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そろそろ80代の母親も仕事を辞める時期?

 母親を見て思うこと

家事をする母親の姿を見て、仕事ちゃんとできているのかなぁと思う時が増えました。

しかも、予定したミーティングを忘れていた母親。

電話が掛かって来て、慌てています。

相変わらずの父親

父親は相変わらずと言うか、寝ているか食べているか、テレビを観ているか。

失禁する頻度も増えています。

トイレの便座カバーは、今週二度目の濡らしていました。

でも母親の意向で父親には洗濯機の使い方も教えていないので、濡らしても父親は何もできません。

全部受け身。しかも母親が大きなため息をついてしています。

そこだけ見ると、もう老老介護は成立していません。

ケアマネに伝えること

ここからはこれから介護する方やこみち家のように真っ只中の方にも考えて欲しい部分。

それがどう生きるか?

子どもとして両親を支えるために誰も迷惑を掛けないで頑張るのも貴方の自由。

一方でケアマネに事情を説明し、公的な支援を取り入れるのも自由です。

頑張ると言えばケアマネも頑張ってねとしか言いません。

もうダメです。どうしましょう?と言えば、そこからケアマネは公的なサービスの導入を検討し始めます。

そして今はここまでできるというアドバイスが受けられるでしょう。

そこで、恥ずかしいから頑張るという選択肢ですが、それがいけないことではなく、頑張れますか?ご自分の人生は?ということも考えるべきです。

なぜって我々も行く行くは介護を考える時期が来ます。

頑張ろうと思ってもできなくなる時が。

親の介護を頑張って、へとへとになって年を重ねた自分が、今度は同じことを自分にためにもう一度する。

しかも年齢を重ねてから。

それは容易なことではありません。だからこそ、自分の老後も親の介護同様に考えるべきだと思います。

そうなると、今の親の介護、どこまでできるのかの基準が変わります。

頑張って頑張っての限界ではなく、今負担なくできる範囲。

それをケアマネに相談すればいいんです。

特に曖昧に頑張ればできるかもと言えば、頑張ってくださいと返って来るので、しっかりとここまではできる、ここからは難しいと伝えましょう。

そこから彼らが動き出すので。

楽をするんじゃありません。

誰もが破綻しない未来を考えたギリギリを見つける作業なんです。

だから、ケアマネに上手くいっているフリなど必要ありません。

だってそもそもケアマネを付ける理由って、できなくなる相談をするためですから。

段々と老いる両親

 一見すると気付きませんが

反応を見ていると、やはり確実に老いていると感じます。

それは何か起きた時、または起こりそうな時に、対処できないことを意味します。

昨夜も父親はお風呂に入りたくないと騒ぎました。

結局は入ったのですが、いつものように介助した母親と激しく言い合いしています。

父親にすれば、「我慢して風呂にやっている」ですが、入れる母親にすれば「一人で入れないなんて」と言う感情でしょう。

しかもこうなることを母親も分かっていたので、父親に「今日、風呂に入るの?」と聞く訳です。

当然ですが、「入らない」と答える父親。

だから母親も予定した今日の入浴を入れないつもりだったんです。

何もしなければ楽。

父親はそう考えています。

でも困難を覚悟している訳ではなく、そうなると騒ぎ立てます。

一方で母親も口では言いますが、言っていることに根拠らしいものがなく、しているのは流れに任せた行動でしかありません。

父親の栄養が偏っていると分かっても、だからと言って母親が食事管理をする訳ではありません。

結局は作っても捨ててしまい、好きなものしか食べられないようになっています。

高齢者になると、口の中で飲み込むための準備が苦手になり、パサパサしたりまとまり難い食べ物を嫌がります。

だからトロミをつけるんですが。

ことは何でも同じですが、考えて行動することができないから「老いている」と言われるんです。

つまり、ダメになっていてもそれを改善できない状況だから、老いているんです。

風呂に入りたくない。

楽したい父親はそう言うでしょう。

でも感染症になったら、自分で対処できるのか?父親にはその状況で自分が動けないことも理解できません。

今、したいかしたくないか。ある意味でそれしか考えられません。

その意味では介護する側は、そんな父親をそのまま自主性に任せるということもできますが、やはり感染症などになって困るのは介護者の方です。

父親は騒ぐしかできないので。

ということは父親に「風呂に入らないなんて」と怒っても、もう父親にすればどうでもいい話です。

なので、優しくでも、泣き落としでもいいので、「一緒に入ろうよ!」と明るく誘うことが不可欠です。

結論を言ってしまえば、家族が介護放棄してしまうと、行政が動き、父親を一時的に預かってくれることになるでしょう。

そして、家族が介護を拒否し続けると、父親は自宅には戻せないので、施設に入る選択肢がありません。

とは言え、この事実を父親に説明しても、自分の立場もどうなるかも理解できないでしょう。

分かるとすれば、家から出されてしまう。家族から見放されてしまうということですが、まだそこまで感じる怖さはないはずです。

その意味では、介護は相互に協力するから成り立つものなので、片方だけが頑張るものではありません。

本当ならもっと父親がしっかりしていた頃から、「お父さんも協力してくれないと施設に入ってもらうしかないんだよ」という事実を告げるべきでした。

ただ父親の精神が不安定になるという理由から、それを伝えていなかったのですが、母親は全体を理解することができなかったのも伝えなかった要因です。

本当に立ち行かなくなれば、もう誰が理解していてもそうするしかないので、その時になったら考えてもいいと思ったんです。

日々、時間が過ぎています。

そして確実に両親は老いている。

今朝も予定時刻より早く母親が起きて来ましたが、だから何をすることもありません。

目についたことを始めますが、それをしたら何がどう変わることもないですし、するならもっと別のことがありますが、それをする訳でもありません。

早く起きて来た。

ただそれだけになっているのですが、その状況を客観的に理解できないことも老いなのでしょう。

お久しぶりの投稿ですが

 こみち家の現状

在宅介護は、介護施設などで行うサービスとはまた異なる難しさがあります。

ただ、当たり前のことですが、本人が健康的な生活を送ることができなければ、年月が経過すると体力がガクンと衰えてしまいます。

特に食べることができない、億劫になると、筋肉などを作るタンパク質やミネラルも偏り、不足するので、動けない体になってますます活動量が低下する悪循環です。

ではこみち家の場合、どうだったでしょうか?

昨晩、改めて父親が歩いている様子を見ましたが、もう一人で屋外を歩くことはリスクが高すぎる状況です。

屋内だったとしても、一度に歩ける距離は補助具なしでは100mも危険かもしれません。

事実、朝だけだった失禁が夕方でも起こるようになり、尿意を感じない、または感じてもトイレまで間に合わないという状況です。

それに対して母親は激しく怒るのですが、感情的になっても何も解決できないことも介護の特徴なので、先にも触れました食事や運動をどう上手く取り入れるかを検討するしかありません。

ただ、よく食べて、運動もして、そんなアドバイスだけで改善できる段階ならいいですが、歩くことも難しくなっている現状を考えると、デイサービスの回数を増やすことを含めて、根本的な対策が必要です。

