ラベル 管理人こみち の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 管理人こみち の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

便利になる「AI」の時代に中高年はどう働くのか?

 「AI」ができないことを探す

どんなに有能な「AI」になっても、「私」本人にはなれません。

「AI」に任せれば、返信や文章作成、作曲にプログラミング、翻訳なんかもできるでしょう。

サラリーマンにとって、もっと言えば税理士や弁護士、さらには小説家やシナリオ作家、作詞家まで従来の業務と被る可能性があります。

3日の仕事を掛ければ人間の方がより高度な回答を出せるかもしれませんが、一瞬、または数分で直ぐに回答が欲しい時にAIはそれに応えてくれるでしょう。

ポイントは、熟考しなければいけない程のことが、どれだけ今の日常生活にあるのかということ。

それなりの解決でも十分なら、AIで事足りてしまいます。

そこはもう否定できません。

ただ、例えば不動産投資などにAIが使えるのかを考えた時に、分析できる結果を瞬時に欲しいのかと想像すると、それこそ少しくらい考える時間設けても困ることはなさそうです。

それよりも、「情報」や「データ」で従来の予測を超えることがAIにできるものか分かりません。

と言うのも、一般的に流通する商品とは異なり、不動産は同じ状況のものがいくつもあるのではなく、その場所にあるのはその建物だけです。

そうなると、立地や築年数、内外装の傷み具合や間取りなど、不動産として一般的に考慮するべきポイントを外しては考えられません。

それはつまり、ある集団の中から一番有能な人をAIが選べるか似ていて、「有能」をどう理解するのか、「有能」なら本当に成果を上げられるのかなど、さまざまな疑問が浮かびます。

つまり、感覚的な部分というのは、データでは解決できないものです。

AIがどれだけ有能になっても、そのような判断を正確に行うのは将来的にも難しいでしょう。

と言うのも、人間はそんな判断をどう解決しているのか考えると、実は有能ではない人を選ぶこともあるはずです。

でも実際にコミュニケーションを通して、互いが協力することで成果を上げる方法に近づきます。

これは判断した時で全てを決定しているのではなく、その後によって目標や目的が達成できるようにするのです。

つまり、唯一無二の作業は替えが利きませんが、一般的な業務は人が変わっても大きく変化するものではありません。

そう考えると、有能であることが最も大切なことではなく、職場馴染める人柄であることの方がよほど重視されます。

仮に将来、AIが現場リーダーで全ても指揮をAIが行うようになって、AIがメンバーを選ぶ時代になれば、また選考基準も今とは異なります。

海外で始まっている物価高の波

アメリカなどでは、急激な物価高で賃料も数倍になり、住まいを奪われてしまう人もいるそうです。

かと言って働いていない訳ではなく、日本以上に平均の報酬は高くても、それ以上に物価が高騰しているということのようです。

これはこみちが思うことですが、ある一定の資産家が増えると、彼らは「投資」で楽に稼ぐ方法を導きます。

商品やサービスだけではなく、我々の労働力も同様に、投資の利益を判断する材料になるのです。

例えば、我々の暮らしがあって、働き方があるのなら、物価高も生活を脅かすものにはなりません。

でも海外で起こっている今の物価高は、一般人の生活さえも奪う程のスピードです。

投資で利益を確保することが前提にあって、そこから我々の仕事も決定されていく。

そうなれば、労働賃金もその範囲内でしか考えられないので、高騰する物価を後追いするしかありません。

そうなってしまうと、30年の長期ローンなどは組みたくない人も多く、住宅を購入することに躊躇い、でも海外のように短期間で賃料が数倍になるということもあれば、最悪は住まいを失ってしまいます。

それらの現状を考えると、これからの仕事選びは、2つの柱で計画しなければいけません。

1つは今の生活のため。そしてもう1つが投資優先で展開される社会に乗るためです。

以前なら、中高年が選ぶ職業をどう考えるかが重要でした。

長く使える資格とか、稼ぎやすい職業とか。

でもそれではもう難しいのが見えています。

仕事や資格ではなく、膨らみ続ける市場に投資して、資産を増やす立場になることです。

大儲けするためではなく、生活水準が急速に上がる時代に乗り遅れない防衛策です。

定職を手放さない!

中高年の生き方として、定職を安易に手放しては挽回できなくなる可能性の方が高いでしょう。

例えば何か自分で経営したいと思っても、これだけ物価高の時代なので、考え方も見直しが必要です。

例えばラーメン屋を経営し、原材料や人件費などから一杯1000円では経営が難しく、1200円で採算が見込めたとして、問題はそれで客が集まるかと言うこと。

意外と美味しいも大切ですが、集客できなければ意味がありません。

そして、このポイントって上手い下手が顕著に現れます。

サラリーマンの場合、仕事が与えられて、それをこなすことで稼ぐことができます。

サラリーマン時代、「こんな仕事なんてやってられない」なんて不満も言えますが、独立すれば煩わしさもなくなりますが、仕事も当たり前にはもらえません。

だからこそ、定職があるなら、安易に手放さないことです。

働かせてくれるなら、その好意に甘えましょう。

その上で、市場に置き去りにされないポジションを得るために、波に乗るための資金を使いましょう。

そして、残された時間を使って、市場でどんな流れがあって、どこにニーズが集まっているのか徹底的に調べることでしょう。

それは多分、庶民感覚とは違うもので、投資家たちが好む場所を先に見つけることが求められるように思います。




子どもの立場として「両親」に伝えたかった想い

 人としての「幸せ」探し

子どもの立場として、こみち自身も「幸せ」とは何かを懸命に探しながら生きています。

例えば、24時間と言う誰にも平等に与えられた時間ですが、自身が生きるために使うのはどんなに抑えても睡眠やら食事、洗濯、料理などで数時間は消費されます。

加えてこみちは両親の為にも少しですが時間を割いていて、それは一日あたり数時間になります。

それを支えてくれるのが妻で、だから妻の休日にはできるだけ寛いでもらえるように心がけているので、普段以上にこみち自身の活動量は増えます。

とは言え、そうじゃないと頑張っている妻の立場で、「幸せ」が見つからないと思うからです。

妻は休日でも、例えば行政の福祉課に相談したり、地域包括やケアマネと打ち合わせしたり、そんな時にも妻は同行してくれ、いつ調べたのかといろんな情報収集もしてくれるので、実際には休日も朝から丸一日、リラックスしている訳ではなくて、二人でランチを食べる1時間だけが二人での幸せだったりします。

よく、両親のことを「ナルシスト」と称していますが、ナルシストな人の特徴は相手の立場で考えられないこと。

顕著なシーンで言えば、泣いている人を見つけて「大丈夫?」と声を掛けることはできるのですが、相手の悲しみや辛さを自分の事のように捉えて、一緒に泣くことはできません。

それがナルシストな人なのです。

もちろん、本人が悲しい時は自分の感情で泣けるのですが…。

だから、こみちや妻が、例えば風邪などで本当は辛くても、それ我慢しながら家事などをしても、両親の目には普段と何も変わらないように見えていて、「無理している」ことに気づいて「大変そうだから代わるよ!」とは言ってくれません。

与えられること、自分が他の人よりも少し特別な人だと感じたりする父親は、他人よりも優位であることに慣れていて、そのことに感謝しません。

むしろ、それを心地よく感じ、そうではなく平等を強いられると逆に不満そうな態度になります。

行列に並ぶことができないし、買って来たら食べるけれど、自分が買って振る舞うことはできません。

過去に親の介護のことで、妻から言われたくなかった言葉も聞きました。

言われた時は「マジか!」と思いましたし、こみちの欠点や弱さをズバッと指摘されて、ショックでもありました。

でも妻だって苦しかったから出た言葉ですし、二人もう離婚した方がいいのではと思ったことも何度もあります。

実際に言葉として「離婚」が出たこともあるし、その時に妻が「そうね」と言っていたら、それこそ二人の暮らしも終わっていたでしょう。

一方で、そんな波乱があっても、両親は全くこみちたちの苦労も理解できていません。

彼らなりに感じているかもしれませんが、同居して言えるのは「ダメ」になって、取り返しがつかなくなってから指摘されて初めてその状況が分かるということです。

それはつまり、何もしなければ人は老いて、いつかは歩くことも食事を自分ですることもできなくなるとどんなに説明しても、両親には理解できません。

だから父親はテレビを見て過ごし、母親は思いついたことを繰り返して生きています。

例えば、朝夕の父親の飲む薬の準備も分類は妻がしてくれて、それを食卓に用意するのはこみちです。

以前は父親だけでしていましたが、飲み忘れや飲み間違えが頻繁になり、母親とも話しましたが父親のために頑張るとは言いませんでした。

「自信がないからしない」

それが母親の価値観です。

妻やこみちの方が間違えないから、私よりもいいだろうと言うことです。

一見すると理に適っていますが、父親は母親の配偶者で、一番近い存在です。

こみちとしては「でき限り頑張るけど、できないこともあるからフォローしてね」なら分かります。

でも丸投げできるのは、ナルシストっぽい行動だと感じます。

代わりに、思いついた食材を好きに買ってくるのが母親のスタイルです。

本当に買って欲しい物は気づかないで、こみちが買って来た同じものをまた買ってくると言う母親で、しかも母親には「自分も頑張っている」と言う気持ちがあって、苦労は平等だと思っているようです。

