大人の発達障害
大人の発達障害とは、見当識や常識から判断すると、理解できない言動が見受けられるように思います。
こみちは専門家ではないので、介護士としての経験や親との同居で気づいたことをベースに紹介しています。
多分、程度や傾向は異なりますが、両親は何らかの意味で「大人の発達障害」ではないかと思うのです。
母親の場合、「完結」ということができません。
99%までしても、1%を残します。
例えば夜、風呂場の中に専用のスリッパをキレイに並べて自分の部屋に戻ります。
その理由は風呂場や脱衣室の湿気を取り除きたいからで、開け放った窓を最後に閉めるためのスリッパを用意しているみたいです。
ココからが理解できない部分ですが、準備をしても責任を持って完結させるとは限りません。
ふとした時に、「スリッパ出しっぱなしだよ」と妻に伝えたら、「そうだよ」と言って窓を閉めていました。
「いつもしているの?」
「誰もしないでしょう!?」っと。
そんなことが、日常生活の至る所に起こっていて、誰かが片さないと放置されたまま時間が経験してしまいます。
キッチンのゴミ箱の上に買って来た野菜を置くのも、母親にとっては何か意味があるようです。
ちょっと忙しくてということもあるりますが、朝に置いて夕方や夜までそのままで、ゴミ箱を使う人が毎回、その野菜を別の場所に置き直します。
野菜を置く棚も用意しているのですが、「みんなに見せたい」のか、ゴミ箱に置く習慣を変えられません。
父親に関しては、加齢による認知でもないですが、役割を担うことができません。
「ゴミを出す」のをお願いするには、ゴミ袋にまとめて、それを玄関まで持って「ゴミ置き場までお願いします」と、そこまでお膳立てしなければ、確実ではありません。
みんなが寝ている時間に、ササっとまとめて片しておくことなど、できたことがありません。
昼食用に、4人分の目玉焼きを作り、それぞれの皿に盛って欲しいまでできるはずもなく、一緒に「タマゴを4個出そうか?」と声掛けでもしなければ難しい状況です。
しかし、高齢者施設の利用者と比べて、加齢による認知機能の低下があるとも言えません。
ただ、何か完結させることが難しいのです。
お寿司の話
もう随分と前になるのですが、母親がお寿司を奢ると言い出して、ある日の夕飯がお寿司になりました。
妻も喜んでいて、その夜を迎えたのですが…。
値段の高い安いではなく、「奢るから」という言葉に期待してしまっていたので、現物を見て正直、「こんな感じかぁ」と思ってしまいました。
妻も寿司には触れず、ほぼ無言で食べていて、「味噌汁が美味しい」と言います。
二人だけになって、「今度、好きなの買って来ようよ!」と伝えて、「そうだね」などと話ました。
そして、価格は人それぞれなので、どこからが満足なのかは異なる話ですが、二人には「お寿司を食べた」と思うくらいの握り寿司を用意して、それぞれが食べたのです。
妻もそれなりに前回とは違って、「美味しいね」と言っていました。
しかし、両親の反応は、逆に「…」なのです。
もしかすると、前回と今回のネタの違いに価値見出していないのかもしれません。
そんなに値段が高くなったら、もったいないとでも思ってしまったのか。
むしろ、母親が用意してくれたお寿司を2度3度食べた方がよかったのかもしれません。
結局は、価値観が違うのでしょう。
そんな両親とどう暮らすのか?
両親と暮らして、両親には両親の価値観があって、それを守って生きて来たのです。
こみちにすると、ココを改善してくれたら、時々はお寿司だって食べてもらえると思えても、そのお寿司が満足できるものではありません。
食事の提供方法を改め、基本的な料理をこみちが提供し、それ以外は両親で好きなものを買って食べて欲しいということになったのです。
それは出来合いの料理を買う習慣がやめられず、食費が高くなり過ぎているので、金額を抑えるための方法でした。
ところが最近、出来合いの料理を昼に食べて、夜用にかまぼこだのきゅうりだの、買って来るのはいいけれど、「自分たちで食べてね!」と言いたいのですが、これも母親特有の行動で、そこまで準備したことに満足なのです。
きゅうりばかり買って来た頃に、サラダで使ったり、浅漬けにしたりして消費していたのですが、連続で3本5本と買ってしまうので、「もうきゅうりはいらない」と言うと、今度はピーマンやにんじんを連続して買って来るようになります。
結局は、何があると作りやすいという視点に立てないので、安いとか目についたという感じで買って来るのでしょう。
そんな買い物がまた始まったように思います。
説明しても理解や改善はないので、それこそ話しても無駄なのです。
以前、「お肉と魚を買って欲しいと頼んだけど、それをするには難しい?」と聞いて、「そんなことないよ。買って来る」と言ってくれて、一回はできても、2度3度目は元に戻ります。
助けてあげたくても、何をしてあげればいいのか分かりません。
言われるまま、振り回されるように動ければいいのですが、そこまでできません。
理由があってほうれん草を控えていると説明しても、ほうれん草を買ってしまうので、少し放置していたのですが、3袋になったので全部茹でて食卓に置いてみました。
鰹節でも掛けて食べてくれたらいいのですが、「遠慮しないで食べて!」となるでしょう。
「だからほうれん草は…」という繰り返しなのです。
朝、両親がサラダを食べたいということで、カット野菜と肉、タマゴなどのセットを作るのですが、そのカット野菜を買って来ないで、生のブロッコリーを買って来ました。
「カット野菜は?」と聞いても意味がありません。
ほうれん草とは別に、ブロッコリーも茹でて、タッパーにでも入れて置けばという流れですが、じゃあそれを食べるのかというとそうでもなくて、皿に盛って出してないと減っていきません。
だから「カット野菜」なのですが、なぜか母親は完結できないのに、気まぐれでアレンジしたがります。
助けがいると、そこで満足しないで、さらに可能性を見出して本領を発揮させるので、まわりの家族が面倒見切れません。