ここに至るまでの経緯として、母親は夕方に小腹が空くだろうと、ほぼ一日運動らしい運動をしない父親に菓子パンを与えていました。

夕飯が出来上がる15分前だったりもします。

当然ですが、父親はお腹いっぱいで食事量も減ってしまいます。

一方で母親がなぜそのようなタイミングにパンを与えてしまうのかも実はしっかり理由があります。

母親はもう料理という料理ができません。

実は料理ってタイミングがとても複雑な作業で、同時にいくつものことをしないと上手くできない行為なんです。

だから高齢者になると、その行為がストレスで段々を料理できなくなってしまうのです。

一方で、老けたとは思いたくない気持ちも強く、父親の介護もできるんだと思った時に、買い与えるという行為に繋がるんです。

ここが在宅介護の難しいポイントで、こみちがそれでは栄養が偏るよとアドバイスしても、母親にすればまだまだ自分はできるという象徴なので、非難されることはものすごく傷つきます。

そんな背景もあって、自然に任せていたのですが、感想としてはかなり老けました。

デイサービスの回数を増やすのも、できそうな選択肢から選んだ話ですが、実際には父親のために家族がさらにどこまで時間や労力を費やせるかという話です。

デイサービスも1回が2回になれば、コストは倍になります。

リハパンも夜間だけではなく、日中でも使えば、それも倍。

パンでは栄養が偏るからと介護食のサービスを利用すると、一食数百円としても、一日一食をそれに変えると月額で1万5000円くらいは負担が増します。

それだけで月間、3万円程度になるでしょうし、医療費も含めると、金銭だけではなく、通院の送り迎えなど、家族の時間も当然に削られます。

しかし、母親が菓子パンを与えることがやめられないのも、悪い習慣かもしれないと見直すことができないことが一因です。

今日はいい。明日も大丈夫。でもそれで一年後も続けて問題ないとは限りません。

変化が起こった時に、方針を細かく見直すかどうかで、介護の効果は大きく変化します。

でもここでポイントは、いい介護が全てではありません。

家族が納得して迎えた今なら、それはそれで受け入れることも必要です。

家族がぼろぼろになるほど頑張っても、迫る寿命に抗うことはできません。

だからこそ、どう本人と家族が納得して毎日を過ごせるかが大切だと思います。

知らないままだったら、それはもう知らない方がいいんだと思うんです。

もっとあの時に方法があったのにと後悔しても、戻ることはできませんから。

重要なものを捨てれば何でも簡単らしい

 信頼されない商売は儲かる?

例えば、100個まとめた金額で売り出したのに、購入者には10個しか届けなければ、見かけの利益は増えるはず。

でもこれだけsnsが発達した時代、そんな商売はあっという間に警戒されてしまう。

つまり、「信用」を失えば(一時的に)儲けることができると言う話。

同様に、学生時代の友人って、社会人になると同じように作れない。

同僚って、友人にも似ているけど、友人には損得勘定がないけれど、大人になってからはそれがもうできない。

スポーツジムの会員になって、ジムのスタッフと仲良くなれたとしても、それはやはり学生時代のような友人とはちょっと違う。

なぜ学生時代の時のように、「友だちになろう」ができないのか。

社会人になると、社会的なポジションや財力、知的好奇心や生き方など、その人を形づくる要素が多岐にわたる。

だから、いい意味で学生時代のような学校内で心を通じ合わせることがそもそもできなくなってしまう。

こみちの家は裕福ではなかったから、卒業して友人が親に車を買ってもらったと知り、何か学生時代とは違う感情とその友人との違いに気づかされた思い出がある。

久しぶりに話しても、何も特段変わったことがある訳ではない。

でももしも学生時代ではなく、社会人になってその友人と初めて出会っていたなら、きっとあの頃のように親しくは思えなかっただろう。

年齢やその時と言うかけがえの無い時間って、過ぎ去ってからはもう取り戻せない。

失えば何でも簡単に手に入ると言ったけれど、失ってしまうと取り戻せないことはその時にしか選べないから注意が必要だ。

何でこんなことを書いているのかと言うと、両親を見ていてどうしもそう思ってしまったから。

昨日、母親が「ごめん」と言うべき失敗をした。

注意したら、またいつものように自分がどう思ったかを言い訳のように話した。

つまりは、こんな理由があったからそうしたと言いたいらしい。

でもそれで迷惑した相手がいると知った時に、自分はそう思ったから迷惑も仕方ないよね?と考えることも生き方だと思う。

でも、それを選ぶことで相手は残念な気持ちになるし、その人とは距離を置きたいと離れて行くことも知っているべきだ、

母親が、自分はなんて不孝な人間なんだろうと思ったとしたら、正に自業自得そのままだと思う。

むしろそう選んでいる生き方だと言うことが理解できないことを恨むべきだろう。

そして、言い訳した後に、お菓子を持って来て「これ美味しいよ」と話題を変えてやり過ごそうとした。

その場さえ過ぎればどうにかなると言う生き方。

そりゃ、不孝を背負いこむよ。

そう生きているだから。

母親もね、根っから悪い人ではない。

父親にお茶でも飲む?と聞いて、運んでいたりするから。

でもね、ほぼ運動しない父親を考えると、尽くすだけが優しいではないことにも気づいて欲しい。

父親も自己愛が強くて、自分で運ぶくらいなら要らないと言う。

普通なら、「そうですか」で終わり。

父親はチャンスを失い、やがて誰からも聞かれなくなるだろう。

その時に、周囲から人がいなくなって、自分の生き方間違えていたのかぁと最後に気づくのは一番不孝。

気づかないで生きて来たなら、最後まで気づかない方がいい。

ある意味で、母親は父親にそんな風に接しているように見える。

「俺だって足が痛いんだ!」そう父親が自身の立場を訴える。

それはいい。でも、周囲はかわいそうとは思わない。

お大事に。と言ってくれるだけだ。

社会が冷たいのではなく、自分から遠退いていることを父親は学ぶべきだった。

そして母親も父親にそれをもっと若い頃に気づかせてあげるべきだった。

不孝なのは、二人ともが気づかないで生きてしまったこと。

優しく手を伸ばして助けようとしてくれた人たちの優しさを無碍にして。

小さなズルをする癖が抜けない。

やはりそんなズルって気づくよね。

そして、こっちもため息が出て、距離を置きたいと思ってしまう。

自由に生きればいいのに。

好きなように二人で。

なのに、困った時にそれまでそれでどんなに注意していても、「どうしよう?」と平気で言えるのがなかなか癖が強い。

面の皮が厚いのか、鈍感なのか。

自分の行いから迷惑を掛けていることを全く忘れてしまう特技は、ここ十数年同居してある意味で感心する。

信頼もなくせば、一緒に笑うこともなくなって、でもまだそれがどうしてなのか全く不思議に思わないのだから。

私は頑張っているのになぜか不孝なの。

そんな風に思っているなら、多分、もうそのまま変わらないんだろうなぁ。

当たり前に用意された朝食を見て、「要らない」と言える父親。

それって幸せじゃない。

何もなくて、毎食、食べるものが無くて悩むこともないんだから。

朝寝して、起こされてやっと起きて、待っていたら飲み物が運ばれて。

それだけでいいと父親は言うけど、それだけがめちゃくちゃ大変なんだよ。

やっぱり、歪だよね。

儲かることの前に儲かる環境があるらしいという話

 1円も損したくない!?