人としての幸せを両親と話しても、目の前にあればそれを手に取ることはできますが、考えて努力して、または工夫や他人を思いやってとなると、彼らにはもう難しいことになります。

だから、一流パテシエが作ったケーキ食べてもその有り難さは伝わらず、50%オフで買えたスーパーのケーキでも両親は目の前にあれば幸せに感じられるのです。

と言うのも、母親が買って来る値引きのセール品。

食べなくてももう知っているパンがまた置いてあって、「買って来たよ」と言ってくれます。

「安かったから」と幸せそうに話す母親ですが、こみちも高いものが食べたい訳ではありませんが、人が手にする物って、その人の価値にもなることを理解しなければいけません。

大切に扱われた物だからこそ、それを手にする人を大切に扱えると言う考え方です。

子育てでも、子どもに「お前はダメな人間だ」と繰り返していると、知らぬ間に子どもは自分無価値に思ってしまいます。

だから、そんな言い方は避けなければいけません。

でも両親にはそんな考えは理解できなくて、「ダメなものはダメだろう」で終わってしまいます。

実際には今はダメでも、それがどうしてダメなのかと考えて、時に問題点を少し克服できると状況が一変することもあります。

でもそんな思考は、ナルシストには不得手で、客観視ができません。

もちろん、こみちができていると言うことではなくて、両親にも良いところもあります。

でも両親は努力の仕方を工夫しませんし、頑張る量も時間も短くて、すぐに結果ができないと諦めてしまいます。

高齢者になれば、ただでさえ老いて何もかもできなくなってしまう状況で、だからこそ本当にしたいことを考えて、自分なりにどう頑張るのか作戦も必要です。

ご飯を作ってもらい、それを当たり前に食べるだけで、気が向いたら食器を洗って、それを褒めてもらいたいでは、幸せって見つかる気がしません。

そんなに簡単な幸せなら、みんなも苦労していないでしょう。

たくさん苦しんで、努力して、でも本番で実力発揮できずに落胆することの方が多いんです。

5年、10年とそれでも悩みながら続けて、少し手ごたえがあれば、頑張ってよかったと思うのが幸せなので、甘々なこみちから見ても両親の考えでは子どもの頃に見ていた幸せは転がって来ません。

それは長く生きて知っているはずなのに、やはり変わろうとしないんです。

そして老いて寝たきりになっても、「幸せではなかった」で終わってしまいそうです。

そうじゃないことを話しても分かり合えないことがどんなに一緒に暮らしていて辛いか。

時間があって、気力があって、家事もほとんどない父親なら、今だからできることがあるはずです。

しかも3年後、5年後ではもうできなくなることも段々とわかっているのに、気力も失せて食べて寝てだけになっている最近の生活ぶりを見ていて、残念な気持ちしかありません。

成功者になることが幸せではなくて、夢を持ってそれに向かって進むことが幸せだと思います。

もちろん進むだけじゃダメで、結果も大切なのですが、こみちは呆れるくらいに続けることで幸せを探したいと思っています。

それはこの記事を読んでくれる方に、上手くいかないことも多いけれど、でも諦めずに頑張って生きましょうと伝えたいからです。

こみちがいろいろと考えて、なぜこみちが生まれたのかを考えた時に、唯一言えるのは「継続」だったと思います。

少しずつでも手を加えて、時間は掛かってしまうけれど、人生の終盤にそれが完成し、これが自分の人生だったと振り返ることができる。

両親にもそんな体験や経験を踏まえて、幸せを手にして欲しいけれど、昨日の変わらない今日になんとなく身を置いて、時間だけが過ぎて老いてしまう。

そうなって欲しくなかったです。



段々と活動量が低下している父親

 父親はナルシスト

ナルシストとは、日常生活の判断基準が常に自分基準である人を言う。

だから、茶碗を洗うのも自分の分だけしか洗わない。

父親が洗い物をしていて、いつも何かと世話してくれる母親が彼女の茶碗を持って行っても洗わない。

「オレのは終わったから」

そんなやり取りと見ると、母親は寂しくないのだろうかと思ってしまう。

父親に対してきっと100倍くらいいろいろしているのに、それが感謝として伝わっていないからだ。

父親の視点で考えると、その中で自分が心から望んでいることをどれだけしてくれたのかになるのだろう。

世間的とか、一般的な意味でしたことは、父親にとって全く価値を感じなくて、だから母親の世話も多くはそんな部類に属してしまうのだろう。

実際、母親の行動は、思いつきや固定概念から起きることが多く、昨日もこみちがトマトと冷食を買って来たら、全く同じ物を買っていた。

どちらもこみちが個人的に使うもので、にも関わらず母親は気を利かせてくる。

家族として必要なものは他にもあるのに、段取りしていることほど横から入って来たりする。

一つには以前よりも気づきが鈍感になり、状況が見えているもの見やすいものに反応しやすい。

買い物前に確認したものをわざわざもう一度買って来たりするのも同じような理由からだろう。

だから父親も母親の行為をありがたいものではなく、勝手にやらせているくらいに感じ、自分は自分の基準で行動してしまうのかもしれない。

とは言え、今の父親は日中もほとんど寝ている。

ご飯も米を食べずにバナナを食べたりして、バナナなら剥いて食べるだけで洗い物さえ必要ない。

それくらい食事に対しても面倒が優先されているようなのだ。

長く世話していた老犬が段々と活動量を落とした時も今の父親に似た行動だった。

夢とか、希望って、人それぞれではあるけれど、頑張ろうとかやり遂げたいってこともモチベは自分から見つけるものだから、寝て過ごすようになった父親に何か頑張れと言っても難しい。

「つまらない」と思うのは簡単だけど、そこからまた頑張る気持ちを忘れて欲しくないと思ってしまう。

とは言え、父親は受け身の人生。

だからに与えられて、その中から自分なりの満足を探す。

今は週一でデイサービスが始まったから良かったけれど、それだって自分で言い出した訳でもないし、手続きした訳でもない。

家族でサービスの内容を紹介し、手続きも日程も相手と決めて、父親はただ予定日に話を聞いただけだ。

それだって「オレは断る!」と何度言ったことか。

それでも家族が父親のために世話を焼き、父親は幸せだと思う。


「男らしさ」と「介護」の狭間

「男らしさ」ってなんだ?

介護士として高齢者に接した経験を振り返ると、多くの女性利用者に驚かされて来ました。

その中である利用者から教えられた話として、自分が施設入所を決めた理由として「家族の心配」を挙げられています。

つまり、自身の気持ちとしては、自分らしく暮らしたいと言う意味でも、また家事などもできる自信があって、一人暮らしもできると思う方は大勢います。

しかし、遠く離れた家族としては、高齢になる親が一人暮らしをしていて、さらにアクシデントなどでケガなどを抱えた場合、心配してその暮らしに不安を感じ、時には今まで暮らした場所を離れて、子どもたちのいる遠く離れた地に引っ越しするような誘いもあるのでしょう。

とは言え、既に子どもが自分たちで所帯を持っていたら、その配偶者がどんなに笑顔だったとしても、高齢者になる自身の今後を気に掛けることも事実です。

そんな理由から自身で施設入所を選択し、しかも自身の住んでいた住まいを片付けて、終活するのは口で言うよりも簡単ではありません。

実はそんな大変な決断をされて、施設入所された「女性」を数名知っています。

一方で男性の場合、施設は仮の住まいで、時には何度も妻を施設に呼び、結局は施設での生活に馴染めずに退所される方も多かったです。

どうしても施設では自由が制限されますし、思うようにはできません。

家であれば「お茶をくれ!」も通りますが、やはり男性には施設での生活が負担に感じるのでしょう。

このような経験を踏まえて、「男らしさ」とは何だったのか考えます。

「男らしさ」=「初志貫徹」?

貫くことを男らしさだと考えるのは少し違うように思います。

「頑固さ」や「動じない様」は、それこそ感情を揺るがない大変さもありますが、例えばこみちの父親は動じないと言うか、殻にこもってしまいます。

自分のテリトリーがあって、そこでしか行動しないので、その外側にあることは誰かが与えない限りできないのです。

今は経済活動さえも枠外にあって、小遣いとして欲しい物を買うこと判断できても、家の補修工事などは分かっているようで分かっていません。

それは自身の今後、介護される暮らしに関しても同様で、「オレは長生きしない!」と言うことで考える拒否していますが、母親の方が先に他界することもあれば、介護を必要とすることもあるでしょう。

