ラベル 介護業界 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 介護業界 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

「高齢者の介護」が難しい理由

 コストでは解決できない!?

こみちが介護業界に入った時、一番最初に思ったことが「介護って何だろう?」と言う疑問です。

介護福祉士と言う国家資格を取得するには、実務者研修と現場での3年間の経験が求められていて、その意味では「介護とは何か?」を働きながら感じることになります。

介護施設で働くスタッフにも、有資格者やこれから資格を取得する者がいて、知識や経験に差があります。

とは言え「介護とは何か?」の意味をどう理解するのかは、単純に現場だけで見聞きしたことだけでは埋められず、それこそ社会人として異業種で働いていたこと訳だったりもします。

とにかく、「介護とは何か?」の答えは、「これだ!」と言えるものがありません。

増して、在宅介護では、さらにその解釈も広くなり、ほとんど考えることが無理だと感じます。

例えば、一般的な家庭を想定し、生活費として予算が15万円あったとします。

買い物はどこでしますか。誰が料理しますか。

ふと思いつくことだけでも、高齢者には難しいことも出てきます。

そこで、介護認定を受けることで要介護、要支援の認認定がもらえると、公的な介護サービスを受ける資格が取得できます。

介護サービスに詳しくない方に紹介すると、どんな計画で(いつ誰がどんなサービスを提供するか?)サービスを受けたいかをケアマネジャーや管轄の地域包括支援センター担当者にプランの作成を依頼します。

ある意味、プランは使う人が必要なサービスを選ぶことが基本で、それは自立支援と言う介護方針に沿って行われます。

なので、「このサービスを使いなさい!」と強制されるものではありませんが、逆を言えば、地域による充実度がかなり違うようで、「このサービスを受けたい」とお願いしても「〇〇なので無理です」と理由がよくわからないまま断られてしまうことも少なくありません。

一方で、こみちは両親と同居しながら、段々と老いている二人を見て、二人だけで暮らす老々介護になると、どうしても無駄や失敗が増えてしまうのは否めません。

記憶力が低下すると、買い物ができても同じもの何度も買ってしまったり、必要物を買い忘れてしまったりで、一回で終わることを何度もしなければことが進みません。

問題に直面しても気づいていないとか、気づいてもどうすれば解決できるのかが分かっているで分かっていないと感じます。

つまり、介護費用を増やしても、それだけでは解決できず、介護サービスをどう提供すると良いのかを根本的に考える必要が出てきます。

しかし、スタッフの教育もこれだけで十分と言う決め事は難しく、業界長くいるからこそ、社会や異業種の実態とかけ離れてしまうこともあるでしょう。

社会保険料の増加が現役世代の生活を圧迫していますが、どれだけコストを確保すれば良いと判断するかは、どうしても感覚的になってしまいます。

月額15万円では足りないと言って、20万円なら十分なのか?

言えばキリがない話で、コストを使おうと思えばいくらでも掛けられます。

高齢者側も、まだまだ自分で生活できると思っていて、でも実際には段々とミスや失敗が増えてしまう段々なると、一番介護サービスとの相性は良くありません。

できないけれど、こだわりだけがあるので、サービスを提供する側と受ける側でどう折り合いをつけるかがとても困難でもあります。

意外と「要支援」は活かされていない!?

 介護グレード

正しいかはわかりませんが、全く基準がないのもイメージしづらいので、こみちは勝手に「自分でトイレが使えない段階」を「要介護3」と自己基準を設けていました。

実際には病気などによる機能低下と加齢による機能低下でも状況も異なります。

同じトイレに行けないとしても、身体的に問題があって、例えばトイレまで歩くことができないのもトイレを自由に使うことができません。

また脳に何らかのダメージがあり、例えば「トイレ?」となってしまってもトイレを上手く活用できないでしょう。

個人的な見解として、在宅介護を続ける場合、この「要介護3」が大きな分岐点で、家のトイレが一人で使えない場合、比較的軽度だとしても家族が一日中関われる環境が強いられます。

「そろそろ、トイレどう?」

時間帯を見て、サポートが必要になるので、家族の負担が大きくなるのです。

そこで「オムツの着用」が検討されるのですが、家族が交換する負担や汚れたオムツの処理、そしてどうしても消えない臭いなど、家族による介護はかなり様変わりします。

つまり、「要介護3」が特養の入所要件になっていて、家で介護を続けるのか、介護施設を積極的に理由するのかを迫られます。

要支援とは?

介護グレードは要支援1、2と要介護1〜5の全部で7段階があって、最も軽度が要支援1で最も重いのが要介護5になります。

ここでいう軽い重いとは、本人の自由意識がどれだけ行えるか?と言う目安で、介護負担としては寝た切りの要介護5だから大変とは限りません。

むしろ、要介護1、2で、いろんなことができるものの、全体をとしてはどこかミスをしてしまうくらいの方が介護する側としては手が掛かったりもします。

軽い認知低下で、要介護1や2で、まだ買い物もそれっぽくできる。

でも買って来るのは、生活に全く必要ではないものと言うような場合、商品をレジに運んでお金を払うことはできても、肝心な「買い物」と言う意味では用を足せていません。

そうなってしまうと、機能として十分でも、結局は誰かのサポートが必要なので、介護支援が欠かせません。

それよりも軽度の要支援1や2の場合、一見して介護が必要には思えないくらい普通と変わりません。

でも、長く接していると不思議な行動があり、食べたばかりなのに、また食事の準備をしたりします。

「ご飯食べたよね!?」

「嗚呼、そうだったね。間違えた!」

まぁ、それくらい勘違いにも見えるのですが、ある瞬間の記憶が薄れて、ちょっと不思議な行動になったりします。

「メガネがないんだよ」

「手に持っているのは?」

「嗚呼、持っていたか」

つまり、勘違いにも見える程度のミスが要支援では起こり始めます。

一方で、その段階での対処次第で、要介護のさらに悪化した状況に移行する時期を遅らせることは可能です。

ポイントは、運動習慣とコミュニケーションだと思いますが、散歩などで足腰を使い、人と話したりすることで程度な緊張感が生まれて、認知機能の低下を抑えたり、回復が見込めるからです。

しかし、誰もが意欲を持って行動できるものではないので、特に傾向として仕事を辞めた後の男性の社会性は狭くなりやすいと感じます。

家で家族としか話さないような環境では、運動習慣も身につきませんし、コミュニケーション能力も低下しやすいからです。

そこで、早い段階から認定調査を受けて、公的な介護サービスを利用し、運動やコミュニケーションの機会を設けるのがおすすめですが、本人が嫌がったり、要支援向けのサービスがなかなか見つからなかったりで、ハードルが地域によってかなり違います。

例えば要支援1の方はほぼ一般的な高齢者と変わりません。

しかもまだサービスにもなれていないので、丸一日よりも半日だけのようなサービスの方が理由しやすいのですが、それが利用できなかったりすると、「丸一日は長くて疲れる」と嫌になってしまいます。

また、要支援の場合、相談する相手は管轄の地域包括支援センターになるので、要介護の時のケアマネとはまた違います。

より多くの要支援の方を少ないスタッフで担当していれば、それだけ個別相談も応じ切れないでしょう。

実は先日、管轄の福祉課に父親のことで相談に行きました。

相談したかったのは、意欲低下で運動習慣もない父親に外出や運動の機会が提供するサービスがないかと言うもの。

結果を言えば、かなり相談で粘って父親の健康状態を理学療法士による確認をしてみようと言う流れになりましたが、多分介護に詳しくない家族が相談してもそうはならなかった気がします。

パンフレットに掲載されていた訪問リハビリや歩行器の貸し出しサービス(有料)などが利用できないかと言う流れを考えていましたが、かなり渋い感じで、「もう少し段階が進まないと…」とまさかの話もありました。

つまり、要支援から要介護になり、家庭ではサポートできなくなって、初めて公的サービスの理由が検討されるような感じです。

自分たちでできる内は、自分たちで。

そんな感じでした。

なので、普通ならサービスを断念し、「ありがとうございます」で帰ってしまうことになるでしょう。

それだけ高齢者に掛かる経費は膨らむばかりなので、行政も経費を抑えたいのは分かるのですが、要支援から要介護に進むと、それこそ家族ではサポートできないことも増えますし、施設理由になればコストも増します。

介護は事務的に処理すると簡単なのですが、寄り添いながら意欲を引き出すような介護は経験も必要で、簡単ではありません。

つまり、歩きたい人に機械を使ってもらうのは簡単で、声掛けをしてサポートするのは簡単ではありません。

なぜなら、サービス提供側も人材育成をしなければならないので、コストが増すからです。

しかも要支援ならかなり動けるので、サポートも距離感が難しくもあります。

いろんな立場の状況も理解できますが、家族の立場としてはなかなか思うようには進まないと感じます。

「介護施設」や「地域包括支援センター」に頼れるのか?

 介護福祉士の有資格者として

こみちは介護施設に勤務して、介護福祉士の資格も取得しました。

また、親戚の介護施設を探したり、今は両親と同居して介護が段々と始まっていたりします。

例えば、今後両親のどちらかが認知症になって、特に前頭葉を起因するような障害の場合、かつての人格さえ失われてしまうことがありえます。

具体的には、暴言や暴力ですが、大荒れした利用者の対応は介護スタッフとしてもストレスですし、苦労する業務です。

例えば、介護施設の役割として、ある一定の介護サービスを代行すると言う考えなのか、そんな問題ある利用者でも受け入れてサポートするのか、介護施設の考えも様々ですが、そこで働くスタッフの意識も問われます。