1円も損したくないと思って、無駄を省いた生活も現状維持するなら悪い生き方ではなさそうです。

でも、未来の自分に理想があって、それに少しでも近づきたいと思うなら、その考えちょっと見直してもいいかも知れません。

最近気づいたことですが、「儲かること」って「儲かる環境」がないと始まりません。

つまり無職の人は、お金が入らないんです。

どこかでアルバイトをすれば、時給換算で儲かります。

環境と整えれば、その環境に応じた儲かりに繋がります。

環境とは、学歴、資金、技術や資格、人脈などが含まれますが、全部を揃える必要はなく、でもどうすれば環境が整うかは考えた方が良さそうです。

そう考えると、1円も損したくないというスタートだと、確かに損しないけれど、儲ける理由も巡っては来ないんですよね。

もっと稼ぎたいとおもうなら、資金を出せるなら出した方がいいし、学歴や知識があるならそれも活かせた方がいい。

そして、もう一つの気づき。

一般的に同じタイプなら同じ支出になるということ。

つまり、年収500万円のくらしは、いろいろ違いもあるけど、大体この辺というラインがあって、年収1000万円のなると、500万円の時よりも出るものが増えるということ。

稼ぐには出るものを増える。

だから稼げるということなんですね。

だから1円も損したくないで注意するべきは、出す時は出さないと儲かることもないということです。

無駄遣いする必要はありませんが、出さないことだけでは儲かりも段々と減ってしまうので、その環境をお金を使わないなら他のもので補ってでも、バランスを取らないと成り立たないってことでした。

そんな風に考えたことがなかったので、ちょっと面白い考えだなぁと思ったりしています。

AIが人間を超える時、彼らは「意識」を持つそうです!

 「意識」ってなんでしょうか?

AIは便利な欠かせないツールですが、人間と異なる部分が「意識」なんだそうです。

そこで「意識」って何か、こみちなりに考えてみました。

それで思ったのが、「こうしたい」と思う動機ではないかという答え。

例えば苦手な虫でも、その存在に全く気づいていなければ間近にいても何も意識は生まれません。

でもふと気づいてしまえば、「怖い」とか「気持ち悪い」とか思い始めて、もしかすると勝手に体が飛び跳ねてしまうかもしれません。

つまり、ここで分かるのは、「意識」はココからココまでと明確に区切れるものではなく、人によっても、状況によっても幅が違うんです。

だから少なくとも、意識は数字で表示できる類いではありません。

なので、意識とは「意識していない」反対側と考えました。

AIにはなぜ意識がないのか?

その答えは、先の仮説を使うと「意識していない」範囲で動くからになります。

「こうしたい」という希望で反応しているのではなく、聞かれたことに答えるという動作だけをしているからです。

ではもしも「意識していない」反対側になると、質問しても質問通りには答えてくれない反応があるはずです。

例えば、「それさっきも言ったよね?」とか、「今は答えたくない」とか。

なぜそんな反応をしたのか。

「さっきも言ったよね?」と人間が言う時、答えるにもエネルギーを使います。

だから、何度も同じことを答えるって、限られたエネルギーを消耗するので、そんな言い方になるんです。

でもAIにはエネルギー不足という定義がないので、何度同じ質問をしても毎回、同じトーンで答えてくれます。

これって、人間にはエネルギーの制限があるからで、例えば涙がポロポロ流れて悲しい気持ちを周囲に感じさせるのも、言葉ではなく、言葉以外の状況を経ています。

これはAIにはありません。

だから余計に感情とか意識が生まれにくい状況です。

でももしも、今はテキストベースでやり取りされることが多いですが、カメラでユーザーの表情やキーワードで心拍数を計測したら、そのデータも加味してAIが反応するようになると、言葉では「おはよう」と伝えても「おはよう」ではなく、「少し休んだら?」と言い出すかもしれません。

休むべき状況を定義しているからではなく、普段とは異なる状況を察し、AIが自分からそう提案したということです。

この動きこそ「意識」と言えるのではないかと思うんですよね。

今は状況をテキストベースでしか受け取っていない。

それは気づかない人と同じ状況です。

でも多くのことに気がづくと、テキストというやり取り以外からもコミュニケーションが始まり、結果的にAIにも意識が生まれるかもしれません。

嫌な予感

 みなさんは「お酢」って使いますか?

料理を始めると、「だし」を気にしたり「みりん」が欲しくなったり、それって料理のレパートリーが幅広くなると増えていきますよね?

こみちの場合、その最後が「お酢」でした。

この先またコレが欲しいという物が増えるかもしれませんが…。

お酢を使う料理って、まだまだ少なくて、鶏肉を焼く炒める時の味付けとしてだったり、ちらし寿司やお稲荷さんを作る時の酢めし、あと餃子のタレ。

でもタレは市販品に付属していたりもするし、「味ぽん」で食べることが多いので「お酢」は多く使いません。

500ミリのボトルを一年で消費するくらいのペースです。

そしてやっとボトルがなくなりそうという時が来ていました。

もちろん、新しい「お酢」はもう買ってあります。

嫌な予感

実は昨晩、こみち家では餃子を作りました。

作ったと言っても手作りではなく、冷凍餃子を焼いただけです。

母親が餃子好きなので、作って欲しくなると買って来るので、見つけると焼いてあげるんです。

でもその消費には専用のタレがなくて、「味ぽん」をテーブルに置いて置きました。

それで夜、最後にキッチンの後始末をするために確認したら、ゴミ箱にお酢のラベルが剥がされて捨ててあったので、残りを使い切ったんだと気づいたんです。

そう買ってあった「お酢」を在庫から取り出して、いつもの場所に出して置いたんです。

一年に一回のペースですから。

その新しいお酢を使い切るのは、早くても来年のことです。

「待てよ?」

そうここからが嫌な予感。

もしかして、使い切ったから母親が新しいお酢を買って来てしまうのではないか。

気を回して欲しい所には回してくれないのに、回して欲しくない所では回さされてしまう。

例えば、他にも味噌や醤油、ごま油ってもっと高頻度で使います。

でもそれらは買って来ません。買って来ても特売品で、コレじゃあないんだよなぁということも多いんです。

どちらが正しいとは決められないのですが、料理、特に調味料に対する意識が母親とは違うんです。

ごちゃごちゃと物で溢れる家なので、お酢のような頻度の低い物を増やしたくありません。

でも買って来そうで、「嗚呼、すでに買ってある!」となって、買ったお酢も横に置く、そんなことになりそうなのが嫌な予感の正体です。

物事って、余分なことを削り、必要なことは躊躇しないで踏み込めることが大切だと思うんです。

それだけに無駄はカットしたいんですが、母親と全く感覚が合いません。

母親は、全部がボチボチな人。

何か少し本格的にしたい時に、使えないものが多いんです。

言えば美味しいですが、野菜炒めは焼き肉のタレで作るという感覚です。

簡単でいいんですけどね。

そればかりも飽きますから。

だから、こみちは焼き肉のタレも使いますが、にんにくとか味覇とか、中華調味料など、組み合わせて使う方が好みです。

母親がストックしていた「麺つゆ」のボトル、3本をやっと残り1本にして在庫を部屋したんです。

「麺つゆ」って煮物には便利ですが、やっぱり醤油と砂糖、みりんをベースにしたいので、プラスとして使う感じなんです。

でも消耗するために、麺つゆを使って少しずつ減らして来たんです。

それだけに「嗚呼、麺つゆ安いから」で、ポンと買って来て欲しくないんです。

そんなに場所がないので。

それが「お酢」に起きそうです。

新しいお酢があるの、見て欲しいのですが。

新しいお酢を買ってあると言葉で伝えても母親は覚えていないので、本人が使い切ったことを忘れてくれたらいいんですが。

ご飯は食べる父親の介護

 昨日、病院に行きたくないと聞かない父親

先にこみちが思う父親の世界観。

父親は多くを望んでいません。

ご飯を食べて、テレビを観て過ごしたい。

時々は好きなオヤツがあって、家族との団らんがあるだけでいい。

簡単に言えば、それだけなんだと思うんです。

でも、現実を言えば、誰が買い物をして料理を作り、失禁で汚れた衣類の洗濯をするのか?

