとしたら、その質問だけで判断すると「天然気質」ではなさそうです。

でも「海坊主」と答えたらどうでしょうか?

海坊主がどのようなものかを全く知らない人にとっては、そんな返答に驚くでしょうし、あまりの想定外に笑ってしまうかもしれません。

でも、海坊主は海で漁をしている漁師が沖の大波をそう呼んでいたとも聞きます。

子ども頃に絵本などで「海坊主」の存在を読み聞かされていたら、大きな動物?と聞いてそう答えることもゼロではないでしょう。

もちろん、「それが動物なのか?」「多くの人が共感するか?」と判断したら、やはり「象」や「クジラ」と答える人が多いでしょう。

つまり「天然気質」とは、「(貴方が思う)大きな動物は?」と考えたことで、「みんなも思う」というフィルターを気にしない素直さがあるとも言えます。

言葉にしない部分を暗黙の了解として補うかどうか。

そこに天然気質の本質があるとこみちは思うのです。

こみちの母親は天然気質?

今までの長い習慣で、マヨネーズなどの食品は、母親が買っていました。

でも最近、味噌などが無くなってもなかなか買わないので、こみちが買うことが増えました。

そして、まだ完全になくなってはいないので、買って来た味噌は食品棚に置いて起きます。

でもふとした時に、母親が自分で買った味噌を冷蔵庫の中に置いたりします。

いつも思うのは、なぜ食品棚のストックを見ないのか。そして買ったら冷蔵庫に置いてしまうのか。

管理という意味でも、買う人が複数人で、めいめいが好きなタイミングで買えば食材が余ってしまいます。

例えば母親の買った味噌をそのまま冷蔵庫に入れていたら、残り少なくなった味噌を使い切り、母親の買った方を開けて使うかもしれません。

それが減って来たら、どうなるでしょうか?

また母親が新しい味噌を冷蔵庫に置くでしょう。

すると最初に買った味噌は永遠に開封されないことになります。

思うに母親の思考は単純に「無いから買った」だけかもしれません。

常に見えている範囲が限られているので、昨日のことや食品棚のことなど気にせずに「冷蔵庫の味噌が少ない」だから買ったのでしょう。

もう一つ気になることで、父親が使うリハパンをネットで購入しても代金を支払うとは言いわないこと。

灯油代やトイレットペーパーもそうなのですが、生活する上で欠かせない備品を全く支払ってくれなくなりました。

代金もそうですが、買って来ることも実は時間も使うのでなかなか手間だったりします。

一方で、昨日がお雛様だったので、母親が寿司とケーキをスーパーで買って来ました。

こみちにすれば、「買ってくれてありがとう」よりも「そこでお金を使うなら、いろいろな代金を支払って欲しい」と思うのです。

毎月、当たり前に1万円以上の出費が確定しているので、ケーキや寿司を出されても、それでなかったことにはできません。

金額が合わないからではなく、決して多く無い世帯収入を考えても、メリハリある暮らしがしたいからです。

母親にお金を使わせると、あまり意味のない物を買ってしまう。

正直、そんな印象が強くなりました。

それを買うなら、こっちの少ない食材を買って欲しかった。

ピーマンが何袋もあったり、レタスと混ぜて作れるサラダの素も、レタスを買っていませんし、そもそもそれ、あまり家族内での評判は良くありません。

無理して作る。でも美味しくはない。

それを忘れて買ってしまうのか、母親だけは美味しいと思っているのか。

とても難しい部分ですが、天然気質故にどこを基準にして買っているのかが分かりません。

こみち家は詰んでいます!