そうなった時に、自身が健康的でなければならないと言う自覚が感じられないのです。

つまり、「動じない」ではなく、「状況把握できないだけ」とも言えるのです。

こみち的に考える「男らしさ」とは、「最後の責任」と「極限状態での踏ん張り」ではないかと思いました。

例えば災害が起こり、家族が今の生活を続けられないと落胆した時に、諦めずに頑張れるかは「男らしさ」の踏ん張りだと思うんです。

「これから先ずはこうしてああして。だからみんなで頑張ろう!」

そんな言葉と行動で、この人なら信用して一緒に頑張れると思える人がどうかと言うこと。

もちろんスーパーマンではないので、上手く行かないことも沢山あるのでしょう。

でも、その頑張りを見て、家族として安心できることが「男らしさ」の本質ではないかと思うんです。

料理で例えるなら、母親の料理はバラエティーにあふれた美味しい物で、父親のそれは空腹を満たす保存食のようなもので、でもそれがあることで強く信じられるのです。

なので、外見の荒っぽさや融通が利かない雰囲気は、男らしさには含まれません。

むしろ、老いた時にただただ面倒な人になってしまう可能性があります。

舐められないように大きく見せたい人っていますが、確かにいちいち、自身のポテンシャルを話すのは大変です。

しかし、こみちも経験ありますが、凄い人はすぐに凄いと気づきます。

若しくは、接している中で、凄いと感じます。

なので、大きく見せると言う行為は、それだけ接して来た周囲の人が凄い人を実は知らないパターンではないかと思うんです。

父親の話に戻りますが、先日、こみちが手作りのハンバーグを作りました。

子どもの頃からこみちはハンバーグが嫌いで、母親が作った夕飯はとても残念な気持ちで食べていました。

大人になって、店でも注文することは少なく、でも段々とハンバーグに対する気持ちも変化し、それは妻が作ったハンバーグを食べて、レシピや作り方を聞き、段々と上達したからです。

あまり好きではなかったハンバーグを先入観を捨てて味わって、「美味しい!」と思いました。

特に上質な肉を使ったのではありませんが、家庭料理として食べる時に「ハンバーグ」を食べたと思えるくらいの仕上がりでした。

これなら家族も喜んでくれたのではないかと思っていたら、父親はそのハンバーグに手をつけません。

理由はいくつかあるのですが、母親が出来合いのおかずをいつも買って来て、父親に選ばせていて、ハンバーグは候補から外れました。

夕飯にも食べられず、翌朝にも、昼にも…。

そして一日経って、捨てられました。

まぁ、雑菌も気になるので、冷蔵庫に入れてあるとはいえ、作って時間が経過したら無理しないで処分することも悪い選択とは思いません。

でも、父親にとって、自分のテリトリーが全てで、市販のハンバーグはお手軽だけど、手作りハンバーグに感じる食感を楽しんで欲しい気もしました。

こみちも料理人ではないので、上手くできるとそうではない時があって、上手くできた時こそ、味わって欲しいと思うのですが、結局は閉じこもると言う行為を父親は選びます。

「食べるだけ」まで用意されて、自分で選ぶことで満足する人なので、行動はいつも同じです。

あれこれまわりで頑張っても、父親には全てのお膳立てをしないと受け入れてくれないので、手作りかどうかはもうほとんど無意識です。

よく母親に向かって、父親があれこれと説明している光景を見ますが、父親は新聞を読むこともしないし、家事もしないし、テレビを見て何となく知ったことくらいしか情報源はありません。

「コレはこうだ!」

そんな話をしている姿を見ると、その根拠はいつの情報からなのかと思ってしまいます。

物が高いとか安いとか、何十年も前の経験で話しても、今はもうそんな時代ではありません。

家にいて、受け身でいては、話を聞きたくても「それっていつの話なの?」となってしまいます。

父親に仕事の話や相談をしなかったのも、こみちがまだ社会人としてかけ出しで、父親に何か質問した時の返答を聞いて、それ以来相談しなくなりました。

それは、頭で考えることだけでは男らしさなど身に付かず、苦しい経験や苦い経験があって、だからどこまでならリカバリーできて、そこ以上は危ないと知っていなければ話できないこともあるからです。

多分、見ただけで凄い人だと思える人って、こみちよりももっと沢山そんな経験をされていて、でもそこから頑張って克服しているからでしょう。

何となくの雰囲気ではないんですよね。

いざと言う時に動けると言っても、いざしか動かない人は実際には動けなくて、やはり日頃からテキパキと行動していないとできるものではありません。

ぼんやりテレビを見ているだけで急に行動できる人がいたら、こみちも考え方が変わるのですが。

「人間」って何なんでしょう?と言う話

 「人間」=「魂」+「肉体」!?

何も極端に難しいことを伝えたいのではありません。

単純に人間って何なんだろうと思うのです。

学生の頃、将来のことや友だち、自分自身で悩んだりもするわけですが、老いを感じて思うのは、(若い頃に)後戻りはできないということ。

17歳で見ていた景色が、20歳、24歳と年を重ねて、やはり感じ方も自然と変わるものです。

仕事や将来の悩みも同様で、当時はとても悩んだことも、その後になれば大きな問題ではなくなったり、もっと大変な悩みを抱えて、当時の悩みなどもう考えることもなくなったりするからです。

医療が進歩する今、人間の寿命が何年なのか分かりませんが、ある意味で何か他人よりも得意と言えることを作るなら、「10年」と言う年月を考えましょう。

つまり、「料理人」でも、「歌手」でも、「旅人」でも、何でもいいのですが、「私は〇〇です」と自分が何者か言えるには、それくらいの年月を使って初めて言えるようになると思うんです。

東大に合格できる人は確かに頭がいいと思いますが、一方でその間に腕を磨いて何か特技を持って、それで稼げるようになれたら、頭のいい人が大儲けしたとしても、自分らしく生きられたらそれで不満は感じません。

儲けられる金額で比べるから多い少ないが出てしまいますが、嫌いなことややりたくないことを仕事にして、限られた人生の時間をそれらに費やすことの方がもったいないと感じます。

嫌で仕方ない仕事をして大金持ちになるよりも、好きだし楽しいし、喜んでもらえる仕事で稼げたら、一番幸せではないかと思うんです。

こみちはそれが「絵」なんですけど、「なぜ絵を描くのか?」って、シンプルな自問ですが意外と簡単には答えが出ません。

それは、写真そっくりに描くことを「描く」と言うなら、それは簡単ですが、もっと違うと思うからです。

結局、努力する様とか楽しい雰囲気が重要で、それって今はまだ嫌いな仕事で頑張っている人に希望を与えることができると思うんです。

だからこそ、遊びみたいな描くということも、大人が本気で悩みながら楽しむことに意味があると思ってます。

こみちよりも上手く描く人も、AIもいるのですが、「アイツ、今回はこれを描いたのか?」なんて、バカバカしくも、大人が楽しむ様に何か希望があればいいなと思います。

大金持ちになりたいとも思っていません。

大きな家や高級な車を所有したいとも思わなくて、それは自分に必要ないと分かったからなのですが、結局は「何を残したいか?」と思った時に「描くこと」が残りました。

例えば、これから先、こみちにお迎えが来て、もう描くことができなくなったら、単純に人間として望んだ夢が終わったに過ぎません。

不幸でもなくて、描くことができなくなったというだけのこと。

結局、人間は想いを持って生きていて、それを叶えるために体があるということだと思うんです。

ケガや病気で体の一部が不自由になれば、制限ができてしまいますが、その制限で落ち込んでも人生ですし、できることを始めても人生です。

だって肉体を失えば、もうそこからは人間として悩むこともないので。

失うまでの間、残った体でどう工夫できるかが人間なんだと思うんです。

だから、大金持ちだけど、人間として嫌なこともたくさんした人よりも、自分らしく生きることに精一杯な人間でいたいとこみちは思います。

まぁ、器用に賢くは生きられませんが。


「AI」が中心にある社会って…

 「AI」に相談するのは楽しいけれど

今や、「AI」にいろいろな相談ができますよね。

愚痴も聞いてくれれば、今後の生き方だって相談できます。

人間よりも相談しやすいと思うこともあるくらいです。

でもふと思うことがあって、それは約束を守れない両親との暮らしで感じたのですが、「ルールを守れない」って「AI」は理解できるのでしょうか。

つまり人間同士の付き合いで最も大切なことって、互いに歩み寄り、現実にできることで悩みもトラブルも克服できました。

一方で、「AI」にビジネスの悩みや相談をしても、本当にいろんな視点から提案してくれたりして、なくてはならない存在だと感じます。

ですが、誰かの「AI」とこみちが使う「AI」が、膨大なデータを介して通じ合えたとしても、その誰かとこみちが上手く関われるかは疑問です。

なぜって、こみちは相談した「AI」の言葉だけを聞き、その方もきっと「AI」を信じていると思うからです。

つまり、まだ数年は大丈夫だとしても、誰もが「AI」だけを信じて行動するようになったら、それこそみんなの中にある「社会」が今とは別ものになってしまい、今なら互いに歩み寄りよれたことも、その頃には「こうでなければならない」と言う感じに変化していないでしょうか。

例えば、買い物をして所持金が1円足りないとして、店の人がまけてくれたり、次回でいいよと言ってくれたりする解決策も、人同士だからできることで、これを「AI」が代わりに行ってくれるのでしょうか。

ダメならダメと言う判断になり、意外と融通のきかない社会になってしまわないか気になりました。

「どうすれば物は売れるのか?」

そんな相談をして、とても優れた返答だったとしても、本当はそれ以外にも方法はあるはずなのに、段々と「AI」の答えだけが唯一になってしまうのではと思うのです。

「正解」と言う安心感が、逆に人間らしさも狭めてしまわないかと言うことです。


「学習」しないタイプとの接し方

 「学習」できないとどうなるのか?