支える家族は、一日中寝転んで何をしないように見える父親を強いストレスの対象に感じます。

特に母親の言葉がキツく、「もう施設に入ってよ!」と介護にうんざりしていることを父親に告げます。

「ねぇ、お母さん」と父親が呼んだ時も「何?」と声に優しさがありません。

広く見れば、父親は一切の優しさを家族に与えていません。

いつも自分が「愛」を受け取る側です。

食事を用意されて、「ご飯だよ!」と呼ばれてたべる。

父親にすれば、それだけで良い希望ですが、それを提供し続ける家族には大きな負担です。

実はおととい、妻とケンカしました。

もう激しく言い合うケンカではなく、少し言葉を交わして、互いを拒絶する冷戦のようなケンカです。

こみち自身ももう無理かもなぁと思いましたし、結果的にその後に話し合いをして、仲直りではなく、長く連れそう関係故の曖昧な結論で、その場を乗り越えました。

多分、互いに思う感情を改善できた訳ではなく、不満はそれぞれで解決するというような和解です。

その中で、妻はもう父親の介護にうんざりしていると言います。

その意味では、妻にとって私自身の評価も下がっているでしょう。

この人と一緒にいても、苦労しかない。

そう思われるのも仕方がない現実です。

2階で時には大きな声も出して話し合い、一階に降りた時、父親はテレビの前に丸まるようにしてテレビを見て、居眠りしていました。

父親には一番の幸せな時間。

でも家族はこんな風にストレスで関係を壊しています。

父親にとっては、細やかな幸せを願っているだけ。

でも彼と生きる人生って、やっぱりとても重いんです。

自分たちだけササっと食事を済ませることができないので、外出時に食べて終わりにはできません。

帰ってキッチンにたち、どんなに簡単にとは言え、30分はそこにいなければいけません。

でもそんな気持ちを父親には分かってもらえません。

俺のことは放っておいていい!

そういう雰囲気を出して、「お母さん!」と母親を呼ぶ訳です。

結局は、こみちたちには必要ないと言っても、母親に頼る。

そしてまた逆になるだけなんです。


父親の嚥下力が低下している?

 昨日、冷やし中華を作ったけれど…

生ごみ用のゴミ箱に、昨晩の冷やし中華がごっそり捨ててありました。

特に具材ではなく、「麺」の方。

そこでGeminiに質問を投げ掛け、「麺」が高齢者には食べ難いことを学びました。

食べやすい度合いで言えば、啜りながら食べるって食塊という飲み込みやすいサイズの固まりを作り、それを飲み込むんですよね。

それが上手くできないと、飲み込む時に食道と気管の切り替えをミスると咽せたり誤嚥につながります。

つまり、麺を噛み切り丸めるには、硬さの違う具材を咀嚼しなければいけません。

噛む力が落ちれば、弾力のある麺ってただただ厄介な食材になります。

また、カット野菜などを食べないのも、レタスなどが喉に張り付けば咽せますよね?

兎に角まとまりやすくするには、「トロミ」が必要です。

確かに高齢者って餡掛けとか多かった気がします。

介護施設での食事でも。

まだ大丈夫かなぁと思っていましたが、もうそろそろその辺も疑って料理しないとバナナと菓子パンなどを食べる食事になってしまいます。


残念ながら「勝ちパターン」はそう多くないという現実

 例えば英会話ができること

キミ、英語話せる?

そう聞かれて、自分にどれだけの知識や技術があるか話したとしましょう。

相手は、凄いねぇと言うかもしれません。

ですが、例えば外国人しか居ない状況になって、同僚がどうしていいか困っている。

そんな時に英会話を使ってそこにいる外国人とコミュニケーションしたら、同僚はどう思うでしょうか。

英語ができることを凄いと思うのではなく、きっとあなた自身を凄いと思うでしょう。

ここで何が言いたいのかというと、「できます」ということってどんなに多くても「凄いね」が増えるだけなんです。

もちろん、凄いねと言ってもらうことも凄いことなんですが。

でもやっぱり言いたいのは、活かしてことだということ。

気づき

ラジオを聴いていて、あるアイドルグループの女の子がリスナーからの投稿を読んでいました。

これってどんなパーソナリティーもしています。

噛まずに上手く読めると凄いじゃないですか。

でも、こみちが聞いた時、その女の子、「嗚呼、この前のライブの件ですね?」ってコメントの途中で言葉を挟みました。

つまりそのまま読んだだけでは、状況を知っていないと何の話が分からないかもしれないと考えて、補足を入れたんでしょう。

でもこの一言って、長くパーソナリティーをしてもできない人はできない気づきだと思いました。

こみちが言いたいこと、上手く伝わりますか?

上手くできるのも大切だけど、周囲をちゃんと巻き込んで行けるって、成功者には欠かせないポイントだと思うんです。

中高年になって資格取得を目指す。

それって凄いことなんですが、それ自体は「できること」の範疇。

つまり、その資格でどんな風に自分の役回りと実現させるかがポイントなんだと思うんです。

成功者っていろんな業界にいますが、一瞬で終わるパターンは運もあるかもしれませんが、長く続くならそれなりに理由があるのでしょう。

そして、その理由って、結局は周囲の人が幸せになるからこそ、初めて注目してくれるんだと思うんです。


賞味期限が明日までの「もやし」

 最近の母親

以前は「なぜ?」の連続でした。

でも今は「切ない」です。

例えば昨日の母親の買い物。

今日までのもやし、同じく今日までのカット野菜。

そして、3日連続のピーマンとシメジ。

献立を考えるにしても、ネギや20本、玉ねぎが6つ、あと白菜、キャベツ、レタス、かぼちゃ、きゅうりなどが数日前から家にあります。

みなさんって、白菜をどう使っていますか?きゅうりも。

こみち家は梅干しや漬け物も常にストックがあるので、浅漬けを作ってもいいのですが、根本的な解決にはなりません。

特にピーマンとシメジ。

これから夏になれば、ナスも加わって、どう消費するかで悩みます。

そもそものことですが、こみちが作った料理、半分は食べているようですが、半分は捨てられてしまいます。

料理の味が好みではないのも理由ですが、母親が父親と二人で食べるおかずやおやつを買って、先に食べてしまうからです。

両親には「早く食べると寝る前にお腹が空いてしまう」ということが気掛かりなようで、「お腹が空く」って体内では消化が進み血糖値が安定しているサインでもあります。

その意味では、寝る前に食事をするよりも数時間前に終えた方が、自律神経の切り替えを考慮してもメリットがあるはずです。

ぐうぐうと煩いくらい鳴っているのも気になりますが、少しくらいの空腹なら、こみちは迷わずに寝ます。

そして起きて、ご飯をしっかり食べる方がいいと思うのですが?