絶対にスタッフから手を出せない状況で、利用者から暴力を受けてしまうと、もう介護ではなく、スタッフ自身の精神的な負担も考慮しなければいけません。

例えば同じ時間給で働くにしても、明るく楽しい職場と苦労が絶えない深刻な職場のどちらが希望でしょうか。

でもこれは避けられない問題で、スタッフなら配置換えや退職と言う方法もありますが、家族の場合はまた深刻です。

と言うのも、介護は浅くもできれば、深くもできるものです。

ちょうど未経験の方なら「食事」がイメージしやすいでしょうか。

つまり、レンチンだけでも今は美味しい食事を食べられます。

しかし出汁から取って、昔ながらの方法で手間を掛けることもできます。

時間や手間だけで考えれば選択肢は明らかでも、「その人らしさ」をどこまで配慮するかで介護負担の広さも深さも無限に広げられます。

暴力を振るう利用者をいかに穏やかに接するかも介護スタッフの力量と言うこともできますし、ストレスを溜め込んでスタッフが深刻な精神疾患を患っても本末転倒です。

つまり、どこまで支援するのかがとても線引きし難いことが介護支援では最も大変な部分ではないかと感じます。

なので、どんな状況の高齢者でも必ず受け入れてくれる介護施設があるとも言えませんし、地域包括支援センターのスタッフでも全員が介護負担を熟知しているとも言えません。

「〇〇なことで相談したいのですが」

と相談した時に、欲しいのは慰めの言葉ではなく、具体的な計画や支援だとするなら、尚更、それはタイミング次第で変わるものです。

こみちが勤務していた施設では、いい意味で利用者を最後までサポートしていました。

こみちを含めて良いスタッフだったかは分かりませんが、たくさん大変なこともあって、「老いる」と言うことの意味を幅広く学ばせてもらえた気がします。

また、実際に親との同居をして、1ミリも譲ってくれないことを感じます。

つまり話をしても、それを明日には忘れてしまうので、同じミスは永遠に続きます。

毎日、冷凍庫を開けて、整理整頓する母親ですが、何のためにしているのか最近ではよく分かりません。

こみちが考えて置いてあるものでも勝手に触ってまとめたり、バラバラにしたり、手間を増やしていると言えば確かにそうで、でも母親にとっては「自分らしく暮らし」です。

それが日常生活の至るところで起こり、時に理解できない行為もあったりして、それでストレスを溜めていたこともありましたが、そうやって時間が流れて両親も老いていきます。

その時に、もしかしたら暴力行為があるかもしれませんし、思う以上に大人しくなるかもしれません。

施設入所を考える時が来るかもしれませんし、最後まで在宅介護できるかもしれません。

言ってしまえば、オムツ交換も始めてしまえばできることもわかっています。

問題はあるにしても、やり方次第です。

ただ安全性を考えると、一人でトイレに行けるレベルであって欲しいと思いますし、それが困難になる頃は要介護3くらいで、特養ホーム入所条件も満たせるでしょう。

とは言え、特養ホームに入りたい希望は多く、数年待ちになることもあるので、希望してから受け入れが叶うまでの数年間をどう過ごすのかも家族の重大な悩みになるでしょう。

病気などで入院でもあれば、老健を経て特養と言う流れもありますが、少しずつ老いて行く場合には在宅介護をメインにデイサービスを使うことになります。

自分で料理も洗濯も掃除もできない高齢者で、さらに人との交流を避けるタイプだと、デイサービスの利用も嫌がったりします。

とは言え、家事が何もできないので、そこまで負担の範囲を広げると、親の所持金まで把握しなければいけないことも出て来て、場合によっては介護負担の範囲が一気に広がります。

「デイサービスには行きたくない!」

そんなことを言われたら、もう好き嫌いの話ではないのに、その負担範囲を両親が理解できないので、家族が生き方を考えるしかありません。

嫌でも行ってもらうしかないのか、それも含めて介護するのか。

言うのは簡単ですが、実際に直面すると「またそれやっているの?」が続きます。

できることはできるだけ任せたいのですが、例えばこみち家の場合、両親が少し困難な問題を自分たちで解決できたことはありません。

できるのは、個人的な買い物などで、それさえ量を間違えてしまいます。

でもそこまで首を突っ込んでも仕方ないので、ある程度は放置して、それこそ生命や財産の根幹が揺らぐような場合まで後ろで様子見です。

ですが、見えないことも多くて、蓋を開けるといつの間にか始まっていたと言うこともあったりで、それまでの説明さえもあやふやになっている両親から話を聞き、相手がいれば連絡して状況を説明しなければいけないことも起こりえます。

でも、解決するとその大変さを両親は全く覚えていないこともあって、「あの件だよ?」と言う質問に「知らない」と真顔で言われて凹んだりします。

これが介護です。

踏ん張れれば良いのですが、踏ん張りきれないと家族ごと崩壊します。

なので、単に状況説明をしても地域包括支援センターの担当者も何をして良いのか分からないので、家族は何をどうしたいのかまでイメージして、「〇〇することはできませんか?」「〇〇に近い方法を教えてもらえませんか?」と、施設の役割を理解した上で相談した方がいいかもしれません。

「〇〇だと難しいですね」

条件が違うと、できないしか返って来ないので、何が足りないのか、どうすればクリアになるのかまで踏み込まないと、思うような答えは返って来ません。

するしない別にして、家族も介護技術的な経験があると、また介護に対する意識も変わるかもしれません。

難しく考え過ぎないことも、高齢者と家族を守る大切な意識です。

中高年に「未来」はあるのだろうか?

 社会で何が起こっているのか?

高齢者がますます増え、介護サービスを必要とされる人も増加するでしょう。

だから、「介護職がおすすめ」と考えるのは少し安直かもしれません。

と言うのも、介護職と言えば、やはり体力が必要ですし、年末年始、大型連休、お盆休みもシフト勤務が続きます。

例えば、介護職を生涯の仕事に選ぶという覚悟があるなら、実際に介護スタッフとして働いた経験から言っても、やり甲斐のある仕事だと思います。

しかし、介護スタッフとして入職すると、さまざまある仕事の中でも利用者と接することが多い担当になるでしょう。

入浴やトイレ、オムツ、食事など、人が生きる中で必要不可欠なことに関わります。

しかしながら、介護とはそれだけではなく、「生き方」とか「自尊心」のようなものにも向き合っていきます。

そしてそれは、介護スタッフという立場ではなかなか触れられない部分で、経験を重ねて介護福祉士、ケアマネとステップアップして初めて知ることになる部分でしょう。

こみちの場合、その途中である介護福祉士の資格を取得したに過ぎないので、もしもこれから介護業界に関わるなら、それこそケアマネや施設運営のような介護をもう少し広い視点で向き合っていけるとさらに大きなやり甲斐にも繋がると想像できます。

しかし、今は同居する両親が少しずつ加齢でADLの低下が見られ、いろんな思いを持ちながら在宅介護をしています。

施設に預けられる要介護まではまだありますが、一般人が段々と老いて行く様を両親の生活を見ながら感じているのです。

「オムツの付け方」を介護スタッフになれば始めるでしょう。

でも、オムツをつけたがらない利用者がいて、彼らは「トイレに行きたい」と訴えます。

「オムツでしょう!?」

介護スタッフならそんな風な言葉を説明するかもしれません。

しかし、立位に不安があっても、排せつ機能に問題があっても、オムツで用を済ませることは羞恥心との戦いです。

何が言いたいのかというと、介護は突然始まることではなく、一般人から段々と始まります。

その移行期間は人によって異なりますが、子育てのように「何歳で何ができる」とは言えません。

奥を知れば知るほど、介護という仕事は幅広く、言ってしまえば介護スタッフという立場で仕事さえできればいいという割り切りをするのか、もう少し老いるということを自分なりに咀嚼して理解しようとするのかでも違います。

介護業界というのを例に挙げた訳ですが、他業種でも同じことが言えて、しかも世代の若い人の感覚に合わせなければいけないことも増えるでしょう。

これからも社会と関わるために、自分が何をして役立てるのかを見極める必要がありそうです。

必要とされるために、今までの常識や価値観だけでは受け入れてもらえません。

時代が随分と変わったなぁと感じながら、その中で自分が生涯続けられる仕事を見つけたいものです。

地域包括支援センターからの連絡は…

 地域包括支援センターの役割

「介護」が家で行うものから地域社会全体の問題と考えられるようになって、介護保険制度が2000年に始まり、何度かの見直しの中で2005年に地域包括支援センターを各自治体で設置し、地域包括ケアシステムという体制が打ち出されます。

地域包括ケアシステムとは、その地域に暮らす住民が、医療や介護、またはその予防が必要になった時に、加えて権利擁護など高齢者の暮らしの総合窓口として「地域包括支援センター」が役割を担います。

しかし、家庭内の介護問題は簡単ではありません。

信頼関係を築き間に入るとしても、1日や2日ということではできません。

しかも地域包括支援センターのスタッフと管轄している地域住民との比率を考えても、月に一度話をするのでさえ容易ではないくらいです。

それを踏まえて、介護が必要になったら、住まいの役所の福祉課で相談し、介護認定を受けて現時点での介護度合いを決めてもらいます。

大きく「要支援」と「要介護」に分類され、「要支援」では本格的な介護にならないように地域包括支援センターの担当でプランを作成します。

一方、「要介護」の場合は、いわゆるケアマネが担当し、本格的な介護のためにケアプランを作ることになります。

地域包括支援センターからの連絡が来ない!?

認定結果を受けて、今後の計画を相談するために担当者が訪問してくれました。

こみちのイメージは、介護認定の結果をみて、ある程度の暫定的なプランが示されるものと思っていたのですが、結果は「介護保険制度」の簡単な説明と話の中で出た「デイケア」などの施設を調べてもらうことでした。

その際、地域外ですが評判良い施設名を告げて、「どうでしょう?」と伺ったのですが、あまりいい顔ではなかったです。

というのも、利用した施設が介護報酬を受けることになっているので、「行政」としては管轄内の施設を利用したいという思惑もあるからでしょう。

これが一般的なケアマネのケアプランの場合、介護居宅支援事務所を選ぶのも利用者側なので、使いたい施設同様に「管轄」という縛りは少なくなります。

つまり、介護がそろそろ必要になる時期は、それまで普通に暮らせていた感覚から段々とできないことが増える喪失感の強くなる時期なので、いわゆる「介護」ではありませんが、支援が必要になります。

地域包括支援センターの役割の1つが「介護予防」ではありますが、そのような高齢者の特有の心理状態を細やかに支援するには人員的にも無理があります。

例えば、地域包括支援センターに連絡した場合、「何の御用でしょう?」から始まるかもしれません。

相談した結果を聞くつもりでも、ことによってはそれくらいの対応になることもあります。

つまり、相談したい家族との会話で、これからの関わりが始まるのではなく、一回の会話はその時で終わりというスタンスになりがちだということです。

例えば、父親が家で倒れて意識を失ったというようなことが起こり、救急車で運ばれたら始めて地域包括支援センターの対応にも変化があるのでしょう。

1つには、要介護認定が更新され、要介護となれば、ケアプランを作成するのもケアマネに代わるので、介護に対する対応に変化が起きるということです。



親の介護をすることになったら

 「介護」に対する理解を共有する

「介護」というと「オムツ交換」をイメージする人もいると思いますが、「介護」をまだ健康な時に理解しておくことが大切です。

というのも、「介護」は意味が広く、「自分の生活を別の人に支えてもらう」という理解になるからです。

例えば、買い物をするとか、ゴミ出しや掃除なども広く考えると「介護」ですし、それまでの住まいから改修することも「介護」と言えなくありません。

床に布団を敷き、寝起きするのも健康であれば苦ではありません。

しかし、足腰が弱ると「立ち上がる」という動作も、楽な動きではなくなります。

その意味では、ベッドを使い、立ち上がる時にベッドサイドに足を出せば、それだけ楽に立ち上がることができます。

つまり、いきなり「介護」が始まるのではなく、「理解する」「準備する」という段階があると後々楽になります。

介護施設を知る

例えばデイサービスや老健、特養など、同じ介護施設ですが「介護」における役割が異なります。

とは言え、どんなことをしてくれる施設なのかを実際に見学しておけば、今後の介護でも役立つでしょう。

また、ケアマネ、ケアプラン、介護認定など、介護に関するよく耳にする言葉も、正確に理解できていなくても、少し知っていたり関係性がなんとなく分かるだけでも、今後の介護に役立つます。

実際の介護とは?

