思考が超越すると何が起こるのか?と言う話

 思考のプロセス

例えば何かを考える時に(抱えているプロジェクトを滞りなく進めて行きたい)として、現状の把握や関係者との意思疎通、もしかするとそもそもの話として目標や目的にどう近づけるかを考えているかもしれません。

その時、例えば納期の日になって、「コストが高すぎる!」とクレームが入ったらどうでしょうか?

もちろん事前に予算が決められていて、材料費や人件費などを試算してコスト内で収めたのに…。

「それ、今になって言いますか?」

と言う話です。

問題は、思考のプロセスがどんなに優れていたとしても、最初の部分(例で言うコスト)が覆されてしまうとそもそもプロジェクトの評価は良いものにはならないでしょう。

「冒頭」が変わることで、思考のプロセスは意味あるものにもならないものにも変わることがあります。

「お金持ち」になりたい!

お金持ちになれば、欲しいと思ったものを躊躇なく買うことができます。

だから、「お金持ちになりたい!」と言う目標を掲げるのも自然なことです。

しかし考えてみると、資産があることが周囲にバレてしまうとそれはそれで面倒なこともありそうです。

今までの普通の生活が奪われてしまっては、折角のお金持ちも本末転倒です。

つまり、これが最初に例として挙げた思考のプロセスの具体例で、「お金持ち」と言うメリットを手に入れたら、別の部分では今まで大丈夫だったことが新たに心配になることもあると言う話です。

同じことが有名人にも言えて、確かに知名度のある人になれる喜びもあれば、ふと気を抜きたい時も顔がバレているのでそうもしてられない。

人気者になればなるだけ、それまでの普通は失われてしまいます。

思考の超越が起こる!?

目標や目的を立てて、それを叶えるために思考する。

確かに目指す結果になった一方で、それによって別の何かも加わってしまう。

「それでもお金持ちになりたいですか?」

何でも買える良さもあるけれど、一方で今の日常生活が不便になるのも考えもの。

つまり、儲け話に飛びつけば目標が達成されるのではなく、絶対に奪われてはいけないこともあるのです。

多分それが「自分」と言う価値。

職場で、仕事ができる経験者と格好はいいけど仕事ができない人がいて、最初こそ互いに「〇〇さん」と呼び合います。

しかし、仕事が始まって実際の経験や知識、技術が分かってくると、自然に経験者は「〇〇さん、これお願いできる?」と経験不足な人に仕事を振るようになります。

上手くできなければ、「こうすると良いかも!」とアドバイスもし始めて、気づけば「〇〇さん」呼びが「〇〇ちゃん」のような親しみある愛称に変わっているかもしれません。

どんな分野でも、業界でも一人前になってしまえば、仕事も責任持って受けられますが、そこまで到達していなければ、年齢がどうであっても職場での立場は下のままです。

下だから悪いと言うことではなく、教えられる立場故に、良いところも発揮されないということが起こります。

実はとても器用だったり、真面目だったりしても、一人前になっていなければ、結局は誰かの指示を待つしかありませんし、良い方法を思いついてもそれが採用されるかは上司次第です。

だからこそ、何でも一人前になるまでは頑張った方がいいと言うことです。

机に座ったらダメなのか?

例えば、ある時に机に座っていたら、その人をどう感じるでしょう。

気にしないかもしれませんし、気になるかもしれません。

では「椅子」との違いは何でしょうか?

「座れればいい」と言う意味では、机でも座って問題ありません。

ポイントは座っていただろう「机」の上で食事したくないと言う気持ちです。

「できればいい」と言う発想をすると、方法と言う考えは必要ありません。

「したい時にする」でもいいからです。

ですが「満足度を感じてしたい」と思うと、プロセスや手段がとても大切です。

腰掛けるなら「椅子」ですし、書き物や食事には「机」を使いたいからです。

感情の大きさ

「怖かった」と言っても、その怖さを言葉で伝えるのは簡単ではありません。

小説などで物語が描かれますが、読み終えて感情が上手く伝達できれたら、それはとても素晴らしい物語だったでしょう。

それくらい、感情を伝えることは簡単ではなく、まして「怖かった」だけではその度合いを正確には伝え切れません。

思考のプロセスとして、ある感情を伝えるとしても、「そもそも伝わらない」と思ってしまえば、もう話すことも無駄に思えます。

無駄だから全部が不用と言う発想は、潔くも聞こえますが、そうとも限りません。

と言うのは、例えば映画監督がこんな感じの映画を撮りたいと思って撮影が進み、実際に公開されて全く別の感想が返って来たとしましょう。

しかし、それで無駄だったのかと言うとそうではありません。

見た人は別の感情を引き出されたのかもしれませんが、何かを感じたことには変わらないからです。

ある瞬間、100%の感情でも、本人でさえ明日には変わってしまうものなので、そこに何か深い意味を持ち過ぎても仕方ないのです。

思考が超越すると気付いても、それは特別な話ではなく、その上で考えることでいいのです。

シンプルに考えることもいいですし、いろんな見方をして楽しむのもいい。

それだけの話です。