「四次元」をなぜ理解できなかったのか?と言う話

 「一次元」を「直線」で例えてしまったから?

私たちが生きる世界を「三次元」と呼んでいます。

それは「縦」と「横」と「高さ」の組み合わせで認識できる世界観を表したからです。

そして、時に「四次元」を「時間」と言う新たな基準を加えて考えるのですが、それが理解を難しくさせているとも言えます。

と言うのも、縦横高さは「長さ」で時間は「時」と言う異なるスケールだからでしょう。

でもこんな風に考えることはできないでしょうか。

縦、横、高さのいずれにとっても原点となる「0」と言うポジションに「こみち」が立っています。

もしも一次元がそのいずれかのスケールだけでしか感じられないとしても、「こみち」は「0」にいると認識されます。

なぜならいずれのスケールでも原点となる「0」にいたからです。

しかし、例えば「高さ」の基準で「10」のポジションに移動してしまうと、「高さ」のスケールでは「10」として認識されますが、「縦」と「横」のスケールでは「0」上にいないので、存在していないように見えてしまうでしょう。

つまり、ある「直線」を一次元と理解するなら、その線上にいるからこそ認識の対象で、そこから外れてしまうともう観測不可能な存在として扱われてしまいます。

同じように考えると、縦横など二つの基準で認識される世界を「二次元」と呼ぶなら、「平面」に接していれば、それを認識できますが、接していない時は認識できなくなります。

結論「四次元」とは何か?

仮に4番目の基準を「時間」と考えた時に、三次元の世界では認識されたいずれも「0」と言うポジションも、「いつから居たのか?」が重要になります。

大昔からそこにいて、未来のもっと未来までそこに居続けたら、四次元の世界でも「0」にいると認識できますが、「今」だけしか居ない場合、過去や未来に時間軸が移動すると認識できないことになるのです。

我々の世界は本当に「三次元」なのか?

例えば、りんごを買うとします。

100円と150円の価格の違うりんごが売っていたら、安いりんごとか高いりんごと言う認識ができるでしょう。

それは一次元の認識です。

では「重さ」と言う認識を加えて、100円で小さいりんごと150円で小さいりんご、さらに150円で小さいりんごと150円で大きいりんごの四つがあったら、どれがお得でしょうか?

単純に考えると、100円で大きいりんごでしょう。

そう考えられると二次元の世界観です。

ではさらに「美味しい」と「不味い」を加えて、100円で小さくて不味いりんご、100円で小さくて美味しいりんご、100円で大きくて不味いりんご、美味しいりんご…。

タイプは8種類に増えますが、一番お得は100円で大きくて美味しいりんごでしょう。

でも2番目は人によって変わるかも知れません。

価格を優先するか、大きさか、味か。

価値観が複雑になるから三次元なのです。

最後に「見た目」と言うスケールも加えます。

つまり、三次元では100円で大きくて美味しいりんごが一番でした。

でも「見た目」の基準を加えたことで、選び方が変わります。

食べれば確かに美味しくて、価格も安いりんごを食べていましたが、よくよく見れば見た目は少し歪でした。

でもそれを気にすることはなかったと言うのが三次元の世界観で、それが四次元になると「でもこっちの方が少し高いけど、見た目もいいぞ」と言うことになるのです。

つまり、四次元とは属性が4つあるということ。

属性とは、判断する基準のことで、先にりんごで言えば、価格、大きさ、味、見た目と言うことになります。

それぞれは干渉する基準ではなく、それぞれに意味を持ちます。

そして、高次元になると低次元の時とは判断が変わってきます。

例えば、「安ければいいのか?」とか「大きければいいのか?」に疑問を持ちのは、異なる基準を既に認識しているからです。

こみちは四次元をそんな風に理解しています。