ラベル 仕事さがし の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 仕事さがし の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

「働く」を理解しない中高年の方々へ

 「仕事」には2種類ある!

いろんな分け方があるとは思うのですが、ここでは2種類あることを紹介したいと思います。

1つ目が、「自身」が核になっている仕事。

もう1つが、「他人」が核になっている仕事。

それで完全に仕事を区別できるというではなく、ある傾向を紹介したいのでこの話を持ち出したというのがホンネです。

例えば、漫画家のような仕事の場合、「読者」がいます。

その意味では漫画家も「他人」が核で、そのために働くことになります。

ということは、「自身のこだわり」も作品のクオリティに良い影響を与えているのなら、是非取り入れるべきことでしょう。

一方で、「こうあるべき」という考えが強すぎて読者がそっちのけになってしまうと、「仕事」として成り立たないことになるのです。

とは言え、漫画家の場合、作風などでこだわりを見せられる職種で、そのような仕事はなりたくてもなれないことも多いのが特徴です。

というのも、絵を上手いとか、作品が斬新だからで人気漫画家になれるものではないからです。

一方のそもそも「他人」のためにある仕事とは、会社員などでしょうか。

正社員、パート、派遣、アルバイト、雇用関係を問わず、「会社」という存在が先にあって、その会社が提供しているサービスがあって、そのために彼らは雇用されて働くことになります。

開発部門などに配属された場合、技術者として知識や技術を駆使することになりますが、とは言え、漫画家に比べれば仕事の「核」は「他人」にあるでしょう。

なぜ、このような話を持ち出したのかというと、意外と中高年で社会人経験がある人でも、稀にどこに「核」があるのかを考えられないことがあるからです。

頑張る姿や汗をかいて働く姿だけを見ると、頑張っているなぁという評価なのですが、時間軸を1時間、1日前、1週間前と動かせば、準備や対策が十分にできた仕事で、むしろもっと質の高さを狙えたという場合も少なくありません。

でも、問題なのは、「他人」のために働くということが何をどうするべきことなのかが理解できないケースもあることです。

もちろん、こみち自身も仕事でミスしますし、思ったような反応が得られずに頑張りが無駄になることもあります。

それだけに改めて「仕事」ということを考えることが大切になって来ます。

時系列を読めない人

例えば、今から目玉焼きを3つ作るとしましょう。

なので生卵を3つフライパンに割って焼き始めました。

そんな中で、実は4つだったとなったらどうでしょうか。

また、そもそも目玉焼きではなかったら…。

時系列を読めない人は、作業を始める段階で完成形を想像しないようです。

なので、修正が面倒になってしまう段階で、思いつきの行動に出るのです。

それを頑張りと思ってしまうと、チームを組む人からすればとても扱い辛いでしょう。

過去に上司がそのタイプで、昨日と言っていることが違って、振り回されて経験がありました。

目先の仕事をこなすことで手がいっぱいになり、それこそ本来の「他人」を見据えた仕事ができません。

経験の浅い新人がそんな上司に当たってしまうと、「仕事」を誤解して働く意味や楽しさに気づけないこともあるでしょう。

また、中高年になって仕事を始めた時に、その会社の気になる部分が目についてしまうかもしれません。

中高年になればこそ

こみちが思う中高年の仕事探しでは、「他人」ファーストに徹して働くか、「自分」を核にできるような仕事を見つけることです。

例えば、時間から時間という絶対的な枠を決めて、その範囲でできることは惜しみなく提供するというような働き方です。

上司が間違えていてやり直しになっても、その無駄になった部分は気にしないで、「今」できることを考える働き方です。

一方で、機会やチャンスがあれば、「自分」を核に働ける方法も模索したいものです。

今の「気になること」も、誰かには役立つ話題で、そこにどっぷりと時間を使ってみることで、新しい働き方に繋がるかもしれません。


仕事探しを根底から考え直してみる!

 そもそも仕事って何だ?

引きこもりしている人の中にも、才能豊かな人は多い。

一方で働いている人の中にも、職場で問題視されている人もいる。

この事実は今に始まったことではなくて、昔からあったし未来にも変わらないだろう。

ずっと勘違いしていたことの1つが、「才能」と「仕事」がとても近い関係だと思っていたこと。

でも実際は、ほとんど無関係で、もっと言えば段階が違う。

才能があって、それを活かせる仕事もあるし、才能とは関係ないことを提供して働くこともあるからだ。

これは資格にも言えるけれど、例えば宅建の資格を取れば仕事が見つかるのではなく、資格を活かせる職場が見つかりやすいということ。

なので、結局は仕事探しも一歩を踏み出すことができるかどうかで決まる。

中高年の世代になれば、それなりに職場も多く見ていただろうし、キーパーソンとなる人やそのサブ、または関わるべきではない人も分かるだろう。

時には上司が仕事のできない人で、職場がパートで回っていたりすることも珍しくない。

しかし、パートが見ているのは日々の作業であって、上司が見るべきは会社の未来なので、その状況が長く続いていることに疑問を持つことも必要な時がある。

とは言え、まだ若い正社員が上司で、パートとして働く人の方が経験豊かなことも増えて、どうしても経験値でパートの意見が採用されてしまうケースも増えてしまう。

ただ、経験が浅いだけで正社員が目指すのは、もっと先の未来なので、日々の作業を終えることだけで満足してはいけない。

ここで言う「未来」とは何か?

これから時代を生き抜くためには、キャラクターという個性が求められる。

それは会社に対し、人に対し、商品に対し、至るところで求められる。

目の前に同業他社が作った商品が並んでいて、そこからどれかを購入したい時に、それぞれの商品が同じ割合で売れて行くとは限らない。

時には価格に差があって、安いと売れるとも言えず、高いから売れないとも言えないことに気づくと、どんな商品が求められているのかを見極めることが欠かせない。

つまり、正社員に求められるのは、この部分で、日々の作業でも「なぜそうするのか?」の答えに従っていなければいけない。

では個人的な意味での「未来」とは何だろう。

例えば英会話ができるとか資格がたくさんあるとか、それがあると未来が明るくなりそうなスキルを連想してしまう。

それも間違いとは思わないが、「一歩を踏み出す」ことよりも重要度は低い。

一方で、あの人に任せればきっと上手くやってくれるという期待感をどう相手に認識してもらうのかを意識することも忘れてはいけない。

それこそ日々の業務はどんな会社でもある程度は固定化されていて、その会社の総資産を2倍にすることを求められてはいないだろう。

でも個人という視点では、自身のキャラクターを作り、それを上手く活かして仕事を探すことになる。

「丁寧でミスがない」というキャラクターなら、そう思われるような仕事を続けることだ。

「斬新で面白い企画を出してくれる」というキャラクターなら、誰もがしていること以外に何が強みなのか考えることだろう。

そんな中で、初めて英会話や資格が出て来て、活かし方の幅を広げてくれる。

つまり「どんなことに応じられるキャラクターを作りたいのか?」ということ。

それが仕事探しの大前提になる大切なことではないだろうか。

中高年になったら「貫く」という生き方にこだわって欲しい!

 一番に理想は「ニーズ」に応えられること

例えば、「東京大学」に合格すると、その先の人生が明るく開けるとするなら、そこに「ニーズ」があると言えます。

じゃあ「東大を目指そう!」と頑張ることは、確かに正論ですし、達成できれば未来も明るいでしょう。

しかし、そう思って実際に到達できる人は限られていますし、実際にはそこがゴールではなくて、そこから先も同じような試練を乗り越えなければいけないでしょう。

特に、1を聞き10まで理解できる能力がある人も、世間に出れば1を聞いてもできない人もいて、その中で生きなければいけません。

つまり、同じテンポで話が理解されない相手とどう付き合って仕事をして行くのかを真剣に考えなければ、前に進めないということです。

公平で公正な環境は、理想的ですが、実際には学生時代のようには存在しません。

個人的には正しいと思えないことが評価される環境に入ってしまえば、それまでの信念さえ疑うことになり、そのことで悩むこともあるでしょう。

しかしながら、理想は理想であって、自分に合った環境見つけることで、生きやすさも手に入ると思います。

合わない人や合わない仕事を克服し、自身が成長して行くことも長い人生では無駄な経験ではないと思いますが、中高年になったら持ち時間も気になるので、もう少し割り切ってみてもいいように思います。

つまり、少し自分本位に生きてみましょう。

これが好きだと思うものがあれば、そこに生きてもいいでしょう。

もちろん自己中心的であることを勧めるものではなく、若い頃のように「ニーズ」に応えようと言動を選択とは異なり、自分が心地よいと思える生き方もいいんじゃないかということです。


生涯の仕事を決めました!

 生涯の仕事は「絵師」

絵を描くことで稼げるのか?