経験から学ぶことができないと、失敗やミスを永遠に繰り返してしまいます。

つまりは、周囲の人が不幸になったとしても、それを止めることができないので、「学習」しないタイプとの接し方はまわりが注意するしかありません。

学習できない人は、そもそも自分の尺度でしか行動できないので、他者との関係で遠慮や配慮がありません。

時にはそれに似た振る舞いもありますが、多くはいざとなったら全てが自己基準で行われます。

例えば、昼までに約束を守ると言う時でも、約束した相手とは別の人から電話があれば、約束が守れないことも仕方ないと思ってしまいます。

それは、自分基準で考えるので、「予定が重なったのだから…」と自分なりに納得します。

でも言い換えれば、何も関係ない相手には約束が破られたと思われ、信頼関係も崩れます。

相手が寛容なら、そんな振る舞いにも「まぁまぁ」と許してくれるかもしれません。

つまり、学習できない人との付き合いは、相手が我慢するか、関係を断ち切るしか方法はありません。

母親の行動

ここ一週間くらい前から、母親の行動に歯止めがなくなりました。

買い物する分野を分けていたのですが、今は母親が思ったものを好きに買って来るようになり、一方でこみちが買って来たものも勝手に使われてしまいます。

「お互い様」

と言う認識かもしれませんが、予定や計画に合わせて準備したものでも勝手に使われてしまうので、言い換えれば勝手に買って来たものがどんなに多くても、肝心のものが無いと言う状況になってしまいます。

でも行き当たりばったりな母親は、「また買って来ればいい」と思っているのですが、予定に合わせた準備を妨げられてしまうので、こちらまでバタバタになります。

「関わりたくない」と言うアピールをしても、少し時間を空ければ忘れていると思っているようで、反省もしませんし、謝罪もしません。

同じパターンを延々と繰り返し、それを当たり前にしようとするのがいつもです。

こみちが引いている態度を示しても、もう何も感じないようで、嫌がることでもずけずけと踏み込んで来ます。

記憶力が低下し、怒られたり、忠告されたりしても、翌日には忘れてしまい、やはり同じパターンが始まります。

もう距離を置くことでしか対策はないくらい、母親の遠慮もない行動が目に余ります。

して欲しいことはしてはもらえず、して欲しくないことで、母親ができることは再三繰り返されます。

自分で処理してくれることなら良いのですが、そうではなく「助かるでしょう!」と思っての行動が迷惑に思えます。

言っても理解できず、放置すると本末転倒な行動を続ける。

無駄しかない行動を続けると言うことに、こみちは虚しさしか感じません。

決まりごとが覚えてられない母親

 記憶に低下は誰にでも起こる!

年を感じるタイミングで、記憶の低下が挙げられます。

母親も物忘れが酷く、数日に一回は「〇〇が無い!」と探し物をしています。

最近で気になるのは、家の中を素足で歩くこと。

暑いと言うのもありますが、スリッパを履かずに歩きまわります。

履かなくなる理由は、スリッパをどこかで脱いで、それが分からないまま行動したい気持ちが優先されて素足で歩くのですが、トイレに入る時も廊下にスリッパが無いので、電気だけがついていて、今朝はつけっぱなしだと思って消したら、「嗚呼!」と言う声がして使っているのが分かりました。

ドアにも鍵を掛けていないので、使用中かも分からず、電気のつけっぱなしはよくあることなので、パッと消してしまうことも少なくありません。

また収納場所が変わっている!

今朝も朝食と弁当を作りました。

弁当を冷やすために保冷剤を使うのですが、いつもの場所にありません。

その場所には別の保冷剤が置いてあって、多分母親が自分用に置いたのでしょう。

こみちが使っている保冷剤は、もう一つの保冷室の奥にありました。

なぜにそんな場所に移動させるのか不思議ですが、「隠されている」レベルの移動です。

母親の頭の中で、自分の使う物は大切で、そうでないものはそこになくてもいいと言う感覚です。

ナルシスト気質な行動ですが、本当にわざとではないのかと疑いたくなるくらい毎日使っているものでも平気でどこかにしまわれてしまいます。

「使っているんだけど!」

そんなことをもう何度言ったでしょうか。

そして母親は「知らなかった」と繰り返します。

「今後は気をつける」と言うことでは無いので、結局は失敗を正当化しただけで母親は終わるので、また数日後には勝手に片付けてしまうのです。

介護の勉強で、高齢者が特定のものを収集する行動を学びますが、多分母親もボケてしまうとそんな行動をするのかもしれません。

自分が使うものは割とどこにでも置きっぱなしなのに、思いつくと勝手に人のものを片付けてしまいます。

もう一つの特徴が、やっている雰囲気を出すこと。

いつもは、6時30分くらいに部屋から出てくる母親ですが、数日前から5時30分過ぎに出て来ます。

朝食作りをして片付けをして、洗濯物を干し終えるところまでを6時までに済ませたいとこみちは予定して、そのペースで行動しているのですが、ふと思い立つと起きて来て、洗濯機をいじり出したり、洗面所陣取ったりで、歯磨きしたいタイミングの時に使われていたりします。

それが面倒で早朝からいろいろとしているのですが、昔は7時までに洗濯機を使い終える約束になっていました。

なのでこみちが6時30分までに…と行動していると、いつの間にか7時が6時30分に早まり、しかも早くなって何をするのかと言うと、洗濯機に洗濯物を入れるだけだったりします。

洗面所も電気をつけて、化粧品を起き、そしてその場を離れてしまうのです。

化粧が完成に終わるのは、午前10時頃。

つまり6時からあれこれ始めて、空くのは10時なんです。

なのでタイミングを外すと、いつ空いているかなぁと何度も確認しないと使えません。

今朝、起きて来たのは、もしかすると梨を剥いて父親に食べさせたかったからかもしれません。

剥くのなんてそう時間が掛かるものではありませんが、母親は不思議で、やりたい時にすぐに始めたい性格なので、食べる何時間も前に始めるのです。

ちょっと何かするだけでも、全てが大事になって、時間も場所も使うので、こちらの予定がある時は本当に寝ていて欲しい気持ちです。

今朝もそれだけ何かできるなら、もう朝食は自分たちで作ってくれたらと思うのですが、それは嫌なんですね。

義務になるので。

そうではなくて、思いつきで好きなようにしたいのが本音で、それが本当にこちらには邪魔なんです。


上手く言えませんが「自分の人生ですよ」と言いたい!

 もしも悩んでいる人がいたら

お力にはなれませんが、お伝えできることがあるとするなら最後は「自分の人生」だということ。

その悩み、上手く解決したいから難しくなっているとするなら、悩んでも解決できない時は、何から切り離せるかを考えてみてはいかがでしょう。

学校や職場での悩みなら、それこそ卒業や転校、転職すれば切り離せることもあるはずです。

環境を変えて悩みが解決できるなら、頑張ってもやり通せないなら「逃げる」も手段だと思います。

と言うのも、「自分の人生」なので、例えば北海道、東京、大阪、福岡、どこにたまたま生まれたというだけで、「今」があります。

だったら別のルートを選び直しても悪くありません。

なぜって、今の生活も偶然でそうなっているだけなので。

むしろそれで自暴自棄になって、自分を見失ってしまう方がずっともったいないと思います。

こみち、ナルシストな気質の両親と暮らしていて、子どもの頃は思わなかったのですが、今は両親が変化してくれないことにずっと悩み苦しみました。

何より、話し合いができないんです。

「こう思うよ」と伝えても、その意図や考えをナルシスト気質って理解できないからです。

結局「こうしなさい」とか「みんなは…」とか、両親の考えしかないので、どんなに話あっても寄り添い合うことができません。

それこそ両親を捨てるか、そんな両親を丸々で包み込むのか、その二択しか選べないんです。

昨日、めちゃくちゃ辛いことがあって、とても疲れました。

それを少なくとも知っているのに、両親は助けてくれませんでした。

「手伝おうか?」とも。

そんな中で母親がしてくれたのは、自分たちが使った食器を洗い、ゴミをまとめて処理してくれたこと。

それが母親らしい優しさですが、実際にはまだゴミが出てしまうので、結局は同じことをやはりこみちも後からしなければいけません。

つまり、「何かしたい」と思った母親が、タイミングも考えないでした行動なんです。

これはナルシスト気質の自分基準という行為そのものですが、折角の努力もこみちには役立たないんです。

辛い時には、辛くなったことを代わって欲しいのに、してくれるのはいつも普段はしないようなこと。

だからどんなに辛くても、助けてくれることはありません。

父親も電気を消すことで自分らしさを出して来ました。

でも、すぐに戻って来て使う時も、父親の判断で電源を切ったりするです。

父親にすれば「役に立った」。

でもこみちにすれば「それが迷惑」だったりします。

かと言って、何か言ってももう変わってはくれません。

父親ができるのは、父親が思ったことだけ。

まわりを考えて相手のためには動けないんです。

それがナルシスト気質の人の行動。

予定通りなら終わったというタイミングでも、いつの間にか電源を切られていたと言う手間を頻繁に起こります。

もう両親が変わることはありません。

それを受け止めるかどうかをこみちが考えるだけが唯一の選択です。

つまり、それも「こみちの人生」なんです。

両親と距離を置き、彼らが彼らで生きることも選択肢です。

それなりに暮らせるんですよ。こみちがいなければいなかったなりに。

だから、あまり深刻に悩む必要はなくて、できることをするくらいでいいですよ。

頑張って理想を目指さなくても。

なぜって「こみちの人生」なので、自分を壊してまで頑張る理由はどこにもありません。


「ナルシスト」の両親がいつもしている行動に

 全てが対等に見えてしまう!?

