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便利になる「AI」の時代に中高年はどう働くのか?

 「AI」ができないことを探す

どんなに有能な「AI」になっても、「私」本人にはなれません。

「AI」に任せれば、返信や文章作成、作曲にプログラミング、翻訳なんかもできるでしょう。

サラリーマンにとって、もっと言えば税理士や弁護士、さらには小説家やシナリオ作家、作詞家まで従来の業務と被る可能性があります。

3日の仕事を掛ければ人間の方がより高度な回答を出せるかもしれませんが、一瞬、または数分で直ぐに回答が欲しい時にAIはそれに応えてくれるでしょう。

ポイントは、熟考しなければいけない程のことが、どれだけ今の日常生活にあるのかということ。

それなりの解決でも十分なら、AIで事足りてしまいます。

そこはもう否定できません。

ただ、例えば不動産投資などにAIが使えるのかを考えた時に、分析できる結果を瞬時に欲しいのかと想像すると、それこそ少しくらい考える時間設けても困ることはなさそうです。

それよりも、「情報」や「データ」で従来の予測を超えることがAIにできるものか分かりません。

と言うのも、一般的に流通する商品とは異なり、不動産は同じ状況のものがいくつもあるのではなく、その場所にあるのはその建物だけです。

そうなると、立地や築年数、内外装の傷み具合や間取りなど、不動産として一般的に考慮するべきポイントを外しては考えられません。

それはつまり、ある集団の中から一番有能な人をAIが選べるか似ていて、「有能」をどう理解するのか、「有能」なら本当に成果を上げられるのかなど、さまざまな疑問が浮かびます。

つまり、感覚的な部分というのは、データでは解決できないものです。

AIがどれだけ有能になっても、そのような判断を正確に行うのは将来的にも難しいでしょう。

と言うのも、人間はそんな判断をどう解決しているのか考えると、実は有能ではない人を選ぶこともあるはずです。

でも実際にコミュニケーションを通して、互いが協力することで成果を上げる方法に近づきます。

これは判断した時で全てを決定しているのではなく、その後によって目標や目的が達成できるようにするのです。

つまり、唯一無二の作業は替えが利きませんが、一般的な業務は人が変わっても大きく変化するものではありません。

そう考えると、有能であることが最も大切なことではなく、職場馴染める人柄であることの方がよほど重視されます。

仮に将来、AIが現場リーダーで全ても指揮をAIが行うようになって、AIがメンバーを選ぶ時代になれば、また選考基準も今とは異なります。

海外で始まっている物価高の波

アメリカなどでは、急激な物価高で賃料も数倍になり、住まいを奪われてしまう人もいるそうです。

かと言って働いていない訳ではなく、日本以上に平均の報酬は高くても、それ以上に物価が高騰しているということのようです。

これはこみちが思うことですが、ある一定の資産家が増えると、彼らは「投資」で楽に稼ぐ方法を導きます。

商品やサービスだけではなく、我々の労働力も同様に、投資の利益を判断する材料になるのです。

例えば、我々の暮らしがあって、働き方があるのなら、物価高も生活を脅かすものにはなりません。

でも海外で起こっている今の物価高は、一般人の生活さえも奪う程のスピードです。

投資で利益を確保することが前提にあって、そこから我々の仕事も決定されていく。

そうなれば、労働賃金もその範囲内でしか考えられないので、高騰する物価を後追いするしかありません。

そうなってしまうと、30年の長期ローンなどは組みたくない人も多く、住宅を購入することに躊躇い、でも海外のように短期間で賃料が数倍になるということもあれば、最悪は住まいを失ってしまいます。

それらの現状を考えると、これからの仕事選びは、2つの柱で計画しなければいけません。

1つは今の生活のため。そしてもう1つが投資優先で展開される社会に乗るためです。

以前なら、中高年が選ぶ職業をどう考えるかが重要でした。

長く使える資格とか、稼ぎやすい職業とか。

でもそれではもう難しいのが見えています。

仕事や資格ではなく、膨らみ続ける市場に投資して、資産を増やす立場になることです。

大儲けするためではなく、生活水準が急速に上がる時代に乗り遅れない防衛策です。

定職を手放さない!

中高年の生き方として、定職を安易に手放しては挽回できなくなる可能性の方が高いでしょう。

例えば何か自分で経営したいと思っても、これだけ物価高の時代なので、考え方も見直しが必要です。

例えばラーメン屋を経営し、原材料や人件費などから一杯1000円では経営が難しく、1200円で採算が見込めたとして、問題はそれで客が集まるかと言うこと。

意外と美味しいも大切ですが、集客できなければ意味がありません。

そして、このポイントって上手い下手が顕著に現れます。

サラリーマンの場合、仕事が与えられて、それをこなすことで稼ぐことができます。

サラリーマン時代、「こんな仕事なんてやってられない」なんて不満も言えますが、独立すれば煩わしさもなくなりますが、仕事も当たり前にはもらえません。

だからこそ、定職があるなら、安易に手放さないことです。

働かせてくれるなら、その好意に甘えましょう。

その上で、市場に置き去りにされないポジションを得るために、波に乗るための資金を使いましょう。

そして、残された時間を使って、市場でどんな流れがあって、どこにニーズが集まっているのか徹底的に調べることでしょう。

それは多分、庶民感覚とは違うもので、投資家たちが好む場所を先に見つけることが求められるように思います。




人は「好きなこと」だけで生きられるのか?と言う話

 全否定はできないけれど

興味を持ち、ちょっと始めた時と言うのは、それこそまだ何も分からないので全てが新鮮で、1回目よりも2回目、さらに3回目と繰り返すほどに進歩するので楽しくて仕方ありません。

やがてそれが自分の「趣味」になり、まわりの人と同じ話題で盛り上がれたりもします。

「折角なら趣味ではなく仕事に…」

そんな風に考えるのも自然で、好きなことをして生きられるならそれは悪い選択では無いはずです。

ただ、趣味と仕事の違いは、マイペースにできるかと言う部分。

絵描きと言う仕事は、絵を描くことなので、楽に感じるかもしれません。

ですが、「半年後に作品を10個作ってください」と言われれば、何を描くかから始まり、どんなテーマにするか、スケジュールをどう立てればいいのかなど、実際には「描く」以外のことが仕事の大半だと気づきます。

つまり、「好きだから」と言うキッカケで始めても、求められる大半は別のことで、嫌いではない仕事と比べて、やりがいに大きな違いがあるとも言えません。

だとすると、好きなことは趣味のまま、嫌いではなく効率的に稼げる仕事を選んだ方がずっと自分にとって楽だったりします。

価値が認められている仕事

どうやら、儲かる仕事と儲からない仕事が世間にはあるようです。

儲かる仕事の特徴は、世間的に評価されている仕事です。

この「世間的」がポイントで、本当に価値があるかではなく、社会で評価されていたら儲かる仕事になることです。

医師になるには、大学の医学部に入らなければいけません。

学力の高さもそうですが、学費の高さも高いハードルです。

だからこそ、世間的に医師は高い評価を受けて、高い報酬へと繋がっています。

では介護士と言う職業はどうでしょうか。

医師や看護師とは異なり、介護士は働きながら経験を積み、国家資格を取得することができます。

それだけ間口が広く、誰もがなれる可能性があります。

つまり、「難しい」「選ばれた」人材だけに与えられる仕事ではありません。

それが実際の介護士の仕事を正確に評価したものでなくても、世間的にどう見られているかがポイントです。

例えば介護士の仕事も、医師や看護師同様に人の命と向き合い、様々面で他人の人生を支えることなので、奥が深い簡単な仕事ではありません。

つまり、医師だから凄いのではなく、介護士だから凄くないのではなく、世間的にどう評価されているのかで、報酬や待遇が大きく変化します。

例えば飲食店の経営を始めるとして、その地域の相場が1000円の時に、5000円の料理をメインした店だったとしましょう。

平均が1000円なので、5000円はかなり強気でしょう。

もしもそのままの価格帯で繁盛したら、それこそ新たな価値観を定着させたことになります。

ただ標準的には相場観が必要で、人気店の上限を参考にすればその経営で到達できる範囲が見えて来ます。

それが経営戦略になるのですが、既存にない価値観で勝負するのは、ライバルも少ないですが市場で評価を得られるかは簡単ではありません。

これは、ベンチャー企業と同じで、新たなビジネス故にやりがいや達成感も得られますが、評価が得られるかは未知数なことに似ています。

つまり、今まで誰も成し遂げていない分野を目指すのは大きな挑戦ですが、評価を受けられるかは努力や苦労が報われないこともあります。

一方で、評価基準のある分野なら、努力すると結果にも繋がりやすく、大きな価値の変化は期待できないかもしれませんが、堅実に生きられる最も幸せになれる確率が高い選択です。