「介護」とは何かを知ると、実際の介護で「これも介護なのか?」と思うことがドンドン出て来ます。

というのも、親の介護の場合、親が頑張るとは限りません。

つまり、放っておくと着替えない、風呂に入らない、掃除しない、洗濯しない、料理も出来合いばかりということが起こり得るからです。

介護する子ども側は、「サポート」という立場でもありますが、「自分の親をどこまで支えるのか?」に悩まされます。

冷蔵庫の食材が賞味期限切れになっていたり、保存している野菜がまだ使えるのかも気に掛けないと、親が全く気にしないで使ったり食べたりしてしまうことが起こります。

こみち家でも親に任せていた親の買った食材なども、段々と処分したりしなければいけなくなりました。

「これ、期限切れだけどどうする? 捨てる?」と。

同居しているのであれば、その管理ももっと細かく、「そろそろ、コレ使った方がいいよ!」と教えてあげることも「介護」になります。

とは言え、今は母親が全く料理をしなくなり、食事は朝と夕方はこみちか妻が作ります。

昼は好きなものを買って来たり、冷蔵庫にあるすぐに食べられるようなもので済ませているみたいです。

とは言え、段々とそれもできなくなってしまうでしょう。

そして、洗濯物や掃除などもできなくなってしまえば、それこそ食事を作って用意し、食べてもらうだけになる時が来るかもしれません。

段々と家族の負担が大きくなると感じたら、お住まいの地域を管轄する福祉課の職員や地域包括支援センターなどに事情を相談してみるのもおすすめです。

ちなみにこみち家でも地域包括支援センターの方に電話で相談させてもらっていて、近々、家に来て様子を見てもらうようになっています。

まだ父親の介護認定の結果が出ていないので、公的な介護サービスを受けられません。

つまり、相談はできても、サービスを受けられない段階なので、認定結果が早目に出ないものかも含めて、耳に入れておくことが自分たちの生活守ってくれます。


初めて「介護」と向き合う方へ

 妻の実家でも…

昨夜、妻の兄から連絡がありました。

簡単に話すと、妻にも両親がいて「介護」が必要になる年代です。

義理の兄は、「親と暮らす覚悟があるし、呼び寄せてもいい」と言ったそうです。

ただ電話で話を聞く限り、両親から言われたのではなく、生活が不便になっているから面倒を見なければという内容でした。

生み育ててくれた両親に感謝していない子どもなどいないでしょう。

でも「感謝」だって個人で異なりますし、「同居」を「幸福」だと考えるのかも個人でも認識がかなり違います。

兄のいう「不便」も同様で、何事も一から十まで取り上げてしまうことができないから「介護」は難しくなるのです。

何ができなくて、何にはこだわりがあって。

だからこそ、どんな支援が今の段階で好ましいのかを親の立場、子どもの立場、住まいを管轄する行政との関係など、一人では支えられない介護を継続させるためにも欠かせないポイントです。

例えば介護施設で働く介護スタッフの立場では、予め決められたスケジュールに沿って介護を提供します。

そのスケジュールを立てるのは、ケアプランを作るケアマネが本人や家族、医療スタッフなどの調整をして決まります。

それが、家庭での介護のように、現場でその都度状況が変わってしまうと、介護は一気に難しくなります。

介護施設での介護は、いい意味でも「制約」を作ることで、介護される人とする人の負担を抑える工夫が施されています。

これが在宅介護になると、「家族」という関係が「制約」を曖昧にし、それがより親密な介護にもなりますが、見方によっては負担が増して継続が困難にもなります。

「できない」から始まるのが「介護」

こみち家で話すと、父親は今でも家族の誰よりも仕事ができると思っているはずです。

でも実際にはそうではありません。

とは言え、それを父親が客観的に把握できるのであれば、介護はとても簡単です。

「できない」から、難しいのです。

「できないでしょう?」と言った所で、「バカにしている」と怒り出します。

「じゃあやってみて!」と突き放しても、何も変わらないまま放置されてしまいます。

取り上げるのは簡単ですが、できることを探して、できないことをさりげなくフォローして本人のやる気を損なわないように生き甲斐を持ってもらうことが介護です。

時に5分で終わることを、30分も準備することも。

つまり、いい介護ほど、時間も労力も掛かるので、在宅介護は限界があります。

頑張り過ぎて、介護する家族がメンタルを壊しては意味がありません。

「できない」という気持ちを出すことで、例えば行政の介護サービスや支援も始まります。

なので、頑張り過ぎないことが必要です。

介護は、経験的に一人を三人で支える必要があり、一対一ではとても支えられません。

今はできたとしてもできなくなる時が来るので、その時のためにも「できない」を覚えるべきです。


高齢者介護「家庭崩壊」の兆し

 父親が暴れてました!

元々、入院するまで父親は車の運転をして来ました。

しかし、幸いにも後遺症は少ないですが、退院後は明らかに「老いた」印象があります。

家族としては、そんな状況で運転を続けることに不安があり、医者から診断結果が出るまでという口実で、運転を控えてもらっていました。

とは言え、父親も父なりに今の暮らしに未来を感じられなくて、「こんな暮らしなら…」と声を荒げました。

こみちとしては、父親は恵まれた存在で、例えば経済的な自由を家族の支えから受けられ、三度の食事に関しても特に何の用意しなくても当たり前に食べられます。

言ってしまえば、父親にとって車の運転が制限されているだけで、それ以外は心配しなくても助けてもらえているのです。

母親の悲鳴でこみちもリビングに降りて行ったのですが、父親は母親の前に立ち、怒りの矛先をどこに向ければいいのか分からなくなっていました。

こみちの存在に気づいて、こみちが「どうしたの?」と尋ねても、「ふざけやがって」と取り合ってくれそうにありません。

こみちなりの分析

期待や希望のない未来を想像してしまうと、誰もが絶望感に浸ります。

こみち自身もそうですが、父親も同じような心境だったのでしょう。

しかし、二人にはいくつか違う部分があって、例えば経済的な配慮からこみちはいろんな挑戦も計画を練り直して負担を最小限にするようにしています。

つまり、試しに購入すればすぐに答えが出ることも、下調べに時間を割き、経済的負担を抑える努力を怠りません。

一方で、父親の場合、先日も母親からの打診で、高額な商品を購入したいと言われました。

それに関して父親は、ある意味で当たり前なことだと思っていて、こみちが日頃から節約している暮らしが何だったのかと本当に落胆してしまいます。

例えばそれを購入して成果や変化が期待できるのであればまだしも、努力もないままにそれだけ得ても効果はほとんど期待できないのに、経費だけは必要になるという話です。

そして、家族のそれぞれがそんなことを節約して成り立つ今の暮らしにため息をつきながらも、未来を信じて毎日を生きています。

なのに、「運転ができない」という制限をどうしても許せない父親は、そこに怒りをぶつけます。

こみちにすれば、「何をわがまま言っているだよ!」と言ってしまえばそれまでの話です。

しかし、在宅介護とはそこからどうするのかということ。

なので、必要なのは正論ではありません。

地域包括支援センターの存在

そんな時こそ、住まいを管轄する地域包括支援センターに相談しましょう。

何も全てを委ねる必要はなく、悩んでいることや不安に思うことを聞いてもらい、専門家としてのアドバイスや手段を紹介してもらいます。

例えば、認定調査を受けて、その結果が出るまで一般的には1カ月程度掛かる場合も、方法によっては「暫定」という形で早めにケアプランを作成し、介護サービスを受けるという方法もあります。

ネットで調べれば分かることではありますが、個々の状況に沿って話せるので、介護の方法や家族としての向き合い方など、地域包括支援センターの存在はありがたいはずです。



「介護」が大変になる理由

 「自立」とは何か?

介護業界で働いている人なら、「自立」とか「個人の尊重」という理念を耳にしているでしょう。

介護業界未経験だった頃のこみちは、「介護職って何?」という疑問からのスタートでした。

考えてみれば、人の人生は様々で、地域や文化、社会的責任も異なる中で年を重ねて老いて行きます。

その中で「介護」が必要となり、介護業界が介護保険制度に従ってサービスを提供し、その実作業を介護スタッフが担います。

つまり、「介護」には大きく2つの解釈があって、1つが「自立」などに伴う中での「介護」で、もう一つが介護業界としての「介護」になります。

在宅介護で、家族が介護すると大変になるのは、「自立」に伴う介護を行うからでしょう。

具体的に、家族同士の場合、気心知れた相手であり、甘えやすい関係でもあるので、より曖昧な関係の中で「介護」が行われます。

一方で介護業界における介護では、タイムスケジュールのような指針があって、介護スタッフはその流れの中でサービスを提供するので、いわゆる家族の介護ほど親身な存在ではありません。

少なくとも勤務時間の中でサービスを提供していて、時間外になっても帰れない業界のあるあるは、改善されるべき課題と考えられます。

その意味では、家族の介護はそこも含めての介護になるので、依存度が高い場合には、介護提供者のプライベートを奪いかねません。

何事にも「好み」というものはあり、時に「何でもいい」という選択肢でも、「いい塩梅」があるからで、本当にどうなってもいいとは思っていないでしょう。

「自立」に関しても同様で、「理想的な自分」や「暮らし」があるからこそ、そこに向けて努力を続けて来たというのが「現役時代」だったはず。

そこから行動力や判断力などの低下を機に介護を受ける立場になると、「自立」と言っても現役時代そのままを期待するのは困難でしょう。

そうなれば、この記事の振り出しに戻りますが、「介護職の仕事」も様々な暮らしの延長線上の役割で、決してできなかった理想の実現ではありません。

なぜなら、「温めたい」「ジュースを飲みたい」など、ふと思う理想はいくらでもあって、それを全て叶えることを介護と解釈すると、とてもではありませんが支援は限界を迎えます。

かと言って「我慢すること」が介護の根底なのかというとそうではなく、「現状を理解して、未来を一緒に考えること」が「自立」と言えるはずです。

言ってしまえば、介護施設の体制と望む介護にあまりにも差がある場合には、施設に改善を求めるよりも施設選びをやり直すことも視野に入れるべきでしょう。

介護スタッフの立場にすれば、事前に与えられた業務がタイムスケジュールに沿ってたくさんあって、「朝食は自分のペースでゆったりと食したい」と言われても、それに応える余裕がなければ介護現場ではどうにも叶えられないからです。

しかし、在宅での家族による介護では、それらが無制限に期待できてしまうので、相互の理解や目指すべき介護の方針がより親密に話合わなければ、段々とストレスが蓄積されて不満ばかりが膨らみます。

自分本位な人間を介護するのは大変!?