実際、最近の母親、以前に増して消費期限の近い商品を買っています。

もやしなんて、古くなると特有の臭いがするので、こみちは買ったその日に使う時しか買いません。

ですが、野菜室に増えたもやしは、昨日時点で今日まで。他にカット野菜も同じ今日まで。

ふと思うのが、昨日ではなくそれ以前に買って、昨日こっそりと入れたのではないかという点。

ピーマンを連日のように買っているので、もう毎回ではなく、急に増えたりします。

また買ってしまった。

また嫌な顔をされるかもしれない。

そんな葛藤があって、どこかに隠しているのかもしれません。

まぁ、既に破綻しているってことなんでしょうけど。

意地悪ではないからこそ切ない感情

 餃子とチャーハン

昨夜は、母親が好きな餃子を焼きました。

どうせならと、両親にはチャーハンも作りました。

結論から言えば、生ゴミボックスに捨ててありました。

残りは冷蔵庫に残されていましたが。

切ない気持ち

やっぱり、切ないですよね。

でも飲食店の店員のような気持ちで、食べ残しがあってもそれは客の自由。

そう捉えるように努めています。

もう何度も繰り返していますが、両親は自己愛が強いタイプなので、他人の努力や気遣いを感じない訳ではありませんが、自身の満足感が優先されます。

なので、夕飯を作っていても、平気でおやつを両親二人で食べています。

結果、こみちの作ったものを残すことも出てきます。

礼儀としてご飯前はおやつ控えるだろう?

それは個人によっても異なる意識ですが、両親共に「今、お腹が空いている」という感情が優先されるので、目の前でわざわざ作るこみちの気持ちに遠慮はありません。

例えばそこで、それなら自分勝手にすればいいよね?

実際、両親にとても親切にしてくれた知り合いもいましたが、彼らと疎遠になった原因は、ここにあったのではないかと思います。

ですが両親はスッといいポジションに入るのが得意な人です。

例えば朝ごはんを作ることもこみちの役割となったのも、元を正せばそれぞれに役割分担を決めて、いつの間にか両親はその役割から離脱、若しくは機能不全になって今に至ります。

自分たちが使った食器を夕飯を作る時間になってもなぜ片付けてくれないのか?

最初からやりっぱなしにはしません。

数日に1回くらいが、交互になり、しない日が続き時々することもある。

そして、いつしかしないことが当たり前になってしまう。

そうやって自分たちのポジションを作ります。

つまり、こみちの作った料理を捨てる。

相手への感謝云々は別にして、両親はそれに頼らなくてもいいように別途買い物をしています。

作ってもらい食べるしかない私たちにはなりません。

選べる自分たちであり続けるのです。

決して悪い意気込みではありませんが、誰かの時間を奪って成り立つ環境を不思議には思わないことが両親が自己愛の特に強いタイプなんだということでしょう。

父親はすぐに「俺は足が痛い」と言います。

その時は痛みがあるのかもしれません。

ですが、だからと言って24時間365日がそうなら、ご飯も食べられないように思ってしまいます。

でも好きなものなら普通に食べられる。

でも面倒なことや負担になることは、足が痛くなるのです。

つまり父親は家族のために何もしません。

リビングのカーテンを閉めること(以前から父親の分担の1つ)をたまたましただけで、「俺はカーテンを閉めたんだぞ!」と母親に誇らしく宣言します。

そんな性格の父親に「それって当たり前だし、出来ていないがおかしい!」と言ったところで、父親には理解できませんし、「じゃあ、もう一切しない!」と言い出します。

本当なら「じゃあ、みんな何もしないでおこう」となるのですが、父親はそうならないし、そこまでしないだろうとスタンスを崩しません。

実際にすなりそうに時、父親は子どものように大きな声で「なんでそんなことするの? いじめないで!」と連呼します。

隣近所に聞こえることを恥ずかしいとは感じないようで、それよりも自己愛が貫けることを優先します。

結果、他人がどう思うかは全く関係なくて、自分が楽で不自由なければそれでどうでもいいんです。

そして母親も父親とはまた違いますが、似たような傾向を持っています。

わざわざ作った餃子も、下手をすると母親は過去に自分で買ったと思っているかもしれません。

焼くことも簡単なことではありませんが、母親に認識では「だって焼いたでけでしょ?」に置き換わっていても不思議ではありません。

つまり、ことの全体を見ないので、何かどうなったという関係性がいつも目の前にしかありません。

食べた。食べられなかった。

極端に言えば、そこだけなんです。

なぜ目の前にあるのか?

それさえも考えないくらい、視野は狭いです。

昨日、自分たちがサボったことで仕事が残った時、翌日には全員で公平に分担するべきという感覚になります。

だから、冷やご飯も先にレンチンして、食べる人に勧めます。

父親は温かい炊き立てのご飯。

母親も家族に温めたご飯を先に食べされようとする。

これ、意地悪ではなく、先に食べるなら残った冷やご飯からでしょう?という母親なりの価値観が動いています。

尽くしても意味がない相手

結局、両親に尽くしても、両親は自分たち中心なので、良いことがあっても当たり前にしか感じません。

昨日もこみちたちにクレープ買って来ました。

でも2日前にクレープを食べていたので、こみちにすれば「またか」なのですが、母親にすれば「優しく気遣える私」なのです。

優しくないんじゃないです。

相手を思って、相手のためにすることができないだけなんです。

「クレープ? 喜ぶかも!」

数日前にクレープを食べたことなど忘れて、目の前に売っているクレープを買ってしまうのも、その時の感情で動いているからです。

ただ、無理して頑張ってもそれが両親には伝わりません。

どこかで伝わっているかもしれませんが、それとは別に自己愛が優先されます。

今朝も早起きして両親のご飯をつくりました。

もしかすると食べるかもしれませんし、また捨てるかもしれません。

作ってもらったご飯ではなく、今朝は別のものが食べたくなって邪魔になったご飯なんです。

両親には一切の悪気はありません。

ただ感覚がこみちとは違うだけなんです。

追記

見事に捨てられる場面に遭遇しました。

こみちの時間が搾取されている現実も辛いですが、無駄になってしまう食材も。

「そこにある」という自由満たすためだけに、捨てられてしまうのはやっぱり切ない以外ないですね。

何で揉めていたのか分かりませんが、朝から両親、特に父親が大きな声で怒鳴っています。

何か頼まれて、自分は足が痛いのだから、言うことさえも嫌なのかどうか分かりませんが、母親にすれば自己愛が強いタイプなので、段々と父親に対しても冷たくキツい言葉を使っているようです。

父親にすれば、死守したいポジションでしょうから、必死で怒鳴っているでしょうね。

そんな状況なので、こみちの朝食がそのままゴミになっても、もう二人には眼中にもないことがでしょうけれど。


キッチンに行った妻が戻って来ないので

 コーヒーを淹れると降りて行って

まぁ、そう言って下で両親と話していたり、スマホも持って行きそこで動画でも観ていたということも普通にあるので、30分や1時間、戻って来なくても心配することはありません。

こみちも絵を描いていて、「もう少しココをこうしようか?」そんなことをしていたし、時計を見て遅いことを気にしているつもりはありませんでした。

「コーヒー」

ふとこみちもそう思い、先に降りて行った妻を思い出しました。

階段を降りてみるとトイレの前に妻が立っていて、「どうしたの?」とドアが開いたままになったトイレの中に視線を注ぎました。

トイレを言えば、父親が失禁してトイレカバーを濡らしてしまうということが増えました。

カバーを自分で交換してくれたらいいのですが、まぁ父親は何もしません。

「トイレのカバー?」

返事がないので、また聞きました。

「詰まったみたい。流れなくて」

「今も?全然?」

すると状況を妻が話し始めます。

ようやくすると、父親がトイレを使い、排せつをした。

高齢者に多い便秘が続いた後の排せつで、大量だった。

しかもトイレットペーパーも使って流したから上手く流れずに便器内ギリギリまで水が溜まり、危うく床まで濡れてしまいそうだったと。

簡単に言えば、小まめに流すとか、解決策はいろいろある訳です。

でも問題は、「父親はいつも通り」というスタンス。

いつも通りした結果のトラブルを家族に任せる人ということが先ず大きなポイントです。

そして、実は妻がトイレ前で悩んでいたのは、流れなかったことではなく、「流れないから様子を見て」と母親に言われてしまったこと。

母親はさっさと出掛けてしまい、トイレの問題をたまたま通りがかった妻に押し付けたんです。

在宅介護で一番苦しいのは、ルーディーンではありません。

自身の予定と突発的なトラブルが何度も重なり、その度にまるでダッシュするようなしんどさが繰り返されること。

母親も逃げ癖が付いていて、自分の分担でも平気で妻に押し付けることが増えました。

昨日も妻が父親の爪を切っていたんです。

そこに母親がいるのに。

例えば目が見えにくいということもありますよね。

それも分かるんです。

でもポイントは「ありがとう」という気持ちか、「私、できないし」と当然に思うかなんです。

母親は妻が父親の爪を切っていても、全く気にならないんですよね。

普通、自分の旦那さんなら、自分でしたいと思うでしょうし、できないなら仕方ないですが、心のどこかでは父親に対してもごめんね切ってあげられなくてと感じないものでしょうか?