老いてから母親は全く料理をしなくなり、代わりに出来合いのおかずや弁当、惣菜パンなどを買って、それを父親と昼に食べます。

そして、一日中何もしない父親は、ここの所意欲が低下し、例えばテレビを見つめてエアコンのリモコンを操作してしまうほどです。

日常的な刺激が少なく脳の萎縮が進んでいるのかもしれませんが、一方では興奮を抑える薬の効果で意欲減退が見られます。

家の中で暴れてしまうくらいなら、何もせずにじっとして欲しいという母親の意向もあって、主治医と相談した結果です。

一方で、母親は根っからの天然気質で、その原因は「ナルシスト」特有の自分基準でしか考えられないことの現れでしょう。

みんなである話題で盛り上がっていても、急に別の話を始めるというような場違いな言動が日常生活の至るところで見受けられます。

そして、昨日、いつも通り母親が弁当を二つ買って来ました。

惣菜パンも二つ。他にも父親が食べそうな物を買って来て、それを並べて父親に選ばせるような方法で昼食が始まります。

当然ですが、選ばれない物もあって、でも翌日にはまた同じように母親は買い物をします。

母親にとって買い物をすることが「当たり前」なっているからです。

そして、残った物をどうするのかというと、こみちたちに「食べろ」というのです。

昨晩、こみちはいつものように晩御飯を作りました。

別の物も食べたくなるだろうから、それ以外に食べたい物を買って来ればいいという話だったのに、段々と母親も同じように夕飯として買い物をし、昨日は用意したおかずと一緒に弁当も並べてありました。

賞味期限は当日。

妻と食卓について、「どうする?」という話になったのです。

こみちとしては、押し付けられたことを無理して処理しても、相手はナルシストの二人なので、「ありがとう」にはなりません。

むしろ、買って来たことに「ありがとう」と言われたいくらいの気持ちでしょう。

弁当の件ばかりではなく、いろんなことでそんな尻拭いばかりしているので、こみちとしてはもう頑張って辻褄合わせをする気力が持てません。

しかし妻の意見は勿体無いから弁当を食べるというものでした。

結局、残った弁当を妻が食べて、母親に「美味しかった」と報告するのです。

演技の「ナルシスト」とは違い、本物の「ナルシスト」は、本当に他人の想いが汲み取れません。

確かに「大丈夫?」とか優しい言葉を掛けてくれることもありますが、それも「自分だったら」という基準から出た言葉に代わりないのです。

つまり、弁当を買って、それをこみちたちに押し付けて、代わりにこみちが作ったおかずを普通に食べてしまうえるのは、こみちとしては理解できません。

「残り物を食べてもらう」後ろめたいことも、母親や父親には「お弁当を奢ってあげた」というくらいに理解されていて、だからこそ用意した夕飯を当たり前のように食べています。

こみちも、自分は心が狭いなぁとも思うのですが、いろんな場面で自由奔放な両親を見て、その尻拭いばかりしていると段々と嫌な人間になってしまうのです。

実際、もう心が両親に対して閉ざされてしまい、二人に会うまでは優しい気持ちでいても、二人の雰囲気を感じただけで心が閉じてしまいます。

今は優しい言葉でさえ、それが親の目線で発せられたと瞬時に思って、他人を労わる気持ちではないことを感じてしまうのです。

何を言われても、こみちの気分は低下するしかありません。

父親だけでも面倒に思うのに、母親が一日中家にいると何してもバッティングするので、一気に面倒さが倍増します。

洗面所を使いながら、キッチンやダイニングテーブルも使っているという状況が起こり、何かしたくても何かでぶつかります。

「使っていいよ」

というスタンスの両親は、途中になったままのものを共同でしたがります。

コップを一つ洗いたいだけなのに、両親が使った一回分の食器丸々洗うようなことになるのです。

それが本当に面倒で、できるなら関わりたくありません。


問題を抱えた時「他人はどう解決しているか」探してみました!

 問題を解決する方法

何となくでも、この先になってトラブルや困難な状況に陥る気がして、「問題」になっていたらどうすればいいでしょうか。

例えばこみち家で、父親も母親も悪い人ではありません。

でも「ナルシスト」気質です。

つまり、自身の価値基準が全てで、他人の価値基準を踏まえた行動や尊重が苦手です。

なので「こんな風にしてくれたら」と願望があっても、それを察して行動することができません。

具体的には、毎朝母親の希望する朝食を両親分作ります。

ですがそれを作る野菜を買って来ていません。

当然ですが、それでは希望通りの朝食を用意することはできません。

例えばそんな時、母親はレトルトのハンバーグを買って来ます。

レンジで温めて食べられる便利な一品です。

でも数日前、手作りでハンバーグを作るためにミンチ肉を買って冷凍庫にしまっておきました。

休み前の夜に、ニンニクも使って作りたいと話していたんです。

そして昨日、母親がレトルトのハンバーグを買って来たと言う流れです。

「嗚呼、何かハンバーグって言っていたなぁ」

そんな微かな記憶が母親に残っていて、「野菜」ではなく「ハンバーグ」だったのでしょう。

以前なら、メモを書いてあげるなど、母親の少しミスしてしまう行動を改善できないかと悩んでいました。

そしてその解決策のヒントが、巷にないだろうかと。

多くの人の解決策を探して、皆さんがどんな風に考えて答えを導いているのか調べました。

そして分かった結論は、「そもそも、そんな状況にならない」でした。

「そんな状況」とは、こみち家で当てはめると「母親の買い物に正確さを期待する」ということです。

つまり、そんな母親をどう誘導すると改善できるのかを考えるのではなく、そもそも母親の買い物に期待や前提に含めないことで、問題として想定しません。

問題になっていないので、もう解決策を考えることが必要なくなります。

例えば典型的な職場のトラブルで、上司との関係や抱えている仕事の問題などがあるでしょう。

そんな時に、現状をどう解決すればと悩むのですが、結論を言えば「そもそもそんな状況にしない」と言う意味では、直面した状況何か手を加えるのではなく、それを含む根底から変えてしまいます。

つまり、人間関係なら、その場を離れられる方法を考え、仕事面であれば上司に期限や優先を決めてもらうなど、自分だけで頑張るのではなく、他人や環境などに変化を求めます。

最近、リビングで寝起きするようになった父親ですが、昨夜は布団さえ敷かずに丸まって寝ていました。

「そんな格好だと体が痛くなりますよ!」

こみちの妻がテレビをつけっぱなしで居眠りしている父親に声掛けいました。

「お布団、運んで来ましょうか?」

晩御飯の後片付けをしていたこみちは驚きました。

「嗚呼、お願い」

父親はそう言ったのです。

女性が運ぶには軽くない布団を父親は「お願い」と言えてしまいます。

ナルシスト気質な父親には、女性が重い布団を運ぶことに罪悪感はありません。

あるのは、して欲しいかどうか。

そんな性格の父親に、他人をおもいやれと諭すのは不可能です。

みんなが忙しく働いている時でも、父親はテレビを見ていて、「何か手伝おうか?」と申し訳なさそうな態度は見せません。

誰も何も言ってくれなくても、まだ大丈夫と思えば何もせずに沈黙を続けます。

そして、どうしようもなくなる前に、母親がいつも寄り添ってくれて、生きていられたということです。

父親を見ていて、何が楽しいのかと思うこともあります。

何か楽しみを見つけて、生きられたらとも思います。

でも父親にとって、今が幸せなのでしょう。

何もしないでいられるので。

だから、父親に無理してあれこれと世話を焼く必要はありません。

何か言ってくればその時に考える。

それくらいでいいはずです。

なぜなら、父親もそれ以上を自分で築こうとはしないからです。

妙にやきもきするからストレスに感じるだけで、こちらも全面的に受け身にすることで、悩みにもなりません。

問題にずっと悩んで来ましたが、それ自体を解決できないなら、その根底から変えてしまうことで解決できるということを学びました。

「ナルシスト(価値基準が自分だけ)」な両親とどう付き合えばいいのか?