自分のことを最優先で考えるタイプの人は、一定数いるでしょう。

選択肢があったら、誰かに譲るという考えよりも、自分の好みに照らして選ぶでしょう。

しかし、そんな選択肢が何度も巡って来た時に、いつもハズレを誰かが引いてしまっていたら、その人は不満を感じます。

一方で、自分本位な人は相手の気持ちを考える前に自分の好みで行動するので、不満に気づいても行動を変えることはできません。

できるなら自分本位ではありませんから。

社会では、それに耐えられない人は自分本位な人とは距離を置き、もしかすると縁を切ってしまうかも知れません。

そしてまた別の人が現れて、自分本位な人との関係に直面します。

行動力があって、自分本位でも人間関係を構築し続けられればいいのですが、老いて介護が必要になって時に人間関係が家族だけになると、家族のストレスや不満は蓄積される一方です。

デイサービスなど、社会との繋がりを絶やさないことで、自分本位な性格を直すことはできなくても、家族の負担を分散できるので試して欲しい選択になります。

できることをしているといういう意識は、時に自分も対応な存在で、介護されているとは思わないのも自分本位な考えから導けます。

やりやすいことを先に選び、困難なことを残して誰かに代わってもらう。

そんな行動に感謝するのは難しく、「同じだけ負担しているから負い目はない」という意識になることもあります。

ひと口に「自立」と言っても、その中身はとても幅広く、時に話合えば解決できるようなものでもありません。

特に自分本位に生きて来たタイプが、結果を残すことなく介護されるようになると要求はそのままに自分でも出していない結果を期待します。

「アレをして欲しい」「これが欲しい」

現役時代にはできなかったことを介護という支援に求めるので、家族の負担は大きくなります。


介護職で年収1000万円超えは可能なのか?という話

 介護職は儲からない!?

年収1000万円以上稼ぐには、サラリーマンなら月収70万円超えが目安になると思う。

ざっくりとした計算をすると、日当で3万円以上稼ぐことが課題だろう。

時間給で3000円以上。

そう考えると、介護職の求人募集で時間給3000円以上を提示する企業は簡単には見つからないだろう。

というのも、介護職の場合、介護士は利用者と対面しながらサービスを提供することが多い。

身体介護などでは一対一になる。

つまり、介護士の報酬を利用者一人分から捻出することになるのだから、介護報酬を考えても思うように給料を上げることが難しい。

儲かる職業

例えば会社の社長というポジションは、従業員を何人も雇う。

つまり、従業員それぞれが個別に顧客の対応をすると考えると、結果的に社長は同時に複数の顧客から利益を受けることができる。

単純に言えば、10人を雇う社長が100人を雇えば、受け取れる報酬額も10倍にできるということだ。

介護職では儲からないのか?

介護職と言っても、介護業界の何をサービスとして提供するのかがポイントだろう。

例えば、介護用品を扱う店を経験するなら、それこそ社長というポジションが儲かるという話になって、いかに従業員にサービスを提供してもらえるのかを工夫することが大切になる。

つまりは、介護施設の施設長でもいい。

ただ、施設運営で介護報酬だけが利益になっている場合、基本的に他の施設長と大きな利益の差が生じないだろう。

言うなれば、介護報酬とは別の部分でどれだけ利益を上乗せできるのかが経営手腕となる。

介護職を経験してみると、利用者にどれだけ多くの時間を割けるのかはとても難しいもので、サービスをきめ細やかに行うほど、どうしても人件費がかさむ。

サービスを画一化し、ある意味で介護職の担う業務を制限しなければ、利益はなかなか捻出できない。

例えば、レクリエーションである介護職が1時間を担当した。

その際に参加費を利用者から別途受け取れる仕組みを作り、いわゆる社内起業のような仕組みができたらどうだろうか。

レクリエーションだけではなく、おやつ作りやその他のイベントを介護職が主担当になり、クラブ活動のような仕組みで参加してもらうというものだ。

極端に言えば、日帰り旅行など、週一で参加者をいろんな場所に連れ出すという計画を介護職が主体となって担うのだ。

その時は、その担当者が社長で、仲間の介護職を雇う形になる。

参加者たちの参加費を受け取って、経費を差し引き分配する。

ここまで話していると、薄々気づくかもしれないが、介護職だから儲からないのではなく、決められた仕事がそもそも稼げない仕組みなら稼ぐことは難しい。

逆に儲けられるような仕組みを作れば、そこにアジャストできる人は稼ぐことができる。

そう考えると、介護職に従事し、利用者と対面でサービスを提供している限りは介護報酬から割り出された利益が給料に反映される。

だったら、例えば理美容師の資格を取り、介護施設をいくつかまわりながら、利用者の頭髪を整える仕事の方が稼げるように思う。

さらにいえば、数名の有資格者を従業員として雇い、自分が社長となって彼らに施設をまわってもらえれば、一人では稼ぐことができない以上の収入が期待できる。

どうしても介護職にこだわるなら、料理などで強みを見出し、富裕層向けの介護サービスを提供する方が稼げるだろう。

というのも、介護サービスの料金はとても算出が難しい。

同じことをしても嬉しいと思ってもらえるサービスなのかは、手順やサービスの質だけでは決まらないからだ。

豊かである暮らしが満足度を決めるのではないのと同じで、同じ時をどんな人と過ごしたのかで幸福度が決まると思う。

でもそれを個々の介護職に求めることは難しく、施設運営でサービスを向上させることが難しい一因にもなっている。

系列の同じ介護施設でも、雰囲気が異なって感じるのは、介護サービスの質を簡単には画一化できないからだろう。

都会的なさっぱりとした触れ合いを好む人もいれば、もう少し距離感が近い郊外型の触れ合いが好みということもある。

より利用者のニーズに寄り添うからこそ、介護サービスの提供は簡単には行えない。

つまり、施設側にとって理想的な介護士が増えればいいけれど、介護報酬という範囲で運営する以上は報酬額だけを上げることは難しい。

かと言って、見習いの介護士よりもベテラン介護士の方が仕事に慣れているとしても、そのベテラン介護士が2倍働いて、2倍の報酬を受けられるものではない。

実際に介護士として働いて気づくのは、現場のスタッフだけで話し合って仕事をより頑張る方向に押し進めないことだ。

そうなると、サービス残業が当たり前になり、一回の勤務で30分から1時間が無給の奉仕になってしまう。

そうではなく、施設としてどんなサービスを提供するのかを先に決めて、そこから末端の介護職が担うべきサービスを明確に理解するという流れが必要だと思う。

サービス残業しなければできないサービスは、基本的にカットするべきだと思う。

当たり前のように定刻よりも先に出勤し、定刻よりも遅くまで働く流れは、結果的に成り手を減らしてしまう。

機械で任せられる部分は人の関与をなくし、効率の上がる道具や備品は介護士のためにも積極的に導入して欲しい。

忙しい介護職のスケジュールの中で、さらに環境整備の整っていない職場は最悪で、何かしたい時にも時間ばかり掛かってしまう。

そうなるか否かは、施設長の介護サービスに対する理解と経営手腕だと言える。

制度上、現場で働く介護職で1000万円以上を稼ぐのは難しい。

ただ、介護の仕事でしか味わえない経験や発見も多い。

それは異業種では味わえないことだから、それを金銭としてではなく、自身の人生経験としてどこまで価値あるものと捉えられるのかだろう。

それこそ、全てにおいて高級な施設でも、人の温もりに欠けていると寂しいものである。

金額だけでは分からないことも多いから、人は様々な働き方を望んでいる。

より多くの利益を得たいのであれば、それに適した職を探すべきだし、介護職でしか味わえない良さもある。

介護職で1000万円以上を稼げないとは思わないけれど、仕事の性質上、稼ぐことを優先しても結果的に中途半端なサービスになってしまうようにも思える。

介護予防の段階で、健康や生き甲斐に関するサービスの提供を促すような事業であれば、介護を含めたもっと大きな視点でサービスの提供が可能になると思う。


「いつまでも自分らしい暮らし」をどう実現させるのかという話

 介護支援における大きな課題「自分らしい暮らし」の実現

在宅での介護と施設での介護には、「経済面」という大きな課題に差があります。

首都圏やその近郊において、民間の運営する介護施設を全面的に利用する場合、月額15万円位のコストが必要だと考えるべきでしょう。

仮に年金だけで賄うとしても、国民年金を満額で受け取ってもそのコストを補うことができないので、預貯金による蓄えや家族による支援、行政によるサポートなど、施設の利用が経済的も容易ではないことがわかります。

有料老人ホームへの入所が難しい場合、経済的な負担を抑えられる特別養護老人ホームの入所が理想ですが、そのためには要介護3(一人でトイレが難しいくらい)でないと入所条件をクリアすることはできません。

コスト的には、首都圏でも10万円前後で見つけられますが、希望者も多く「待ち」の状態になっています。

こみちが介護士として働いていた時も、割高でも入り易い施設を使いながら、順番を待って「特養」へと移動されるケースが多く、「今度、別の施設に引っ越します」という利用者との別れを幾度も経験しました。

月額数万円(都内にこだわると10万円前後)の違いにもなって、誰もが必要な時に利用できる施設とは言えません。

言い方を変えると、そこで働くスタッフの給料が異業種と比較して控え目になってしまうのは、そのまま利用料金に反映してしまうという問題にも繋がります。

では在宅介護ではどうでしょうか。

介護士経験から言えるのは、在宅介護で「オムツ交換」まで担うのはかなり負担が大きいと思います。

作業そのものは、三日もすれば慣れると思いますが、運動不足になると出るものも出なくなり、下剤などを使うと量のコントロールが難しくなったりして、最悪ではそのまま全身を洗うくらいの作業になることも否定できません。

仮にそうなった時に自宅で入浴できるのかがポイントですが、先に「自力でトイレ」と言ったのも、立って移動できるか否かは在宅介護をする上で負担度合いが大きく変わります。

もちろん、できるかできないかで考えると「できます」。

しかし負担が大きくないかというと、小さいとは思えません。

例えばこみちが両親を在宅で介護することになり、しかもオムツを利用するとなれば、先ず仕事で外に出掛けることは難しく、買い物は日中にデイサービスなどを利用し、両親がいない時に済ませるしかありません。