実はこみち、以前よりも外で働く時間が増えました。

メンタルの回復をいい感じで、以前よりも外で働く方が好きです。

何よりお金がもらえますし、それで何を買おうと思えることに未来の希望を感じます。

とは言え、家庭に目を向けると母親は食材や出来合いの弁当などは買って来ますが、本格的に料理はもうしません。

思いつきで何か買っても、魚一つ焼かなくなってしまいました。

こみちが家を空けると誰も料理をしない。

だからますます弁当などで済ます。

稼いでも出費が増えるので、現実には稼いで貯金できるとも言えないんです。

かと言って、父親は何も変えようとしませんし、母親も天然気質で、自分が役に立っていると思っています。

「これがあると良いかも!」

母親がそう思う物を買うのが買い物で、家になくなって来た食材を補う買い物ではありません。

「大きな動物は?」の質問に戻れば、母親は誰も想像しない答えを真顔で答えて来ます。

なぜそう答えたのかを聞けば、納得できるのかもしれませんが、でも必要な物や欲しいと思う物ではないので、結局は中途半端な選択肢が増えるだけでその場を解決できません。

食費がイメージよりも倍近く高いです。

そして、その余分な部分が、何かしたいことを諦めることに繋がっています。

この生活、いつまで続くのでしょうか?

両親の介護がさらに重くなれば、無駄な買い物も母親はしなくなりますが、父親同様に何か役割を任せられるとは思えないので、居た堪れない気持ちが続くんでしょうね。

結局、今日も元気で働けた。稼いだお金で何買おう?そんなことにはなりません。

「何でお金が無くなるんだろう?」

介護って、簡単に希望まで失わせるから油断なりません。

40代を迎える頃「親の介護」が迫って来るかも!?

 老化とは何か?

改めて「老化」とは何か考えてみると、実は耳が遠くなるや記憶が曖昧になるようなことがポイントではなく、今まで当たり前だった日常生活が一人でできなくなることです。

具体的な問題は、契約などの重大なことを理解して決断できなくなるので、保険などの見直しなどができず、今の生活に合っていないまま保険料を支払っていたりします。

同じ理由で、携帯電話のプランなどにも言えて、両親がもうほとんど使っていないのにずっと高額なプランのままだったという無駄も気づけなかったりします。

こちみ家では、父親がテレビショッピングを勝手に契約して、それを解約するような時期が続いていました。

安いと思って金額だけで申し込み、それが継続プランで何ヶ月も送られて来るようなことが起こってしまうのです。

おかしいと思った時に連絡して解約手続きできればいいのですが、どうしていいのか分からないからそのままにして在庫が積み上げられてしまうことも起こります。

トイレで用が足せなくなる

一人でトイレに入り、そこで用を足して出て来るまでというのは、介護的にはいろんなポイントがあります。

  • 先ず一人で立ち上がりそこまで歩ける。
  • トイレに入り、手順に沿って行える。
  • 用が済んだら水を流し出て来る。

例えばこれら一つでも困難になると、家族が行う介護負担が一気に増します。

そのポイントは経済的負担と身体的負担、精神的負担と続きます。

こみち家の場合、便座カバーが濡れてしまうことが増えました。

トイレに入るとアンモニア臭がある。

そして便座カバーが濡れているので、カバーを取り替えて、洗濯するということが頻繁に起こります。

このような状況になると、カバーをしないなども方法ですが、冬場などは冷たいですし、手間と不快さを考えて選択することになります。

こみち家の場合、毎日ではなかったのですが、週に2回程度の掃除になっています。

さらに言えば、トイレを使えなくなると使って失敗するのではなく、使わずに失禁していることになるので、リハパンのような吸収力を備えた介護用品を使うことになります。

目安としては、1回の放尿量は250cc程度。

チョロっと漏れるというケースから、ほぼ一回分をしてしまうなど、幅広いので必要なリハパンも少し違います。

こみち家では昼間は布の普通のパンツですが、漏らしてしまうこともあります。

そして、夜間時はリハパンに別途パットも併用するので、一夜分で200円くらいは掛かります。

基本的に使い出すとしないという夜はないので、毎月数千円の出費があります。

介護士の立場で言えば、しっかりとつけやすいオムツとは異なり、リハパンの漏れはどうしても起こり得ます。

ポイントは足のつけ根との密着ですが、リハパン内部にあるギャザーが立っていないと漏れをパットが吸収する前に足へと漏れ出してしまうので、履くときに機能を活かして装着できているかがポイントです。

