論理的思考
例えば「生卵が縦に立つのか?」を肯定的に論じたいと思ったとしよう。
「立たない」を立証することで、「立つ」を結論づけたいわけだから、100回、いや1万回のチャレンジで1回でも立てばいいということ。
別の視点で、空中という条件なのか、温めることは許されないのか、回転や振動を加えることはできないか。
つまり、1回の成功を目指すために、思いつくアイデアをたくさん出した。
一方で否定的な立場であるなら、「概ね」という言葉を使うことができる。
肯定的な立場の人が、1万回のチャレンジで成功したとする。
その時に「今、目の前でできますか?」と質問する。
「今すぐは難しいが、成功した時の映像がある」と続けた。
そんな時は、「生成AIがある時代ですよ。映像が本物かどうか…」という指摘がある。
ひと昔前なら、写真や動画が証拠になっていただろう。
しかし、今の時代においては、疑わしいものへとなってしまう。
論破という言葉がある。
肯定的な立場が否定的な立場を論理的に優位になる。または両者の立場が入れ替わった時。
いずれにしても、100%言い切れないテーマで「優位性」を争うのだから、テーマではなく論理的」なポイントを守れるかどうかに尽きる。
「生卵が立つかどうか?」
立たせるのが難しいとして、肯定的な立場の人が否定的な立場の人に「まず立ててみようとしてください」というスタンスから始める。
「上手くできません」と返事があったら、「立つとは重心と接点の位置関係だから、中身が揺れやすい生卵だったとしても理論的に立つはずです。できないとすれば、その位置関係に合わせられないからなので、今できないと言ったのは「立たない」ではなく「立たせられない」ということです」と。
そこで嗚呼なるほどと思ってはいけない。
あくまでも「理論」ではなく、現実の話を討論しているので、それを言ったら「永遠に立ち続けると言えますか?」と「立ち続ける」終わりがない話にすり替えることになる。
「そんなことを言ったら、何でも立ちませんよ」とでも言ってもらえたら、「でしょう。だから立たないと言ったのです」で終わる。
経験や感覚、時間のような不確定な要素が加わると、立証するのが困難になってしまう。
圧倒的に負けている時でも、「個人差があるでしょう」と加えられたら、結論は曖昧になってしまいます。
「高齢者介護」と論理的思考
聞こえない。理解できない。
老化によって現役の時とは明らかに異なる反応があります。
例えば、食べたものをテーブルに置いたままにする。
「まだ片付けてないよ」と指摘すると、「まだ片付けていないからね」と返事が来る。
「だから、片付けてよ」と言えば、「急ぐなら片づけて」と言い返される。
例えば、放置することにしたら、家中のあちこちに中途半端なものが増えてしまう。
かと言って片づけてしまえば、結局は片してくれないままだ。
勝ち負けというのは双方が理解出来るから成り立つもので、一方が理解できないとその人は同じことを繰り返す。
ダメだと言っても、結局は先の例と同じで、まだできていないとか、代わりにしてというだけで、同じようなことが起こる。
こみち家でもあったことだけど、家族会議で話し合っても、分担を遂行できないから、結局は「できてないよ」と言って「まだしていないからね」というパターンは変わらない。
だからもう家族会議をする意味もなく、できないまま放置されたり、でしゃばって余計なことまで始めても、ギリギリまで手を出さないことくらいしかできない。
もっと前にしていれば、簡単だったとしても、ギリギリで選択肢がなくなったとしても、そこにイラついてもどうにもならないのが高齢者介護なんだと思う。
もちろん高齢者でも出来る人は大勢いて、でも彼らは「介護」を必要としていない。
でも必要としている人の中には、自分が介護されていることに気づかなかったり、気づいてもうしろめたいと思わなかったりする人もいる。
こみちの両親なんて、「お願いだから、面倒にしないで」と頼んでも、翌日には元のままになってしまう。
頼んでも反映されることはなく、やりっぱなし、しっぱなしのままになっている。
しかも「家族なんだから」っと、感謝も口にしないし、頭を下げることもしない。
できないまま放置して、それを時間や労力を使って片しても、そこに感謝しないのだから、話し合うなんてもう難しいだろう。
論理的思考な解決策は、そんな親と距離を取るしかなくて、在宅で介護する限り、意見の相違やイライラを防ぐことも難しい。
まだ親の介護が始まっていない世代で論理的思考に精通しても、親の介護が始まれば、もう理屈は一切通用しないことを知るだろう。
と言うのも、親は親で、子どもとは異なる時代に生きてきた人。
だから常識も違うし、感覚も違う。
まだ初期の頃、「思っていることがあるなら話して欲しい」と意見求めたけれど、意外と何も言ってくれなくて、結論は理由もなく「いや」と言う感じだった。
つまり妥協点を擦り合わせるようなことも難しく、できるかできないかしか選べない。
もうアドバイスや歩み寄りも意味がなくて、できないことで重要なことはするしかないし、それほど重要ではないことは放置すると言うようなルール決めしか選べなかった。
なので、映画とかドラマ、小説に興味が薄れてしまった。
なぜって、思考しても結局は結果が選択できなくて、突っぱねるか受け入れるかしかなくて、突っぱねると父親はただただテレビの前で丸まっているだろうし、母親はなりふり構わずに動き回るだろう。
そうなった時に「もう支えられません」と言うか、黙ってケツを拭くかしかないので、論理的思考もここでは無力に思ってしまう。