さらにシーツなどの交換や介護用品の補充などまで考えると、自身のキャリアアップは一度諦めることになるでしょう。

加えて、食事面で食べ易い介護食まで考える場合、三食全てを家族で賄うのは手間ですし、栄養学や嚥下のメカニズムなど、介護士の経験や料理の経験などがないと大変です。

いずれにしても、頑張ればできてしまう(本当の意味で「その人らしい暮らし」かは別として)から逆に厄介です。

子育てとは違い、成長するまでという期間が明確ではないので、時に10年、20年と介護が続いた時に、支える側の人生も軽視されるべきではなく、「家族としてどうあるべきか?」をまだ介護が必要ではない時から話合っておきたいものです。

こみち家の場合も10年以上前に「考えよう」と切り出したこともありますが、「負担は掛けない!」とはっきり言った両親が、今では生活のいろんなところで怪しくなっています。

「負担は掛けない!」「自分たちで頑張る」という言葉も、介護や老化を根本的に理解して言ったのではなく、まだ体が動く60代や70代の前半で出した答え。

つまり、「迷惑掛けないと言ったよね!?」と言ったところで、老いてしまったらトイレに行くのと、ご飯を食べるだけの生活になって来ます。

暮らし方という意味での介護施設や在宅での介護はそんな感じですが、例えば終活に向けた準備まで含めると、もっと範囲は広くて、時間もコストも掛かります。

実家の片付けで、庭木の手入れや処分を検討し始めましたが、既にその費用を親が当てにしていて、自分たちで準備し支払いまでしてくれたらいいのですが、場合によっては10万単位の出費も覚悟しなければいけません。

父親は、「ありがとう」とも言いませんし、そもそも頼んでもいないと言い出すでしょう。

でもしなければしないで、実家周辺の方にも迷惑だと思うし、「状況を理解できない」ようになると、プライドだけが残るのでストレスも増します。

「自分らしい暮らし」は、本人の意思と周りへの心遣いがあるかないかで、大きく変わります。

さらに避けることができない家族の負担増もあるので、我々中高年世代は、生涯働ける仕事を見つけて、健康的な暮らしを目指したいものです。


「介護福祉士」になった後の未来計画を立てる話

 「介護福祉士」になって

若い人の中には、福祉系の学校で経験を重ねて「介護福祉士」になる方もいるでしょう。

しかし、中高年の多くは介護施設などで実際に3年以上勤務して受験資格を満たし、「介護福祉士」の有資格者になるパターンではないでしょうか。

こみちの場合、最初に実務者研修という福祉系の学校に通って認定資格をいただきました。

そこを卒業した後、介護施設に勤務して国家試験に合格し有資格者になっています。

例えば、30代、40代、50代の方で、何か健康不安を感じるような出来事に遭遇した場合、若い頃とは異なる人生観になることがあります。

昨日、今日の次に「明日」ということが当たり前ではないと気づくからです。

こみちのように幸いにして大きな病いになっていない方の中には、まだまだ無理をしても健康でいられると思われる方もいるでしょう。

しかし、例えば介護施設を利用される高齢者との関わりは、自身にもいつか訪れる未来を教えてくれます。

老けることは「これまで欲張ったね」ということ。

だから「悔い」だけは残さない生き方をしなければいけないことを気付かされます。

あと20年とか30年とか。

若い人が考える将来とはまた異なり、中高年の我々は「今世」で「何をしたかったのか?」を考えるタイミングを迎えています。

もちろん絶対に考える必要があるということではありませんが、介護施設でお世話させてももらうと、それぞれの方に人生があって、ここに来るまでもいろんなことがあったはずで、彼らが同じ「おじさん」「おばあさん」ではありません。

つまり、個々には全く異なる人生ですが、時の流れによって迎えることになるステージには共通点もあって、我々中高年が自身の人生を振り返るタイミングだとするなら、彼らはもう少し先を進んでいます。

施設内で「お迎え」が来る方もいれば、家庭の事情で別の施設へと移られる方もいたりして、実際にこみちの担当ではなかった利用者の方が、わざわざ挨拶に来て「今までお世話なりました。これからもお元気で」と握手させていただいたことは強く印象に残る出来事です。

「ケアマネ」だけが選択肢ではない?

介護スタッフとして勤務してみると、施設を利用される高齢者と実際に対面し、お世話が始まります。

その方の性格や健康状態、何より「どう生きたいのか?」を踏まえて作られる「ケアプラン」は、我々スタッフにとって彼らとの接し方を決める手引きです。

そんな計画書を作成するのがケアマネで、現行の規定では介護福祉士取得後5年以上の経験を経て受験できます。

現時点で介護業界未経験の方であれば、最短でもケアマネになるまで8年掛かり、最初からケアマネを最終的な仕事と考えにはなかなか先の長い話かも知れません。

こみちの場合も、3年で取得できる介護福祉士と、それから5年が必要になるケアマネでは、目指す意欲に差がありました。

時は前後しますが、初めて介護の仕事を知る機会になった実務者研修を受講していた時に、講師を勤めていた方々は偶然にもみんな元ケアマネで、そこから施設運営側に回ったり、保育士、理美容士、看護士などへと進まれたり、様々な経緯を経て「講師」をなられています。

ケアマネとして勤務されなかった理由は様々だと思いますが、例えば在宅で通いながら施設を利用される高齢者のケアプランを一人のケアマネが担当するのは最大で35名で、毎日、一人の利用者宅を回っても1ヶ月では回り切れないことになります。

それだけ体力も気も使う仕事だということが想像できるでしょう。

さらに、施設内でケアマネとして働く場合は、100名まで担当でき、しかもこみちが勤務していた時のケアマネはケアマネ業務の他に、介護スタッフとしても現場に立ち、夜勤までされています。

通常業務の他、スタッフ間のトラブルなどにも関わることがある施設ケアマネもまた、体力も気力も求められる仕事でしょう。

介護業界では人材を求めている?

未経験の方も、介護福祉士の方も介護業界では人材を求めています。

それだけ利用される方が増えて、今いるスタッフだけでは大変だからです。

年齢や経験不問で仕事を始められることが多く、中高年の方にとって仕事探しで検討して欲しい業界でもあります。

また、単に仕事探しという視点ではなく、自身の未来を考えるためにも介護スタッフとして働くことが意義あるものになると思うからです。

在宅復帰を目指す利用者と介護施設の関係性を考えた話

「食べること」と「出すこと」

家族との同居を見据えた介護計画の立案では、「食べること」と「出すこと」についてどれだけ家族の負担なく回復させられるのかがポイントになるだろう。

もちろん、全ての食事で介助し、出すことに関してはオムツによる支援で補えることもある。

しかし、それらを最初から見据えた在宅復帰は、介護する家族の負担が大き過ぎ、時に家族の人生までも変えてしまうことになる。

介護計画を立案する時に、利用者本人の希望が重視されるとしても、そこに家族の負担が含まれるのであれば、十分な配慮をしなければいけないだろう。

「〇〇でいいですか?」

ではなく、「〇〇をするのは容易ではないですが、それでも希望されますか?」と。

つまり、在宅介護が始まると、利用者の健康状態によって特定の家族の時間が奪われてしまう。

しかも、「食べること」や「出すこと」に問題を抱えたままの在宅復帰では、回復の目処すら立たず、時に10年単位の介護にもなり得る。

昨今の社会情勢を考えると、10年のブランクは誰にとっても軽いものではなく、介護によって失ったキャリアを埋めるにしても、在宅介護とは異なる負担が続くことを意味する。

そうしないためにも、介護施設をどう利用するべきか、利用者本人、その家族を含め、介護施設やケアマネの配慮も求められるだろう。

親との同居で感じる老い

端的に言えば、老いてくると状況判断が難しくなる。

視野が狭まったり、ある状況だけ強く反応したりと、時に理解に苦しむようなことをしていたりする。

片付けが苦手な母親の場合、キッチンに野菜を出したまま出掛けることがある。

調理スペースに新聞を敷き、そこにナスを5本くらい置いてあるのだ。

夜に調理するつもりだったとしても、まだ朝の話だ。

家族の誰かが昼食を作る時やちょっとした時にキッチンで何かしようにも片付けからしなければいけない。

「何で放置してあるの?」

母親はこう答えた。

「晩御飯で使うから」

だから朝、ナスを出したままで出掛けることになった。

つまり、母親の目線では「準備」なのだ。

でも家族から見れば、「迷惑」でしかない。

車を運転していて、先に譲ってくれたら何の問題にもならない時に、高齢ドライバーが狭い道に向かい側から突っ込んで来ることがある。

先に行けば十分にすれ違える広いスペースがある時でも。

つまり、「対向車だ!」と気づくタイミングやどうすれ違えばスムーズなのかを判断できない。

簡単なことがいつも大事で面倒なことになってしまう。

それが老いを伴う同居の苦労だ。

在宅介護で最も大変なのは、「口だけは元気」ということだろう。

「あんまり美味しくないね」

「ちょっと塩っぱい」

黙って食べてくれたらいいのに、気持ちをすぐに口に出してしまう。

かと言って、本人では作れないからさらに厄介だ。

つまり、在宅介護になると、三度の料理を作るということも、その度に小言を言われて、作るのが当たり前で批判されるという状況にもなり得る。

優しさから在宅介護に踏み切ったような場合、そんな状況に陥れば介護を始めたことを悔いるだろう。

つまり、在宅介護を叶えるには、介護される人の健康状態だけでなく、生活やそれまでの生活歴なども深く関係し、こみち家で言えば家事をほとんどできない父親の在宅介護は容易に始めるべきではない。

では家事ができる母親の場合はどうか。

先ほどのナスの件で言えば、「夜、使うんだよ!」と当たり前のように言う。

「でも昼は使わないでしょう? 邪魔になるとは思わない?」と続ければ、「だって使うのに?」と続けて来る。

母親の場合、自身の都合を考えることはできる。

でも相手の立場になって、邪魔になるとか、迷惑していないかということを考えるのが苦手なようだ。

もちろん、「ナスって邪魔でしょ?」と具体的に言えば考えるかもしれない。

でも普段の生活の中で、玄関に大きな荷物を置いたままにできるのは、「何でここに?」と思う人のことをイメージできないからだ。

お見せすることはできないが、冷蔵庫の中がとにかく汚い。

整理整頓しないから。

なのに、ドレッシングの瓶は2本は言っていて、さらにマヨネーズ2本、ケチャップも2本、ワサビかカラシのチューブなども7、8本出してある。

それを全てサイドボックスに入れてあるから、ぐちゃぐちゃになってしまうのも無理はない。

ドレッシングを次々に開けてしまうのは、食事の時に気分で選べる楽しみを作りたいから。

実際、食事どきには、ドレッシングなどがたくさんテーブルに出されている。

「まだこのケチャップは使わないでしょう?」

他にまだ十分に入っているケチャップがあるのに、それを開封してしまうのは、使いたい時にすぐに使えるようにしたいから。

そんな感じで、常に新しいものが開封され、冷蔵庫に詰め込まれて行く。

時に新しいものを使い出し、古いものが奥から出て来ることもある。

在宅介護とは、視野が狭くなってしまう親との暮らしだ。

住み慣れた家で暮らしたという気持ちと、それを周りでどう支えて行くのかをどう叶えるのかになって来る。


親しい知人を失ったという経験から学ぶこと

 中高年と呼ばれる年代になったからこそ

結論から言ってしまえば、「悔いなく生きよう」ということです。

親しい方を失い、「今日はもういないんだなぁ」と思ってしまいます。

介護施設で働いていた時も、年間で考えると何度か同じような経験があって、こみちの人生観においても大きな影響を与えてくれました。

親子以上に歳の離れた方々のお世話をさせてもらい、その中で彼らの人柄にも触れることができて、例えば当時の思い出話を聞かせてもらったときは、今の暮らしがそんな過去の頑張りがあっての話なのだと思いながら、でも当時の生き生きと活躍されていた頃にも触れられた気がして、もしも世代を超えて出会うことができたなら、もっと早く巡り会えたらとも思いました。