しかし、失禁してしまうという状況を考えた時に、本人がそこまで気にして脱ぐ履きできるとは思えません。

家族がそれをどこまで支えられるかになるのですが、完全に管理できないので、どうしても漏らしてしまうということが起こります。

衣類だけではなく、座っていた座布団や床まで濡れてしまうこともあるので、悪臭対策もまた課題になります。

こみち家ではアンモニア臭に強い洗剤で、濡れた衣類などは洗うようにしています。

認知症や認知機能低下

ボウっとするような場面を想像しがちですが、認知症や機能低下とは本人には以前と感情的には違いがあるとは限りません。

つまり、やりっぱなしなども、本人はしている実感が薄かったりします。

買い物をして同じものを買う。

これも買ったかどうか、したのかしなかったのか分からなくなるので、同じことばかりしてしまうようなことが増えます。

例えば時間感覚にもそれが起こり、何時までにしてねと伝えても、今が何時でどれくらい前から始めなければいけないのかがわからないこともあります。

なので約束した時間よりも早く行ったり、もう時間が迫っているのに何もしていないようなことも認知に関する低下から起こる症状と言えるでしょう。

つまり、それらの症状が見られるようになると、日常生活で何かできるとしても、それが完結できているかが怪しくなるので、作業分担という考え方ではなく、できることをしてもらいできないことをフォローするというような感じになるので、家族の支援は日常生活の全部で起こります。

絶対にしなければいけないポイント

ご覧のように介護が必要になると、何から何までフォローすることになります。

時間を問わない介護もあるので、身体的にも精神的にも家族は疲労します。

そこで、絶対にしたいと思うことが公的なサポートを受けられる手続きをすること。

具体的にはお住まいの役所にある福祉課などを訪ねて、最近の親の生活ぶりを相談してみましょう。

残念ながら、相談しても意図や親身なってくれないかもしれません。

しかしそこで諦めてはいけなくて、「公的支援」を味方につけることが在宅介護やその後の介護施設などに欠かせません。

では、相談するとどうなるでしょうか。

これは明確な裏付けができた話ではありませんが、福祉課に配属さえた方々は必ずしも社会福祉士の有資格者とは限りません。

社会福祉士とは、公的私的なサポートを行う介護を含む日常生活の良きアドバイザーですが、一定期間大学や専門学校などで学び、国家試験に合格しなければいけない資格で、介護施設などの事務職に配置されたりします。

なので、相談した時に、カウンターに訪れたスタッフが介護制度を勉強会などで学んでいても、個別の運用などで熟知していない可能性もあります。

特に若いスタッフなら、「介護」という言葉を理解していても、在宅介護の実情を肌身で知っているとは言い切れません。

「大変なんです」と伝えても、「それはどこ家でも同じですよ」というような返答があるかもしれません。

実際、こみちが相談した時もそのような対応から始まりました。

こみちの場合、流れとして介護認定の申込み、地域包括支援センターの役割、その後の公的介護サービスをある程度知っていたので、「介護認定をしたいです。そして、まだ歩ける内にリハビリなどのサポートを紹介、検討してくれませんか?」という感じでお願いしました。

その時の印象ですが、介護制度を全く知らなかったら、多分、「そんな相談無理だよね?」で帰っていたように思います。

何より怖いのは、その時に「頼れない」と思い込んで、その後の在宅介護で自分がしなければという考えに陥れってしまう危険です。

一人で一人の高齢者を介護することはできません。

なので、支援を求めることは当たり前なので、そこは何に言われたとしても「介護が必要になった」ということを相手に理解してもらいその入り口となる「介護認定」の申し込みを行いましょう。