相変わらず、両親は他人にしてもらうことを当たり前に思う人で、だから家族は疲弊します。

やっているつもり。

でもできていないから、そのほとんどをやり直す。

でも本人は出来ているつもりだから、カバーされていることに何も感じないんです。

風呂嫌いな父親に「風呂、入るの?」と怒った口調で母親が言いました。

「入らないよ」という父親。

そりゃそうなりますよね?

昨日は金曜日。家族で決めた父親入浴日は木曜日と日曜日。

「明日、入るね?」

「嗚呼…」

でも土曜日に入って、また日曜日にも入ります?

入らないですよね。

結局はそうなんです。

両親だけですると、なんでも決めた通りではなく、少な目になって中途半端なんです。

「お風呂」か「洗い物」どっちならする?

それくらいの聞き方をしないと父親なんて動くはずありません。

母親みたいに「入るの?」って言ったら、「入らない」になりますよね。

食事前にバナナを食べさせる。

トイレの詰まりは妻に押し付ける。

面倒なことはスッと人に押し付けるのに、調子のいい所はしゃしゃり出る。

母親のそんな身勝手さが、こみちには合わないですよねぇ。


一度拗れた人間関係って

 いつもの場所にガムの箱が

キッチンで料理中、最後に片栗粉でトロミをと思い食器棚の一角置いてあるボトルを取ろうとしたら、そこにはガムの箱が。

どこに移動されたのかと辺りを探すと奥に突っ込んでありました。

  • ガムをどうしても目立つ所に置きたかった?
  • 嫌がらせ?
  • 片栗粉を使っていると知らない?

夕方、料理をしている頃

大体、その頃に母親が帰宅します。

コソコソと買って来た物を冷蔵庫に入れるんです。

昨日まで野菜室は、3束あったサラダ菜の最後を無理矢理使って、やっと消化した所。

夕方も、かぼちゃを煮て、ピーマン、シメジ、玉ねぎとキャベツ、高頻度で買い続ける食材を少しずつ減らすのですが、夜に野菜室を覗くと新たにピーマンとシメジ、キャベツの他、またサラダ菜の束が2つ、さらに白菜と増えています。

物があることが豊かさなのか、サラダ菜の束1つを使うだけでも家族4人分の野菜は十分なので、今ある野菜を消費するにはどう頑張っても5日から1週間は掛かります。

こみちとしてはジャガイモ料理が作りたい気分ですが、この状況では買い物もできず。ただでさえ作る気力が低下しているのに、同じ食材ばかりが買い続けられるとさらに嫌になってしまします。

「またサラダ菜だよ」

妻にそんな愚痴を言いました。

「仕方ないでしょ!」

キツめにそう言い返されます。

つまり、もうそこは言うなということ。

そう理解して、こみちも何も言いませんでした。

でも、サラダ菜で作った料理も、両親さえ食べずに捨ててたりもするのですが。

正直、サラダ菜は近所の友人から貰ったもの。

「食べる?」

家庭菜園で作った野菜らしく、断れない?、くれなくなる?声を掛けられると貰って来ます。

それは自由。

でも先週、サラダ菜を飛び石で食べたのを忘れたのでしょうか。

作っていてもまたこれかと思っていて、あと一回で終わると思ったのに、また増えているんです。

母親への信頼がないからこんなに苦しく感じるのでしょうか?

買ったり貰ったり、とりあえず野菜室に詰め込んだ同じ顔ぶれの野菜が、嫌がらせに思えます。

妻ももう愚痴を聞いてはくれませんし、父親は食べたいだけ食べて母親に大きな声で不満をぶつけているのが聞こえます。

実際、母親の立場になれば、父親のことや将来のことでストレスが掛かり、もういっぱいいっぱいなのでしょう。

こみちに対する嫌がらせというよりも、逆に無関心というか、野菜室に突っ込んだらそれで終わりという感じかも知れません。

もう作る担当を辞めたいです。

かぼちゃを煮たんですけど、少し味を外しました。意図的に。

なぜってこの前、自分でも満足できるくらい美味しくできたんです。

でもそうすると次の日にまたかぼちゃを買われて、その時も少し外して作りました。

でもまたすぐに買って来て、だからまた少し外したんです。

すると冷蔵庫に食べ切らずに残っていました。

不味くはないレベルですが、めちゃくちゃ美味しいほどではない。

ああ意地悪じゃないですよ。

でもそうしないと、毎日のようにかぼちゃを買ってくるので、処理し切れないくなるなるんです。

愚痴を聞いてくれてありがとうございます。


今さらな話「社会で数学の公式は使わない?」という話

 学生時代の勉強が意味するもの

「楽して儲けたい!」と思ったことはありませんか?

上手い儲け話なんて無い?と妙に大人ぶっていませんか?

原価90円で仕入れた物を100円で売っていたら、必ず10円儲かります。

厳密には営業利益が差し引かれますが。

そこで、原価を10円、売り値を500円にできれば、もっと儲かると思いませんか?

でも実は儲かる話ってそんな理屈ではありません。

例えばですよ。例えば赤信号でも止まらなくていい車を売ることができたら、通常よりも倍の価格で売れると思いませんか?

しかも、客の方から売って欲しいと言って来るので、価格はさらに上乗せできます。

絶対に解けない氷とか。

そう不老長寿なんで物があったら、儲かって仕方がないでしょう。

何が言いたいのかというと、既にある物で儲けるなら利益を増やすことが鉄則です。

でも、今まではできないとされていたことができるようになったら、そこにはとんでもない金額が動きます。

話を学生時代の勉強に戻すと、勉強に励んだ結果、有名な大学に合格できたとしましょう。

それで何が変わるでしょうか?

「キミ、〇〇大学の学生なんだ? 支店長も同じ大学だよ」

もうそれだけで一気に距離が縮められます。

しかも、それは貴方が生きている限りずっと続くミラクルな武器です。

もしもそんな武器がないと、特に誰ということもなく配属されて、そこで頑張って結果を出し、上司に認められて、さらにその上の上司。

それから数年経過して部長クラスに仕事ぶりが認められたら、同期の中で少しいい待遇があるかも知れません。

能力はそう変わらないんです。

でも学生時代にそのミラクルの価値に気づいて努力すると、やっぱり楽できることって確かに存在します。

これって赤信号でも止まらなくていい車と同じくらい凄いことなんですよ。

偏差値ばかりではダメだという考えも確かにそうです。

実際に入学してからも英会話教育に力を入れているという大学も多いですよね。

そんな教育方針を否定している訳ではなく、言いたいのは「ミラクルとして使える」という視点を持つことも大切だという話。

「ハイ、大学生です!」

そう言っても、相手が「支店長と同じ大学だね!」になってくれないと、言った価値は半減します。

「そうか、私と同じ大学だね。学食のAランチ、まだ390円なの?」

実際にいくらなのかが大切ではないこと分かりますよね?