学生では「勉強」と親が言うのも、社会に出てからの努力は、担当する業務に限られていて、努力しても経験につながらないことがあります。

だからこそ親は子供に勉強しなさいと繰り返すのでしょう。

効率的に見返りが期待できるこよなので。

好きなことを仕事にして生きるのは、他にもっとある効率的に稼げる方法を選ばないので、努力しても報われないことも想定しなければいけません。

それでもいいと言う覚悟でもなければ、わざわざ確率が低い仕事を選ぶのも賢い選択とは言えません。

努力を無駄にしないためには、世間から高く支持されている仕事を選ぶことでしょう。

そのためには、世間で評価されることに頑張るべきです。

良い大学が意味があるかではなく、努力が報われやすいのは良い大学に入ることなので、みんなと同じ時期に努力することでしょう。

実際には大学を選ばなくても、やり甲斐ある仕事はたくさんありますが、世間的な評価を受けられると努力も報われ、逆に本当は大変な仕事でも誰でもできると言う評価なら、報酬や待遇がなかなか改善されません。

業界によって評価が大きく異なるので、社内での努力だけではなかなかポジションも変わらないので、よく自分で選ぼうとしている仕事が世間にどう評価されているか確認することです。



稼いでいる人たちは「学びの期間」を経験している話

 最近youtube でよく見るコンテンツ

最近、ワンルーム投資のコンテンツを動画視聴しています。

ここでは、ワンルーム投資の是非をお伝えしたいのではありません。

お伝えしたのは、儲けている人は共通して「学びの期間」があったということです。

俄かの知識なので、そのままを鵜呑みにして欲しくありませんが、例えばこれから不動産投資で収益を上げたいと思ったら、「儲ける」という意味から考えるべきでした。

例えば、家賃収入で稼ぐ場合、当たり前ですが借りたい部屋を所有していなければ話になりません。

学校や会社まで行き来することを考えれば、家があまりにも遠いのでは話にならないでしょう。

つまり、立地という条件が希望から大きく離れてしまうと、それだけで借りてはもらえません。

部屋数や賃料も同じで、希望条件から逸脱すると候補から外されてしまいます。

新築マンションなら誰もが基本的に古臭いとは感じません。

しかし、5年10年と月日が経過すれば、経年劣化するのが当たり前です。

つまり物件の購入費とは別に、定期的にメンテナンス費用も必要で、更には税金や積立金なども加わるので、プラスアルファの費用もあります。

建物の購入費を支払えば、あとは管理会社が全て面倒見てくれると楽に感じますが、手間を省ける理由は、それだけ多くの費用を支払うから成立しています。

つまり、本来なら自分で考える部分を人任せにして楽をすると、儲けはそれだけ減ってしまいます。

儲けている人たちが揃って「学びの期間」を経験していたのは、彼らはそれぞれの分野で、手間を理解し、省くべきか自分でするべきかを判断したことで、しっかりと利益に繋げていたと分かりました。

どうやら不動産投資に限らず、何かで儲けたと思うなら、「儲かる」というパターンを調べて、それに行き着くために何が必要かを逆算して学ぶことです。

不動産投資で稼ぐと思うくらいの意気込みがあるなら、例えば宅建士や司法書士の資格を目指してもいいでしょう。

と言うのも、一般的な買い物とは異なり、不動産は買い手に対する法的な保護も少なくといいます。

つまり、「知らなかった」とか「初心者だから」という保護がありません。

自己責任で行うことも多くて、それだけにしっかりとした知識がないと儲けられない業界です。

と言うことは、自己資金額が少ないままで利益を生み出せるのか、また同じ金額なら別の投資先はないのかも同様に比較するべきでしょう。

やはり、儲けるのは、どんな分野でも簡単ではありません。

だからこそ、自分の興味などとも照らして、「学ぶの期間」が必要になるのでしょう。


なぜ年収1000万円が難しいのか?を考えた話

 老後になるほど「お金」が大切

最近、「時間」と「お金」が同じ軸に並んでいます。

つまり、あるお店で「100円」の商品が、別の店では「90円」だったとして、でも別の店まで移動すると「1時間」が余計に掛かるとしたら、自分にとってどちらが「お得」なのでしょうか?

その時の考え方っていろいろで、人によって違うと思います。

こみちは、「1時間」=「1000円」とか「500円」のように、時間もお金として換算して考えています。

と言うのも、足腰が悪くなるとそもそも長い移動が難しく、「あの店で売っている」と分かっていても、「移動」ができないと買うことができません。

「誰かの時間を使う」=「買い物をお願いする」は、何だかんだで「お金」が掛かります。

つまり、高齢になれば、現役時代のようには行動範囲が広くなくなるので、その低下分も上手くお金で解決するのも方法です。

年収1000万円とは?

年収1000万円とは、月収では約83万円です。

つまり、1日あたり2万8千円くらい稼がないと達成出来ません。

例えば1日の労働時間を10時間として、時給では2800円になります。

例えばここで、製造業を考えると、手作業で何かをして、完成品が1時間で30個、つまりは2分で1個作り続けることを10時間毎日続けたとしましょう。

1日に約3万円、時間あたり2800円の報酬なので、単純に作った商品1個あたり100円の利益を乗せられなければいけません。

1個2分で作れて、10時間毎日繰り返しても飽きない作業で、しかも100円の利益を乗せられる仕事って何でしょうか?

思いつくのは「アクセサリー製造」のような分野でしょうか。

間違えても一枚辺りの作業時間が長くなってしまう「イラスト制作」ではなさそうです。

趣味や実益を考えて、仕事を見つけるよりも、「2分で作れて100円の利益を乗せられる仕事」と言うように逆算で考えることで見つかるビジネスなら、年収を上げられるかもしれません。

繰り返すことで稼げるパターン

例えば、中華店を経営し、餃子でもラーメンでも、その店らしいメニューで評判になれば、そのレシピを繰り返していれば、しっかりと収入に繋がります。

これが、こっちかなあっちかなと迷いながらでは、繰り返しも曖昧で、思うようには稼げないからです。

「コレでいい」と確信が持てる仕事に巡り会えたら、それをしっかりと繰り返すことで稼げばいいのです。

ある意味で、そんな仕事こそ「天職」なのですが、それが簡単には見つからないので、人は悩んだりします。

1000万円も必要!?

結局のところ、思うのがお金の大切さは理解していても、多ければいいと言うか…。

稼げると言うことは、それだけ効率的でなければいけないので、手先が器用で数を熟すことでは限界があります。

つまり、希少性が伴って、「コレでなければ!」と言う違いが必要です。

動画コンテンツでも、観たくなる動画って「コレでなければ!」が実現されていて、だから人気もあるのでしょう。

先に挙げた、「アクセサリー製造」でも、「作ればいい」ではなく、「買いたくなるデザイン」をどう解決するかがポイントなのです。

自分で一から十まで担当することも大切ですが、考え方によってはそこで外注化してでも「繰り返し」の部分で利益を目指す柔軟さも必要です。

利益が半分になっても、繰り返すことで稼げるなら、そんな方法も否定される話ではありません。

言い換えれば、サラリーマンのように雇われて働くのも、報酬が決められていて、勤務すると稼げるパターンなので、それもまた堅実な方法です。

問題はどんな職場かと言うこと

雇われて働くことの良さは、確実に稼げると言うこと。

独立して軌道に乗るまでの不安や、軌道に乗ってもそれを維持させる努力は、サラリーマンとは違います。

その不安さを効率的に稼げるパターンにすることで解消するのが、雇われて働く(=労働者)になることです。

しかし、仕事である以上、職場も様々で、苦労しても楽しいと感じる仕事もあれば、暇なのに虚しさが増すような仕事もあるのが現実で、要するに自分に合っているかがポイントです。

仕事は嫌いじゃないけれど、人間関係が面倒な職場もありますから。

好みと言うことではなく、生き方や価値観があまりに違い過ぎると、やはり一緒にいるのも辛くなります。

例えば、何か資格を持っていると、勤め先でも自分らしく働くスペースを作り易かったりします。

社内なのに、仕事を受けたら、それを自分のペースで熟して行くと言う働き方ができるからです。

こみちもそんな方法が好きで、大勢での作業ではどうしても自分らしさは出せません。

なので、できれば細々でも個人でできるような仕事が好みです。

例えば、イラストレーターとして仕事を始めようと思ったとして、キャラクターを作ってもそれが価値になるのは簡単ではありません。

多くのイラストレーターがそれを目論んでいて、でも一般の方がキャラクターとして思い出せるのは数種類ではないでしょうか?