先ずはその課題に立ち向かわなければいけません。

しかし、時代の変化で変わったことは、いろいろなシーンで感じます。

何より、自分には楽しく、時間が経つことも忘れてしまえる仕事なら、その人にとって生涯の仕事候補でしょう。

それがこみちの場合、絵を描くことで「絵師」になりたいと思うようになりました。

なぜ「絵師」なのか

絵を描くことが楽しいのも理由ですが、両親の介護をするためにもある程度時間的に自由がきくと嬉しいです。

会社勤めなら、いい意味で普段の介護から離れられる良さもありますが、朝夕と食事を作っているので、そこは譲れないポイントです。

今の活動

描くことは、いきなりできるものではなくて、描くものも段階的に変えながら、幅を広げなければいけません。

今は女性の方を描くことが多く、髪などの細かな描写を練習しています。

youtube でも活動し、「こみちチャンネル」を運営しています。

3日か4日間隔で、描いた絵を公開しています。


中高年に「未来」はあるのだろうか?

 社会で何が起こっているのか?

高齢者がますます増え、介護サービスを必要とされる人も増加するでしょう。

だから、「介護職がおすすめ」と考えるのは少し安直かもしれません。

と言うのも、介護職と言えば、やはり体力が必要ですし、年末年始、大型連休、お盆休みもシフト勤務が続きます。

例えば、介護職を生涯の仕事に選ぶという覚悟があるなら、実際に介護スタッフとして働いた経験から言っても、やり甲斐のある仕事だと思います。

しかし、介護スタッフとして入職すると、さまざまある仕事の中でも利用者と接することが多い担当になるでしょう。

入浴やトイレ、オムツ、食事など、人が生きる中で必要不可欠なことに関わります。

しかしながら、介護とはそれだけではなく、「生き方」とか「自尊心」のようなものにも向き合っていきます。

そしてそれは、介護スタッフという立場ではなかなか触れられない部分で、経験を重ねて介護福祉士、ケアマネとステップアップして初めて知ることになる部分でしょう。

こみちの場合、その途中である介護福祉士の資格を取得したに過ぎないので、もしもこれから介護業界に関わるなら、それこそケアマネや施設運営のような介護をもう少し広い視点で向き合っていけるとさらに大きなやり甲斐にも繋がると想像できます。

しかし、今は同居する両親が少しずつ加齢でADLの低下が見られ、いろんな思いを持ちながら在宅介護をしています。

施設に預けられる要介護まではまだありますが、一般人が段々と老いて行く様を両親の生活を見ながら感じているのです。

「オムツの付け方」を介護スタッフになれば始めるでしょう。

でも、オムツをつけたがらない利用者がいて、彼らは「トイレに行きたい」と訴えます。

「オムツでしょう!?」

介護スタッフならそんな風な言葉を説明するかもしれません。

しかし、立位に不安があっても、排せつ機能に問題があっても、オムツで用を済ませることは羞恥心との戦いです。

何が言いたいのかというと、介護は突然始まることではなく、一般人から段々と始まります。

その移行期間は人によって異なりますが、子育てのように「何歳で何ができる」とは言えません。

奥を知れば知るほど、介護という仕事は幅広く、言ってしまえば介護スタッフという立場で仕事さえできればいいという割り切りをするのか、もう少し老いるということを自分なりに咀嚼して理解しようとするのかでも違います。

介護業界というのを例に挙げた訳ですが、他業種でも同じことが言えて、しかも世代の若い人の感覚に合わせなければいけないことも増えるでしょう。

これからも社会と関わるために、自分が何をして役立てるのかを見極める必要がありそうです。

必要とされるために、今までの常識や価値観だけでは受け入れてもらえません。

時代が随分と変わったなぁと感じながら、その中で自分が生涯続けられる仕事を見つけたいものです。

「タイパが悪いという発想」と向き合う話

 「3分クッキング」は3分の放送ではないけれど…

実際、3分という調理時間で完結できる料理は、そう多くありません。

3分で食べられるカップ麺でも、お湯を沸かすところからでは「3分」は絶望的です。

言い換えると、「準備」、つまり事前に「お湯を用意する」ような、段取りをスムーズにするための策が求められているのでしょう。

タイムパフォーマンス(時間に対する満足度)が悪いこととして、例えば「会議」が挙げられます。

あるテーマについて話し合うためには、出席者それぞれがどれだけ事前に準備しているかが重要で、司会役がテーマを告げ、そこから経緯を紹介していたのでは参加者は十分な考えをまとめることもできません。

にも関わらず、とりあえずテーマに関する話題を順番に触れて、そこからさらに一歩二歩と踏み込んで行こうと思っても、参加者それぞれの関心度や問題解決能力によっては全く成果らしいものが見つからずに終わってしまうこともあり得ます。

つまり、会議が始まってから終わるまで、時間を掛けた割には成果に乏しい「タイパの悪い」ことになるのです。

「会議」というものが悪いのか?

会議で成果を上げるには、テーマに対する理解と情報が事前に収集されていなければいけません。

しかも、さまざまな点から現段階での落とし所を数パターンにそれぞれが絞り込み、会議では前置き部分を短くして、落とし所の相談だけに絞り込むくらいの準備が不可欠です。

そうしないと、集中力の持続が続きませんし、肝心な落とし所を検討する頃には会議全体がだれてしまうからです。

一方で、そんな会議はそもそも開催を取りやめてしまうとどうなるでしょうか。

結論を言えば、「正社員の仕事」と「パートやアルバイトの仕事」の違いが良い例だと思うのですが、「目の前の仕事をする」という部分は同じように見えますが、「その先に何を目指しているのか?」を当事者として理解しているかどうかではないかと思うのです。

中には、仕事ができるパートやアルバイトの人がいて、仕事の目的や今後の経営方針にも精通しているかもしれません。

しかし、残念ながらパートやアルバイトとして働いている状況では、会社側としてより経験を必要とする仕事を任せ難く、またパートやアルバイトの方にすれば、それだけ厳しい状況を乗り越える業務を今までと同じ報酬で担うことに抵抗を感じるでしょう。

言い換えると、プレーヤーとなる正社員という立場が、責任と成果のバランスを得られるポジションで、ある意味で仕事ができるか否か以前に「準備」として整っていないと、より高度な仕事は始められません。

これは先に挙げた「会議」と似た構造で、立場という準備がなければ、実際の仕事ぶりを正確に判断し評価することもできません。

会議では、話し合いたいポイントにできるだけ早く参加者全員が行きつき、何がどう問題になっていて、その解決策は何が思いついて、その成果や問題点を相互に理解した中で、それぞれの立場から意見交換したいはずです。

なので、「そもそも会議を行わない」や「正社員もパートもアルバイトも同じ」という括りにしてしまうと、結果的に今の仕事さえ失ってしまいかねません。

ある日突然、雇用が打ち切られてしまうということは、どんな労働者にとっても避けたいこと。

でも、現場の仕事を覚えて、繰り返すだけの業務になってしまうと、その方法が不適切な場合でも、改善策を検討することが難しいこともあります。

そして、何も出来なかった結果、「雇用打ち切り」という流れに陥ってしまうのは何とも納得できないでしょう。

「タイパが悪い」ということだけでは、世の中のことは分からなくて、無駄という経験をどう活かせるのかが良い結果にも通じます。

そして何より、それを実践できるポジションでなければいけません。

現状を分析し、予測するだけではなく、集団を誘導する仕掛けにも着目することで、「タイパが悪い」という結論を「タイパが良い」に変えられるかもしれません。

しかしそれも、先ずはそのポジションにいるということがスタートだと言えます。

中高年の人が「生涯続けられる仕事」を見つけるために

 時代は変化している

昭和から平成、令和と年号が変わったことは知っていても、「時代」が変化したことで何が変わったのか気づいていませんでした。

例えば、「走ることが好き」という人がいて、毎朝欠かさずランニングをしていたとします。

「趣味」と理解することはできても、今の状態で「仕事」と理解することはできないでしょう。

ここで「昭和」を生きて来たこみちのような中高年は、どうしても今までの「時代」に沿って考えてしまいます。

つまり、「ランニング」は趣味で、仕事は別にあるもの。

時代の変化で少し考え方を変えるポイントがあるとするなら、「役に立つ」という遠くのテーマを決めて、その流れから「ランニング」を手段として捉えます。

具体的に言えば、中高年向けなら「健康」という視点でランニングの役割を自分なりに理解し、それによって同じ世代の健康に関心がある方向けに「ランニングの良さ」を伝えることを仕事にするのです。

というのも、「昭和」の時代には、本を出版するのも大変でしたし、増して「映像」を発信することなどテレビ番組でもなければできなかったでしょう。

しかし、今の時代、youtube やブログは比較的誰にでも手を出せるツールです。

言ってしまえば、「医者が病院で患者を診察する」という仕事は昭和からあったのですが、「医師になるための情報」というテーマであっても令和の時代には「仕事」にできる可能性があります。

つまり、「資格取得」ということも、「資格を持って仕事を探す」という昭和からあった流れの他に、「資格取得までの試行錯誤」さえも必要な人には有益な情報になり得るので、成功談以外に失敗談もまた必要とされることなのです。

そんな風に「仕事」を考えると、これから「陶芸」を始める人向けとか、「料理」や「掃除」のような家事でも、テーマの決め方や情報の集め方次第で、十分に趣味を仕事にすることができます。