ある男性利用者の場合は特にそうで、大正や昭和の初期に生まれた彼は、貿易の仕事をするために海外を渡航されたと言います。

「外国語は話せたんですか?」

「いや、全く。でも行こうと思ったんだ」

「大変でしたか?」

「アハハ。どうだったかなぁ。思い出はたくさんあるよ」

「また聞かせてくださいね」

その後、彼とは約3年、こみちがその施設で働いている間、ずっと担当になり、話を聞かせてもらいながら、でも少しずつ体も表情も少なくなっている現実にも気付かされます。

介護施設にも医師や看護師がいたりしますが、本格的な治療ができる体制ではありません。

生命や健康を著しく損なうような時は、施設を出て提携された病院などへ運ばれます。

中には、手続きや家族など、いろんな事情で介護施設を退所されてしまい、その後のことは一介護士には分からないことも多いのですが、中には再び介護施設に戻って来られる方もいて、懐かしい表情に触れられて嬉しく感じることもありました。

そんな経験をさせてくれたのが、こみちの介護士時代の話です。

そして、今回は知り合いの方が旅たちました。

出会った頃から既にデイサービスを利用されていた方で、コロナの影響もあったみたいであまり体調が良かったという感じではなかったそうです。

約3年という時間は、それだけ人と会うことも遠ざけていましたから。

「実はウチの父親が…」

そんな話を聞いた時、「そうだったんですね」と言うのが精一杯でした。

タイミングは別ですが、やっぱりお迎えは誰にもでも訪れるもので、その時までに気になっていることは行動に起こしておきたいもの。

我慢や計画もありますが、特に中高年にもなるといきなり何もできなくなることだって起こり得ます。

介護施設でいつも話を聞かせてくれた方は、「まだ若いんだ。何でもできる」といつも励ましてくれました。

「もうオッサンです」

「人生を楽しめ」

「嗚呼、ハイ」

もう目があまり開かなくて、話し掛ける時に習慣で肩や腕に触れさせてもらっていたのですが、少し俯いたままそう優しく声を掛けてくれることにどれだけ救われたでしょうか。

中高年の方で、仕事探しを考えている人がいたら、いろんな条件もあるとは思いますが、介護士という仕事をぜひ体験して欲しいと思います。

それはお金で手に入る経験ではなく、自分がやがて迎える遠い未来に向かって生きて行く道しるべになるからです。

彼との出会いはもちろん、女性の中にもいろいろと話すことができた人はたくさんいて、こみちにとって介護士時代は大きな財産になっています。

そして冒頭でも触れましたが、「悔いなく生きる」ということです。


元介護職員が介護業界に戻りたいと思うのかって話

 これでも介護福祉士なんです!?

まず介護福祉士が国家資格なのを知っているでしょうか。

国内にはいろんな資格と名のつくものがありますが、「国家資格」に属するものは、多くが命や健康、財産などに大きく影響を与える役割を担うものに課せられています。

医師や弁護士などを筆頭に、国家資格はあるんです。

もう一つ別の見方をすると、その資格が試験に「合格すること」以上に、一定期間の「専門教育を受けること」を追加していたりします。

医師になるには、大学の医学部を卒業すると言う条件もそうでしょう。

弁護士はどうでしょうか。

昔は、一次試験が学力テストで、大卒者などは免除されて、二次試験からでした。

そんな風に、大卒や専門学校などに在籍していなければ、試験だけ合格しても資格がもらえないですね。

じゃあ、介護福祉士ってどうなのか。

よく試験の難易度を偏差値などで紹介しているサイトってありますよね。

「簡単」とか「普通に対策すれば合格できる」とか。

でも、もっと大切なことが、その「受験資格」です。

介護福祉士の場合、以前は専門学校などを卒業すると「もらえる資格」でした。

なぜなら、卒業するくらい学習していたら、間違いなく試験に合格できたからでしょう。

しかしある時から、「卒業」は「実務経験」と言う尺度に変わり、卒業していない人は介護施設で3年以上勤務することで受験資格を得られます。

言い換えると、「介護福祉士です!」と名乗る人は、どこかの専門学校を出たか、施設で3年以上働いていた人ということです。

試験の難易度については、若い人や記憶力に不安がない人であれば、集中すれば1ヶ月でも十分に合格できるでしょう。

一方で、こみちが来年の試験でも確実に合格できると思えるには、半年くらいの期間が欲しいです。

というのも、試験を終えて、結果的に合格していたというレベルならもう少し期間は短くても大丈夫だと思います。

でも100回受けて100回合格できるくらい確実となると、それくらい準備しておきたいということです。

介護職員という仕事

まだ一回も介護職員として働いたことがないという人は、介護の仕事がどのようなものかイメージできないかもしれません。

事実、こみち自身がそうでした。

とは言え、こみちは仕事に就く前に、実務者研修という介護福祉士を受験するために必須の講習を済ませていて、主に知識として介護業界がどう進もうとしているのかを学んでいました。

少し言えば、ケアマネがケアプランと呼ばれる計画書を作り、そこには医師や看護師の意見、もちろん本人や家族の思いなども聞き、今後の活動を計画書として作ります。

例えば、介護施設でお世話になっても「のんびりと暮らしたい」と思いを託すこともできるのです。

一方で、リハビリを頑張って家に戻れる生活を目指すということもケアプランに盛り込めます。

ということは、現場で働く介護職員は、個々の方のケアプランを理解し、それ沿ってスタッフとして動かなければいけません。

「今日はお風呂に入りたくない」と言った人にどう接すればいいのでしょうか。

「ダメです!」なのか、「やめておきますか? 次回は二日後ですけど…」なのか。

施設にもいろんなタイプがあって、計画通りに利用者がメニューをこなすことを重視する場合もあれば、利用者の心地よさを尊重して一歩下がって接する場合もあります。

その違いはどこにあるのかというと、もちろん施設長の考えもありますが、こみちが経験として思うのはスタッフの人数と利用者の人数の割合が大きく影響しています。

当然ながら、利益を考えるとスタッフの人数は多過ぎないことが重要です。

夜間、スタッフ一人で利用者20人から30人くらいを担当することも珍しくありません。

一人の体調が急変した場合は、まだマニュアルに沿って対応可能ですが、二人三人となれば、お手上げです。

そんな場合、いくつかのグループがあって、応援を頼んでしのぐのですが、夜間勤務が回ってくると別グループの夜勤担当者が誰なのか気になるのも事実です。

場合によれば、助けを求められないことも起こり得るからです。

つまり、スタッフとしては個々の意向に応じる余裕がそもそもありません。

朝、別のスタッフが出勤するまで、どうかみんな無事でいてくださいと思うのが本音です。

では日中の時間帯はどうでしょうか。

朝昼晩と提供される食事の時間を、利用者の好みで選べたら嬉しいですが、あっちでは食事でこっちでは別のことをしているという状況にスタッフの手が回るのかということ。

もちろん人件費を高く設定し、利用者に請求される金額をアップすれば、それこそ自由気ままでも十分に対応できます。

ざっくりとした目安を挙げるなら、施設選びは利用金額の他、提供される食事の内容、さらにそこで働くスタッフの人数もポイントになります。

3度の食事を弁当形式にすれば、弁当を配るだけで仕事は済みます。

一方で、食事をスタッフが担当するなら、調理の技量も必要ですし、大人数の食事を作る経験も問われます。

味付けも同様で、塩分濃度が高いのは避けたいなど、いろんな制約の中で対応するのはまた経験を要します。

弁当形式なら一人でもできますが、やっぱり調理までとなると簡単な味噌汁だけという場合でも調理開始から後片付けまで含めて15分で作るのはかなりの慣れが必要でしょう。

はっきりと言ってしまえば、弁当形式でも調理形式でも、介護スタッフの受け取る単価給はほとんど変わりません。

やりがいを求めて、それこそいろんな経験ができる施設で働くのもありなら、決まった作業だけをする働き方も同じ介護職員です。

こみちの場合は、限られた人数の利用者により細やかなサービスを提供する部署で、一般的な介護サービスはもちろんですが、少人数ゆえに個々の性格も熟知できて、家族に近い感覚で持て成すことができました。

3年の勤務期間中に、何人かとのお別れもしましたが、その意味では家族にもしっかりと報告できるだけの仕事を全うできたと思います。

現場仕事が多忙すぎると、気になっていてもスケジュールによって組み込まれた業務があるので、様子を見に行くことも簡単にはできない施設もあるでしょう。

その意味では、スタッフが連携し、しっかりと役割を果たせるだけのやりがいもありました。

しかし、異業種の相場と比較すれば、介護職員の給料はまだまだ十分とは言えません。

年末年始も大型連休も、自由に取れたりはしないので、スタッフ間でやりくりして休みをもらうというのが本音です。

年末年始で言えば、正月を休みにするなら、大晦日は出勤でしょうし、その二日を休むなら、前後は連勤しなければバランスが取れません。

しかも大晦日に夜勤担当し、よく正月の午前中まで働く人が毎年何人かいます。

去年役目を果たせば、今年は外れ、来年はまた担当が回ってくるという感じで、介護スタッフとして働くと、一般的な仕事以上にプライベートが他人と合わせ難くなりなります。

また同じ職場で働く人と時間を合わせるのも大変で、日勤だけというような働き方をするなら不可能ではありませんが、早番から遅番、夜勤までを担当すると、誰かと出掛ける約束をしたいなら翌月分で合わせるくらいでないと難しいのが本音です。

年齢不問という募集要項

中高年の方々で、これまでいろんな社会経験をしている方は、年齢不問の介護職員などいかがでしょうか。

正社員(常勤スタッフ)以外にもパート勤務などを設定している施設も多く、何より年齢や経験を問わないことも多いので、介護スタッフとして働くことは割とできるでしょう。

さらに、友だちと遊びに行くというような予定が頻繁ではないなら、時間帯が勤務ごとに変わっても対応できるのはポイントです。

未経験で働き始めると、国家資格ではありませんが初任者研修という研修を無料で受講できたりもするので、介護福祉士同様の知識までは問われませんが、方向性が掴めるので3年頑張って介護福祉士まで取得を目指してみるのも目標としてありです。

今だから介護業界に戻りたい!?