介護認定とは、申請すると調査員が自宅を訪れて、本人や家族、さらには住まい環境などを調査してくれます。

そして、まだ介護そのものは必要ではないけれど予防を始めた方がいい「要支援」と、公的なサポートを検討し、家族と一緒になって支える「要介護」に分けられます。

要支援も必要ない場合には、何も認定を受けられないこともありますが、大切なのは「つながる」ことなので、無駄にはなりません。

イメージとしては、要支援なら日常生活を基本的に本人だけでも行えるレベル。

しかし、家事などのスキルを問うものではないので、料理や洗濯ができるかを問うものものではありません。

つまり、要支援だとしても、できない人の場合、家族が洗濯や料理のサポートは必要です。

イメージとしては、トイレやお風呂に一人で問題なく入れるという感じでしょうか。

一方で要介護になると、「介護」なので、誰かが支える今までできたことができるということになります。

衣類が一人では着替えられないや、髭や爪切りができないなど、そんなことが増えて来ます。

その後、トイレでの用足しが不自由になり、リハパンが必要になるんどの生活支援が少しずつ始まります。

公的介護が必要だと思うのは、要支援では地域包括支援センターのスタッフが、要介護では専任のケアマネが相談者になるので、「今、こんな状況なんです」という不安を一緒に解決できることがポイントです。

具体的には、デイサービスなどの利用ですが、半日とか1日(朝から夕方)などのコースがあって、自宅まで迎えの車が来てくれて、決められた時間をその介護施設で預かってくれます。

そこでは運動などをして過ごすのですが、一日コースになると入浴などのサービスも受けられるので、週2回の契約なら自宅で入浴しなくても基本問題なくなります。

これだけでも介護の負担は大きく減らせるので、公的介護サービスがあるかないかは支える側としてもポイントです。

今回は親の介護が迫っている40代辺りの方々に読んで欲しいと思う内容を紹介しました。

ここに書かれたことだけが解決策ではありませんが、参考にしてもらえたら嬉しいです。


「介護」とは何か? 人生の終盤に訪れる答え合わせ

 「介護」を考える

今回は在宅介護をしている方々との共有という意味よりも、介護業界を含む介護支援の本質を介護福祉士の有資格者として考えてました。

「介護」が困難になるパターン

明確には言えませんが、有料老人ホームが私立校とするなら、特養ホームは国立校のようなイメージで、維持する金額も入所要件も異なります。

現実的考えて、家族の支援が見込める場合、要介護3(例えるならトイレが一人でできないレベル)になって、初めて特養ホームへの希望が出せます。

当時ですが、入所待ちの人数も多いので、3年から5年程度は入所まで掛かるでしょう。

つまり、トイレに行けない親を家族が3年から5年は支える時期があるということ。

もちろん、実際には介護認定を行い、早い段階から地域包括やケアマネとの関係を作り、支援してもらうことが大切です。

一方でその数年を有料老人ホームでお任せする場合、都内なら25万円くらいは最低でも施設に支払うでしょうし、その他諸々の手間を考えるとあと数万円くらいの上乗せは必要かもしれません。

結局、便利で低価格な施設は誰もが探しているので、タイミングよく入所が当たればいいですが、急げば急ぐだけ、金銭的な負担はどうしても高額になりやすいです。

つまり、都市部から離れた施設はやはりお得ですが、行き来を考えると休日をまるまる潰すくらいの予定が月に1回、2回くらいはあるので、その辺りの調整も欠かせません。

以上のように、年金がある金額以上ないと、または預金などで補てんできないと支える家族の介護負担はお金で解決しないので、時間と労力の負担が強いられます。

ポイント、親の年金額や資産で介護の難易度は全く違う。

つまり、在宅介護は、まだ施設に入るほどではないが、日常生活のちょっとした場面で支えが必要な時期を指しますが、介護士の立場からすると「トイレが一人でできる」が大きな分岐点だと思います。