現代における「専門性」の役割

こみちは介護福祉士の有資格者です。

介護現場を実際に3年以上経験すると受験資格が得られ、国家試験をパスすると有資格者になれます。

もちろん、介護系の学校で学ぶこともできます。

しかし、介護における「専門性」を考えると、理屈がどんなに正しくても、それが常に選択されるとは限らない現状に直面します。

つまり、老いは誰にでもやって来るものですが、その向き合い方は本当に人それぞれで、どれが正解ということではありません。

専門性を持つことで、逆に介護の奥深さも知るので、「絶対的な正しい」ではなく「選べる選択肢」が増えるに過ぎません。

これは命や健康、財産に直結するようなことでない限り、どんな資格であっても同じようなことが言えるはずです。

資格取得の大きな目的は、命や健康、財産を適切に取り扱う知識や技術を得ることだと思っていて、介護であれば利用者の事故などを防止するために知っていなければいけない知識を現場で活かすことです。

明らかに健康を害することを利用者の生き方だからと放置するのは介護士として適切ではありません。

全てを自分で解決できることではなく、他の専門職に声を掛けることも含めて、それが介護士が専門性を活かすことになります。

これから「生涯続けられる仕事」を見つけるために

時代の変化という視点では、既存のルート(資格取得をして仕事を探す)以外にもたくさん選択肢があるということ。

例えば、介護の資格などないけれど、今親の介護をされているなら、きっとその情報や苦労も必然とされている人がいて、「仕事」として提供できる可能性があります。

つまり、「生涯続けられる仕事」というと、何だか難しく聞こえますが、自身がこれまで当たり前に続けて来たことで、それを誰かが知りたいと思ってくれているなら、形の整え方次第で「自分だけの仕事」にできるでしょう。

言ってしまえば、国家資格である「介護福祉士」も、試験は対策さえ立てて臨めば十分に合格できるはずです。

それよりも、介護施設でそれまで経験したことがないような出来事に3年以上向き合うことの方が中高年には大変かもしれません。

今日、資格を取ろうと思っても「3年後」になるわけですから。

つまり、試験対策という切り口も必要とされていますが、3年間介護職で頑張って働く姿も同じくらい有益な情報ということです。

介護以外の分野であっても、今の時代に合わせた切り口を見つけられたら、それを「生涯の仕事」にできるかもしれないという話でした。

「フェーズ」という考え方

 こんな経験はないだろうか?

「今さら、何を言っているの?」

つまり、この言葉を発した人には、状況が変わっているという認識があります。

腑に落ちないようなことを無理に押し付けられて、文句もあれば納得もできていない。

でも、頭や心の中で感情がぐるぐると巡り、時間だけが経過してしまう。

「先の話ですが…」

意を決して、納得できない思いを相手に伝える場面。

「何の話?」

つまりフェーズはもう完全に変わっています。

不条理な話なら、どんなに時間が経っていても、受け入れられるものではありません。

だからこそ、よくよく考えて、思いをぶつけようと決心したのでしょう。

しかしながら、相手を含めた状況が既に変わってしまっていると、「あのぉ〜」という話を切り出した人はちょっとだけ肩身の狭さを感じます。

何か今さらって雰囲気出してくる…

正しいことを言おうとしているだけなのに、タイミングが違うだけで何か悪いことでもしているように扱われてしまう。

そうなんです。

フェーズが変わるまでが一区切りで、それを跨いでしまうと状況も一変します。

無理難題を相手から頼まれた時に、黙ってその場を流してしまうと、それはフェーズの終わりを意味します。

つまり、どんな無理難題だとしても、それが「認められた」で終わったのです。

だから後になってどんなにそれが無理な話だと説明しても、印象としては「今さら」になってしまいます。

フェーズを終わらせないためには、「また冗談でしょ? できる訳ないでしょ。あははは」が必要です。

つまり、「無理難題が認められてはいない」でその場を終えるのです。

実際、後になって「先の件だけど」となった時に、「何の話でしたか?」と言える場合、無理難題は通らないまま終わったということ。

逆に「頼んだ件じゃないか?」と言われてしまうと、無理難題を断れていないかったということになります。

「そう言う話ですか。余裕があればもう一度聞きますね」と言えば、難題を受け取ってはいないけれど、放棄もしていないという「保留」になります。

そう言っておけば、「思っていた以上に手が回らなくて」とも言えますし、「もう一度、教えてくれませんか?」と無理難題に向き合うこともできます。

無理難題を無効化する

東京と北海道、二つの場所で同時に居ることは技術的にも不可能です。

それが無理難題。

でも、「どっちが優先ですか?」と判断できれば、解決の糸口が見つかります。

または、「もう一人誘いましょう」ということで、一人ではできない困難をチームとして解決できるかもしれません。

つまり、予算を立てるとか、人数を集めるとか、見えない結論見える方に整えるとか、無理難題を解決できる形にはめ込むのです。

そうすることで、無理難題なことも解決できるかもしれません。


「中高年はどう生きるべきか?」を考える話

 社会との繋がり 仕事を失わないために

正社員かパートタイマーか、という働き方の違い以上に、50歳を過ぎて来ると「仕事」から縁を失うキッカケは至るところにあります。

例えば、昨今、レジでの支払いは「現金」とは限りません。

クレジットカードはもちろん、電子マネーなどによる支払いが普及しています。

ということは、自身では現金で支払っているという人でも、お金を扱う職種に就けば、今まで縁遠いと思っていたシステムにも知識が必要です。

スマホなどを普段から使っている人でも、内部のシステムや設定まで問われると少し戸惑う人もいるでしょう。

レジ業務で決済できない客に「どうしてできないのでしょか?」と迫られて、「知りません」というだけでは厳しい一面もあります。

つまり、それだけ時代は変化していて、過去の経験だけではどうにもならないことがたくさんあって、時代の移ろいに疎くなると、仕事から数年も離れてしまうと分からないこともたくさん出てしまいます。

「仕事が欲しい」と望んでも、今の時代に当たり前に求められる知識がなければ、働くいて欲しいと会社や店舗から望まれたとしても、知らないことばかりで、それでも頭を下げて一から学ぶくらいの決意がなければ務まらないのかもしれません。

その意味でも、中高年になると安易に職を失うべきではなくて、働かせてもらえるなら少しくらい待遇面で不満があっても「無職」になって仕事探しをするよりも焦りがありません。

なぜ人はウォーキングを始めるのか?

こみちは趣味でランニングをしています。

ほぼ毎日、5キロから7キロくらいの距離を走るのですが、同年代やそれ以上の年代の方とも遭遇します。

中にはシルバーカーを押してウォーキングされる年配者もいて、なぜ彼らは歩いたりするのでしょうか。

介護の世界で言えば、「トイレが一人で使える」という行為ができるか否かは大きなポイントです。

使えない場合、一般的には「オムツ」を使用し、1日に数回、誰かに交換してもらわなければいけません。

家での交換になれば、どうしても部屋に臭いが充満しますし、しばらく続けていると交換しない時でさえ特有の臭いが残ります。

それも慣れてしまえば気になりませんが、臭いが残ることには変わりありません。

つまり、在宅介護でも「トイレ」は大きな意味を持っていて、それはつまり自分で歩いて移動できることができなければ始まりません。

買い物などにしても歩けるというができるからこそで、車椅子でもバリアフリーの店舗などは不便もないかもしれませんが、事前に調べたり、店舗が限られてしまうなどの不便さはどうしても起こります。

その意味でも現時点での運動機能を少しでも長く保つことが重要で、その一環として「ウォーキング」もあると思います。

意外と、高齢者になって運動を始めて、転倒をキッカケに介護施設入所されたというケースは少なくありません。

転倒し足を骨折すると、それがキッカケで足の筋力が低下し、歩行を不自由になるという流れは少なくないからです。

そんな時代をどう生きればいいのか?

結論を言ってしまえば、「役に立つ人」になることでしょう。

どんな風に、どんな形でという部分は人それぞれで、資格がなければできない分野やちょっと手間で面倒なことを代行するなどそれが中年の間に見つけ「仕事」ではないでしょうか。

20代、30代のチャレンジが、その時に失敗だったとしても、その経験を糧にして中年時代に方向性を見つけるキッカケにできます。

そして高齢者になった時に、ビジネスという形に捉われなくとも、仕事を持っていることが人生を豊かにし、他人とも同じ目線で向き合えます。

誰しもが「何もできない人」に向かっていくのですが、その存在が無価値になる訳ではありません。

成功者だけが求められるのではなく、失敗ばかりの人生でも役に立つことはできます。

そこに工夫やチャレンジ、思いなどがあって、どんな形でも若い世代に参考にしてもらうことはできるからです。


小さな「得」と大きな「損」の話

 小さな「得」と大きな「損」

小さな「得」の代表例は、「プライド」を通した結果です。

経験や実績から生まれた「プライド」は、時に生きていくための大切な支えにもなるからです。

しかし、残念ですが「プライド」を意図的に死守したことで、結果が良くなることは珍しい話。

多くの場合、プライドのようなこだわりは良い結果のためには含まない方がいいはずです。

というのも、小さな「得」は、生きる中で些細な成功体験ですが、それを100個、1000個と積み重ねても、大きな成果には届きません。

なぜなら、その小さな得は、自身が想像する以上にとても小さいものだからです。

では大きな「損」とはどんなものがあるでしょうか。

このブログは中高年向けの記事がメインなので、そんな方たちが身近に体験したことから例を挙げると「仕事を失う」ようなことを指します。

例えば、大手企業に勤務していた方が、定年退職をして第二の仕事を近所で探しているとしましょう。

大手企業で働いていた感覚で、労働と対価をイメージしていると、第二の仕事探してかなり苦戦することになります。

理由はとてもシンプルで、世間的にお願いしたい仕事の多くは、面倒で手間の掛かる作業だからです。

「こんなに大変な仕事なのに、なぜこんなに対価が安いのか?」

そう感じるのは、最初に条件が有利な大企業の社員になったからで、関連会社や下請け会社があなたの代わりに頑張って面倒な仕事をこなしてくれていたからです。

そして、そんな大企業の看板を失ってしまうと、あなたも他の方々同様に、面倒で大変な仕事をこなさなければいけません。

つまり、大きな「損」とは、目の前仕事を選ぶ時に、そもそもどんな社会に足しているのかという話で、それが変わってしまうと個人の能力や経験は、もはや無かったに等しいくらい評価も変わります。