つまり、それができるとイラストレーターも繰り返しで稼げるパターンができるのですが、そう簡単ではなく、現実には依頼された絵をコツコツと描いて行くことになります。

一方で、AIが圧倒的なスピードと品質で絵を作る時代なので、イラストレーターがコツコツと描ける環境もこの先はかなり不透明です。

絵を描くことで稼ぐなら、もっと深く踏み込む必要があって、あっさりと済ませるならAIの自動生成の技術者や、プログラムとの連携に関わるなどのポジションも視野に入れた方が生き残れるでしょう。

「その絵の目的は?」

イラストレーターとして軌道に乗せるなら、コレは他の職種でも同じですが、「そこに何の意図があるか?」が明確でないと、生き残れない気がします。

よく言われる話ですが、ニーズから考えてみると言う発想をすると、今、何をしなければいけないのかも自然に分かります。

時代やニーズに合致して、売れているビジネスも、この先ずっと人気が続くかは誰にも分かりません。

だから、売れるのも大変ですが、売れてもなお未来に向けて努力しなければいけないので、やはり大変です。

サラリーマンなら言われた仕事だけで済むのかも、年齢を考えると正論だけでは判断できないことも増えるでしょう。

と言うのも、正論からこぼれた部分こそ、仕事の大切な部分で、そこのカバーができるとやはり重宝されます。

強み持ちのは、目につく派手な部分よりも、実は地味でもそれらをサラッと熟すことだったりするからです。

先を急ぐのも悪くはありませんが、段々と現実が分かってくると、「仕事がある」だけで幸せに思えます。

なので、「年収1000万円?」。

そこが唯一の目標ではなく、それ以上に自分らしく生きられることが大切だと思うからでしょう。




「AI時代」に生き抜く中高年の働き方とは?

 「AI」の脅威とは?

こみち、AIの本当の実力はほとんど知りません。

ですがいろいろと調べていると、まだしばらく網羅されない分野があることに気づきました。

それは、「私が私であること」なのですが、イマイチ意味が伝わらないと思うので、別の話から始めます。

あるAIの紹介コンテンツを視聴していたら、それこそ「文章と作る」とかもう当たり前で、言ってしまえば、かなり優秀な秘書が居るみたいで、パソコン経由でできること(話す、調べる、考えるなどなど)なら、間違えることもありますが、期待以上にこなしてくれます。

ここで言えるのは、例えば「東京観光のプランを計画して!」と言う内容に、それっぽい答えが出せると言うものではなく、「東京旅行は二人で2泊3日。予算は宿泊費と食事込みで15万円まで。二人の思い出になる旅にしたい」と言う具合に具体的に要望を挙げれば、さらにしっかりと回答してくれます。

そして、ここからがポイントですが、ビジネスの分野で例えば「ラーメン屋を開業したい。その方法は?」と、まるでインターネット検索するような質問ではなく、開業地や手持ち資金など、より具体的な個別の条件にもしっかりとフォローしてくること。

つまり、「このケースでの法的問題点は?」とか、「節税策として考えられることは?」とか、「健康上のリスク管理の方法は?」など、法律や税務、医療の専門家でなければ気づきにくいポイントにも、先ずはピックアップできる可能性です。

専門家の役割は変化する

例えば、AIが一次対応に強くなり、単にプランを立てるだけではなく、コストや安全面にも目を向けられるとしたら、ビジネスのパートナーとして頼もしい存在になるでしょう。

そうすると、逆の立場で、これから弁護士や税理士を目指して時間と労力を費やすなら、AIがカバーできない部分がどの辺にあるのかを知っていなければ将来的に苦戦するでしょう。

訴訟を起こす方法や裁判所に提出する書類も、AIが完璧にできるようになるはずで、それは専門性が高いか低いかではなく、「文章作成」と言う認識で行えます。

つまり、人間にとって「知識を身につけることが困難だった」と言う部分はAIがこの先乗り越えてしまうので、「当てはめる」になっている行為はパターン化されます。

そこでちょっと考えると、例えば「歌手」と言う職業。

歌手は歌を歌います。

では貴方がよく聞く曲を本人ではない別の人が歌っても聴きたいでしょうか。

「曲さえ同じならいい」と言う人はそれでもいいですが、「あの人の歌」と思う人には「モノマネ」では意味がありません。

どこまでそっくりなら…。

そんなことではなくて、意外と歌は曲で聴いているのではなくて、「歌手」で聴いていたりしないでしょうか。

つまり、冒頭に紹介した「私が私であること」です。

家でレンチンだけで完璧に同じ料理が食べられたとしても、大切なのは「あの店で食べる料理」だったりします。

そうなると、代行では意味がありません。

そこではどんなに優秀なAIも補えないのです。

つまり、AIがさらに進化した未来こそ、我々は個としてのキャラクターが大切になります。

心地よい雰囲気を自然に周囲に浸透できると、やはり人にも受け入れられるでしょう。

居るだけでそれができる美男美女はそのままでも十分ですが、不細工なこみちなどは「キッカケ」をいくつか用意しておけばいいことになります。

「信頼できる」「楽しい」「元気をもらえる」

そんな言葉は、AIがまだまだ不得意な分野ではないでしょうか。

知識が豊富で何でも知っていると言う分野はAIに任せて、「個人」を受け入れてもらえることが大切です。

とは言え、あまりに自由奔放では相手もついていけないので、常識的に理解できる領域を知り、そこで認めてもらうことがポイントになるでしょう。

「あの人に担当されて嬉しい」

そう言ってもらえるように働ければ、AI時代も恐ることはないはずです。


40代を迎えて「大切」にしたいこと

 40代になって「大切」にしたいこと

このブログ、生涯を楽しく生きるためにどうすればいいかを考えるために開設しました。

いろんな縁があって、介護福祉士にもなり、介護保険サービスの概要も理解できました。

また、老いることや終活、人生最期の時など、介護施設での勤務でたくさんの経験もしました。

それこそ、介護職を知らないまま、老いを考えても、今とは全く違うことをイメージしていたでしょう。

そこで、40代になって「大切」にしたいことを考えながら、人生をどう豊かにすればいいのかをこみちなりに綴ってみたいと思います。

何より「健康」

絶対に欠かせないことは「健康」です。

肉体的な意味でも精神的な意味でも、経済的な意味、家族間でも、健康でなければやはり厳しい面があります。

よほどの覚悟がなければ、現職を簡単に捨てるべきではありません。

40歳なら定年まで25年くらい。

ですが、50歳になって捨ててしまうと、定年まであと15年だと思ってもそう上手くはいかないからです。

例えば、1000万円くらいの資金が用意できて、コインランドリーやコンビニ店のオーナーになると言う選択を考えたとして、40代のイメージと50代、60代では全く違うでしょう。

大々的にビジネスを展開し、人を集めてさらに大きな収益を引き寄せるには、時間も必要ですし、根気ややり切る決意も半端ありません。

何より、現職として行う仕事以上に、先が見えない不安もあるので、夢として叶えたいとか、絶対にそれで食べて行くんだと、他の楽しみを削ってでも頑張るならいいのですが、そこまで切り詰めても簡単ではないのが独立してのビジネスです。

中間管理職にあたる年代になると、会社ではそれまでの経験を評価してくれます。

つまり、そのタイミングで離職し、転職することは、その経験を一度捨てることになります。

新しい職場で経験を活かせればいいですが、全く活かせない場合、それこそ新卒者以上に不利な立場にもなり得ます。

若い人は理解も記憶力も良くて、短期間でどんどん成長します。

同じペースでは到底立ち向かえないので、働き方そのものを見直さなければいけません。

給料も前職より下がるでしょうし、ポジションも不安定です。

かと言って、経験を活かして独立する気力もないとなれば、どうしても中途半端になります。

覚悟するなら、少しでも体力がある「今」頑張るべきで、逆にそれがキツイと思うなら、現職を簡単に捨てたりしないで、少しくらい不満でも定年まで続けることです。


「その努力は実るのか?」という話

 絵が上手くても…

例えば、どんなに絵が上手でも、プロとして稼げるとは限りません。

むしろ、腕はそこそこでも、決められた期日に納品できる実績には叶いません。

つまり、努力すればいい結果になるかは、最初の想定が大切で、努力の「量」で決まるものではなさそうです。

資格を取得する

こみちは介護福祉士の資格を持っていますが、持っているだけではお金を稼ぐことはできません。

つまり、難関資格の医師免許や弁護士だったとしても、それだけでは意味がないということです。

これから資格を取得して、人生を変えたいと決意したいなら、「取得」を最終目標にするのではなく、どう活かして稼ごうとするのかまで視野に入れておくことでしょう。

100万円のラーメンを作る

例えば、使う食材を厳選し、100万円のラーメンを作ったとします。

一般的なイメージでは、そんなに高いラーメンなど売れるはずがありません。

もっと安い金額で、もっと高そうな食材で作った料理があるからです。

そう聞いて、「確かに」と納得するのも自由ですが、「そうじゃない」と思うのも自由です。

というのも、人生を振り返った時に、「あんな時代があった」と思い出せるのは、相当に突飛な出来事です。

上手く行った時代よりも、苦労していた頃の方が印象深いかもしれません。

言ってしまえば、何もない平穏な人生もいいですが、振り返った時に何も思い出せないというのも少し寂しく思います。

多分「100万円のラーメン」は、これから先の人生で何度も繰り返し使える話題になるでしょう。

「やっぱり、味は美味しいの?」

そんな質問も繰り返し聞くかもしれません。

つまり、「食べた」で終わる食事代ではなく、自身の人生を彩るエピソードとしての価値として100万円をどう見るのかです。

経験したことがない分野を批判することは簡単です。

しかし、経験しなければ分からないことも多く、人生で経験できることには限りがあります。

つまり、何も起こらない人生は穏やかな暮らしですが、何か特別な経験だったのかというと、そんな暮らしこそ「特別の経験」と思うことでしょう。

一方で、いろんな経験を経て、たどり着いた「今」は、また異なる「明日」を呼ぶはずです。

そんな風に考えると「100万円のラーメン」が高いのか安いのか。

どんな風に考えるかで大きく変わるでしょう。

100万円のラーメンで起業するなら

逆に今度は「起業」する立場で、「100万円のラーメン」を考えます。

ラーメンの価格を高くても3000円くらいと思う人に、「100万円」はなかなかの金額です。

しかし、「特別な体験ができるかも!」っとそんな風にイメージできる人であれば、かなり商売になりそうです。

ということは、ただ単に厳選された食材という説明だけでは不十分で、それを今度もずっと語れるくらい特別な経験にどうしたら思ってもらえるのか、そこをしっかりと掘り下げるべきでしょう。

例えばこみちなら、大谷選手と同じテーブルで食べるラーメンなら、それだけで100万円の価値があると思ってしまいます。

つまり、「大谷選手と同じ時間を過ごすこと」が、それだけの価値だと思うからです。

特別な体験と言えるラーメンをどう考えられるかで、起業の成功もあり得るという話です。

その努力は実るのか?

