気持ちが落ちても「助けて」とは言えない話

 虚しい気持ち

日中、あることで落ち込みました。

それは誰が悪いとかではなく、自分に対してガッカリだったと言うこと。

でもそれが現実なので、ガッカリでも受け止めるしかありません。

妻に「助けて」と言いたくなったけれど、妻だってそんなことを聞かされて心配になるだけです。

夕方、いつもの時刻にキッチンに立ちました。

リビングには寝転んで居眠りする父親と別の部屋でバタンバタンと大きな物音を立てている母親がいます。

以前も話ましたが、両親は自分基準でしか判断できない人なので、例えば「辛いんだけど」と言っても「それは大変だね」と言ってくれても、「辛さ」を理解することはできません。

こみちが料理を作り始めて、父親はリビングにあるカーテンを二ヶ所閉めました。

父親の感覚で、家族の夕飯を作る手間とカーテンを閉める手間は同等です。

だから、「料理なんて作りたくない!」と言っても、その負担の違いに気づくのではなく、「作らなければいい」と言うのです。

その言葉に従っても、父親は丸まってただ助けが来るのを待つしかできない人。

一緒に待っていても、ここに料理できるのは妻しかいません。

でもそこに負担は掛けられないので、どうにか頑張るしかありません。

明日の朝、朝食用のカット野菜を母親はまた買っていません。

毎日、買い物にって、弁当やパン、ジュースなどは買い忘れないのに、何故か必要な野菜は忘れます。

決まりごとなら、それに従って行動したい性格のこみちにとって、母親のそんないい加減さはストレスです。

それだけではなくて、日常生活のいろんな部分で似たようなことがあって、いつも騙し騙し予定をこなします。

楽できる部分を両親が先に奪ってしまうので、感覚的に「やるしかない」と言う重い気分なのです。

本当にできない人たちなので、でもできないことを理解していないので、困るんです。

料理をこみちが作るのは、もう母親ではまともに作れないから。

でも母親の頭では別の変換に変わっていて、わざわざキッチンを空けてあげていると言う感じ。

だから作ってもありがとうとも美味しかったとも言いません。

当たり前に食べて、当たり前に残して、その残された料理をこみちたちが食べるのです。

時に日中に買った菓子パンを両親が先に食べるので2時間以上も待っていて、「お腹空いたでしょう? 食べれば!?」っと。

作り立ては当たり前に両親が食べる。

しかも、温かい内に食べるのでもなくて、自分たちのペースで食べる。

考えても分かりますが、2時間も経過した料理って、レンチンしてもそう美味しくありません。

作ったのに、そんな料理しか食べられないんです。

心が疲れて落ち込んでいる時、そんなことでさらに心が傷つきます。

でも、誰にも言えません。

妻には心配させたくないし、両親はそれを理解できない人たちだからです。