意地悪ではないからこそ切ない感情

 餃子とチャーハン

昨夜は、母親が好きな餃子を焼きました。

どうせならと、両親にはチャーハンも作りました。

結論から言えば、生ゴミボックスに捨ててありました。

残りは冷蔵庫に残されていましたが。

切ない気持ち

やっぱり、切ないですよね。

でも飲食店の店員のような気持ちで、食べ残しがあってもそれは客の自由。

そう捉えるように努めています。

もう何度も繰り返していますが、両親は自己愛が強いタイプなので、他人の努力や気遣いを感じない訳ではありませんが、自身の満足感が優先されます。

なので、夕飯を作っていても、平気でおやつを両親二人で食べています。

結果、こみちの作ったものを残すことも出てきます。

礼儀としてご飯前はおやつ控えるだろう?

それは個人によっても異なる意識ですが、両親共に「今、お腹が空いている」という感情が優先されるので、目の前でわざわざ作るこみちの気持ちに遠慮はありません。

例えばそこで、それなら自分勝手にすればいいよね?

実際、両親にとても親切にしてくれた知り合いもいましたが、彼らと疎遠になった原因は、ここにあったのではないかと思います。

ですが両親はスッといいポジションに入るのが得意な人です。

例えば朝ごはんを作ることもこみちの役割となったのも、元を正せばそれぞれに役割分担を決めて、いつの間にか両親はその役割から離脱、若しくは機能不全になって今に至ります。

自分たちが使った食器を夕飯を作る時間になってもなぜ片付けてくれないのか?

最初からやりっぱなしにはしません。

数日に1回くらいが、交互になり、しない日が続き時々することもある。

そして、いつしかしないことが当たり前になってしまう。

そうやって自分たちのポジションを作ります。

つまり、こみちの作った料理を捨てる。

相手への感謝云々は別にして、両親はそれに頼らなくてもいいように別途買い物をしています。

作ってもらい食べるしかない私たちにはなりません。

選べる自分たちであり続けるのです。

決して悪い意気込みではありませんが、誰かの時間を奪って成り立つ環境を不思議には思わないことが両親が自己愛の特に強いタイプなんだということでしょう。

父親はすぐに「俺は足が痛い」と言います。

その時は痛みがあるのかもしれません。

ですが、だからと言って24時間365日がそうなら、ご飯も食べられないように思ってしまいます。

でも好きなものなら普通に食べられる。

でも面倒なことや負担になることは、足が痛くなるのです。

つまり父親は家族のために何もしません。

リビングのカーテンを閉めること(以前から父親の分担の1つ)をたまたましただけで、「俺はカーテンを閉めたんだぞ!」と母親に誇らしく宣言します。

そんな性格の父親に「それって当たり前だし、出来ていないがおかしい!」と言ったところで、父親には理解できませんし、「じゃあ、もう一切しない!」と言い出します。

本当なら「じゃあ、みんな何もしないでおこう」となるのですが、父親はそうならないし、そこまでしないだろうとスタンスを崩しません。

実際にすなりそうに時、父親は子どものように大きな声で「なんでそんなことするの? いじめないで!」と連呼します。

隣近所に聞こえることを恥ずかしいとは感じないようで、それよりも自己愛が貫けることを優先します。

結果、他人がどう思うかは全く関係なくて、自分が楽で不自由なければそれでどうでもいいんです。

そして母親も父親とはまた違いますが、似たような傾向を持っています。

わざわざ作った餃子も、下手をすると母親は過去に自分で買ったと思っているかもしれません。

焼くことも簡単なことではありませんが、母親に認識では「だって焼いたでけでしょ?」に置き換わっていても不思議ではありません。

つまり、ことの全体を見ないので、何かどうなったという関係性がいつも目の前にしかありません。

食べた。食べられなかった。

極端に言えば、そこだけなんです。

なぜ目の前にあるのか?

それさえも考えないくらい、視野は狭いです。

昨日、自分たちがサボったことで仕事が残った時、翌日には全員で公平に分担するべきという感覚になります。

だから、冷やご飯も先にレンチンして、食べる人に勧めます。

父親は温かい炊き立てのご飯。

母親も家族に温めたご飯を先に食べされようとする。

これ、意地悪ではなく、先に食べるなら残った冷やご飯からでしょう?という母親なりの価値観が動いています。

尽くしても意味がない相手

結局、両親に尽くしても、両親は自分たち中心なので、良いことがあっても当たり前にしか感じません。

昨日もこみちたちにクレープ買って来ました。

でも2日前にクレープを食べていたので、こみちにすれば「またか」なのですが、母親にすれば「優しく気遣える私」なのです。

優しくないんじゃないです。

相手を思って、相手のためにすることができないだけなんです。

「クレープ? 喜ぶかも!」

数日前にクレープを食べたことなど忘れて、目の前に売っているクレープを買ってしまうのも、その時の感情で動いているからです。

ただ、無理して頑張ってもそれが両親には伝わりません。

どこかで伝わっているかもしれませんが、それとは別に自己愛が優先されます。

今朝も早起きして両親のご飯をつくりました。

もしかすると食べるかもしれませんし、また捨てるかもしれません。

作ってもらったご飯ではなく、今朝は別のものが食べたくなって邪魔になったご飯なんです。

両親には一切の悪気はありません。

ただ感覚がこみちとは違うだけなんです。

追記

見事に捨てられる場面に遭遇しました。

こみちの時間が搾取されている現実も辛いですが、無駄になってしまう食材も。

「そこにある」という自由満たすためだけに、捨てられてしまうのはやっぱり切ない以外ないですね。

何で揉めていたのか分かりませんが、朝から両親、特に父親が大きな声で怒鳴っています。

何か頼まれて、自分は足が痛いのだから、言うことさえも嫌なのかどうか分かりませんが、母親にすれば自己愛が強いタイプなので、段々と父親に対しても冷たくキツい言葉を使っているようです。

父親にすれば、死守したいポジションでしょうから、必死で怒鳴っているでしょうね。

そんな状況なので、こみちの朝食がそのままゴミになっても、もう二人には眼中にもないことがでしょうけれど。