 リビングで寝起きする父親

日中、ほとんどの時間をテレビの前で寝転んで過ごす父親。

そんな父親が、自室を使わなくなくなり、夜もリビングで寝ています。

性格的に目立つことや派手なことなら好みますが、地道で目立たないことが苦手な父親。

なので、家事分担も褒められないとできません。

「いつも丁寧な作業だね」

「やっぱりお父さんだとキレイになっている!」

一方で、「ここ、上手くできていないね」とか「もう少し時間を考えてやれない?」とか、マイナス的な評価を受けた時に、父親の反応はいつも「拒絶」です。

なので、褒められそうなことじゃないとできません。

例えば誰かがその場は貧乏くじを引くしかない状況で、「じゃあ、オレがするよ!」と言う言動は先ず父親の場合あり得ません。

それは心理学的な「ナルシスト」の自分基準しか持てない特徴に照らしても、自分が損を分かって動く時は、すぐにサポートが入るとか、みんなから「流石!」と大絶賛される時だけです。

貧乏くじでも、それがみんなから注目されていれば、「オレがする!」と言えるかもしれませんが、そこに困難があると気持ちが萎えて、途中で投げ出すことも珍しくありません。

ちょっと想像してください。

こみち家のリビングは、ほぼ父親が陣取っていて、もう何年もこみちはリビングのテレビでチャンネルを変えていません。

そして、リビングのエアコン。扇風機も父親専用になっていて、こみちが居ても暑ければ勝手に稼働して、寒くなれば勝手に切られます。

設定温度や風向きの変更を操作できない父親なので、誰かが汗だくでも、つけたり切ったりをずっと繰り返しています。

今、夜もリビングを陣取っているので、朝も晩もキッチンで料理する時は温度を調節できる機器を父親しか使えません。

扇風機を自分の近くに置いて寝ているので、それをキッチンの方に向けて使うことも躊躇います。

汗がダラダラと流れる中で、父親や母親が食べための朝食を作るのに、何だかやるせない気分です。

しかも、汗だくで用意した朝食でさえ、気分次第で食べないこともあります。

何より、母親が遅れて起きてきて、父親のためにまた朝食を作ることもあります。

「お父さん、これ好きでしょ?」

母親も父親と同じナルシストな気質で、自分の価値観でしか行動できません。

それは他人の気持ちをくみ取ることが不得意と言うことで、汗だくで作った朝食を「有難い」と感じるよりも、「何でウインナー2本なの?」と欠点や不満点を口にするのが癖になっています。

2本が悪いと言うよりも、母親の気持ちとしては例えば「3本ならいいのに!」と言う価値観があって、そう思った時に「2本」が不満に思えるのです。

そして、既に用意された状況で、さらにまだ得があることを幸せに感じるのも二人の特徴で、「新しいものを先に使う」ことが大好きです。

「ちょっと手をつけて」と言う行動が多く、それを後で使う人の気持ちがわかりません。

それはエアコンも扇風機も自分専用にして、誰も使えない状況になっていても気にしないでいられるのは、「ナルシスト」な気質だからでしょう。

父親が自分の部屋で寝起きしていた頃、早朝のわずかな時間ですが、誰もいないダイニングテーブルに腰掛けて、動画視聴する時が幸せでした。

でも今は朝から目の前にイビキをかく父親がいて、それこそキッチンの照明だけつけて料理しています。

一度、そんな時に母親がトイレに起きて来て、リビングやキッチンの様子見ています。

母親にすれば、「暗かったら電気をつければいい」と言う性格なので、逆にこみちが薄暗い中で料理しているのを不思議に感じているでしょう。

父親にしても、途中で目を覚ましてトイレに行ったりしても、リビングで寝起きすることが迷惑とも感じていないのです。

仮に感じたとしても、自分の「得」を失うことはしないので、今が良ければ父親が行動を改めることは考えにくい話です。

得を与えれば、底なしに受け取り続ける二人なので、こちらが力尽きるまで、気力がなくなってやめない限り「もう十分だよ!」とはなりません。

エンパスがナルシストに近づいてはいけないと言うのも、相手の欲求を敏感に感じるエンパスには両親のようなタイプは負担が大き過ぎます。


冷凍庫の中が移動されている!

 「ナルシスト」の特徴

心理学的な意味でのナルシストは、良くも悪くも自分基準で行動します。

なので、気が利く面もあり、お節介な面もあります。

なぜなら、「自分がどう思うか?」で全ての行動が行われるので、他人がどう思うかやどうしておくと使いやすいかを配慮することが苦手です。

こみちの両親は二人ともがナルシストな気質で、どんなに説明しても行動を抑えることができません。

「アレ?」

と思えば、洗濯機を途中で開けてしまうのも、言えば悪気があるのではなく、気になったら止められないのです。

「何しているの?」

たまたまトイレ掃除を終えて便座カバーだけを回していたので大事ではありませんが、いま以上に認知機能が低下すると「自分の衣類も洗いたい!」と思ったら洗濯機に入れてしまうかもしれません。

今朝、朝食を作るのに、冷凍のハッシュドポテトを取りたくて扉を開けてみると、いつもと置き場所が入れ替わっていました。

直ぐに使いたいものを手前に、後で使いたいものを奥に並べていたのですが、肉類や冷凍食品と言う具合の分け方に変わっていました。

それをするのは母親なのですが、母親もナルシストのタイプなので、「これじゃ分からない!」と思ったら、自分では料理をしないのに並び替えて満足します。

頭の中で食材の使う順番を想定しているこみちには、やはり勝手に入れ替えられると逆に混乱するのですが、そこがナルシストの融通が利かない部分で、「いじられると分からなくなる」と言っても伝わりません。

どこにでも置く癖

母親には物をどこにでも置く癖があり、よくものを無くします。

昨日も蓋つきのゴミ箱の上にカバン書類を置きっぱなしにして、お風呂に入ってしまいました。

ゴミを捨てたい時、置きっぱなしの鞄を一度移動しなければいけません。

以前はそんな手間を掛けていましたが、そして「置きっぱなしにしないで」とも言って来ましたが、母親の行動に変化はありません。

なので、昨日は空のペットボトルをゴミ箱に近い目につく場所に並べて置きました。

普通ならゴミが使えなくてココに置いたのだろうっと想像できる状況です。

しかし、母親は立ててあったペットボトルを横に並び替えて、そのまま捨てることもなくそこに放置したのです。

しかも鞄は移動しているので、ペットボトルが放置されたままになりました。

ゴミ箱に捨てればそれで片付くことも、ナルシストは独特な基準で行動するので、ペットボトル=ゴミではなく、横向きに置いておこうと言う考えが働いたのでしょう。

そして、しばらく放置されたら、今度は「誰?ココに置きっぱなしなのは?」と母親が思うのです。

「もう、誰も片付けないんだから…」

母親はそんな風に思って、片付けるのかもしれません。

つまり、ゴミ箱の上に私物を置きっぱなしにすることを止めるには至らないのです。

冷凍庫を無駄にいじるのもそうですが、そこにこだわるなら別の気になることが幾つもあるだろうと思ってしまっても、母親の視界にはそこしか見えていません。

誰かが触ると、そこが気になって手直しする。

だからまた直すと、いつの間にかまた移動されている。

「なんでイジるの?」

「イジっていない」

「イジっているじゃん!」

「そう?」

こんな会話になります。

でもこれってこみちをバカにしていたり、嘘をついていたりするのではなくて、「イジる」もまた母親には独特な理解や解釈があって、置き場所を変える=イジるではありません。

あくまでも母親には意味があって移動していて、だからイジった訳ではなくて、またそれで迷惑していてもそれが理解してもらえないんです。

自然現象のようなもので、なぜ?を考えても答えは見つかりません。

だからこそ、ナルシストな気質なのでしょう。

昔、よく考えていたこと

 世界観について

ありきたりな話ですが、生まれて亡くなるその日までに、何人の人に出会えるでしょうかと言うこと。

しかも、その人数が多いから幸せとは限らなくて、例えばたった1人の掛け替えない相手と回り会えたらその人生はもう何ものにも変えられません。

つまり、人生が80年や100年だとしても、思うほど時間はなくて、会えることができる人もそう多くはないということ。

同じ駅を利用している住まいがとても近所の人でさえ、その人と知り合える可能性はとても低く、これはこみちが過去に遭遇した人ですが、「昔、〇〇に住んでいたんですよ!」なんて話を聞いて、数年くらいのスパンで同じ駅を使っていたと分かったりするものです。

たまたま訪れた場所で、相手も予定外なことがあって、そして偶然に出会えることだって奇跡といえばそうですが、出会えるという意味では常にそんな偶然が重なって人は知り合えるんですよね。

何が言いたいのかというと、今の生活がどうしても不満に思うなら、そして自分が大切にしているものを一度手放せる覚悟があるなら、新しい環境を求めて行動するのも悪い選択ではないと思うんです。

もちろん良いこともあれば、悪いこともあって、今の環境とは変わっても、また別の意味では何か不満はあるはずです。

だから次々と変えても、結局は全てが浅いところしか見えないので、そこは一度真剣に考えて、その結果の決断なら10年後、20年後も後悔はしないでしょう。

そして、もしも自分も存在や生きる意味が分からなくなったら、誰かために生きてみましょう。

子どものためでもいいし、親のためでもいい。

何らな縁もゆかりも無い誰かのためでもいいと思うんです。

何より楽しむ気持ちが持ち続けられる方が良くて、どんなに小さな些細なことだったとしても、やはりそこに救われる人っていると思います。

「まだココで頑張っています」

それを聞いて、何か自分も頑張ろうと思えたりしますよね!

自分変えたくて、5年とか10年を掛けて頑張ってみる人生も悪くありません。

粘って粘って、その中に「良かった」と思えることがあるからです。

こみちもボチボチですが、諦めずに頑張ります。

みなさんもマイペースで進んでくださいね!