というのも、多くの人がおしっこを漏らすようになって、その後に排便へと進むのですが、寝ている時間が長くなる生活では腹筋が弱り、自力では出す物も出せません。

すると、詳細な記述は控えますが、高さを変えられるベッドなども欠かせませんし、家族では難しい作業が発生します。

一気に介護レベルが上がります。

なので在宅介護は長くても要介護3まで。

つまり特養ホームへの申請要件は、在宅介護での限界も見越した設定だと思います。

そこで在宅介護で注意するべきは、お金の問題があって、親の財布と自分の財布をできるだけ1つにはしないこと。

介護支援で必要なコストは、親から支払うようにすることです。

これはケチかどうかではなく、在宅介護中に経済的な困窮が起こった時に、あなた自身の生活を守るためにも重要だからです。

そして地域包括やケアマネとの関係性を早くから結ぶのは、そうなり始めた時にしっかりと相談するためでもあります。

というのも、最初に紹介したように、お金があれば介護は随分と手間を省けますが、それで今回だったことで在宅介護だとしても、最終的に掛かるコストが安くなることはなく、介護度が進むと金銭的には安くなりますが、金額だけの負担があることに変わりありません。

月額20万円以上は出せない。

だからできるだけ在宅介護になっても、言えばその金額分だけ、やっぱり手間が掛かるからこそです。

ここまでは避けられない介護の現状です。

そして「介護とは何か?」ですが、こみちは人生の答え合わせのように感じます。

若い頃、誰もが夢や理想を持ちます。

夢が叶う人も残念ながら叶わなかった人もいます。

でも老いは生きる限りやって来ます。

そして、施設の金額がなければ、子どもなどに負担を掛けないと老後が大変です。

だからこそ、老いを感じた時に、健康や節約、楽しみの見つけ方があるかないかが問われます。

料理も洗濯もできません。

それが悪いことではなく、だとするらないそれをしてもらうだけ稼ぐ必要があります。

でも家事も基本的なことなら難しくありません。

だからこそ自分の身の回りくらいは自分でしようとおすすめしたいんです。

体を動かせば、運動習慣などなくても自然に健康でいられます。

今日は何を作ろうか?

あれこれと考えて、スーパーまで出掛けることで、いい刺激があって、睡眠を深くもしてくれます。

特別なことを考えるよりも、基本的な生活をすることが大切になりそうです。

こみち家の在宅介護の問題点

こみち家で最も問題なのが、両親の依存度が高いこと。

経済的にも手間でもそれが軽くありません。

して欲しいことができない。しても最後までしていない。

だから結局、それも見直してフォローしなければいけません。

今はできないことも、数年前ならできたことも多いのです。

でもしませんでした。そして、「できない」と言います。

でもこれって、3年後も5年後も同じことを言っているでしょう。

今ならできることもしない。だから結局はできなくなるという繰り返しです。

それって一番支援する側の負担を増やす状況です。

でもちょっとした意識を変えるだけなのですが、その変化を老いを理由にできないと結論づけてしまうから、何もできない人になるんです。

「全部はできないから、ここだけ手伝って」

そう言えたら、家族での在宅介護も全く違うんだと思うんです。


「敗北」を「人生の終わり」と思う前に

 「人生の終わり」とは?

そもそも人生とは何だろうと思った時に、それは自分自身にまだ選択権があることを言うと仮説しました。

人は必ず老います。

そして、老いると耳や目が悪くなり、新しい情報が入り難くなります。

そうなると、何をしてもワンテンポ遅れるようになり、どうしてもそれを気にすると段々と活動の範囲が狭まります。

つまり、選択権が狭くなるのは長生きすれば起こり得ることで、老後を楽しく過ごすなら現役時代に自分のエリアを見つけ、それを支えてくれる経済的支援や人的支援などを準備するが大切だと思います。

ある意味でそれが「人生の終わり」を楽しく有意義に生きる方法でしょう。

では「敗北」とは何か?

誰かと競争をして負けたとしましょう。

それで望んでいた選択肢を選べなかったとして、その状況が「不孝」でしょうか?