そのことに気づかないまま、プライドだけが残り、こんなはずではなかったと思ってしまうと、折角の幸福だった人生がとても未来に希望のない生活へ変わってしまうでしょう。

ここまでの話を簡単にまとめると、小さなどうでもいいことにこだわって、その結果、大きな簡単には譲ってはいけないことを失ってしまってはいけないのだという話です。


なぜ働きにいかなければならないのか?を考える話

 商店街

どんなところで食材を買っていますか。

低価格で程よく美味しいものが、スーパーには揃っています。

ショッピングモールもスーパーとは少し異なりますが、いろんな目新しいものが手に入ります。

ところで、商店街に行ったりしますか。

商店街はいろんなところにありますが、その多くは個人店だったりして、商売がやりづらいことも多いようです。

価格面や人材不足など、継続するには難題も多いから。

一方で、盛況な商店街は、通りを歩くと気になる店が多く、何より人との触れ合いが多かったりします。

人との会話が面倒だという人も少なくない時代、だからこそ商店街ではなくスーパーの方が気軽に感じるという人もいるでしょう。

ただ、繁盛する商店街は、客との距離を掴むのが上手な接客をしてくれます。

「いらっしゃいませ!」という元気で明るい声に、「テンション高い!」と気後れしそうですが、そこからがただ明るい人とは違います。

いい意味でサバサバしている対応なので、そのテンションに合わせられなくてもいいです。

「今日のおすすめは何ですか?」

そんな話を振ってみると、お客さんにとっても知りたい話を教えてくれたりします。

「今日はこれかなぁ…。ささっと炒めたら美味しいですよ」


商店街でしか買えないというものは少ないでしょう。

ただ食材を買いたいだけなら、どこに行ってもいいはずです。

しかし、商店街の良さは、人との触れ合いで、繁盛する商店街は活気があって、こちら側の気持ちも変えてくれます。

マイペースで全て済ませられることは穏やかな時を過ごせますが、「買い物」だけで終わってしまう可能性もあります。

ということは、自身の生活がありとあらゆる面でぶつ切りになって、単調で変化に乏しい生活になりがちです。

なぜ、いつまでも働きに行かなければならないのか?と思ったことはありませんか。

その原因は、生活をぶつ切りにして、「働く」がそれ単体になってしまうからかもしれません。

ショッピングモールに出掛けて、同業他社を紹介して欲しいと言っても断られるでしょう。

なぜなら、仕入れている商品が似ていて、わざわざ客を別の店に取られたくないからです。

でも商店街なら、そうとは限りません。

なぜなら、個々の店がすべての商品を扱っているとは限らないので、同業他社を勧めても被らないからです。

繁盛する商店街は、こんな交流が気軽にあって、客を奪われるという発想ではなく、商店街全体で魅力を伸ばそうと考えるからでしょう。

「〇〇が美味しいですよ。人気があるから早めに行かないと売り切れちゃいますよ」

言えば口コミにもなるのですが、同じ商店街の人から聞いた話となれば、ネットの口コミ以上に気になりますよね。

勧める方もウソは言わないし、食べて美味しいものを紹介してくれます。

そして実際に紹介された店の商品が良ければ、次に足を運んだ時にはその店にまた行きたくなるものです。

全員がそうしなくても、それこそ心の触れ合いで、スーパーとは異なる魅力が生まれます。

これが、道端でポツンと建っている店となれば、誰かが紹介してくれる可能性は減るので、商店街とも違う商売になるはずです。

商店街という個人店の集合体が幅広い客層を集め、全体として繁盛していきます。

つまり、いつまで働きに行かなければと疑問に思った時に、「何ができれば良いのか?」という答えは、スーパーや商店街、路面店と分けて考えてみると分かりやすいでしょう。

会社員はスーパーなので、決まった時間に決められた場所に行き、決められた仕事をすることが求められます。

しかしながら、有給休暇も取れますし、仕事内容はある程度決まっています。

マイペースでもできる仕事もあるでしょう。

これが商店街的な働き方になると、どうしても価格面ではスーパーほど安くできません。

でも同じ商品もアイデアやチャレンジが反映させやすいという良さがあります。

手作り感や触れ合いもその一つで、買い物した客が「いいものを買えた」という感覚は必ずしも価格が安いことだけではないことがポイントです。

つまり、脱サラで注意しなければいけないのは、「〇〇をした」という何か決められたことをするのが仕事だという発想を捨てることです。

その発想は、まさにサラリーマン的なので、そうではなく「何をして欲しいだろうか?」という視点で相手主体で考えることでしょう。

「マッサージなら得意です」という資格取得や技能取得ではなく、その一歩先に目を向けることで、仕事に対する意識が変わります。

路面店で繁盛できないなら商店街に属することもあり

強烈な強みで商売ができるならいいですが、そうではない時はグループや集団に属することで、自身の商売を伸ばして行く方法もあります。

脱サラすると一人でどうにかと思い過ぎると、客が思うように集まりません。

そこで、自身の店の商品を少しでもアピールできる方法として、工夫してみるといいでしょう。

「中高年の仕事探し」とは何だったのかという話

 「生涯続けられる仕事」とは?

今の時代、技術やスキル、知識は段々とさま変わりするものです。

つまり、「〇〇さえあればイイ」と明確に言い切れる「職種」もありません。

例えば、「絵を描く技術」。

昭和時代であれば、画材はいろいろあるにしても、基本は全てアナログで、手作業だったはずです。

今ではパソコンなどを使って制作出来ますし、作業の時間帯や場所という概念がなくなりました。

作業工程に関しても、何度でもやり直し出来ますし、サイズの変更や複製も一瞬でできてしまいます。

そして、そのような変化と同時に、AIによって「絵を描く」ことそのものが機械化されようとしています。

見方によれば、もう人間がデッサンをして絵を描くことさえ否定されたという言えるのですが、別の見方をするとだからこそ「人間が作る」意味も見直されました。

端的に言えば「絵」そのものに価値があるのではなく、「何で描いたのか?」とか「誰が描いたのか?」という理由や動機の部分がより大切になったのです。

結局のところ、仕事を金儲けという視点で見れば、需要と供給のバランスに他なりません。

ある作業をして、それが一般的な相場として判断される間は平均的な金額しか稼げないということ。

しかし、例えば店員として働く時でも、自身が売り場担当者になり、売上高に対してインセンティブを受けられるような場合、稼いだだけ儲けも増えることになります。

つまり「労働力」として相手任せで働いてしまうと「相場」から儲けられる金額も決まり、自身の考えやアイデアを活かして働けると「相場」ではない別の尺度で稼げます。

また、求人をいろいろと眺めれていると、仕事量はそう多くないのにほどほどに稼げるという仕事も見つけられ、やりがいを発揮して沢山稼ぐことはできないけれど、のんびりマイペースで働けるような職場もあります。

仕事探しは「楽に稼げること」が求められますが、その「楽」にもいろいろと種類があって、「何もしないこと」を良しとする場合や「自身を活かして」という場合もあり、結局は本人がどんな風に働きたいのかということでしょう。

カメラマンは楽な仕事でしょうか?