現役の時に担当させていただいた利用者を思い出すと、貴重な時間を過ごさせてもらえたと改めて思います。

しかし、そんな方々の多くを送り出して、また介護業界に戻り、時には当時とは異なる方法で介護サービスを行う職場に入りたいかと自問すると、もう一度とは簡単に言い出せません。

週に一回、しかも日勤帯の長くない勤務ならまだしもですが、たくさんあるスケジュールを漏れなく処理するのは簡単ではありません。

いい施設に巡り会えれば、スタッフ同士も仲良くできますし、利用者との関係も友好的です。

個人的な働きたいという段階では、そこまでの巡り合わせが分からないので、とにかく施設見学をして、雰囲気を実際に確かめてみることです。

こみちも当時、何軒か施設を回りいろんな比較をして決めました。

中にはスタッフ同士の派閥で、殺伐としている施設もあったりで、見学して通り一遍のことを話して断ったケースもあります。

自身の老後を考える意味でも、介護スタッフとして働いてみるのはとても有益な経験にもなります。

興味はあるけど、未経験でも大丈夫かなぁと思っている人は、一度施設見学をしてみるといいですよ。

今日は介護業界に戻りたいのかというテーマで好き勝手なことを話してみました。

介護士の仕事を理解していますか?

 中高年におすすめしたい介護士の仕事

介護士と言っても、勤務する介護施設によってかなり仕事内容が異なります。

初めて介護士として働くのであれば、特養ホームや老健、デイサービスなどがおすすめです。

その理由は、先輩介護士と一緒に働けるので、初任者研修などでは学ぶことが難しい「現場力」が身につくからです。

先ずは、現場で3年以上勤務し、国家資格でもある介護福祉士の資格取得を目指しましょう。

介護福祉士の資格試験は毎年1月末の日曜日に実施されます。

その合格の目安は、全125問の出題に6割以上の正解が求められますが、心配は必要ありません。

現場経験を3年以上積み重ねれば、それだけで既に5割前後の問題に正解できるからです。

つまり、残り1割から2割分をどう上乗せできるかがポイントになります。

例えば、特養ホームなどに勤務すると、日常の勤務で医師や看護師と密に仕事をする機会は多くないかもしれません。

つまり、利用者に対して医療従事者が何をどう関わるのか知ることも少ないでしょう。

一方で、病院内の介護スタッフとして働くような場合、日頃から医師、看護師の仕事を見聞きできるので、医療と介護の連携や役割の違いをより実感しやすいでしょう。

介護福祉士の試験に関しては、一部医療に関する内容が問われます。

しかしながら、医師や看護師に求められる知識を追ってしまうと、知識量が膨大なのでそれこそ学習効率が低下します。

試験で求められる意図を理解し、介護サービスの前提として問われる「医療」なのだと考えましょう。

このように、勤務した介護施設によっては、問われる試験内容と重ならない部分もあるので、そこを重点的に補うだけでも、残り1割から2割を賄えるはずです。

介護福祉士になると、そこからさらに経験を重ねて、ケアマネジャーという資格にも挑戦できます。

ケアマネとも言われますが、介護スタッフが利用者と関わりさまざまなサービスを提供しますが、そのサービス内容を「計画(ケアプラン)」としてまとめるのが主な役割です。

その人の性格や心身状態、家族の支援など、実際には施設入所された方々もいろんな背景を持っていて、それは機会的に判断できるものではありません。

そこで、先ずは現場経験を重ねて介護福祉士となり、さらに今度はどのような介護サービスが求められるのかを意識し、ケアマネになることで、今度は利用者とその周辺の事情を踏まえた役割へと移行します。

中には、ケアマネだけを業務とする人もいれば、ケアマネを続けながら現場スタッフとしても働く人がいます。

未経験からスタートし、ケアマネになるまでは最低でも8年以上の時間を要します。

介護福祉士になるのに3年、そこからケアマネの任命資格を得るのに5年が必要だからです。

親の介護を経験して

こみちは今後のためにも両親との同居を始めました。

実際に同居すると、互いの生活スピードがあまりに違っていて、ストレスが溜まります。

日に何度も「なぜ?」と思うようなことが起こり、それは子どもに対する感覚とは異なります。

できなくても仕方ないと思うことがなかなか難しいからです。

育ててくれた「親」を、「できなくても仕方ない」と見切れない部分があります。

例えば、父親は時々トイレの便座を濡らしてしまいます。

母親は同じ物を何度も買って来たり、間違いでも繰り返してしまいます。

それを指摘しても、一方的に言い訳が始まるので、本当に必要なこと以外は自由に任せます。

そうしなければ、こちらの精神が参ってしまうからです。

ある意味では、介護士として働く時以上に、こだわりが出てしまうので、程よい距離感が保てません。

中高年の人には

ぜひ、介護士として働いて欲しいと思います。

どっぷりと関わらないにしても、介護施設の業務を知ることで、自身が老いた時のイメージができるからです。

やはり健康が大切だと感じるでしょうし、仕事を続けることの効果にも理解ができるはずです。

そんな意識で、介護スタッフという働き方を候補に入れてはいかがでしょうか。



それ卑屈!?でも「人間の真理」でしょう?

 介護士に向いている人材とは?

どんな職業であっても、しっかりニーズを見出せば需要は見つかります。

ただ現実的に、モデルや歌手になれるのは、業界にあまり関心がない我々が想像するような条件があって、それを満たしていると夢が叶いやすいのも事実でしょう。

クリエイターの中にも、適正や条件があって、トップクリエイターになれるのは「大衆性」に目を向けることができた人だったりします。

これも日ごろからクリエイターになりたいと思わない人は感じ難いことですが、「自身の世界観」とか「独自性」が強すぎると「プロ」にはなれますが「トップ」にはなれないのです。

実際に、ミュージシャンの音楽性がメジャーになって変化し、熱烈なファンの中には初期の音楽性が好きだという人がいたりするのも、「大衆性」が関係していると思います。

では、介護士に向いている人ってどんな人でしょうか。

こみち自身、考え方や人生のステージの違いで、双方にメリットが見出せる関係が存在することを理解しているつもりですが、総じてプラマイ「0」という認識です。

意識として、苦労や面倒を感じていなくても、肉体的精神的に「負荷」をかけないと、「うま味」を作ることはできません。

つまり、3分で作れる料理には3分の価値があって、2時間の料理には2時間分の価値があるということです。

もう少し触れると、プロの料理人は2時間掛けた価値を見出せますが、こみちのような素人が作る場合、時間と出来が一致せず、掛けた労力の大半を無駄にします。

世間ではこの段階を「見習い」とか「半人前」と呼びますが、「一人前」になってから初めて価値観見出せる段階になることも理解するべきでしょう。

3分の料理をイメージした時に、「レンチンで作れる料理」を想像する人もいれば、既に下ごしらえしてある食材が準備されていて、それを使ってどう仕上げるのかを3分で済ませるのとでは結果が異なります。

この違いが見習いと一人前の差でもあります。

つまり、介護士向いている人とは、業務で行う一連の作業を人並みにできるところから判断されるということです。

「一週間で大体の作業ができる」ということで、適正など分かりません。

理解が遅いから早いかよりも、他人から見て「一人前」と認められた後に、どんな信念で介護業界と関わるのかの内容で「適正の有無」が分かるのです。

こみちは介護福祉士の有資格者です。

介護福祉士は国家資格の一つで、医師や看護師などと比較すると取得は簡単ですが、実務経験から取得を目指す場合、3年以上の在籍と540日以上の勤務実績が必須になります。

つまり、有能な人でも3年を費やさないと取得できない点で、介護福祉士の資格は人を選びます。

初任者研修のように早ければ2ヶ月で取得できる「研修」と異なる部分でしょう。

心が優しいから介護士向いているという前に、3年間介護施設で働ける資質がなければ、「適正」を判断する段階にもならないということです。

介護業界の利益は介護報酬である税金がベースです。

制度上、頑張ってから増額されるというものではありません。

つまり、「良い介護」を掲げた時に、時間や手間を費やしても、その大半が「サービス精神」の範疇です。

だとしたら、一回で済むことは一回で済ませないと、それを二度と三度に分けては余分なコストになってしまいます。

芋洗いのように、高齢者を次々に入浴させる介護を見て、「もっとゆっくり入浴させてあげたい」と考えることが経験者の中にいないのは、その分の人件費を捻出できないからです。

言い換えれば、より良い介護サービスを考える人は、介護の方法ではなく、異業種でもいいので介護事業に充てられる「資金源」を見つけることです。

ある意味、異業種で得た利益の中から、社会福祉事業として介護事業を運営するような人でなければ、そもそも介護サービスを向上させられる立場にはいません。

では、こみちのような一般人に限ったとして、どんな人が介護士に向いているでしょうか。

それはズバリ、「相手の自尊心」を大切にできる人です。

自分がした方が早くてキレイでも、相手に説明し時間を費やしてでも「達成感」や「満足感」を満たせるようにサブに回れる人です。

何度も同じことをしてしまう高齢者も少なくありません。

でもそこで怒ってしまう気持ちも理解できますが、それでは介護にはなりません。

自身の仕事を半分の時間で終えて、その空き時間でそんな高齢者にどれだけ「満足感」を与えられるかが介護だと思います。

それはつまり、自身の能力をフルパワーで発揮しなければいけないことでもあり、介護士が疲労してしまう原因でもあります。

つまり、そうしても精神的に疲れを解消できるメンタルが必須です。

介護業界が難しい業務だと思う理由として、異業種での利益確保や人材育成のコストが大きいことも挙げられます。

なぜなら、本当に介護士ができる人は、異業種でもっと稼げるポテンシャルがあるからです。

相手に満足感を与えられるので、営業職などでその能力が活かせるでしょう。

また、介護業務では歌やダンスなどもあり、少し意識を変えればYouTube などもできるはずです。

でもあえて「介護士」という選択をするのは、誰かに「役立つ仕事」として考えるからでしょう。


5年後を予測して働き方を変えてみる!?

 もう国内情勢だけでは決められない!?