今日のまとめですが、「努力」は意味がないと実りません。

頑張るなら、意味があるようにするべきです。

そのためには、資格取得ではなく、活用方法まで考えることで苦しい頑張りを意味あるものにするのです。

同じ苦しい時代だとしても、ただ歯を食いしばることではなく、未来に得られる評価を期待して頑張るのです。

そう意識できただけでも、努力の実り方が変わると思います。

要するに考え次第だと言うこと。

ある人にはダメでも、ある人には成功のチャンスなのです。

100人の内、1人しか成功しないことも、その1人に慣れればいいだけです。

逆に99人が成功する話も、残り1人になれば失敗します。

得意や強みも武器ですが、苦手やコンプレックスもまた個性になり、成功のチャンスに変えられます。

そうなるように進めばいいのです。

勉強ができる人も凄いですが、できない人が合格したら、それも凄い話です。

そして、ビジネスとしては当たり前よりも、話題性があるとチャンスなので、勉強嫌いな人が行った習慣や努力は気になります。

というのも、勉強が得意な人よりも、勉強が嫌いで苦手だった人の方が、ずっとこの話題に注目してくれそうです。

そこに注目できれば、中高年になってからでも、人生がつまらなくなることはありません。

できないことが問題なのではなく、できるように導くことの方がずっと大切だからです。


「働く」を理解しない中高年の方々へ

 「仕事」には2種類ある!

いろんな分け方があるとは思うのですが、ここでは2種類あることを紹介したいと思います。

1つ目が、「自身」が核になっている仕事。

もう1つが、「他人」が核になっている仕事。

それで完全に仕事を区別できるというではなく、ある傾向を紹介したいのでこの話を持ち出したというのがホンネです。

例えば、漫画家のような仕事の場合、「読者」がいます。

その意味では漫画家も「他人」が核で、そのために働くことになります。

ということは、「自身のこだわり」も作品のクオリティに良い影響を与えているのなら、是非取り入れるべきことでしょう。

一方で、「こうあるべき」という考えが強すぎて読者がそっちのけになってしまうと、「仕事」として成り立たないことになるのです。

とは言え、漫画家の場合、作風などでこだわりを見せられる職種で、そのような仕事はなりたくてもなれないことも多いのが特徴です。

というのも、絵を上手いとか、作品が斬新だからで人気漫画家になれるものではないからです。

一方のそもそも「他人」のためにある仕事とは、会社員などでしょうか。

正社員、パート、派遣、アルバイト、雇用関係を問わず、「会社」という存在が先にあって、その会社が提供しているサービスがあって、そのために彼らは雇用されて働くことになります。

開発部門などに配属された場合、技術者として知識や技術を駆使することになりますが、とは言え、漫画家に比べれば仕事の「核」は「他人」にあるでしょう。

なぜ、このような話を持ち出したのかというと、意外と中高年で社会人経験がある人でも、稀にどこに「核」があるのかを考えられないことがあるからです。

頑張る姿や汗をかいて働く姿だけを見ると、頑張っているなぁという評価なのですが、時間軸を1時間、1日前、1週間前と動かせば、準備や対策が十分にできた仕事で、むしろもっと質の高さを狙えたという場合も少なくありません。

でも、問題なのは、「他人」のために働くということが何をどうするべきことなのかが理解できないケースもあることです。

もちろん、こみち自身も仕事でミスしますし、思ったような反応が得られずに頑張りが無駄になることもあります。

それだけに改めて「仕事」ということを考えることが大切になって来ます。

時系列を読めない人

例えば、今から目玉焼きを3つ作るとしましょう。

なので生卵を3つフライパンに割って焼き始めました。

そんな中で、実は4つだったとなったらどうでしょうか。

また、そもそも目玉焼きではなかったら…。

時系列を読めない人は、作業を始める段階で完成形を想像しないようです。

なので、修正が面倒になってしまう段階で、思いつきの行動に出るのです。

それを頑張りと思ってしまうと、チームを組む人からすればとても扱い辛いでしょう。

過去に上司がそのタイプで、昨日と言っていることが違って、振り回されて経験がありました。

目先の仕事をこなすことで手がいっぱいになり、それこそ本来の「他人」を見据えた仕事ができません。

経験の浅い新人がそんな上司に当たってしまうと、「仕事」を誤解して働く意味や楽しさに気づけないこともあるでしょう。

また、中高年になって仕事を始めた時に、その会社の気になる部分が目についてしまうかもしれません。

中高年になればこそ

こみちが思う中高年の仕事探しでは、「他人」ファーストに徹して働くか、「自分」を核にできるような仕事を見つけることです。

例えば、時間から時間という絶対的な枠を決めて、その範囲でできることは惜しみなく提供するというような働き方です。

上司が間違えていてやり直しになっても、その無駄になった部分は気にしないで、「今」できることを考える働き方です。

一方で、機会やチャンスがあれば、「自分」を核に働ける方法も模索したいものです。

今の「気になること」も、誰かには役立つ話題で、そこにどっぷりと時間を使ってみることで、新しい働き方に繋がるかもしれません。


仕事探しを根底から考え直してみる!

 そもそも仕事って何だ?

引きこもりしている人の中にも、才能豊かな人は多い。

一方で働いている人の中にも、職場で問題視されている人もいる。

この事実は今に始まったことではなくて、昔からあったし未来にも変わらないだろう。

ずっと勘違いしていたことの1つが、「才能」と「仕事」がとても近い関係だと思っていたこと。

でも実際は、ほとんど無関係で、もっと言えば段階が違う。

才能があって、それを活かせる仕事もあるし、才能とは関係ないことを提供して働くこともあるからだ。

これは資格にも言えるけれど、例えば宅建の資格を取れば仕事が見つかるのではなく、資格を活かせる職場が見つかりやすいということ。

なので、結局は仕事探しも一歩を踏み出すことができるかどうかで決まる。

中高年の世代になれば、それなりに職場も多く見ていただろうし、キーパーソンとなる人やそのサブ、または関わるべきではない人も分かるだろう。

時には上司が仕事のできない人で、職場がパートで回っていたりすることも珍しくない。

しかし、パートが見ているのは日々の作業であって、上司が見るべきは会社の未来なので、その状況が長く続いていることに疑問を持つことも必要な時がある。

とは言え、まだ若い正社員が上司で、パートとして働く人の方が経験豊かなことも増えて、どうしても経験値でパートの意見が採用されてしまうケースも増えてしまう。

ただ、経験が浅いだけで正社員が目指すのは、もっと先の未来なので、日々の作業を終えることだけで満足してはいけない。

ここで言う「未来」とは何か?

これから時代を生き抜くためには、キャラクターという個性が求められる。

それは会社に対し、人に対し、商品に対し、至るところで求められる。

目の前に同業他社が作った商品が並んでいて、そこからどれかを購入したい時に、それぞれの商品が同じ割合で売れて行くとは限らない。

時には価格に差があって、安いと売れるとも言えず、高いから売れないとも言えないことに気づくと、どんな商品が求められているのかを見極めることが欠かせない。

つまり、正社員に求められるのは、この部分で、日々の作業でも「なぜそうするのか?」の答えに従っていなければいけない。

では個人的な意味での「未来」とは何だろう。

例えば英会話ができるとか資格がたくさんあるとか、それがあると未来が明るくなりそうなスキルを連想してしまう。

それも間違いとは思わないが、「一歩を踏み出す」ことよりも重要度は低い。

一方で、あの人に任せればきっと上手くやってくれるという期待感をどう相手に認識してもらうのかを意識することも忘れてはいけない。

それこそ日々の業務はどんな会社でもある程度は固定化されていて、その会社の総資産を2倍にすることを求められてはいないだろう。

でも個人という視点では、自身のキャラクターを作り、それを上手く活かして仕事を探すことになる。

「丁寧でミスがない」というキャラクターなら、そう思われるような仕事を続けることだ。

「斬新で面白い企画を出してくれる」というキャラクターなら、誰もがしていること以外に何が強みなのか考えることだろう。

そんな中で、初めて英会話や資格が出て来て、活かし方の幅を広げてくれる。

つまり「どんなことに応じられるキャラクターを作りたいのか?」ということ。

それが仕事探しの大前提になる大切なことではないだろうか。

中高年になったら「貫く」という生き方にこだわって欲しい!