カメラを持って、いろんな場所に足を運んで撮影することを仕事としているカメラマン。

例えば自然の風景を撮影する場合、狙っている天候が来るまで「待つ」ことが仕事です。

シャッターを押すのは一瞬ですが、それ以外は極端な話「その準備」で「待ち」とも言えます。

しかもその一瞬で撮影した「結果」によって、カメラマンとしての価値が評価されるのですから、こみちなどからすると「楽な仕事」には見えません。

カメラが好きで、撮影が好きで、「待ち」さえも楽しめる人でなければ、カメラマンになりたいとは思わないでしょう。

でもこの発想は、他の職業にも言えて、サラリーマンなら「楽」という発想もよくよくその仕事ぶりを調べてみると、「決まった時間に決まったことをする」という難しさは拭えません。

結局のところ「楽な仕事」というのはなくて、自分がどんな種類のことなら我慢できるのかということでしょう。

エプロン姿で品出しをして時給で働くことと、スーツ姿で電車に揺られて日々の業務に追われて働くのを比べてもあまり意味がないように思います。

ポイントはその働き方で需要を拡大させられる可能性があるのかという部分。

たとえ時間給という出発点だったとしても、売り場の担当者になりインセンティブが得られるようになれば、一般的なサラリーマン以上に稼ぐことだって不可能ではないでしょう。

しかも、自身が調べて取り寄せた商品が沢山売れたりしたら、やはりやりがいもあるはずです。

一方で、待遇面はよくても、自身の受け持つ仕事が断片的過ぎて、顧客からの反応さえ分からずに行っていたのなら、やりがいを明確に感じることはできません。

「給料がいい」ということで不満がなければそれはそれでいいのですが、例えば時代が変わってその業務を機械化できるようになったら、ポジションを失ってしまう危険性は避けられません。

その意味では、「どんな資格を持っているのか?」よりも「何をすればいいのか?」という手応えを知っていることが大切な時代なのかもしれません。

例えば「料理」というカテゴリーで、人が作れない料理をつくことが守るべきことではなく、作り方のコツやアレンジなど、誰かの役にたつ(需要)を知ることで仕事になってくるのでしょう。

その意味では、中高年の世代こそ、何かを始めるなら結果が見えるところまで頑張ってみるべきです。

例えば、「自動車の免許を取得する」こと自体は特に珍しい経験ではありません。

しかし、そこからさらに「大型自動車免許」や実際にバスを運転してみるというところまで経験が広がれば、他の人にはないような視点が見つかるかもしれません。

「免許」という括りから派生できる価値観をいろいろと探してみたら、それは何かの役に立つかもしれないからです。

つまり、「難しいこと」ではなく「当たり前」から始めてもよくて、例えば「散歩」や「睡眠」だとしても、そこから何をどう広げて行けるのかが大切です。

「AI」の進化は止められない!そんな中で目指すべき場所とは?

ミスをしない『AI』の強さ

医療現場はもちろん、エンターテイメントの分野までも『AI』が我々の常識を覆すことでしょう。

その要因は、ミスをしないこと。

人間の場合、疲れや気の緩いで、小さなミスをしてしまいます。

しかしながら、精度が上がってしまえば、もうミスをしないAIの特性は、医療のような現場で欠かせないものです。

一方で、エンターテイメントに関しても、例えば視聴者が望むような「結末」を理解してしまえば、そこに行き着くまでの展開をさらに深掘りすることで、人間が苦労して考えるストーリーとは視点の異なる斬新な物語ができるかもしれません。

ちょっと想像すると、そんなAIに人間が対抗しても勝ち目はありません。

法的トラブルに関しても

何かトラブルが起こった時に、その内容をAIに判断してもらうと、勝算から賠償額まで、すぐに答えてくれることでしょう。

根拠となる法令や、それに関わる判例などをもとに、訴状の書き方から裁判の進め方までAIが明確に示してくれるとするなら、何年も苦労して取得したであろう「弁護士資格」もその立場が危ぶまれます。

弁護士資格にそれがあり得る訳ですから、司法書士や行政書士などの資格にも影響があるでしょう。

というのも、例えば司法書士が得意とする土地建物の登記についても、単なる手順を示してくれるだけではなく、具体的に仕事の細かな進め方まで提案し、さらに実際の進捗状況を報告すれば、その後の展開や、訴訟上の戦略の変更まで判断してくれるかもしれません。

なぜこのようなことが起こるのかというと、自由に生きられる人間も社会的な立場の中で暮らしているので、社会を構成する法律や慣習などからは影響を受け続けます。

つまり、「法律なんて関係ない!」とはいかないので、どんな生き方を選んだとしても、要所ごとに「通過」するポイントがあります。

そのポイントをAIが牛耳ることになれば、人間が能力的にAIに敵わない時代になれば、もう社会構造でも覆さない限りAIの判断から逃れることはできません。

そんな時代に生きる我々が考えるべきこと

「人間の世話をする」ような仕事は、AIにとって変わることはないでしょう。

だからと言って、「介護」ということではありません。

というのも、介護の仕事で、入浴や排せつの支援は欠かせないものですが、それらも機械化で補える可能性があります。

AIの頭脳を持った人型ロボットのような登場で、人間にしかできない「温もり」のある関わり方さえ、もう人間以上に卒なくこなせるからです。

つまり、価値や将来性などで行動する必要がなくなり、場合によっては「考える」ことさえも必要なくなる時代になるかもしれません。

遠い未来には、人間の役割は今よりもずっと少なくなって、生まれた時から介護施設で暮らすような社会になるかもしれません。

その頃の人間は、それこそ利益からも無縁で、三度の食事と入浴、寝る場所が約束されています。

そんな時代になると、AIによって人間の人口もコントロールされて、種を保存させるに必要な人口になり、代わりに労働や勉強からも解放されるという訳です。

あながち、そんな未来図は妄想の話ではなく、起こり得る話だと思っています。

ということは、我々がこれから「何をするべきなのか?」という答えは、今の暮らしから未来の暮らしまでの過渡期をどう生きるのかということになります。

ある意味で、youtube で趣味を扱ったチャンネルがたくさん運営されていますが、まさにその活動は過渡期に適した経済活動です。

何も役立つことが必須ではなく、何となく理由はないけれど、気になって立ち寄ってもらえることなら、活動しては十分です。

いつも家庭菜園のことばかりとか、サンドイッチを色々作っているとか、何を扱っているのかよりも、ふと立ち寄る気持ちになってもらえたらいいのです。

過渡期を過ぎると社会構造が一変すると思うので、それまでの期間はそれこそ好きなことを全力で頑張ることでしょう。

上手いか下手かよりも、どんな生活でどんな気持ちになって暮らしているのかが重要になります。

なぜなら、「正解」はAIが担うからです。

我々はたとえくだらないことでも、何かの役に立たなかったとしても、人間同士が感じる「共感」になっていたらいいのです。

でもこの「普通」が意外と難しく、なぜなら人間は目的があると生きられますが、理由もなく生きることが得意ではないからです。

くだらない理由を考えることは簡単なのですが、くだらないことでも継続することは簡単ではありません。

自分にとって、何をしているならずっとできることなのか考えてみましょう。

そこから、これからの生きる方向性が見つかるかもしれません。

「成功」に近づくために注意するべきこと

 「失敗」と分かることは避ける

例えば頑張りたいと思っていることがあった時に、テレビやゲームを始めてしまうことってありますよね。

気分転換も必要ですし、頑張れるからこその集中力も大切です。

そこで、テレビやゲームが成功に近づくために役立っているのか考えて、本当に必要ならその時間は本気で楽しむことです。

中途半端にしないこと。

そして、「逃げ」だったら、ちょっとだけ考えてみてください。

こみちもそうなのですが、人生ってやっぱりそのパターンだと変えられません。

しばらくして、「また頑張ろう!」と思い立ち、また「逃げる」の繰り返し。

それで老いてしまう人生もありますが、変えたと思うなら「今、頑張る」しかありません。

簡単な「成功」は残っていない

宝くじの一等が当たれば、それだけで人生大逆転です。

しかし、簡単に挑戦できる方法はそれだけ「当たり」も少ないですし、望んでいるような「成功」はほとんど残っていません。

同じように考えて、同じように簡単な挑戦に手を出しても、選ばれる可能性はかなり少ないでしょう。

「儲け話」や「成功の手順」は、世にたくさんありますが、多くの人が結果を出せていないのは実際には簡単ではないとか、若しくは既に「成功」できなくなっているだと思うのです。

「成功」とは何かを考える

「お金持ち」になる人は、人脈も広くなっています。

いろんな情報やチャンスが多いからこそ、お金持ちになれたからでしょう。

ということは、付き合いも増えます。

当然ですが出費も手間も掛かります。

それこそ、宝くじで一等が当たるような「お金」だけがポンと入ってくるような「成功」なら、そんな煩わしい関係はありませんが、「今の生活」のままでもあります。

つまり、今まで結果が出せなかった生活を変えることもできないまま、「成功」だけが舞い込んだ形です。

そこから成功者としての生活に切り替えられれば結果は変わりますが、本人が同じならそれこそ資金を切り崩すだけになってしまうかもしれません。

欲しいものをお金で買う。

それを繰り返すだけでは、いずれ資金も底をつくという訳です。

思うのですが、同じ金額でも他とは少し違う価値を生み出せたら、そこには「利益」があるかもしれません。

お金はもちろん、時間や努力、情報が必要になる場合もあります。

お金がない時は、時間や努力、情報をしっかりと準備して成功を待つしかありません。

でもお金があっても、それだけではダメで、やはり時間や努力を費やして培ったものに「利益」は生まれると思いたいです。

そうでなかったら、残された時間が虚しくなってしまいますし、努力さえも拒否されたら、何に励めばいいのでしょうか。

この年になってできることなど多くはありません。

チャンスがたくさんあるとも思っていないので、藁をも掴む思いでできることを真剣に繰り返している毎日です。

やってみたいこともまだたくさんありますが、どこまで辿りつけるかは分かりません。

でも、諦めてしまったら何も残らないので、信じてみるしかありません。


「一対一」から「一対無限」に!?