ドアフォンが壊れてしまって

数日前に鳴っていないことに気づいて

玄関のチャイムが鳴っていなくて、急きょドアフォンを買いました。

こみち家の場合、多機能よりもシンプルなもので、両親でも使えることが条件です。

今回は、防犯も考えてカメラ付きのタイプを選び、ドアを開けなくても外の様子が確認できるものにしたのですが、取り付けも機能の確認も唯一妻が手伝ってくれましたが、両親は一切知らん顔でした。

先ず、購入代金はこみち持ち。

取り付けもこみち。

でも機種選びは両親に合わせて使いやすいもの。

だからあまり複雑なものは選べません。

何より、作業している時も父親はテレビを寝転んで観ているだけで、「完成したから説明するよ!」と伝えた時でさえ、面倒そうな態度をあからさまにします。

「オレだって好きでしているんじゃないぞ! だったら自分で全部しろよ!」っと言いそうになりましたが、ナルシストな父親の基準で考えれば深入りすれば代金を半分出してと言われるかもしれないし、途中から急にはしゃぐのは自分のスタイルに合わないので、結果的に無関心になったのでしょう。

父親の場合、自分のペースで、しかも先頭で試せるような時は家族より進んでしたがりますが、「誰かの後」2番手と言うことをめっぽう嫌います。

そして、母親。

「これなら操作も簡単でしょ?」

そういうと、「ディズプレイが小さくて見づらい」「カメラこれ以上鮮明にならないの?」と、ドアフォンが直って喜ぶ前に、散々思いつく欠点を探します。

すると妻が「設定も一人でしてくれたんですから…」と母親を宥めようとすると「一人? 手伝わされたんじゃないの?」と話が脱線します。

「お父さん、聞いている?」

集まれと言っても父親は来ません。

声を掛けてもちょっと手を挙げて応えるだけです。

別にお金や手間を半分にしようと言いたいんじゃないんです。

でもそこまでしても、「代金、少し出そうか?」とも言いませんし、「大変だったね。ありがとう」とも言いません。

両親には「家族なら当たり前」と言う価値観があって、例えば母親は毎日ように菓子パンを買って来るのですが、それは父親やこみちに対する優しさの表れです。

糖尿病だからではなく、「気を配っている私は優しい」と言う価値観で母親の行動は成り立っています。

だから、そこに意味があるかないかではなく、自分が思う優しさなら良くて、でも家族のためにするのは当たり前と言う考え方に基づいて、壊れた電化製品をいろいろ調べたりして時間を割いたとしても、全部「当たり前」で片付けられてしまいます。

取り付けでは以前のドアフォンと少しサイズが違うので、少しですが加工もしていて、新たにショップでネジなども買い増しして割といい感じにできたのですが、それさえも全部が両親の価値観には引っ掛かりません。

今の父親は一人でテレビを寝転んで観ていて、時々は居眠りして1日が終わります。

何をしているでもなくて、こみちには何が楽しいのかも良く分かりません。

母親は、りんごや葡萄など、父親のためにいろいろと買い込みますが、例えばもうりんごの皮むきを率先してすることがありません。

その内、誰も見向きもしないで腐らせてしまうか、こみちが皮むき、塩水に浸して、食べられるように切って、父親が「じゃあ、食べようかな!?」と思えば手を伸ばして、そうでなければそんなりんごも放置されてしまいます。

以前はそれなりに剥いたりもしていましたが、「優しくしたくてする」と言う気持ちでなければ、両親のようなタイプは価値観がこみちとは違うので、「こんなにもしてあげているのに」と不満しか残りません。

だから少しギリギリまではそっぽ向いて、自分たちで行動しないと誰もしてくれないと思ってくれません。

「ありがとう」

そう言えれば、どれだけ楽に生きられるのかと思いますが、そこが本物ナルシストな部分で、父親も母親も全く手段を変えることができません。

それを見ると、ワザとではなく、本心からそうしか生きられないんだと再確認できます。

今までもあれこれと言いましたが、全く歩み寄ってくれないのは、他人の言動を両親の頭では理解できない構造になっているからです。

父親がおもむろに、紙幣をテーブルに投げ捨て、「これでアイスクリーム買って来い!」と言えば、そのお金を有難そうに拾って母親が「お父さんが奢ってくれるんだって。感謝しましょ!」とこみちたちによく言っていました。

金額ではありませんが、父親は自分がしたい時しか行動せず、母親は他のどんなことで家族が支え合っていても、父親の投げ捨てたお金で喜びます。

しかも、使い過ぎたら、ちゃんと母親が父親にお金を戻していると知り、その頃からそんな父親のパフォーマンスに白けてきました。

でも、それが父親には自分らしさや家族を想う気持ちなんです。

大事な時にそっぽ向いて知らん顔するのも、父親はこみちが思うようには自分の行動を理解できていません。

だから「ありがとう」と言うべきタイミングを見逃していきています。

幸い、母親も同じタイプなので、夫婦間では大きな不満も起きなかったのでしょう。

今になって、母親が「もうお父さんって大変!」と言いますが、母親も同じタイプですし、父親も今に始まったことではありません。




幸せに生きるために心掛けたいこと

美味しい料理の匂い

例えば、ニンニクの匂いが鉄板からしていたら、思わずいい感じに焼けた肉を想像するでしょう。

また、コーヒーの香りも昼下がりのひと時をもてなしてくれます。

匂いや香りと言う、鼻腔から感じられる経験が、心地よい時間を与えてくれると言う紹介ですが、実は全く異なるものでも同じようなことが言えます。

それが、「気」なのですが、難しい話をしたい訳ではなくて、例えば「笑顔」の人と「顰めっ面」の人がいたら、どちらの人に話し掛けますか。

どうしてもその人でなければいけないのでなければ、怒っている人にわざわざ関わりあいたいとは思いません。

つまり、結論を言えば「幸せになりたいなぁ」と思うなら「笑顔」で生きることです。

でも生きていれば嫌なこともありますし、避けられない時もあります。

愚痴を言いたくなったり、その相手を恨んだりしたくなるかもしれません。

感情としてはよく分かるのですが、自分が幸せになりたいなら、そんな足を引っ張られるいろんなことをどれだけサラッと流せるかも重要です。

嫌な気分でその日を過ごしても、気分を変えて楽しく生きても、1日は1日なので、その時の気分で選びましょう。

こみちは老いている両親と同居しています。

今朝も両親の食べる朝食を作り置きしました。

時間を割いて作っても、食べずに冷蔵庫に入れられて、夕方くらいにゴミ箱に捨てられていることもあります。

「折角作ったのに…」とは思いますが、作るまでが作業でその後はもう考えないようにしています。

両親にしても、食べるものがアレもコレもあることが幸せで、食べ切れずに捨てることになるのも贅沢なことです。

今はスーパーに行けばいろんな惣菜を買えるので、家で料理をしなくても食べることに困りはしません。

近所でも食材を届けてくれるサービスを利用している家庭も多く、いろんな業者のトラックを見かけます。

こみち家でもそんなサービスを利用していいんじゃないかと話していました。

しかし、母親は値段が高いと渋って、肉や魚など中心的な食材はこみちが買って、それ以外に食べたいものは母親が自分で選ぶのですが、値段を気にしている割に両親だけの食費はかなり嵩んでいる気がします。

と言うのも、料理ができない父親のために直ぐに食べられるオカズを幾つも買って来ますが、値段を気にして消費期限が当日までだったりで、コロッケに煮物、白和えとたくさんあっても食べきれません。

しかも朝と夕飯はこみちが作るので、こみちの作ったオカズは捨ててしまうことになります。

これを「折角買うなら消費期限くらい」と言ってしまうと不幸しか待っていません。

捨てるということを防止するためにも当たり前と思いがちですが、その当たり前を貫くことが不幸になるのです。

これは、「自分の方が正しい」という考えたにも通じます。

正しいか間違いかが問題ではなく、幸せになるには問題が起きても深く考え過ぎないことです。

「仕方ない」で終わらせるくらいで丁度いいくらいです。

例えば、消費期限が迫った食材があって、「食べられない」を強調するよりも、「保存方法はないか?」と頼しめるテーマに変えることで、幸せな状況に変えることもできます。

とは言え、こみちがエンパスで両親はナルシスト。

両親は強依存体質で、常に自分の基準でしか考えられません。

エンパスなこみちがあれこれと気を配っても、自分にとって良いことは良いし、悪いことは気に入りません。

考え方を切り替えないと幸せになれないという話も、ナルシストには難しいことです。

だから、時にはそんなナルシストの気を排除して、幸せ満喫しなければ、いつまでも幸せにはなれません。

全員で幸せになれれば良いのですが、それがもう不可能だと思えたなら、接し方や距離、対処の仕方を変えて、自分は自分の幸せのために生きるのも悪いことではないでしょう。

憎んでそうなる話ではなく、幸せになるために笑顔で頑張ろうと伝えても、「じゃあ幸せにしてよ」と言う考え方をしがちです。

「お金はたくさんないけど、手の込んだ料理をみんなで食べたら幸せでしょう?」

例えばそんな幸せを提案しても、「お金は必要」と言い出して、「不幸」を持ち出してしまいます。

これではいつになっても不幸から抜け出せません。

仮にお金がたくさんあっても、少し塩っぱいとか薄いとかケチはいくらでもつけられますから。

欠点を口にするのも悪いことではありせんが、ただ後ろ向きの否定になってしまうと不幸です。

自分から不幸に進んで、不幸だと悩むのは愚かなので、せめて幸せになりたいけどなかなかなれないと悩みたいものです。

笑顔ですよ。

幸せになりたいなら!

