「気づき」が鈍感なのは年齢だからなのか?

 「すき焼き」風の夕飯

こみちの父親、冷奴だと食べません。

噛む力も必要なく、食べやすく感じますが、飲み込む際に苦戦しやすいのが理由のようです。

人は一口サイズの塊を口の中で作り、ごくんと飲み込みます。

そこには噛む力と舌で塊を作る動作の連携が欠かせません。

冷奴の場合、噛むことではなく、塊を作りづらいことで、高齢者には苦手になりやすいですね。

例えば、薬味の鰹節やネギが塊から外れてしまうと、息づきした時にそれだけ気管に入りそうにもなるわけです。

でも大量の豆腐がまだ口に残っている。

なるほど、食べづらいですよね。

そんなこともあって、餡かけみたいなひと工夫が大切です。

こみちの場合、豆腐の水分を抜いて、表面に片栗粉を塗し、揚げ出し豆腐にします。

とろみもあって、口の中で塊を作りやすいだろうと思うからです。

そのバージョン違いとしてすき焼き風を作りました。

ですが、食べてくれませんでした。

高齢者全般に言える話ではありませんが、両親の場合、そこに用意されているに意味があって、もしも誰もつくらなければ、起きて菓子パンを食べるばかりになります。

すると高齢者の食生活って、一気に簡素になってしまいます。

例えば、他の家族には評判でも、両親はそのすき焼き風のおかずを夜に食べず、翌朝とかにもう一度食卓に並んで、そのまま廃棄されてしまうこともあります。

作ったその時の完成度と冷蔵庫で一晩経過した味では、また印象が違うでしょう。

時間が経過した後に食べて、美味しいないと思われてしまうのは、やっぱり残念です。

料理って提供したタイミングに合わせていますから。

ですが、この気配りも、両親には届きません。

あるのが当たり前。食べても冷えていて美味しくなかった。

タイミングを楽しむようなことができないと、生活で楽しいことを逃してしまいそうです。

まわりで用意して、提供するタイミングまで合わせてあげないと、感動できるエピソードにも遭遇できなくてなっています。