昭和時代に生まれ育ったこみちや、同世代の中高年の方は、そろそろ人生の終盤も感じはじめ、でもこの先の老後や暮らし方に不安を感じていませんか。

こみち自身も両親との同居で、親の介護もあり、既に不安な気持ちでいっぱいです。

介護士としての経験と実際に高齢者の両親を間にあたりにして言えるのは、加齢によって機能低下が起こっても、本人にその自覚や意識は薄いということ。

つまり、「できていないよ!」と指摘されて、「ごめん。気をつけるね!」という答えはかなり後からのことです。

なぜなら、加齢によって目や耳が衰えるということは、感覚や思考力も同様に低下して、本人としてはいつも通りのつもりでも、よく見ると至るところでミスが出るからです。

こみち家で言えば、ほど父親が朝から晩までテレビを観て何もしないのですが、もう少し説明すると「何もしない」のではなく、「していることにメリットが少ない」のです。

思いつきで掃除機をかけるのもその前に家族の誰かがしていたり、何度もよいしょをしてゴミ出ししてもらったり、とにかく、「お願いする手間」がとても大変です。

食器洗いもしてくれますが、家族全員分だと嫌がり、せいぜい自分の食器だけという有様なのです。

実際、高齢の介護施設でも、入所者に決まったノルマを設けることはありません。

洗濯ものを畳んでもらうなど、仕事を手伝うという意味ではなく、その人の機能維持を目的に家事によるリハビリをしているという感じです。

その意味では、もう家にこそいますが、父親も入所者と変わらない状況で、「どうしてできないの?」と強く責めても、思うような反応も期待できません。

さらに言えば、今後も日本国内の高齢者がより増加するということは、そんな介護業界に多くの人材が必要になります。

また、若い世代、次世代の労働者が減っていることもあって、今の日本で当たり前のサービスやビジネスが維持されない可能性は十分にあるでしょう。

もう少し触れると、今後は来日外国人との関わりが増し、本格的にグローバルな社会の中で我々も生きることになります。

具体的には、日本人特有の態度や言い回しが誤解やトラブルを生み、もっとはっきりと意識表情することが求められるでしょう。

当然ですが、柔らかい言い回しで伝わっていた場面でも、「できません」「無理です」というような言葉が増えて、感覚がより明瞭になります。

「そんな風に言わなくても…」

慣れない人には、冷たく、きつく感じることが増えますが、ある意味では日本の文化や言語の良さがさらに見直される時代になってきるでしょう。

5年後の日本国内は

近年の円安傾向が与える5年後の日本国内は、経済的な勢いが見越せないままインフレ状態が続きます。

海外からの原材料が値上がりすると、やがて100%国内生産の商品も値上がりしていきます。

日用品のような身近なものが高くなり、生活費を圧迫するでしょう。

その意味では、「稼ぐ」ということがよりシビアになり、でもインフレを加速させないために金利が上昇すると、さらに雇用や設備投資、新規事業が鈍化するので、賃金上昇はさらに期待できないことになります。

未来は悪いことばかりなのか?

ここからがポイントです。

絶対に意識して欲しいのは、自分のしていることがより効果的になる方法を模索することです。

ありがちな例を挙げると「副業」とか「起業」などですが、ポイントは段階を踏んで理想の形を目指すことです。

例えば、今は何も得意なものがない人は、介護業界で3年を費やし、介護福祉士の国家資格を取得しましょう。

その後、あるあるはケアマネを目指すなど介護業界でのステップアップですが、その選択肢の前に、今後も「高齢者介護の国内需要が増える」という状況で、介護経験をどう活かせるのかを考えます。

実際に介護スタッフとして働いてみると、もちろんその仕事を担う人がいることで、支援を必要としている高齢者は助かります。

しかし、自身もまた高齢になる我々が今の高齢者福祉同様のサービスを受けられるとは限りません。

なぜなら、若い世代が圧倒的に少なるなるので、つまり今の介護業界はさらに人出不足や効率的なサービスになり、介護施設に入ったとしても、満足できる老後が待っているとは言い切れません。

だからこそ、3年の介護経験を活かして、そのまま介護業界に残るという選択ばかりではなく、介護予防やシニア世代の健康管理など、介護業界の少し外側で何か活動するという模索もあって良いはずです。

しかしながら、全く介護現場を知らずに、介護ビジネスとして参入しても、昔のように利益にはなりません。

もちろん、経験があっても利益率が高いとは言い切れません。

でも、中高年という我々が今後も末永く健康的な働ける環境づくりをするたまにも、まずは初期投資として介護現場で働いてみることが一歩になります。

介護はどうもなじまいという人は、別の業界でも構いません。

しかし、それを考える時に今後の人材不足や景気の悪化などを条件に入れると、インバウンドを見据えた「外国人向けの観光」などになるでしょう。

つまり、「観光」や「エンターテイメント」に精通し、さらに外国語の習得や文化の理解と、介護以上に学ぶことが多くなり、それこそ個人の資質が問われることになりそうです。


「いい人生」かどうかは最後まで分からない!?

 高齢者介護を通じて

介護施設内でも、フロアごとに担当者が異なったりします。

こみちの場合、他部署のスタッフとあいさつをすることがあっても、それぞれの対応を注意することはありません。

車イスに乗った利用者をどれくらいの速度で押すのかを見ても、結構違います。

でもそこには理由があって、少ないスタッフで多くの利用者を担当しなければいけない時は、安全面を最優先し、必要なポイントを押さえた介護支援に成りがちです。

一方で余裕があると、利用者とたわいないことでも会話をし、最初と最後にも時間を掛けて、できる限り温かい対応を目指せます。

そもそもスタッフにそんな気持ちがなければできませんが、施設側のスケジュール管理や人材の配置によっても大きく影響する部分です。

つまり、利用料金や施設の豪華さでは判断できない「心地よさ」は、実際に生活してみないと分からないこともたくさんあります。

70代後半にもなると…

加齢の影響が現れて、例えば歩行に困るということもあるでしょう。

特に歩行能力は自宅での生活を決定するもので、立ち上がれなくなると家族の負担が一気に増します。

そこで、介護施設の利用が必要になれば、介護認定というその人の介護度合いを調べます。

それはお住まいの自治体(市区町村役場の福祉課など)に申す出ると、後日担当者が家に来て認定が開始されます。

在宅で行うのは、住んでいる環境も重要だからで、急な階段があるとか、広いトイレや浴室があると、家での介護がしやすいなど、確認するためです。

場合によっては、ヘルパーを家に招いて介護してもらうことが良いかもしれませんし、安全性を考えて施設利用を勧められるかもしれません。

人生は最後まで分からない!?

70代まで順調な人生だとしても、介護が必要になった時に思うような支援が受けられないと本人も家族も苦労します。

担当する相談員、ケアマネ、実際に支援してくれる介護士など、いろんなタイプの方々が関わるので、どこかで思うようにならないこともあるでしょう。

やはり自分の事を自分で決められることが、人間は大切だと気づくでしょうし、介護とは段々と受け身になり相手に任せて従うしかなくなります。

介護士などは、自立支援という考え方を学び、できる限り利用者目線を目指していますが、それでも考え方や意識に差が生まれますし、勤務する介護施設の方針によっても違います。



高齢者介護で「リハビリ」とは何か?

 入所3ヶ月を超えた利用者で…

介護施設では高齢者向けのリハビリを実施しています。

介護スタッフによる生活リハビリと、理学・作業療法士のよるリハビリがあります。

まだ介護スタッフになったばかりの頃、理学療法士でもあった施設長に質問したことがありました。

「高齢者のリハビリで、どれくらいの方が以前の生活を取り戻せるのでしょうか?」と。

その時の答えは、リハビリの目的は回復ばかりではなく、残存機能の維持でもあるというもの。

「そうなんですね」と話を理解したものの、実際に現状を知ったのは介護スタッフとして半年が経過した頃でした。

その理由は、入所して3ヶ月が過ぎた利用者の中に、施設を移転した人はいても、自宅に戻った人は少数派です。

特に戻れるか否かの部分では、利用者の健康状態よりも家族の受け入れや住宅改修などが原因です。

つまり、家族構成的に在宅復帰できない場合、リハビリの回復状況とは別に施設での生活が続くのです。

結果として、3ヶ月以上施設で生活しているケースでは、様々な理由から自宅に戻る可能性は少なく、自宅に戻れる前提での入所ではリハビリもより生活に則した内容で行われます。

理学療法士などの機能回復訓練士となっても…

介護スタッフを経験し、看護師や理学療法士などの学校に通い直す方がいました。

同じ高齢者介護に関わる仕事でも、役割が異なります。

特に機能回復訓練士と呼ばれる方々は、介護職よりも高待遇ですし、夜勤などもありませんから、働きやすいと思います。

一方で、先に紹介したように、リハビリを介して目標として掲げていた独歩ができたとしても、利用者が在宅復帰できる訳ではありません。

つまり、目標を達成しても、そこから何かが始まる訳ではないので、それこそ入所する段階で家族の受け入れ意思を確認しておかないと訓練士の役割は半減してしまうでしょう。

ケアマネや社会福祉士の有資格者が、施設では家族との連絡を担うので、担当者が明確に流れを確認していないと、利用者はリハビリの成果とは無関係に施設での生活が続きます。

それこそ、最終的な住処として考える特別養護老人ホームであれば、リハビリでの成果よりも、自分らしく暮らすことを目標にするべきでしょう。

一方で、リハビリを通じて在宅復帰を目指す介護老人保健施設のような施設では、ケアプランの在り方次第で訓練士のやりがいを損なわせてしまいます。

目安として、自力でのトイレができるレベルとなる要介護3くらいでは、家族による支援ではどうしても苦労が多く、その意味では「歩ける」だけでなく、日常生活動作ができないと在宅復帰は一時的になってしまうでしょう。

実際、介護予防がどれだけ大切なのかが分かるのですが、加齢による生活の不便を感じた段階からリハビリを開始することが重要で、完全に支障が生じた段階になると、もうリハビリの目的がかなり薄れてしまいます。

しかし、こみちの家でもそうですが、足腰が弱くなった父親などは、家事を頑張ろうとしません。

年代もあると思いますが、同じように老いた母親が苦労していても、手伝おうとせずに夕方から夕飯ができるまで仮眠をし、食事を済ませて眠くなるまでテレビを鑑賞する生活を続けてしまいます。

足腰のためにダイエットを勧めたこともありましたが、結局は実行されないまま太ってお腹だけ大きくなってしまいました。

もちろんそんな生活から、本当にリハビリが必要になっても、もう在宅で介護はできないと思いますし、もしも重い父親の介護を母親が担って腰でも痛めたら、両親揃って施設になってしまいます。

理想もありますが、生きるのは本人なので、その意味では今を自由に生きることで、人生を悔なく生きてもらうしかありません。