 レジ打ちのスペシャリスト

例えば、レジ打ちが他の人よりも速いエキスパートがいて、通常の半分の時間で終えられたとしましょう。

つまり、一般的な人が10人の接客をしている間に、20人分できてしまいます。

そしてそんなエキスパートな人の給料を査定する時に、どれだけの価値を認めることができるでしょうか。

例えば一般的な時間給を1000円としたら、2倍できるので2000円という考えもできます。

でもレジ打ちだけが速いなら、他の業務も含めて、1500円くらいが妥当と判断することもできます。

もしくは、処理速度は2倍ですが、貢献度は3倍だと判断して、3000円の時間給に設定することもできます。

そして、仮にいくらの時間給になったとしても、5年後、10年後、そのエキスパートの能力はさらに高く評価されるのか、到達されてしまうのかも考えてみると、個人的にはレジ打ち業務という作業そのものが、スキャナーで読み込み、精算まで一括してできるようになると思うのです。

レジ打ちのスペシャリストが生き残るには?

精算まで一括してできるシステムを導入するにしても、その設備投資は安くありません。

段々と増えて行く流れですが、しばらくはその能力は貴重です。

しかし、今後ずっと活躍するには、そのままのスキルでは厳しいので、視点の見直しが求められます。

例えば、レジ打ちのスペシャリストが、プログラム言語を習得し、システム開発のメンバーに加わったらどうでしょうか。

数ある商品をいかに効率的に読み込むことができのか、またサービスとしての質を維持できるのかを経験として活かせれば、その早打ち技術は新たな価値を生み出します。

また、新人教育のエキスパートになり、人材育成事業に進むということもあるでしょう。

ない袖は振れませんが、仮に時代によって変化して行くものであっても、そこには順番があるので、しっかりと生き残る道を探せば役立てるはずです。

一対一から一対無限

ある人の仕事が、接客業だったとしましょう。

扱う価格を問わず、接客中は多くの場合に一対一です。

つまり、ある人が1時間接客して、その対価は相手の一人分になります。

売上の3割が利益だとして、売上が1000円なら300円、10万円で3万円稼いだということです。

しかし、一対一の原則は変えられないので、レジ打ち業務のように速くするとしても限界があります。

そこで、接客業を一対一から一対無限に変えるのです。

方法は大きく二つあって、その一つがネット業務のようにシステム化することです。

もう一つが、販売員を取りまとめる立場になることです。

つまり、管理者やオーナーのような立場になって、個々の販売員の売上から自身の売上を築き方法です。

本当に大切な知識とは?

少し運動したいなぁと思った時に、近所をランニングするというのも、人によっては恥ずかしいことだったりします。

じゃあ、スポーツジムに行くかと思っても、家から準備して出掛けるのは面倒です。

一方で、コンビニに行くくらいの気楽さで、利用できるスポーツジムがあれば便利でしょう。

しかも24時間いつでも使えるなら。

一方で、経営者として考えるのは、スポーツジムで5分でもしっかりと動けば、かなり汗だくです。

運動を終えて、そのまま帰るのも気持ちいいものではありません、

かといって、シャワー室を設置するためには、上下水道やボイラーなどの設備、必然的に鍵の掛かるロッカーや更衣室が必要です。

運動器具を置くエリア以外に、それらの設備が必要になると、やはり従来からあるスポーツジム同様のコストを見込まなければいけません。

その部分を常識として考えると、そのコストを賄うサービスに思考は移ります。

運動メニューの充実や専門知識を持ったスタッフの配置や育成。

考えるほど、コストが膨らみます。

では、「汗をかいてもシャワーは自宅でしてもらう!」と決めたらどうでしょうか。

女性客がふらっと来店して、一人で深夜に黙々と運動することってできるでしょうか。

まだ一人きりなら不安はありませんが、逆に男性客しかいない方が気になってしまうと思います。

ジムの広さにもよりますが、単純に24時間いつでも使えると言っても、専任スタッフがいないのは不安ですし、経験者からすると24時間ずっとスタッフを配置するのは人材不足を考えても避けたいでしょう。

何が言いたいのかというと、「完璧主義」になるとコストはかさみます。

利益が出なくなってしまいます。

これはレジ打ち業務とか接客業にも言えたことですが、「セオリー」のままでは厳しいのです。

だから、何を変えると価値が変わるのかを考えて、本気で運動したい客よりも、運動した気分になりたい客向けにサービスを展開しようと事業計画を立てるのです。

また、本格的なスポーツジムへの誘導としての展開も加えて、より運動効果を上げたい客には優先的にサービス提供するという方法もあるでしょう。

そして、そもそも地方自治体によっては、一回数百円程度の低価格でスポーツ器具などを自由に使える施設を設置していたりします。

それこそ、施設内に自販機で飲み物も買えるし、気軽に運動したい人にはおすすめの施設です。

つまり、同じようなサービスはあって、でもそれを知らなかったり、時間や曜日で使い難いと思う人がいて、そこに向けたサービスがヒットすれば、ビジネスとして成功します。

でも完璧ではありません。

だからこそ、売り方や宣伝の仕方が重要になります。

一対一ではなく、一対無限になる展開なのです。




「金運」はどうやれば上がるのか?という話

 初詣でおみくじを…

初詣に行きました。

実はその時にいつもとはちょっと違う感覚になりました。

というのも、今までなら「〇〇になりたい!」と願望ばかりを願っていました。

でも今年になって、「去年も元気に生きられてよかった」と思ったんです。

なぜって、自然災害も多いですし、年齢を考えれば病気やケガになる可能性も高くなっていて、ある意味で中高年は「生かされている」という意識がないといけないからです。

思い切り遊ぶなら悔いなく遊ぶ。働くなら真剣に仕事と向き合う。

そんな事を感じながら、時を過ごしたいと思いました。

おみくじで「大吉が出ること」以上に、初詣をして手を合わせられるという「今」にとても感謝しています。

「金運」を上げるには

ではなぜ「金運」を上げたいのでしょうか。

例えば10億円のお金を手にして、今まで我慢していた物欲を一気に解放させたら、もうそれ以上の暮らしはやってきません。

何なら、もう「努力する」という気持ちさえ失せてしまうでしょう。

お金を使い果たした時に、もう人格すら変わってしまっているので、そこからコツコツと働く生活に戻れるでしょうか。

そう考えると、安易に「金運」って上がらないようになっていると思うんです。

ではどんな時に「金運」が上がるのでしょうか。

それはきっと、「役に立つ」というキーワードに結びついた時でしょう。

「これができたら、みんなが喜んでくれる」ということなら、「お金」は最終的な目的ではなく、夢が叶う手段になります。

手に入れて使って終わりではなく、そこから夢が始まります。

きっとそんな流れができたら、「金運」も上がって来ると思うんです。

つまり、「金運」以外の努力をし尽くせば、あとは「金運」アップを願うだけ。

そこまで来たら、手を合わせてお願いしてもきっと話を聞いてくれると思うんです。

おみくじを引いて、例えば「凶」だったとしても、そこに「努力を尽くせ」と書かれてあれば、あと何が足りないのかも気づけます。

でもそんな過程もないままに「大吉」が出ても、それは「いい感じだよ」とやっぱり漠然と言われているに過ぎません。

何がどういい感じで、何が変わるのか?

まだまだそんな段階ではないので、きっとそんな風に声を掛けてくれたのでしょう。

夢を叶えて前に進みたいと思うなら、「多分ここを避けてはいけない」と思う面倒なことに気づくはずで、もしかすると今回は特に心配していることにならなかったとしても、それはまだ今の自分には荷が重くて回避してくれたのかもしれません。

何が起こっても、自身が納得できるくらい努力をし尽くしたら、あとはもう結果を待つだけです。

その時になって、初めて本当の結果が見えて、時にまだまだと跳ね除けられてしまうかもしれませんが、そのチャレンジを繰り返すことで先に進めるとも思います。

やはり、限られた「金運」を自分にも預けていいと思われるようにならないと、金運はやって来ません。

もう準備は万端ですか?