 一番に理想は「ニーズ」に応えられること

例えば、「東京大学」に合格すると、その先の人生が明るく開けるとするなら、そこに「ニーズ」があると言えます。

じゃあ「東大を目指そう!」と頑張ることは、確かに正論ですし、達成できれば未来も明るいでしょう。

しかし、そう思って実際に到達できる人は限られていますし、実際にはそこがゴールではなくて、そこから先も同じような試練を乗り越えなければいけないでしょう。

特に、1を聞き10まで理解できる能力がある人も、世間に出れば1を聞いてもできない人もいて、その中で生きなければいけません。

つまり、同じテンポで話が理解されない相手とどう付き合って仕事をして行くのかを真剣に考えなければ、前に進めないということです。

公平で公正な環境は、理想的ですが、実際には学生時代のようには存在しません。

個人的には正しいと思えないことが評価される環境に入ってしまえば、それまでの信念さえ疑うことになり、そのことで悩むこともあるでしょう。

しかしながら、理想は理想であって、自分に合った環境見つけることで、生きやすさも手に入ると思います。

合わない人や合わない仕事を克服し、自身が成長して行くことも長い人生では無駄な経験ではないと思いますが、中高年になったら持ち時間も気になるので、もう少し割り切ってみてもいいように思います。

つまり、少し自分本位に生きてみましょう。

これが好きだと思うものがあれば、そこに生きてもいいでしょう。

もちろん自己中心的であることを勧めるものではなく、若い頃のように「ニーズ」に応えようと言動を選択とは異なり、自分が心地よいと思える生き方もいいんじゃないかということです。


生涯の仕事を決めました!

 生涯の仕事は「絵師」

絵を描くことで稼げるのか?

先ずはその課題に立ち向かわなければいけません。

しかし、時代の変化で変わったことは、いろいろなシーンで感じます。

何より、自分には楽しく、時間が経つことも忘れてしまえる仕事なら、その人にとって生涯の仕事候補でしょう。

それがこみちの場合、絵を描くことで「絵師」になりたいと思うようになりました。

なぜ「絵師」なのか

絵を描くことが楽しいのも理由ですが、両親の介護をするためにもある程度時間的に自由がきくと嬉しいです。

会社勤めなら、いい意味で普段の介護から離れられる良さもありますが、朝夕と食事を作っているので、そこは譲れないポイントです。

今の活動

描くことは、いきなりできるものではなくて、描くものも段階的に変えながら、幅を広げなければいけません。

今は女性の方を描くことが多く、髪などの細かな描写を練習しています。

youtube でも活動し、「こみちチャンネル」を運営しています。

3日か4日間隔で、描いた絵を公開しています。


中高年に「未来」はあるのだろうか?

 社会で何が起こっているのか?

高齢者がますます増え、介護サービスを必要とされる人も増加するでしょう。

だから、「介護職がおすすめ」と考えるのは少し安直かもしれません。

と言うのも、介護職と言えば、やはり体力が必要ですし、年末年始、大型連休、お盆休みもシフト勤務が続きます。

例えば、介護職を生涯の仕事に選ぶという覚悟があるなら、実際に介護スタッフとして働いた経験から言っても、やり甲斐のある仕事だと思います。

しかし、介護スタッフとして入職すると、さまざまある仕事の中でも利用者と接することが多い担当になるでしょう。

入浴やトイレ、オムツ、食事など、人が生きる中で必要不可欠なことに関わります。

しかしながら、介護とはそれだけではなく、「生き方」とか「自尊心」のようなものにも向き合っていきます。

そしてそれは、介護スタッフという立場ではなかなか触れられない部分で、経験を重ねて介護福祉士、ケアマネとステップアップして初めて知ることになる部分でしょう。

こみちの場合、その途中である介護福祉士の資格を取得したに過ぎないので、もしもこれから介護業界に関わるなら、それこそケアマネや施設運営のような介護をもう少し広い視点で向き合っていけるとさらに大きなやり甲斐にも繋がると想像できます。

しかし、今は同居する両親が少しずつ加齢でADLの低下が見られ、いろんな思いを持ちながら在宅介護をしています。

施設に預けられる要介護まではまだありますが、一般人が段々と老いて行く様を両親の生活を見ながら感じているのです。

「オムツの付け方」を介護スタッフになれば始めるでしょう。

でも、オムツをつけたがらない利用者がいて、彼らは「トイレに行きたい」と訴えます。

「オムツでしょう!?」

介護スタッフならそんな風な言葉を説明するかもしれません。

しかし、立位に不安があっても、排せつ機能に問題があっても、オムツで用を済ませることは羞恥心との戦いです。

何が言いたいのかというと、介護は突然始まることではなく、一般人から段々と始まります。

その移行期間は人によって異なりますが、子育てのように「何歳で何ができる」とは言えません。

奥を知れば知るほど、介護という仕事は幅広く、言ってしまえば介護スタッフという立場で仕事さえできればいいという割り切りをするのか、もう少し老いるということを自分なりに咀嚼して理解しようとするのかでも違います。

介護業界というのを例に挙げた訳ですが、他業種でも同じことが言えて、しかも世代の若い人の感覚に合わせなければいけないことも増えるでしょう。

これからも社会と関わるために、自分が何をして役立てるのかを見極める必要がありそうです。

必要とされるために、今までの常識や価値観だけでは受け入れてもらえません。

時代が随分と変わったなぁと感じながら、その中で自分が生涯続けられる仕事を見つけたいものです。

「タイパが悪いという発想」と向き合う話

 「3分クッキング」は3分の放送ではないけれど…

実際、3分という調理時間で完結できる料理は、そう多くありません。

3分で食べられるカップ麺でも、お湯を沸かすところからでは「3分」は絶望的です。

言い換えると、「準備」、つまり事前に「お湯を用意する」ような、段取りをスムーズにするための策が求められているのでしょう。

タイムパフォーマンス(時間に対する満足度)が悪いこととして、例えば「会議」が挙げられます。

あるテーマについて話し合うためには、出席者それぞれがどれだけ事前に準備しているかが重要で、司会役がテーマを告げ、そこから経緯を紹介していたのでは参加者は十分な考えをまとめることもできません。

にも関わらず、とりあえずテーマに関する話題を順番に触れて、そこからさらに一歩二歩と踏み込んで行こうと思っても、参加者それぞれの関心度や問題解決能力によっては全く成果らしいものが見つからずに終わってしまうこともあり得ます。

つまり、会議が始まってから終わるまで、時間を掛けた割には成果に乏しい「タイパの悪い」ことになるのです。

「会議」というものが悪いのか?

会議で成果を上げるには、テーマに対する理解と情報が事前に収集されていなければいけません。

しかも、さまざまな点から現段階での落とし所を数パターンにそれぞれが絞り込み、会議では前置き部分を短くして、落とし所の相談だけに絞り込むくらいの準備が不可欠です。

そうしないと、集中力の持続が続きませんし、肝心な落とし所を検討する頃には会議全体がだれてしまうからです。

一方で、そんな会議はそもそも開催を取りやめてしまうとどうなるでしょうか。

結論を言えば、「正社員の仕事」と「パートやアルバイトの仕事」の違いが良い例だと思うのですが、「目の前の仕事をする」という部分は同じように見えますが、「その先に何を目指しているのか?」を当事者として理解しているかどうかではないかと思うのです。

中には、仕事ができるパートやアルバイトの人がいて、仕事の目的や今後の経営方針にも精通しているかもしれません。

しかし、残念ながらパートやアルバイトとして働いている状況では、会社側としてより経験を必要とする仕事を任せ難く、またパートやアルバイトの方にすれば、それだけ厳しい状況を乗り越える業務を今までと同じ報酬で担うことに抵抗を感じるでしょう。

言い換えると、プレーヤーとなる正社員という立場が、責任と成果のバランスを得られるポジションで、ある意味で仕事ができるか否か以前に「準備」として整っていないと、より高度な仕事は始められません。

これは先に挙げた「会議」と似た構造で、立場という準備がなければ、実際の仕事ぶりを正確に判断し評価することもできません。

会議では、話し合いたいポイントにできるだけ早く参加者全員が行きつき、何がどう問題になっていて、その解決策は何が思いついて、その成果や問題点を相互に理解した中で、それぞれの立場から意見交換したいはずです。