職場の配置転換で

 信頼できる人が配置転換で異動して

久しぶりに元々同じグループだった人と話せました。

配置が変わると、同じ会社でも全く会わないので、数ヶ月ぶりに話ができたように思います。

「内緒だけど…」

異動先のメンバーの一人と馬が合わないらしく、精神的にも辛いと言います。

「そうなんですね」

表情が暗いですし、何か疲れてそうです。

「あの頃は楽しかったよなぁ」

こみちにとっても信頼できる方で、異動が決まった時も残念でした。

その方の昔を懐かしむ気持ちもよく分かります。

多分、本当に合わないのでしょう。

少しくらい嫌な奴くらいなら、我慢しますよね。

でも出勤が煩わしくなるほど、苦しくなると、何でココで働いているのだろうかと考えてしまいます。

多くを望んでいる訳ではないのに、でも基本的な部分で根本的に相入れない人がいると、虚しく疲れます。

いつだったかその方から欲しい車があって、あれこれと調べていると言う話も聞いていましたが、もうそんな感じでもないのかもしれません。

会社って誰が悪いと言うことでもなくて、でもポイントでは公平に判断できる人がいるかどうかって大きくて、何でもアリになってしまうとやる気って一気に冷めてしまうものなんですよね。

若い頃とは違って、社会経験を積んでさらに上を目指そうと思って頑張っている世代ではないので、面倒なことが多いと白けてしまいます。

「じゃあ、また」

手を振って別れたものの、実はここの所、いい人が続けて退職しています。

勘違いしている人っていて、でもそんな人に限って世渡りが上手くて、会社に居座るんですよね。

何だか寂しいです。

辞めるまでにまた会えるものでしょうか。

「そう言えば…」

意外とあいさつできないまま、それっきりになってしまうことも多いんですよね。

「使いっぱなしのコップを放置するな!」と言っても

 もうできないのだろう

両親が老いたからなのか、元々のズボラさなのか、物をそこら中に放置してしまう癖を直してくれません。

以前にも「1ミリも譲ってくれない」と嘆いたことがありますが、でも家中をキレイにして欲しいと願っている訳ではなくて、共有部分に私物を放置しないように伝えているだけです。

しかも、ダイニングテーブルの真ん中に使って放置されたコップがあると、後で使うつもりかもしれませんが、テーブルを使う時に一瞬でも悩みます。

以前はそっと片付けてもいましたが、最近は隅に寄せたりすることが増えましたが、「邪魔なら移動してもいい」ではなく、「自分で始末して欲しい」のです。

しかも、冷蔵庫にしまった煮物皿が、置き方が悪くて棚に汁が垂れています。

ラップが下手で、隙間から漏れたようですが、そうなって来ると片付けしてもらうと余計に汚すことになります。

「それも難しいの?」

そうなってしまうと、ありとあらゆることをお願いできません。

実は気になっていること

最近、多くの認知機能低下が見られる高齢者の特徴でもある、入浴を父親が拒みます。

体が思うように動かないことも一因だと思いますが、そこで問題になるのか「本当に体を洗えているのか?」と言うこと。

入浴は、清潔保持に欠かせないので、あまり日を空けすぎると皮膚疾患や感染症などのリスクも高まります。

また、悪臭は意外と本人が気づき難いものなので、毎日とは言わなくても2日や3日に1回は入って欲しいと思います。

今、やっと入浴しに父親が一人で浴室に入りましたが、最近、入浴直後でも頭が臭いんです。

気のせいかもしれないし、数日ぶりで臭いが取れないのかもしれません。

物を放置してしまう行為そのものだけを心配しているのではなく、アドバイスしたりしてもその後の生活に活かせていないことが多いのです。

それは父親以上に母親にも現れていて、同じ話を何度もくりかしてしまうことがとても増えました。

しかも片付けできないので、大切な書類や鍵などをなくしてしまうことも多く、常に心配がなくなることはありません。

今日は何合食べるかな?

夕方に米を研ぐのですが、例えば6合炊いてしまった時に、母親父親と二人で弁当を買って来たりします。

なので、大量に余って、無理無理にご飯中心で食事することがあります。

そうなると5合とか、4合半に減らすのですが、そんな日に限って二人で白米をたくさん食べていたりもします。

母親は出掛ける前に冷蔵庫や炊飯器を何度も開け閉めしているのですが、今となっては開け閉めが習慣になっていて、外出時に何を買って来るべきかがもう覚えてられません。

それで、たくさん余っている時に弁当だったり、少なくしているのにさらに食べてしまうとか、どうしたいのか、どうしなければいけないのか、状況判断ができなくなっているようです。

「放置しないで」

と言葉ではそうなんですが、「その行動で合っている?」と言うことでもあるのです。

弁当を食洗機で洗い、そのまま中に放置させます。

中を掃除しないので、せめて取り出して欲しいし、そもそも弁当などは中に入れなくてもいいと伝えています。

でも、今も中に入ったままでしたし、朝の食器もそのまま放置されています。

昼にも帰宅したら、それを片すかもしれませんが、誰かが使えばまた全部濡れてしまうので、ある程度で先に進めないといつもでも片付きません。

老いているから分からななくなってしまったのか、昔からそれだけのんびりしていたのか、もう分かりませんが、両親の行動はほとんどが完結していません。

だから、近くにいると、それだけでストレスを感じるようになりました。

特に老いてできなくなった場合、できなくなったことを理解できないケースが多く、老いてもそれを受け入れられない傾向があります。

気になることはたくさんあっても、それらを根本的に解決できないままなので、それがどうしても受け入れられないとストレスが増します。


在宅介護でどう平常心を保てばいいのか?

 久しぶりに父親から声を掛けて来て

「おい、こみち!?」

料理をしていたら、父親が側に立っていました。

瞬間的に胸が苦しいとか目が回るとか、何か異変でもあったのかと心配して振り返ります。

「何?」

すると父親はナスを数本抱えるようにして持っていて、「コレも使っていいんだぞ」と話ます。

「今日は使わないから元の場所に置いておいて」

そうは答えましたが、父親も段々と「まだら」になってしまった気がします。

その時の表情がとても印象的で、やはり老いが進んでいると感じました。

そもそも、ナスは決められた場所に置いてあるものです。

何故にわざわざ伝えようと思ったのかも理解できなかったのですが、昔から父親の行動パターンとして、「少しだけ関わる」と言う特徴があって、自身の不安や後ろめたさを解消したい時にその行動が現れます。

言ってしまえば、心理学的な意味でのナルシストっぽい行為で、「誰かを助けたい」と言う行動も根っこは「自身の満足」があるからです。

最近の父親は風呂に数日入っていません。

「風呂に入る」ことが父親には大仕事で、朝夕の食事を作ることと同じ大変さだと思っているようです。

別に比べてどうかと言うことではなく、「今日は風呂に入った」と自分で頑張ったと思っているのです。

洗濯も掃除も母親任せで、母親は父親の分も補っているとボヤきます。

でも家族共通の家事は、母親もほとんどしないので、少し何か始めたい時は片付けからしなければいけません。

昨日、水筒に使うパッキンを母親が漂白していたのですが、それを浸す容器として妻の茶碗を使っていました。

脇に自分の茶碗があるのに、何故にそう他人の物で始めてしまうのか理解できないのですが、母親には差がないようです。

「サイズが同じだからわからなかった」

母親に苦情を伝えても、謝ることはなくて、何故そうなったのかを説明するばかりです。

昔から頭を下げることが嫌だと言う母親ですが、そのデメリットを理解して続けるなら文句もありませんが、やるだけやって知らん顔では人が離れても仕方ないでしょう。

だからこそ、「失敗した」時は謝ることも大切ですが、それを言い訳だけで乗り切ろうとするので、性格的にこみちとは合いません。

「助けてくれなくて結構!」

それくらいの気持ちでいてくれたら、「どうぞご自由に!」で何も言わないのですが、困ると泣きついて来るのに全く謝ってはくれない所がストレスです。

父親と母親を同時に見ると、何倍も疲れます。

ストレスを上手く発散しなければいけないことは分かっていますが、「何これ?」と思ってしまうことがあり過ぎます。


ちょっと人生について思うこと

 知り合いの方が退院されて

もう随分と前になるのですが、親しくさせてもらっていた人が緊急入院していました。

病状からそれこそ退院できるのかさえ分からない状況で、ずっと心配でした。

幸い退院することができて、連絡を受けたのですが、こみちとしては入院中にお見舞いに行けなかったことが残念で、落ち着いたら連絡して欲しかったと伝えました。

すると「実は…」とその方が話始め、片足に麻痺が残っていて、装具を付けないと歩くことができないことも教えられました。

後遺症として麻痺が残るらしく、リハビリでどこまで回復できるのかとも思っているそうです。

一人で歩くことが難しいので、日常生活はかなり様変わりしたでしょう。

まだまだこれからの人なので、不自由さに悩むよりも、命があったことに感謝しているそうです。

それを聞き、安心した一方で、人間としても強いなぁと思いました。

落ち込んだり悩んだりするのも悪いことではありませんが、それで現状が変わらないのなら、考え方を変えてみるのも大切です。

また落ち着いたら、自宅を訪れたいです。