父親の存在
要介護3相当になった父親。
要支援が「支援」という言葉を使い、それよりも重くなると要「介護」というが、父親を見てそれがはっきりする。
要支援の頃は、性格的な依存もあって、自分で頑張ることをしないで家族を頼っていた。
でも今は、口ではいろいろと言うが、そこに意味があるのかというと特に意味がない。
例えば、プロ野球を観て、どっちのチームが勝っているかは分かっていそうだ。
でも応援しているチームが勝つと喜んでいるかというと、それはよく分からない。
つまり、何となくそこで起きたことを認識しているが、自分自身の損害に関わらないなら、特に何もしないままだ。
風呂に入れと母親に言われて、「汗なんかかいていない!」と騒ぐ。
時に大声で「助けてくれ!」とか「いじめるなぁ!」という。
様子を見に行くと、多くは父親の思い通りになっていないか、母親がそんな依存性の父親を拒絶した時に起こる。
母親の存在
最近、母親ははっきりと認知機能に低下が見られる。
聴力低下もあって、生活音が極端に大きい。
ドアの開け閉めなど、ケンカでもしているのかと思うほど、ドアを激しく閉める。
冷蔵庫もレンジも同様で、聞こえていて、でもストレス発散でそうしているのか、大きな音に気づいていないからなのか、はっきりしないけれど、とにかくうるさいのだ。
数日前、父親が母親に何かの当てつけか?と言っていたが、不機嫌になるとそうやってドタンバタンするようになった。
こみち家
確かに、父親基準で考えると、父親は日常生活の何も自主的に行っていない。
全てを誰かに提供してもらい、それを利用することで生きている。
ギブアンドテイクが当たり前な人間からすると、父親という存在を受け入れられないだろう。
でもそんな父親にしたのは、母親の存在も大きかった。
甘え許して、母親に依存させていたのは、実際母親自身なのだ。
でも父親も要支援ではなく要介護の段階になり、依存性ではなく、依存しないと生きられない存在になった。
その時、母親に変化が起こる。
つまり、父親が甘えてくれることを愛されていると思って来た母親にとって、甘えではなく依存になって、ただただ面倒な存在に変化して来たのだ。
100%完全にではないが、「何か飲む?」という流れで飲み物を差し出すのとは違い、あれこれと父親に命令されることに、母親はどこか強制を感じてしまうのだろう。
してあげたいではなく、しなければいけないになって、母親が時々父親を拒絶する。
例えばそうなって、でも父親は一切、自分のスタイルというか行動を変えることはしない。
誰かのために何もしないし、自分のために誰かが苦労しても悪いとも口にしない。
本来なら父親のような存在からは距離を置くべきで、関わって幸せになる相手ではない。
だからこそ、父親と接している母親は段々と壊れて来た。
父親は人を壊してしまっても、自分を生かしたい人なのだ。
だから、こみち家では、父親の問題的を議論することはしない。
家族で決めても、父親はそれに従わないし、問い詰めても何も改善しない。
そして、今、母親がそのフェーズに入って来た。
自分自身の判断ではできても、相手のニーズや事前のルールを汲み取れない。
何でまたコレをするの?
母親にミスを指摘しても、謝りもしないし、そのミスを修正もしない。
結局は父親と同じで、期待してもできないのだ。
その状況、だから変わるしかないんだよ。
でも母親は父親と同じで、その状況を単純に突っぱねる。
まぁ、平たく言えば、拗ねてしまうのだ。
何か無敵にもなったつもりで、頑なになるが、できていないことを正して欲しいということでも拒絶反応になってしまうので、そこを結局は怒ることもできない。
結論を言えば、父親も母親も変われない人たち。
だから、できることはするとしても、できないことまで頑張ってしないことだ。
両親と距離を置き、命や緊急性に関わることでなければ、放置するしかない。
関わってしまうと、どんどん依存が増して、結局はこっちが負担を強いられて、それが当たり前になる。
自分たちでも少しはと思うけれど、これまで言ったように父親も母親も自分の方法しか守れない。