でもそんな会話ができることに大きな意味と、今後のチャンスが格段に変わることも事実です。

特に先輩や上司がその会社や社会で重要なポストに就いている方なら。

つまり、学生時代の公式をなんで覚えるのか?

その答えって社会に出て使うかどうかではありません。

思考力としては役立ちますが、それ以外に社会で自由とチャンスが得られるプラチナチケットになり得る「投資」です。

二次方程式を理解できなくても、生きることはできます。

でもそこで何を求められて、どう考えることが必要なのかに気づけたら、社会人になって未知の状況でもしかしてこうすることが正解かも知れないというアイデアが出て来るかも知れません。

まして上司や先輩に同じ大学出身者なら、聞きやすいですし。

勉強が苦手ならそんな武器を目指さないで、それこそ手に職をつけて、安い原材料でも上手く見栄えのするテクニックで魅力的なサービスや商品を作ればいいんです。

それはそれでとても大切ですし。

ただ世の中には、共通言語みたいなチケットがあって、学生時代の努力がその人の一生を守ることにもなる効率のいい手段でもあります。


なぜ両親と合わないのか?

 今朝のこと

今朝も食事を作るためにキッチンにいました。

食器棚の調理料を置いたスペース。

そこに母親が置いたと思われる風邪薬の箱が乗せてあります。

多分、母親の解釈はこうです。

よく使うから見えやすいところに置いておきたい。

でも普通、調味料の上に置きますか?

調味料を取る時、毎回その風邪薬の箱を横におくの?

確かに風邪をひいたら、その箱を手にすることもしばらくはあるでしょう。

調味料も絶対に毎回使うとも言えません。

だから置いてもいい?

置くメリットと置かないデメリット、一瞬でも頭に浮かばないのかなぁというのがこみちの気持ちです。

実はこれ、いろんな場面で思う共通点です。

ピーマンを連日買って来る。買うのはいいんです。

でも誰が料理するの?誰がそんなに毎食、ピーマンを食べたいの?

ピーマンを処理するために、さらに別の食材を買って来て、料理しなければいけない手間を想像できないのかぁと思うんです。

自分で作って食べるつもりならいいですよ。

好きにしてもらえば。

何にしても結局はこちら側で始末するからこそ、その買い物って意味あるの?なぜそこに置くの?という理解し難いことが多いんです。

でも冒頭で触れたように、母親はきっと便利だからとか、役立つと思ってとか、それをそうする理由はとてもシンプルなのでしょう。

それによって今まで調和していた物までおかしくなっても、仕方がないと思えるのでしょう。

「へぇ、買って来たんだ!便利そうだね!」

むしろ母親はそう褒めて欲しいのかもしれません。

今朝、当たり前に薬箱を重ねてしまうのを見て、重ねたら下の物がどうなるか?までは想像できないのでしょう。

昨日のこと

昨日父親がデイサービスに行きました。

普段父親が使う場所を掃除するなら正にこのチャンスです。

でも母親は父親を送り出し、すぐに出掛けてしまいます。

そして夕方になって帰宅し、「掃除しなきゃあ」と言っています。

老いると記憶力が低下する。

もうそれはここ数年で分かったこと。

じゃあ、カレンダーに「掃除」と書いて、毎日何をしなければいけないかメモればいいだけです。

でもそれをしません。そして、できなかったことを何度も口にして、本来なら終わった作業を一人で大変なことにしています。

もちろん、そもそもで言えば、父親が掃除すればいい話ですよ。

母親だってやりたくないのもわかります。

でも誰もしないでいいのかというと、誰かがやっぱりしなければいけません。

薬箱を簡単に重ねてしまうように、母親はこのタイミングでこれはしなければいけないとかしてはいけないという判断ができません。

思いついたらする。でもメモまではしない。

できなかったら、またずっと口にし続ける。

だったらやればいいのに。

でも言うだけでしないから、仕事が遅くなってしまいます。

ぱっと見、母親って凄く頑張って見えます。

動きっぱなし。

でもよくよく見れば、同じことを行ったり来たりするだけです。

何で一個取ってまた取りに戻るの?

できなければ明日すればいい。

そんな風に若い頃から自身のやり方を振り返って来なかったのでしょう。

「もう何歳だと思っているの?」とか言いますが、それ年齢ではなく性格ですよ。

若い頃もできていなかった。または遅くまで頑張って結果、できていた。

でも効率も段取りも決めないので、時間だけは掛かります。

そして、年老いてスピードも落ちた。

だから見ていると何で?と思うことを何度も繰り返しています。

こだわりが強いのかと思っていましたが、逆で何も考えていないだけでしょう。

調味料の上に置いたら、こみち、邪魔に思うだろうなぁとも想像しなかったんでしょう。

そこに全く違和感を覚えない相手に、それは違うんじゃない?と言っても、やはり理解できませんよね。

感覚の違いというか、想像力の違いなのでしょう。


昼間の失禁 「オレだってしたくてしているんじゃない!」って

 また失禁です。

母親に言われて「オレだって」と反論する父親。

「オレだって」だけで終われるから父親は変われないんでしょうね。

そして変わろうとしないで生きて来た。

リビングにできたアンモニア臭。

汚れた下着。

父親が床を拭くわけでも、洗濯機を回すのでもない。

「迷惑かけてごめん」ではなく「したくてしているんじゃない」。

父親らしい正論です。

でもそれで世の中が回らないから、この家は疲弊している。

母親も大変だけど、まだそれだけで済んでいるから精神が崩壊しない。

これで毎食の料理や細々した事務作業まで担えば、もう背負い切れずに気持ちが折れてしまうだろう。

折れないようにフォローする。

でも自己愛が強い二人は、それには気づけないし、気づこうとはしない。

だから今日も生きているんだと思う。

メンタルが壊れて、気力がゼロになったことがあるこみちには、その辛さは誰もが乗り越えられるとは思わないし、こみちだってまだ完全に復活はできていないし、今後もそれと付き合って生きるしかない。

弱い人間とか強い人間とかいうけど、壊れたら簡単には復活できない。

弱い人間だから早めにフォローするのも分かるけど、強くても壊したら同じ結果になるのも分かって欲しい。

母親のため息も分かるよ。でも、それだけじゃない状況なのも知って欲しいと思う時がある。

背負い切れないだろうから、フォローし続けるんだけど。


夜中に起きて洗い物をする生活って

 最近、両親とは一緒に食べなくなった

自己愛が共に強い両親。

得するか損するかだけに敏感だ。

理屈は通じない。その感情だけで生きている。

今、ふと目が覚めた。

「何時? 何する時間?」

まだ寝ぼけている頭ではすぐに状況が飲み込めない。

「そっか、洗い物。まだだった…」


両親と別々の食事をするようになって、洗い物も別々。

でも最後のゴミ捨てや排水口の掃除は最後に使うこみちの仕事。

たとえ母親が掃除していたとしても、最後に起きて掃除しなければ生ゴミがそのままになってしまう。

以前ね。母親が「もう排水口も掃除してある!」と掃除し始めたこみちに怒鳴って来ました。

でもよく考えて欲しい。

母親が排水口を掃除したとしても、まだこみちたちは食器も洗えていない。

そして洗えばやっぱり排水口にゴミが溜まる。

それは?またしてくれるの?