一番の不孝は、ただ何も残らない負けの時。

頑張ったと言う実感もなく、負けた時も練習もしなかったし、と反省も次回への作戦にも繋がらないような負けです。

それは本当にもったいない負けです。そうではなく、何か頑張った結果の負けなら「敗北」にはなりません。

少なくとも、同じ状況で負けになる人は必ずいて、今の自分と同じような悔しさや後悔をしているはずです。

だから、「これではダメ」と言う先生にはなれるんです。

つまり何もしないで負けただけだと、次にも活かせないし、他の人の役にも立ちません。

サクセスストーリーもいいですが、その影にはたくさんの失敗があるので、その1つとして自身の頑張りを何らかの形で残すことは勝ちがあります。

等身大の自分

誰でも人は良いところもあれば、残念なところもあります。

でもそれはいつも固定される物ではなくて、周りの環境やその時の状況で長所にも短所にもなります。

だから、自分の長所や短所が分からないとか、分かる人でも、言い方一つでどうにでも変わります。

つまり本当の自分の大きさを誤魔化す必要は全くありません。

大きい人には大きい人なりの悩みがあって、小さい人もまた同様です。

美人だと人生楽にも思いますが、知らない人から言い寄られることもあるでしょう。

無下にすると根にも持たれるかもしれません。

つまり、美人と言う長所もやっぱり短所となる部分が存在します。

勉強が得意なら、その方法を聞きたいと言う人に説明できるくらい頑張ればいいでしょう。

でも苦手なら頑張ってみることも大事ですが、他にももっと好きなことがあって、それを知りたいと思う人に説明できるくらいなら、結局は勉強できる人と変わらないくらい必要とされる人なのです。

「オレは何をやってもダメだ」

そこまではみんなも考えます。

そして「人生が終わったと思う」もセットでしょう。

そこで、「じゃ、こう生きてみるのはどうだろう?」と思えたなら、それを「終わった」と思う人に向けて提案してみるのはいかがでしょうか?

例えば日本一周してみるとか、気になっていたことに没頭してみるとか。

でもこれらも結局はセット(想定内)のような展開です。

例えば、これは当時の塾の先生が言っていた言葉ですが、「ここから出題されたら自信あるのに」と言う分野を増やすことなんだそうです。

つまり、なんとなくしか分からないくらいだから、聞かれてもそこそこまでしか答えられない。

でもこの範囲なら、もう考えられる質問に答える自信があるレベルになれば、それはもう自信を持って誇れることです。

こみち、今になって思うんですが、人間の能力に差はないと思うんです。

でも差が出てしまう。

なぜかと言うと、人生って評価されるコースとされ難いコースがいろいろあって、得意不得意によって評価される人となかなかされない人が出てしまいます。

例えば、ある業界の才能ある人で、めちゃくちゃ稼げたとしましょう。

でも話していて、その人柄に合わないと思ったら、どんなに稼いでいても退屈に感じませんか。

もちろん、そこを割り切れるなら、そこに才能があったのですが、あまりにタイプが違い過ぎると話しが噛み合わなすぎてそこを楽しむことが必須です。

でも、職場では目立たないのに、飲み会では輝いている人っていますよね。

みんなで大笑いできる。

それは仕事とはまた違う才能です。

「アイツ、誘おうよ」

「アイツは…」

どちらがいいかではなく、これもタイプの話。

お酒の席で輝けなくても、全く違うところでその人らしさがあれば何も言うことはありません。

できないことで上手く行かないでダメだと決めるのは早いということ。

そうではなく、こっちの方が合っていそうだという方に先ずは進んでみましょう。

「オレはダメなんですよ」

そう言う人に会ったら、「俺も思った」と言いましょう。

そして「ダメ」と気づけたことをスタートにしようと言ってみませんか?


What is the "End of Life"? Rethinking Defeat, Identity, and New Beginnings


What defines the "end" of a life?

I have a hypothesis: Life is the state of still having the power to choose for yourself.