なので、「そもそも会議を行わない」や「正社員もパートもアルバイトも同じ」という括りにしてしまうと、結果的に今の仕事さえ失ってしまいかねません。

ある日突然、雇用が打ち切られてしまうということは、どんな労働者にとっても避けたいこと。

でも、現場の仕事を覚えて、繰り返すだけの業務になってしまうと、その方法が不適切な場合でも、改善策を検討することが難しいこともあります。

そして、何も出来なかった結果、「雇用打ち切り」という流れに陥ってしまうのは何とも納得できないでしょう。

「タイパが悪い」ということだけでは、世の中のことは分からなくて、無駄という経験をどう活かせるのかが良い結果にも通じます。

そして何より、それを実践できるポジションでなければいけません。

現状を分析し、予測するだけではなく、集団を誘導する仕掛けにも着目することで、「タイパが悪い」という結論を「タイパが良い」に変えられるかもしれません。

しかしそれも、先ずはそのポジションにいるということがスタートだと言えます。

中高年の人が「生涯続けられる仕事」を見つけるために

 時代は変化している

昭和から平成、令和と年号が変わったことは知っていても、「時代」が変化したことで何が変わったのか気づいていませんでした。

例えば、「走ることが好き」という人がいて、毎朝欠かさずランニングをしていたとします。

「趣味」と理解することはできても、今の状態で「仕事」と理解することはできないでしょう。

ここで「昭和」を生きて来たこみちのような中高年は、どうしても今までの「時代」に沿って考えてしまいます。

つまり、「ランニング」は趣味で、仕事は別にあるもの。

時代の変化で少し考え方を変えるポイントがあるとするなら、「役に立つ」という遠くのテーマを決めて、その流れから「ランニング」を手段として捉えます。

具体的に言えば、中高年向けなら「健康」という視点でランニングの役割を自分なりに理解し、それによって同じ世代の健康に関心がある方向けに「ランニングの良さ」を伝えることを仕事にするのです。

というのも、「昭和」の時代には、本を出版するのも大変でしたし、増して「映像」を発信することなどテレビ番組でもなければできなかったでしょう。

しかし、今の時代、youtube やブログは比較的誰にでも手を出せるツールです。

言ってしまえば、「医者が病院で患者を診察する」という仕事は昭和からあったのですが、「医師になるための情報」というテーマであっても令和の時代には「仕事」にできる可能性があります。

つまり、「資格取得」ということも、「資格を持って仕事を探す」という昭和からあった流れの他に、「資格取得までの試行錯誤」さえも必要な人には有益な情報になり得るので、成功談以外に失敗談もまた必要とされることなのです。

そんな風に「仕事」を考えると、これから「陶芸」を始める人向けとか、「料理」や「掃除」のような家事でも、テーマの決め方や情報の集め方次第で、十分に趣味を仕事にすることができます。

現代における「専門性」の役割

こみちは介護福祉士の有資格者です。

介護現場を実際に3年以上経験すると受験資格が得られ、国家試験をパスすると有資格者になれます。

もちろん、介護系の学校で学ぶこともできます。

しかし、介護における「専門性」を考えると、理屈がどんなに正しくても、それが常に選択されるとは限らない現状に直面します。

つまり、老いは誰にでもやって来るものですが、その向き合い方は本当に人それぞれで、どれが正解ということではありません。

専門性を持つことで、逆に介護の奥深さも知るので、「絶対的な正しい」ではなく「選べる選択肢」が増えるに過ぎません。

これは命や健康、財産に直結するようなことでない限り、どんな資格であっても同じようなことが言えるはずです。

資格取得の大きな目的は、命や健康、財産を適切に取り扱う知識や技術を得ることだと思っていて、介護であれば利用者の事故などを防止するために知っていなければいけない知識を現場で活かすことです。

明らかに健康を害することを利用者の生き方だからと放置するのは介護士として適切ではありません。

全てを自分で解決できることではなく、他の専門職に声を掛けることも含めて、それが介護士が専門性を活かすことになります。

これから「生涯続けられる仕事」を見つけるために

時代の変化という視点では、既存のルート(資格取得をして仕事を探す)以外にもたくさん選択肢があるということ。

例えば、介護の資格などないけれど、今親の介護をされているなら、きっとその情報や苦労も必然とされている人がいて、「仕事」として提供できる可能性があります。

つまり、「生涯続けられる仕事」というと、何だか難しく聞こえますが、自身がこれまで当たり前に続けて来たことで、それを誰かが知りたいと思ってくれているなら、形の整え方次第で「自分だけの仕事」にできるでしょう。

言ってしまえば、国家資格である「介護福祉士」も、試験は対策さえ立てて臨めば十分に合格できるはずです。

それよりも、介護施設でそれまで経験したことがないような出来事に3年以上向き合うことの方が中高年には大変かもしれません。

今日、資格を取ろうと思っても「3年後」になるわけですから。

つまり、試験対策という切り口も必要とされていますが、3年間介護職で頑張って働く姿も同じくらい有益な情報ということです。

介護以外の分野であっても、今の時代に合わせた切り口を見つけられたら、それを「生涯の仕事」にできるかもしれないという話でした。

「フェーズ」という考え方

 こんな経験はないだろうか?

「今さら、何を言っているの?」

つまり、この言葉を発した人には、状況が変わっているという認識があります。

腑に落ちないようなことを無理に押し付けられて、文句もあれば納得もできていない。

でも、頭や心の中で感情がぐるぐると巡り、時間だけが経過してしまう。

「先の話ですが…」

意を決して、納得できない思いを相手に伝える場面。

「何の話?」

つまりフェーズはもう完全に変わっています。

不条理な話なら、どんなに時間が経っていても、受け入れられるものではありません。

だからこそ、よくよく考えて、思いをぶつけようと決心したのでしょう。

しかしながら、相手を含めた状況が既に変わってしまっていると、「あのぉ〜」という話を切り出した人はちょっとだけ肩身の狭さを感じます。

何か今さらって雰囲気出してくる…

正しいことを言おうとしているだけなのに、タイミングが違うだけで何か悪いことでもしているように扱われてしまう。

そうなんです。

フェーズが変わるまでが一区切りで、それを跨いでしまうと状況も一変します。

無理難題を相手から頼まれた時に、黙ってその場を流してしまうと、それはフェーズの終わりを意味します。

つまり、どんな無理難題だとしても、それが「認められた」で終わったのです。

だから後になってどんなにそれが無理な話だと説明しても、印象としては「今さら」になってしまいます。

フェーズを終わらせないためには、「また冗談でしょ? できる訳ないでしょ。あははは」が必要です。

つまり、「無理難題が認められてはいない」でその場を終えるのです。

実際、後になって「先の件だけど」となった時に、「何の話でしたか?」と言える場合、無理難題は通らないまま終わったということ。

逆に「頼んだ件じゃないか?」と言われてしまうと、無理難題を断れていないかったということになります。

「そう言う話ですか。余裕があればもう一度聞きますね」と言えば、難題を受け取ってはいないけれど、放棄もしていないという「保留」になります。

そう言っておけば、「思っていた以上に手が回らなくて」とも言えますし、「もう一度、教えてくれませんか?」と無理難題に向き合うこともできます。

無理難題を無効化する

東京と北海道、二つの場所で同時に居ることは技術的にも不可能です。

それが無理難題。

でも、「どっちが優先ですか?」と判断できれば、解決の糸口が見つかります。

または、「もう一人誘いましょう」ということで、一人ではできない困難をチームとして解決できるかもしれません。

つまり、予算を立てるとか、人数を集めるとか、見えない結論見える方に整えるとか、無理難題を解決できる形にはめ込むのです。

そうすることで、無理難題なことも解決できるかもしれません。


「中高年はどう生きるべきか?」を考える話

 社会との繋がり 仕事を失わないために

正社員かパートタイマーか、という働き方の違い以上に、50歳を過ぎて来ると「仕事」から縁を失うキッカケは至るところにあります。

例えば、昨今、レジでの支払いは「現金」とは限りません。

クレジットカードはもちろん、電子マネーなどによる支払いが普及しています。

ということは、自身では現金で支払っているという人でも、お金を扱う職種に就けば、今まで縁遠いと思っていたシステムにも知識が必要です。

スマホなどを普段から使っている人でも、内部のシステムや設定まで問われると少し戸惑う人もいるでしょう。

レジ業務で決済できない客に「どうしてできないのでしょか?」と迫られて、「知りません」というだけでは厳しい一面もあります。

つまり、それだけ時代は変化していて、過去の経験だけではどうにもならないことがたくさんあって、時代の移ろいに疎くなると、仕事から数年も離れてしまうと分からないこともたくさん出てしまいます。

「仕事が欲しい」と望んでも、今の時代に当たり前に求められる知識がなければ、働くいて欲しいと会社や店舗から望まれたとしても、知らないことばかりで、それでも頭を下げて一から学ぶくらいの決意がなければ務まらないのかもしれません。

その意味でも、中高年になると安易に職を失うべきではなくて、働かせてもらえるなら少しくらい待遇面で不満があっても「無職」になって仕事探しをするよりも焦りがありません。

なぜ人はウォーキングを始めるのか?