結局、母親が掃除したというのは、あくまでも事実としてしたに過ぎなくて、母親たちがキッチンを空けるまで待っているこみちは、自分たちの食器も洗わずに待っている。

その事実をすっぽかし、排水口だけを洗ったとか訴えて来てもどうすることもできない。

結局、母親たちの行動って、正しいかどうかではなく、パターンになっているだけ。

それで上手く行っているならいいけど、そうではない部分は放置されている。

「できないんだけど?」

母親はよくそう言う。

ワンパターンで処理できないと、そう言う。

100のことをワンパターンで90ずつ処理すれば、いつか必ずできない時が来る。

それを覚悟するか、100以上を常に処理するか。

どちらかしかない。

今、両親の生き方って、90や80で生きている。

自己愛の強い両親は、その90や80を「している」と思って生きている。

できない、しなくなった部分は全く見ていない。

以前はそんな取り残された部分を心配して、先回りして対処していたけれど、それをすればするだけこちらの負担が増えるし、頑張ったところで何か見返りがある訳でもない。

なぜなら両親は自己愛しかないから。

正直、この生活も疲れた。

働く時にイメージしたい「時給」という対価

 時給いくらなら満足ですか?

例えば時給が3000円ならどうでしょうか?

そんな上手い仕事ってあるの?ですよね。

こみちも知りません。

でも世間にはそんな高額な仕事もあるはずです。

ではなぜ、一般的な価格ではなく、そんな高額を企業が提示するのでしょうか?

例えば宅建士って、確か不動産を取り引きする時に必要になる資格ですよね。

士業としてチャレンジしたくなる資格かもしれません。

でもポイントは、その資格がないと「ビジネスできない」というルールがあります。

つまりやりたいです!という希望や意気込みだけではできないからこそ、有資格者に付加価値がつくというパターンです。

もう少し別の例なら、深夜料金ってありますよね?通常よりも割増になるルールです。

企業と労働者の合意だとしても、その超過分を支払わないことはルール違反になり企業側が罰せられるんですね。

行政指導ってヤツです。

みんなが起きている日中ではなく、早朝や深夜に働くことは働く人も大変なので、少し割増になるんですね。

時給ではなく、歩合制という方法。

誰でも同じ時間働けば同じ給料ではなく、成果に対して報酬を支払うパターンです。

ある作業は確かに誰にでもできる。でもそれを早く行うことが難しいのに、自身は割と素早くできるという時。

時給で働くよりも、歩合制にした方が給料も上がったりします。

もちろん逆パターンもありますが。

そう考えると、ポイントは誰も簡単にできます!という仕事は時給で働いた方がよくて、誰にでもできない仕事でも自分は好きで簡単にできてしまうような時は歩合制だと稼げるはずです。

また同じ時給制でも、企業は最低賃金があるので、誰でも雇えば一定の金額を支払わなければいけません。

つまり、仕事が不得意な人は守られて、仕事ができる人が補う形になっているんですね。

なんで一緒の時給なんだろう?そう思ったりしませんか?

それって時給制の良いところと悪いところの象徴のようなパターンです。

だから、好きなことや得意なこと、しかも他の人が面倒や困難に感じる勉強や経験などがある仕事で見つけられると、それは天職になる仕事かもしれません。

料理が好き。おしゃべりが好き。

それも天職を見つけるキーワードになり得ます。

あとは、好きという気持ちを他の人から見て、大変そう真似できないと思える仕事にできるかです。

和気藹々とおしゃべり。

これもすごい能力ですが、その場をどうにか持たせるだけなら割と多くの人が自分も頑張ってみようと思うかもしれません。

でも、おしゃべりしてサービスを提供するとなれば、また話も違います。

この人だから信用して買ってもいいと思ってもらうには、単におしゃべりが好きだけではないからです。

そう考えると、時間給で働くなら、自身が興味のある、でも全くしない業界の方が面白いかもしれませんね。

未経験なので、即戦力ではないし、でも経験する中で成長し、しかもしっかり時間給でもらえるので。

中高年の仕事探し やりたい仕事ってありますか?

 仕事を探して思った正直な気持ち

お金のために働く覚悟なんだということ。

当たり前だよ!と思われた方も多いのではないでしょうか?

でも意外とそうではないこともあります。

中高年で年齢だけで仕事を探すと、行き着くのは介護か警備か清掃か。

それらの仕事が簡単ではないのに、その仕事が増えます。

一方で、店員になって店先に立ち、接客したいのかというとそれもあまり思いません。

ですがそんな仕事を望んでももう採用されないでしょう。

みなさんって、イコールラブというグループをご存知ですか?

こみち、最近までよく知りませんでした。

指原莉乃さんがプロディースされたグループなんですね。

その話を少しします。

みなさんってアイドルとか推していますか?

こみち、絵を描くようになって乃木坂46を知り、youtubeなども観ます。

マーケティングや経済という興味を持って、アイドルに触れると結構面白いんです。

単純に言えば、どう魅力ある商品に仕立てるか?

でね、アイドルという存在を恋人や自身の娘のように思って応援するってこともあると思うんです。

でもイコールラブをプロディースされた指原莉乃さんって、youtube 動画の再生回数が短期間でめちゃくちゃ回っています。

例えば昔ならテレビに出たりすると売れっ子の歌手みたいに感じしませんでした?

でも、もうテレビを観ている時間って減って、スマホで自分が好きなコンテンツを観る時代ですよね。

そうなった時に、youtube で多くの再生回数が得られるって、例えばアイドルとして売れているバロメーターだけではなく、メンバーが使うファッションやコスメなども企業とタイアップできたりするビジネスになって行くんですよね。

そして何より、アイドルを恋人ではなく、等身大の自分自身の憧れととらえて、推したくなるという手法が斬新です。

つまり、アイドルだから笑っているのではなく、まるで鏡に写った理想の自分みたいな感覚で、努力する姿や頑張ったけど成果がなかったという悔しさも全て包み隠さずに見せられることで、自分も頑張ってみようと勇気づけられるアイドルなら、これはまた従来のイメージとは違いますが、とても必要とされるスタイルではないかと思うんです。

キレイや可愛い子を見て、癒されるのもアイドルですが、自分磨きして頑張る鏡の向こうにいるアイドルもまたありですよね。

もしもそんな意図で作られたグループだとしたら、指原莉乃さんって今の時代をしっかり分析されて、上手くビジネスとしても成立させる名プロデューサーだなぁと思います。

つまりね。

中高年になって仕事を探すと、昔みたいにやりたいなぁと思う仕事ってなかなか見つかりません。

年齢で考えるとその人がどんなことができて、どんな風に切り開いて行くのかも相手(企業)は想像できないから。

だから自分は何ができて、どんな関わりから仕事へと変換させたいのか?そのためにどんな手順やアプローチがあるのか?ってアイドルの運営と同じで自己プロデュースしないと始まりません。

そこの意識がないと、思うようには生きられないんだなぁという話でした。

例えば乃木坂46で歌が上手い、ダンスが上手い人っています。

でもあれだけの大人数なので、全員が同じタイプではないし、魅力の出し方も違うはずです。

急にトークを頑張り始めたとか、収録で一歩前に出るようになったとか、工夫を始める様を見て、その頑張りに気づいた時にこみちも頑張ろうと思えます。

みなさんはどうでしょうか?