As we age, our vision and hearing naturally decline. New information becomes harder to process. We find ourselves a step behind, and if we let that bother us, our world starts to shrink. This narrowing of choices is an inevitable part of a long life.


That is why preparing your "territory"—securing financial and social support while you are still active—is crucial. In a sense, that is the secret to living the "end of life" with meaning and joy.


The Anatomy of "Defeat"


We often fear losing a competition or missing out on a desired path. But is that "unhappiness"?


The true misfortune isn't losing; it’s losing without leaving anything behind. It’s the kind of loss where you didn't even try—where there’s no sense of effort, no reflection, and no strategy for the next time. That is a wasted loss.


However, if you lose after giving it your all, it isn't a "defeat."


At the very least, you become a "Teacher of What Not to Do." There are always others in the same boat, feeling the same frustration. By sharing your struggle, you turn your failure into a map for someone else. 


Success stories are great, but the shadows of those stories—the hard-fought failures—hold immense value.


Living Your True Size


We all have strengths and weaknesses, but these aren't fixed labels. Depending on the environment, a strength can become a liability, and a weakness can become an asset.


The Beauty Trap: Being strikingly beautiful might seem like a shortcut to happiness, but it can also attract unwanted attention or resentment.

The Power of Passion: You might struggle with academics, but if you have something else you love so deeply that you can explain it to others, you are just as necessary to the world as any scholar.


There is no need to disguise your "true size." Whether you are "big" or "small," everyone has their own set of burdens.


When You Think "It’s Over"


We’ve all thought it: "I’m no good at anything. My life is over."


But what if, at that very moment, we proposed a new way of living? What if we dived into something we always ignored, or traveled the world?


A teacher once told me: "Focus on increasing the number of fields where you can say, 'If the question comes from here, I’ve got this.'" Instead of knowing a little bit about everything, find a niche where you are the expert. When you reach a level where you can answer any question in a specific area, that becomes your pride.


Choosing Your Course


I believe there isn't much difference in basic human ability. The "gap" we see is simply a matter of which "course" we are on. Some paths are easily evaluated by society (like high earnings), while others are not.


You might meet a talented, wealthy person who is incredibly boring to talk to. On the other hand, there’s the person who isn't a star at the office but becomes the life of the party, making everyone laugh. Neither is "better"—it’s just a difference in type.


If you aren't succeeding where you are, don't decide you're a failure. You might just be on the wrong course. Move toward where you fit.


A New Start


If you meet someone who says, "I’m a loser," tell them: "I’ve felt that way too."


And then, suggest this: Let the moment you realized you were "no good" be your brand-new starting line.


「フェーズ」を使う処世術もほどほどにしないと嫌な奴になってしまう!?

 「フェーズ」というと…

子どもの頃は気づかなかったけれど、大人たちの世界には「フェーズ」という言葉が存在する。

例えば、ある人が別の人に何かを借りた。

それがフェーズ。

借りられた方が、「本当は貸したくなった」とか「そもそも借りた人が苦手だった」という裏事情は人間だからあってもいいけど、フェーズが変わらない内に対処しないとまた別の問題になる。