こみちは趣味でランニングをしています。

ほぼ毎日、5キロから7キロくらいの距離を走るのですが、同年代やそれ以上の年代の方とも遭遇します。

中にはシルバーカーを押してウォーキングされる年配者もいて、なぜ彼らは歩いたりするのでしょうか。

介護の世界で言えば、「トイレが一人で使える」という行為ができるか否かは大きなポイントです。

使えない場合、一般的には「オムツ」を使用し、1日に数回、誰かに交換してもらわなければいけません。

家での交換になれば、どうしても部屋に臭いが充満しますし、しばらく続けていると交換しない時でさえ特有の臭いが残ります。

それも慣れてしまえば気になりませんが、臭いが残ることには変わりありません。

つまり、在宅介護でも「トイレ」は大きな意味を持っていて、それはつまり自分で歩いて移動できることができなければ始まりません。

買い物などにしても歩けるというができるからこそで、車椅子でもバリアフリーの店舗などは不便もないかもしれませんが、事前に調べたり、店舗が限られてしまうなどの不便さはどうしても起こります。

その意味でも現時点での運動機能を少しでも長く保つことが重要で、その一環として「ウォーキング」もあると思います。

意外と、高齢者になって運動を始めて、転倒をキッカケに介護施設入所されたというケースは少なくありません。

転倒し足を骨折すると、それがキッカケで足の筋力が低下し、歩行を不自由になるという流れは少なくないからです。

そんな時代をどう生きればいいのか?

結論を言ってしまえば、「役に立つ人」になることでしょう。

どんな風に、どんな形でという部分は人それぞれで、資格がなければできない分野やちょっと手間で面倒なことを代行するなどそれが中年の間に見つけ「仕事」ではないでしょうか。

20代、30代のチャレンジが、その時に失敗だったとしても、その経験を糧にして中年時代に方向性を見つけるキッカケにできます。

そして高齢者になった時に、ビジネスという形に捉われなくとも、仕事を持っていることが人生を豊かにし、他人とも同じ目線で向き合えます。

誰しもが「何もできない人」に向かっていくのですが、その存在が無価値になる訳ではありません。

成功者だけが求められるのではなく、失敗ばかりの人生でも役に立つことはできます。

そこに工夫やチャレンジ、思いなどがあって、どんな形でも若い世代に参考にしてもらうことはできるからです。


小さな「得」と大きな「損」の話

 小さな「得」と大きな「損」

小さな「得」の代表例は、「プライド」を通した結果です。

経験や実績から生まれた「プライド」は、時に生きていくための大切な支えにもなるからです。

しかし、残念ですが「プライド」を意図的に死守したことで、結果が良くなることは珍しい話。

多くの場合、プライドのようなこだわりは良い結果のためには含まない方がいいはずです。

というのも、小さな「得」は、生きる中で些細な成功体験ですが、それを100個、1000個と積み重ねても、大きな成果には届きません。

なぜなら、その小さな得は、自身が想像する以上にとても小さいものだからです。

では大きな「損」とはどんなものがあるでしょうか。

このブログは中高年向けの記事がメインなので、そんな方たちが身近に体験したことから例を挙げると「仕事を失う」ようなことを指します。

例えば、大手企業に勤務していた方が、定年退職をして第二の仕事を近所で探しているとしましょう。

大手企業で働いていた感覚で、労働と対価をイメージしていると、第二の仕事探してかなり苦戦することになります。

理由はとてもシンプルで、世間的にお願いしたい仕事の多くは、面倒で手間の掛かる作業だからです。

「こんなに大変な仕事なのに、なぜこんなに対価が安いのか?」

そう感じるのは、最初に条件が有利な大企業の社員になったからで、関連会社や下請け会社があなたの代わりに頑張って面倒な仕事をこなしてくれていたからです。

そして、そんな大企業の看板を失ってしまうと、あなたも他の方々同様に、面倒で大変な仕事をこなさなければいけません。

つまり、大きな「損」とは、目の前仕事を選ぶ時に、そもそもどんな社会に足しているのかという話で、それが変わってしまうと個人の能力や経験は、もはや無かったに等しいくらい評価も変わります。

そのことに気づかないまま、プライドだけが残り、こんなはずではなかったと思ってしまうと、折角の幸福だった人生がとても未来に希望のない生活へ変わってしまうでしょう。

ここまでの話を簡単にまとめると、小さなどうでもいいことにこだわって、その結果、大きな簡単には譲ってはいけないことを失ってしまってはいけないのだという話です。


なぜ働きにいかなければならないのか?を考える話

 商店街

どんなところで食材を買っていますか。

低価格で程よく美味しいものが、スーパーには揃っています。

ショッピングモールもスーパーとは少し異なりますが、いろんな目新しいものが手に入ります。

ところで、商店街に行ったりしますか。

商店街はいろんなところにありますが、その多くは個人店だったりして、商売がやりづらいことも多いようです。

価格面や人材不足など、継続するには難題も多いから。

一方で、盛況な商店街は、通りを歩くと気になる店が多く、何より人との触れ合いが多かったりします。

人との会話が面倒だという人も少なくない時代、だからこそ商店街ではなくスーパーの方が気軽に感じるという人もいるでしょう。

ただ、繁盛する商店街は、客との距離を掴むのが上手な接客をしてくれます。

「いらっしゃいませ!」という元気で明るい声に、「テンション高い!」と気後れしそうですが、そこからがただ明るい人とは違います。

いい意味でサバサバしている対応なので、そのテンションに合わせられなくてもいいです。

「今日のおすすめは何ですか?」

そんな話を振ってみると、お客さんにとっても知りたい話を教えてくれたりします。

「今日はこれかなぁ…。ささっと炒めたら美味しいですよ」


商店街でしか買えないというものは少ないでしょう。

ただ食材を買いたいだけなら、どこに行ってもいいはずです。

しかし、商店街の良さは、人との触れ合いで、繁盛する商店街は活気があって、こちら側の気持ちも変えてくれます。

マイペースで全て済ませられることは穏やかな時を過ごせますが、「買い物」だけで終わってしまう可能性もあります。

ということは、自身の生活がありとあらゆる面でぶつ切りになって、単調で変化に乏しい生活になりがちです。

なぜ、いつまでも働きに行かなければならないのか?と思ったことはありませんか。

その原因は、生活をぶつ切りにして、「働く」がそれ単体になってしまうからかもしれません。

ショッピングモールに出掛けて、同業他社を紹介して欲しいと言っても断られるでしょう。

なぜなら、仕入れている商品が似ていて、わざわざ客を別の店に取られたくないからです。

でも商店街なら、そうとは限りません。

なぜなら、個々の店がすべての商品を扱っているとは限らないので、同業他社を勧めても被らないからです。

繁盛する商店街は、こんな交流が気軽にあって、客を奪われるという発想ではなく、商店街全体で魅力を伸ばそうと考えるからでしょう。

「〇〇が美味しいですよ。人気があるから早めに行かないと売り切れちゃいますよ」

言えば口コミにもなるのですが、同じ商店街の人から聞いた話となれば、ネットの口コミ以上に気になりますよね。

勧める方もウソは言わないし、食べて美味しいものを紹介してくれます。

そして実際に紹介された店の商品が良ければ、次に足を運んだ時にはその店にまた行きたくなるものです。

全員がそうしなくても、それこそ心の触れ合いで、スーパーとは異なる魅力が生まれます。

これが、道端でポツンと建っている店となれば、誰かが紹介してくれる可能性は減るので、商店街とも違う商売になるはずです。

商店街という個人店の集合体が幅広い客層を集め、全体として繁盛していきます。

つまり、いつまで働きに行かなければと疑問に思った時に、「何ができれば良いのか?」という答えは、スーパーや商店街、路面店と分けて考えてみると分かりやすいでしょう。

会社員はスーパーなので、決まった時間に決められた場所に行き、決められた仕事をすることが求められます。

しかしながら、有給休暇も取れますし、仕事内容はある程度決まっています。

マイペースでもできる仕事もあるでしょう。

これが商店街的な働き方になると、どうしても価格面ではスーパーほど安くできません。

でも同じ商品もアイデアやチャレンジが反映させやすいという良さがあります。

手作り感や触れ合いもその一つで、買い物した客が「いいものを買えた」という感覚は必ずしも価格が安いことだけではないことがポイントです。

つまり、脱サラで注意しなければいけないのは、「〇〇をした」という何か決められたことをするのが仕事だという発想を捨てることです。

その発想は、まさにサラリーマン的なので、そうではなく「何をして欲しいだろうか?」という視点で相手主体で考えることでしょう。

「マッサージなら得意です」という資格取得や技能取得ではなく、その一歩先に目を向けることで、仕事に対する意識が変わります。

路面店で繁盛できないなら商店街に属することもあり

強烈な強みで商売ができるならいいですが、そうではない時はグループや集団に属することで、自身の商売を伸ばして行く方法もあります。

脱サラすると一人でどうにかと思い過ぎると、客が思うように集まりません。

そこで、自身の店の商品を少しでもアピールできる方法として、工夫してみるといいでしょう。

「中高年の仕事探し」とは何だったのかという話

 「生涯続けられる仕事」とは?