こみちはもう少し自分と向き合い、努力を重ねたいと思います。

昨年もいろんな意味でチャンスを与えてもらえ、少しずつですが成果を感じているので、今後も慢心しないで頑張りたいです。


webライターで生きるのは難しい!?という話

 数年前までなら

webライターという仕事は、それまでのライターとは別の職種として出会いました。

ライター仕事は、多くの場合、現地取材やインタビューのような「情報を仕入れる」ことから始まります。

あるお店の紹介記事を依頼されると、先ずは取材先に連絡をしてカメラ持参で聞き取りさせてもらいます。

「記事」とは、あくまでもそんな一連の流れから見つけられた結果であって、ライティングは「まとめ作業」に過ぎません。

当時、と言っても数十年も昔ですが、新人ライターでも400字詰め原稿用紙1枚の記事を書くと1000円くらいの報酬だったと思います。

一般的にwebライターでいう1文字換算の指標にすると2円以上です。

一方で、昨今のwebライターがどれだけの単価で仕事を受けているのでしょうか。

無名で未経験のライターの場合、時に1文字あたり0.2円前後というケースも珍しくありません。

仕事として一日中タイピングして、1日で打ち込める文字数はどれくらいでしょうか。

こみちなら3万文字くらい、つまり報酬額は6000円程度です。

しかも、全ての記事が「承認」されるとは限らないので、時に書いた文章がごっそりと稼ぎにならないこともあります。

それ故に、webライターとして成功するには、タイピングスピードと承認されるレベルの内容が求められました。

業界で「名前を売る」

それっぽい内容の記事を、どんなジャンルでも書ける器用なwebライターも少なくありません。

webライターとして活躍できる人なら、必須のスキルなのでしょう。

しかし特定のジャンルに絞ることで、より深い知識と考察から有益な記事が生まれます。

ネット上で集めた情報は、広く知るには適していても、実際には重さや大きさなど、目の当たりにしてみないと気づけないこともたくさんあって、ある意味でライターとしての個性が発揮できる部分です。

コンセプトから練り込んで作った商品は、無理矢理頭を捻らなくても、そこにしっかりとしたストーリーがあって、どこをどう売り出したいのかがとても明確です。

一方で、寄せた商品は、基準となる商品と比較することで価値が見えて来るので、売り込めるポイントがどうしても限られてしまいます。

動きさえすれば良いという商品ほど、それ以外の魅力を後付けすると、文章はどうしても安っぽく見えてしまいます。

これはライターとしての評価にも言えて、業界で「名を売る」ことで、相手からも期待され、ライター側もそれまでの経験や知識を提案でき、より良いものを作る関係が築けます。

「とにかく販促効果の高い記事にして欲しい!」

そんな唐突過ぎる依頼は、本来ならあり得ません。

なぜなら、手塩にかけて商品化したものほど、そこまでの苦労や発見も多く、開発者にインタビューでもしたものなら話が尽きないでしょう。

その全部を記事に載せられないので、「今回はどこを推していくのか?」という部分が記事ではポイントになります。

つまり、良い文章を書きたいと思っても、日本語としての正確さは勉強できるとしても、ライターとして活躍するには相手企業との信頼が不可欠です。

相互に経験や知識を持ち寄れることで、新たな発見に繋がると思うからです。

言えば、このライターの記事であれば、その記事の内容はこれくらい信用できると読者に認められることで、実は記事としての価値が決まります。

どこの誰がどんな目的で書いたのかさえ分からない記事では、仮に良いことがたくさん書いてあってもそのままでは読者も鵜呑みにはできません。

webライターという仕事は、ライティングで稼ぐことができますが、そこからもう一歩先に進むと一気にハードルが上がってしまいます。

そこには「専門性」とか「評価」が付いて回るからです。

個人的な見解ですが、どんな業界であっても、その業界に5年から10年くらいの経験がないと、表面的なことは分かってもその先にある「核心部分」まで到達できません。

こみちは介護福祉士の有資格者ですが、介護保険制度の簡単な説明はできても、業界が抱える共通の悩みや介護施設での現状を下調べもしないで紹介することはできません。

まして、介護士として働いたことも、介護に触れたこともないライターが記事を依頼されても、介護が本当にどう大変なのかを理解するにはそれなりの時間が必要です。

もしも依頼された文字数に合わせて時間内で書き上げるとするなら、その記事を読んだ読者にどんな有益さが期待できるでしょうか。

結局、webライターも従来のライターも行き着く所は同じで、そのライターにお願いすると、どんな視点で情報を集めて、それをどんな感じで記事にまとめてくれるかを業界で知ってもらうことでしょう。

話は脱線するけれど

こみち自身、ライティングではない仕事を請け負っています。

ここだけの話ですが、その仕事内容に関して、以前から改善点がいくつもあって、請負という立場の歯痒さを感じます。

もちろん、こみちの提案で改善できるとは限りませんし、同じようなことを既に試した結果なのかもしれません。

何が言いたいのかというと、ライターとして記事を書くという行為は、時に歯痒さや不甲斐ない気持ちとの葛藤でしょう。

その中で、求められる記事を書き続けることの難しさがあって、言い換えるとライター志望の全ての人に向いているとは限りませんし、もしかするとライターとしてではなく、その業界の一員として活躍できるタイプかもしれません。

どっしりと腰を据えて考えると、ライターという仕事がとても難しい仕事だと分かります。

物やサービスをどういう視点から見て、どう良さを伝えられるのか、でも時に個人としては魅力的に思えない内容ということも起こります。

「安い」でも本質的には満足度は低い。

安くて、パワフルで、持ち運びにも便利。

ありがちな言葉ばかりを並べてしまうことに、段々と書く気力が削がれます。

仕事だから疑問に思わないようにするか、それとも業界での評価を上げて、期待される仕事を目指すか。

でも、ライターに限らず、どんな職種でも同じような葛藤に中で頑張っています。

常々思いますが、一生涯を賭けて続けられる仕事に出会えたら、どれだけ幸せでしょう。

苦労だとしても、その経験がいつかどんな形でも活かされるでしょうから、厳しい努力も報われます。

でも、評価はおろか、仕事そのものがなくなってしまうような環境では、思うように未来ばかり考えてもいられません。

先ずは努力するだけの価値ある環境を探してみることでしょう。

多くの場合、そんな環境は競争率も高いもので、希望すれば叶う場所ではありません。

だからこそ、小さな規模や制限のある環境でも、そこで先ずはしっかりと結果や手ごたえを感じて、より良い経験にすることです。

特にwebライターに限っては、近年のAI技術の躍進により、もう人間では勝てないほどの高速なライティングが可能になっています。

つまりそれだけ、「無名」のライターでは勝ち目がなくて、業界内でしっかりと頼られる人材として認知されることでしょう。

そのためには、「書くこと」だけではなく、専門性やそれに類する経験を持って他のライターとの違いを見いだすことです。

ライターという職業が、この先も生き残るためには、「書くこと」に趣きを置くのではなく、「誰の記事なのか?」で勝負できることでしょう。




ガッチリマンデーで紹介されていた「note」というサービスを知って思うこと

 働き方の基本

「誰かのために役立つために」ということが働き方の基本だと思う。

家の中で身の回りの整理整頓としても、家族は喜んでくれるかもしれないけれど、それだけでは「働く」にはならない。

でも、「誰かの役に立つために」というフィルターをつけると、そんな些細な行為もビジネスへと展開できる。

例えば、整理整頓術。

「術」にして、そのノウハウとしてまとめることができれば、それはもう個人や家族だけのものではなく、もっと多くの人に役立つものへと変わる。

インテリアコーデ

整理整頓術があるなら、収納に長けたインテリアも役立つのではないか。

「おしゃれ」はかっこいいものという感性に訴えるものだけではなく、日々の暮らしをより豊かなにしてくれるアクセントとして考え、インテリアコーデを提案していく方法だ。

家族目を向けるなら、性別や年齢などで変化する生き方の心地よさ。

例えば高齢者が感じる悩みに特化し、その解消に向けたアイテムをまとめてみる。

ビンの蓋を開けづらいと感じるなどもよくある話で、そんな日常生活のちょっとした悩みをテーマとして広げるのだ。

なぜ会社員として働くのか?

朝、慌ただしく身支度をして、満員電車に揺られて職場へと急ぐ。

体もそうだが、心はもっと疲れていて、「休みたいなぁ」と葛藤しながら電車の窓から流れる景色を眺めている。

「そうだ。起業しよう!」

漠然と思い立ち、会社を辞める。

それがキッカケで、新しい生き方を手に入れる人もいるし、「会社員だった意味」に気づく人もいる。

冒頭に紹介した「誰かのために役立つ」ということ感性や興味は、同じことや似たことをしてもちょっとした違いで必要とされ、またされなかったりする。

例えば、集団面接の会場で、面接官を数日間ずっと続けていると、相手が座っただけである程度の結果が予測できるようになるだろう。

少なくとも、「採用」という結果を伝えるべき相手がどうかというは、割と簡単に見分けられてしまう。

完璧に一回の間違いもなくということではなく、「こんな仕草をする人は」という共通点がおおよその結果を予測させるからだ。

そこで、「人は見た目の10秒で決まる」と思って、ファッションに気を使っても、実は見分けているポイントが別にあれば、それだけでは解消されない。

何が言いたいのかというと、「どこをどう直せばいいのか?」という「核心部分」こそ大切なことで、何かを知って起業しても上手く行く人と行かない人が出てしまうのは、偶然のことではなくて、でもその改善策というのはできない人はずっとできないし、できるようになるまでに何年も掛かる。

会社員として働くとは、会社が提供してくれる「職場」を使って、「役立つことをする」ためにある。

起業するとどうやって役立つのかを考えなければいけないけれど、会社員ならそこを省けるのだ。

これが数年間、会社で経理部にいて、業務の流れを大体覚えたとしよう。

「この経験って役立つのではないか?」と思い、起業したいと夢が広がったとする。

でも忘れてはいけないことが、「場を提供されて働いていた」という会社員での立場だ。

これが独立してとなれば、提供されていた環境を自身で再構築しなければいけない。

これもさっきの話と同じで、「経理の経験」というのは近くにはいなくても、国内という単位で見れば何万人もが知っていて、きっと自分よりももっと詳しい人が1万人以上いる。

しかも、「知りたい」と思う人が「誰から聞きたいのか?」と考えた時に、「数年間の職場経験」にどれだけ価値を見出せるのかということ。

そこで「税理士資格を取得しよう」と思い立ち、それを特徴にできないかと考えても、それを既にしている人もたくさんいて、その中で結果を出した人と出せない人が選別される。

既に核心部分を知っているなら別だが、模索しながら探そうとするなら、最低でも5年、一般的には10年くらいの期間を考えて、会社員時代に必要そうな準備をしておくことだ。

先の経理という話なら、資格取得のような思いつきそうなポイントは着実にクリアしておきたい。

なぜなら、会社員という立場は、場を提供されていて、評価されやすい。

より深い知識、役立つ知識を身につけることで、社内でも評価されるかもしれない。

会社は辞めるだけの一択ではない!?