それは「じゃ、言えば良かったのに」という言葉。

つまり「フェーズ」というのは、関係性がまだ固定されていない状況を指す。

また別の例だけど、会社である人が抱え切れない仕事でアップアップしていた。

それを見かねて別の人が手伝ったことで無事に終わったとしよう。

つまりそこでフェーズが変わっている。

その場合、手伝ってもらった人が、「何で余計なことするんだよ!」と手伝った人に言った。

「大変そうだから手伝っただけなのに…」

でもフェーズを跨ぐとは、関係性が固定されるので、例えば「大変でもやり遂げたかった」ということを無視して、一方的にそれを邪魔したことにもなり得てしまう。

でも到底そんな風には見えなかったとしても、フェーズが変わってからでは、前のフェーズには戻れない歯痒さがある。

時に大人が使う処世術としての「フェーズ」

大きなため息を吐く。

それを見た別の人が「大丈夫?」と声掛ける。

そこで大丈夫ともダメとも言わない。ただ、「明日までなんだ。参ったよ」と状況だけを伝える。

そんなことを聞いたから、声掛けた方も気になって「少しなら手伝えるよ」という。

でも「手伝って」とは明言しない。

「それは悪いよ。キミの仕事じゃないし」とまた状況だけを繰り返す。

時にこんな何気ない会話に見えて、しっかり処世術として使う人がいる。

つまり、ことが終わった後、「何とかやり切れたよ」と。

手伝った人はまだその言葉の意味を理解できない。

フェーズは終わるとまたすぐに始まるとは限らない。

仕事の現場では1ヶ月以上空くことも珍しくない。

だから手伝った人が思い出して「あの仕事、その後どうだった?」と手伝った以上は少し気になったとしよう。

でも頑張った人は真顔で、「大変だったよ。でも上司の評判も上々さぁ」と答えた。

それを聞いて「?」と感じる手伝った人。

でも今さら何という?

「オレの頑張りがあったからじゃないの?」

それは状況として事実だけど、フェーズが変わった以上は何も言えないのが大人の世界。

でもね。確かにこれを使うと楽して成果を出せたように見える。

でも、フェーズが変わったことで言わなかった人は、その人からそっと離れてしまう。

やっぱり世の中は上手くできていて、フェーズの違いを余りにも露骨に使うのは禁じ手だと思っていい。




Phase”

When we’re children, we don’t notice it.

But in the world of adults, there is something called a “phase.”


For example, one person borrows something from another.

That is a phase.


The one who lends it may secretly think, “I didn’t really want to lend it,”

or even, “I’m not that fond of this person.”

Those hidden feelings are perfectly human.

But if they aren’t dealt with before the phase shifts, they can turn into a different problem later.


That problem becomes the phrase:

“Well, you should have just said so.”


In other words, a “phase” is a situation where a relationship has not yet solidified.


Here’s another example.

At work, someone is drowning in tasks they cannot possibly handle alone.

Seeing this, another person steps in to help, and the work is completed successfully.

At that moment, the phase changes.


Now imagine the one who was helped says,

“Why did you interfere?”

“I just wanted to finish it on my own.”


Even if it never looked that way from the outside,

crossing a phase fixes the relationship into a new shape.

It can mean that the desire to accomplish something alone was overridden without consent.


And once the phase has shifted,

there’s a certain frustration in knowing you can’t return to the previous one.


Sometimes adults use “phases” as a social strategy.


Someone lets out a heavy sigh.

Another person notices and asks, “Are you okay?”

The first person doesn’t say they are fine, nor that they aren’t.

They simply say, “It’s due tomorrow. I’m in trouble.”


Hearing that, the other feels concerned and offers,

“I can help a little, if you’d like.”


But the first person never explicitly asks for help.

“That wouldn’t be right. It’s not your job,” they reply—

again, just repeating the situation.


It may seem like an ordinary exchange,

but some people use it deliberately.


When it’s all over, they say,

“I managed to pull it off somehow.”


The one who helped may not yet grasp the meaning of those words.


Once a phase ends, it does not necessarily begin again right away.

In the workplace, it may be more than a month before paths cross in the same way.


Later, the helper might casually ask,

“So how did that project turn out?”

After all, having helped, they are naturally curious.


The one who struggled answers with a straight face,

“It was tough. But the boss was very pleased.”


The helper feels a quiet “?” inside.

But what can be said now?


“Wasn’t it partly because of my effort?”


That may be true.

But once the phase has shifted, nothing can be said.

That is the world of adults.


Yes, using phases this way can make it look as though someone achieved results effortlessly.

But when a phase changes through what was left unsaid,

the other person quietly steps away.


The world, in its own way, is fair.

Using the difference in phases too openly—

that’s a forbidden move.