今の時代、技術やスキル、知識は段々とさま変わりするものです。

つまり、「〇〇さえあればイイ」と明確に言い切れる「職種」もありません。

例えば、「絵を描く技術」。

昭和時代であれば、画材はいろいろあるにしても、基本は全てアナログで、手作業だったはずです。

今ではパソコンなどを使って制作出来ますし、作業の時間帯や場所という概念がなくなりました。

作業工程に関しても、何度でもやり直し出来ますし、サイズの変更や複製も一瞬でできてしまいます。

そして、そのような変化と同時に、AIによって「絵を描く」ことそのものが機械化されようとしています。

見方によれば、もう人間がデッサンをして絵を描くことさえ否定されたという言えるのですが、別の見方をするとだからこそ「人間が作る」意味も見直されました。

端的に言えば「絵」そのものに価値があるのではなく、「何で描いたのか?」とか「誰が描いたのか?」という理由や動機の部分がより大切になったのです。

結局のところ、仕事を金儲けという視点で見れば、需要と供給のバランスに他なりません。

ある作業をして、それが一般的な相場として判断される間は平均的な金額しか稼げないということ。

しかし、例えば店員として働く時でも、自身が売り場担当者になり、売上高に対してインセンティブを受けられるような場合、稼いだだけ儲けも増えることになります。

つまり「労働力」として相手任せで働いてしまうと「相場」から儲けられる金額も決まり、自身の考えやアイデアを活かして働けると「相場」ではない別の尺度で稼げます。

また、求人をいろいろと眺めれていると、仕事量はそう多くないのにほどほどに稼げるという仕事も見つけられ、やりがいを発揮して沢山稼ぐことはできないけれど、のんびりマイペースで働けるような職場もあります。

仕事探しは「楽に稼げること」が求められますが、その「楽」にもいろいろと種類があって、「何もしないこと」を良しとする場合や「自身を活かして」という場合もあり、結局は本人がどんな風に働きたいのかということでしょう。

カメラマンは楽な仕事でしょうか?

カメラを持って、いろんな場所に足を運んで撮影することを仕事としているカメラマン。

例えば自然の風景を撮影する場合、狙っている天候が来るまで「待つ」ことが仕事です。

シャッターを押すのは一瞬ですが、それ以外は極端な話「その準備」で「待ち」とも言えます。

しかもその一瞬で撮影した「結果」によって、カメラマンとしての価値が評価されるのですから、こみちなどからすると「楽な仕事」には見えません。

カメラが好きで、撮影が好きで、「待ち」さえも楽しめる人でなければ、カメラマンになりたいとは思わないでしょう。

でもこの発想は、他の職業にも言えて、サラリーマンなら「楽」という発想もよくよくその仕事ぶりを調べてみると、「決まった時間に決まったことをする」という難しさは拭えません。

結局のところ「楽な仕事」というのはなくて、自分がどんな種類のことなら我慢できるのかということでしょう。

エプロン姿で品出しをして時給で働くことと、スーツ姿で電車に揺られて日々の業務に追われて働くのを比べてもあまり意味がないように思います。

ポイントはその働き方で需要を拡大させられる可能性があるのかという部分。

たとえ時間給という出発点だったとしても、売り場の担当者になりインセンティブが得られるようになれば、一般的なサラリーマン以上に稼ぐことだって不可能ではないでしょう。

しかも、自身が調べて取り寄せた商品が沢山売れたりしたら、やはりやりがいもあるはずです。

一方で、待遇面はよくても、自身の受け持つ仕事が断片的過ぎて、顧客からの反応さえ分からずに行っていたのなら、やりがいを明確に感じることはできません。

「給料がいい」ということで不満がなければそれはそれでいいのですが、例えば時代が変わってその業務を機械化できるようになったら、ポジションを失ってしまう危険性は避けられません。

その意味では、「どんな資格を持っているのか?」よりも「何をすればいいのか?」という手応えを知っていることが大切な時代なのかもしれません。

例えば「料理」というカテゴリーで、人が作れない料理をつくことが守るべきことではなく、作り方のコツやアレンジなど、誰かの役にたつ(需要)を知ることで仕事になってくるのでしょう。

その意味では、中高年の世代こそ、何かを始めるなら結果が見えるところまで頑張ってみるべきです。

例えば、「自動車の免許を取得する」こと自体は特に珍しい経験ではありません。

しかし、そこからさらに「大型自動車免許」や実際にバスを運転してみるというところまで経験が広がれば、他の人にはないような視点が見つかるかもしれません。

「免許」という括りから派生できる価値観をいろいろと探してみたら、それは何かの役に立つかもしれないからです。

つまり、「難しいこと」ではなく「当たり前」から始めてもよくて、例えば「散歩」や「睡眠」だとしても、そこから何をどう広げて行けるのかが大切です。

「AI」の進化は止められない!そんな中で目指すべき場所とは?

ミスをしない『AI』の強さ

医療現場はもちろん、エンターテイメントの分野までも『AI』が我々の常識を覆すことでしょう。

その要因は、ミスをしないこと。

人間の場合、疲れや気の緩いで、小さなミスをしてしまいます。

しかしながら、精度が上がってしまえば、もうミスをしないAIの特性は、医療のような現場で欠かせないものです。

一方で、エンターテイメントに関しても、例えば視聴者が望むような「結末」を理解してしまえば、そこに行き着くまでの展開をさらに深掘りすることで、人間が苦労して考えるストーリーとは視点の異なる斬新な物語ができるかもしれません。

ちょっと想像すると、そんなAIに人間が対抗しても勝ち目はありません。

法的トラブルに関しても

何かトラブルが起こった時に、その内容をAIに判断してもらうと、勝算から賠償額まで、すぐに答えてくれることでしょう。

根拠となる法令や、それに関わる判例などをもとに、訴状の書き方から裁判の進め方までAIが明確に示してくれるとするなら、何年も苦労して取得したであろう「弁護士資格」もその立場が危ぶまれます。

弁護士資格にそれがあり得る訳ですから、司法書士や行政書士などの資格にも影響があるでしょう。

というのも、例えば司法書士が得意とする土地建物の登記についても、単なる手順を示してくれるだけではなく、具体的に仕事の細かな進め方まで提案し、さらに実際の進捗状況を報告すれば、その後の展開や、訴訟上の戦略の変更まで判断してくれるかもしれません。

なぜこのようなことが起こるのかというと、自由に生きられる人間も社会的な立場の中で暮らしているので、社会を構成する法律や慣習などからは影響を受け続けます。

つまり、「法律なんて関係ない!」とはいかないので、どんな生き方を選んだとしても、要所ごとに「通過」するポイントがあります。

そのポイントをAIが牛耳ることになれば、人間が能力的にAIに敵わない時代になれば、もう社会構造でも覆さない限りAIの判断から逃れることはできません。

そんな時代に生きる我々が考えるべきこと

「人間の世話をする」ような仕事は、AIにとって変わることはないでしょう。

だからと言って、「介護」ということではありません。

というのも、介護の仕事で、入浴や排せつの支援は欠かせないものですが、それらも機械化で補える可能性があります。

AIの頭脳を持った人型ロボットのような登場で、人間にしかできない「温もり」のある関わり方さえ、もう人間以上に卒なくこなせるからです。

つまり、価値や将来性などで行動する必要がなくなり、場合によっては「考える」ことさえも必要なくなる時代になるかもしれません。

遠い未来には、人間の役割は今よりもずっと少なくなって、生まれた時から介護施設で暮らすような社会になるかもしれません。

その頃の人間は、それこそ利益からも無縁で、三度の食事と入浴、寝る場所が約束されています。

そんな時代になると、AIによって人間の人口もコントロールされて、種を保存させるに必要な人口になり、代わりに労働や勉強からも解放されるという訳です。

あながち、そんな未来図は妄想の話ではなく、起こり得る話だと思っています。

ということは、我々がこれから「何をするべきなのか?」という答えは、今の暮らしから未来の暮らしまでの過渡期をどう生きるのかということになります。

ある意味で、youtube で趣味を扱ったチャンネルがたくさん運営されていますが、まさにその活動は過渡期に適した経済活動です。

何も役立つことが必須ではなく、何となく理由はないけれど、気になって立ち寄ってもらえることなら、活動しては十分です。

いつも家庭菜園のことばかりとか、サンドイッチを色々作っているとか、何を扱っているのかよりも、ふと立ち寄る気持ちになってもらえたらいいのです。

過渡期を過ぎると社会構造が一変すると思うので、それまでの期間はそれこそ好きなことを全力で頑張ることでしょう。

上手いか下手かよりも、どんな生活でどんな気持ちになって暮らしているのかが重要になります。

なぜなら、「正解」はAIが担うからです。

我々はたとえくだらないことでも、何かの役に立たなかったとしても、人間同士が感じる「共感」になっていたらいいのです。

でもこの「普通」が意外と難しく、なぜなら人間は目的があると生きられますが、理由もなく生きることが得意ではないからです。

くだらない理由を考えることは簡単なのですが、くだらないことでも継続することは簡単ではありません。

自分にとって、何をしているならずっとできることなのか考えてみましょう。

そこから、これからの生きる方向性が見つかるかもしれません。