会社員か起業か?

そんな二択ではなくて、例えば会社を辞めた後もそれまで勤務した会社と縁を持つことはできる。

会社員時代に担当していた業務を退職後にも外部スタッフとして関わることができるからだ。

これまでが月収のような評価だとするなら、時間給や成果給という方法で勤務することができる。

独立してまだ十分に仕事を確保できない時に、確実に仕事を受けられるからとてもありがたい方法だろう。

それだって何年かの勤務を通じてできた信頼や実績の結果で、その価値は誰にも使えるものではなく、独立して新たに営業してよく分かる有り難さの1つだったりする。

さらに言えば、「会社を辞めます」と会社に伝えた時に、会社の経営者の多くは「辞めてもどこかで頑張って欲しい」と思うはずだ。

というのも、独立して働くことの難しさを肌身で知るし、経営者となってからも苦労は絶えない。

そして辞めて行く従業員がいた時に、辞めてしまう寂しさもあるが、それまで経験を活かして活躍して欲しいとも思うもの。

経理経験を捨てて、今度は製造業、さらにその次は飲食でと職を転々として、結果的に「場を与えられないと働けない人」になってしまわないことをどこかで願っているからだ。

会社員時代、「言われたことだけしてはいけない」と耳しなかっただろうか。

思いついたことを上司に提案して、あっさりと却下されてしまうかもしれない。

でも、世間に出て営業するよりも、相手はもっと近い存在で、そもそも話を聞いてくれるところから始まる。

この差は大きい。

そして、自身が提案したことが会社に採用されることで、「核心部分」に近づくことができる。

「独立してから何ができるのか?」ではなく、会社員時代からそれを見据えて働くことで、会社に残る選択も起業する選択も選べる立場になれる。

ガッチリマンデーで紹介されていた「note」というサービスを知って、面白いサービスだと思った反面、やはり問われているのは同じことに思える。

どの分野で記事を書くのかよりも、どう「核心部分」に寄せて書ける準備をして来たのかということ。

じゃあ始めようで、偶然に当たることはあっても、それを継続させるにはやはり準備があってこそだろう。

「だよなぁ」と思ってしまうこみちがいて、自分に何ができるのかをまた考えてみたりしている。

少し早いですが「2024年」の目標を立てる話

 「絵」と「ランニング」の話

2023年、特に力を注いだのは、絵とランニングの2つです。

絵に関しては、好きな東京03のコントシーンを中心に描いていて、テーマとしては似顔絵ではなく、喜怒哀楽が分かる表情まで表現すること。

「誰がここにいる」という絵から、「表情を浮かべた誰がいる」に変わると、表現できる範囲が格段に変化します。

そこで、特に表情の描写力アップに頑張って来ました。

一方でランニングの方は、初めて皇居を走ることができた他、60キロの距離を走り切ることもできて、念願だった「旅ラン」への一歩が踏み出せたと思います。

関東圏にお住まいの方であれば、山手線一周が約40キロ程度と言われているので、60キロの距離を走ることがどれくらいなのか想像できるでしょう。

2024年の目標

2023年に取り組んで来た絵とランニングをベースに、もう一歩踏み出したいと思います。

具体的には、「旅ラン」の動画撮影をすることで、最初は短い距離(約10キロ)から始めて、絵を描くことを活かしながら走る楽しみを伝えられるようなコンテンツを作りたいです。

また、ランニングではトップスピードを向上させるような練習が多くなっていたのですが、もう少しペースを落として(具体的にはキロ5分〜6分台)で50キロ、100キロの長い距離を走れるようにしたいです。

また、ランニング中の撮影方法や、シューズ選び、カメラ撮影などにも試行錯誤したいと思います。

未来の自分をどう描けばいいのか?

昭和生まれの世代にとって、平成、令和と時代が変化し、ライフスタイルも価値観も大きく変化したと感じるのではないでしょうか。

特に働き方に関しては顕著に思います。

このブログを立ち上げた目的は、「中高年の方が生涯続けられる仕事探し」です。

こみち自身は、介護士の有資格者ですが、中高年の方が「資格取得」という視点で仕事を探すなら「介護福祉士」は国家資格で有力候補ではないかと思います。

もちろん、時間給という意味では介護士と同等以上の異業種もたくさんあって、介護の資格が必須だとは感じません。

しかし、中高年の方が実際に仕事を探す時に、「自分はコレができる」という意味で言えるものがあるのとないのでは、その後の人生プランも変わります。

その意味でも、資格取得という方法は40代の内に、できれば50代までには必要そうな資格を取得したいものです。

というのも、介護福祉士の資格も、未経験からなら最低でも3年以上の実務経験(専門校なら2年)が必要で、資格試験のタイミングまで含めれば、かなり年数が掛かります。

これは他の資格にも言えて、例えば電気工事士の資格を取得しても、家屋の電気工事は高い所や狭い所での作業も多く、様々な状況で工事が進みます。

それをいきなり始めることは難しく、実際には数年の下積みが必要でしょうから、資格取得後にどこで現場経験を積むのかなど、似た悩みがあります。

その辺りの経験は、少しでも若い頃に済ませた方がよい筈です。

詳しくありませんが、警備員にもいろんな種類の資格があるみたいなので、外仕事を苦にしないのであれば、こみちなら考えてもいいと思う業界です。

また、ガソリンスタンドでは、危険物取扱者の資格も大切で、この辺の資格もおすすめです。

逆に、「税理士」よりも難関資格の取得は、未来予想図をしっかりと見据えて始めるべきで、中高年の方が3年、5年と貴重な時間を勉強だけに使うことはよくよく検討した方がいいと思います。

そういう意味でも、介護系や警備、危険物取扱者などは比較的使い勝手に優れた資格でしょう。

その上で、趣味や特技を通じて何か活動できればと思っていて、こみちの場合は絵とランニングでした。

コロナ禍の時期は、キャップ関連も人気でしたが、今はどうなんでしょうか。


師走を迎えるというのに、どう生きたらいいんだろう…

 季節は移ろいで行くけれど

いい感じに変化したこともあるけれど、総じてあまりいいことは起きていない。

請負先との距離感など、正にそんな感じがする。

「仕事とは何か?」と考えた時に、効率を考えるのはベースとなる業務が整ってからだと思う。

あまり具体的には書けないけれど、もっとしっかりとした部品を作ってくれたら完成度も上がるのにと思うことがある。

業務の流れ全体を管理する人がいないから部分的な話しかなくて、先日受け取った材料などはかなり酷いものだった。

なぜ酷くなってしまうのかというと、その材料は柔らかく傷つきやすい。

硬い紐で縛って長く放置すると、その跡が残ってしまい、その後に消えない傷になってしまう。

そもそも製造過程で気をつけるようなポイントではなく、扱っている材料がどのようなものなのかをそれぞれがもう少し知っていたら起こり得ないことだ。

傷ついた材料で作っても、歪みがあるとどこかでズレが生じ、最終的な完成度が落ちてしまう。

長期的には売上にも響くだろうし、その会社が儲からなくなれば、当然だが下請けのこみちにも仕事は振られなくなって行く。

不安材料を誰が担保するのか?

都内でアルバイトをすると、時給1000円は確実だろう。

一方で、1時間あたり1000円の利益を出すことは簡単ではない。

つまりバイトに応募し採用された時点で、その企業が「1000円の利益」を担保しなければいけない。

例えばこれが請負だった場合、注文内容が簡単な時も厄介な時も、請負った金額次第で損得が生まれる。

一見簡単な仕事でも、後からいろいろと文句を言われて、その対応に時間を割いてしまえば結果的に割のいい仕事ではなくなる。

つまり、仕事を振られる時点で「不安要素」を含んだまま、見切り発車で請負すると大体後で揉める。

「赤」で仕上げてという話が「青」になってしまえば、やり直すだけではなく、元の色を消すことから始めるので、2倍3倍の面倒くささになる。

いい仕事をして、どちらにとっても喜べる状況を作るにも、不安材料を誰が担保し、それをどの段階で処理するかが問われる。

正直なところ、そんな意識が互いに違い過ぎてしまうと、良い関係は築けないし、場合によっては悪影響にも繋がってしまう。

小銭が手に入るという旨味を捨てられずにいるけれど、仕事としてキープするべきものかと冷静に判断すると微妙にも思える。

2023年も師走を迎える時期が迫り、「どうしよう?」と決断できずにいるけれど、早急に結論を出さなければいけない「不安材料」だ。