近所で見かけた見知らぬ人の話から

 ふと感じる違和感

駅を出て自宅に帰るまでの道のり。ちょうど、我が家にある区画に踏み込んだ辺りで横切った男性と一瞬だけ視線が合った。

微笑むことも会釈することもできないくらいだったのは、その後ろ姿が想像以上に早足だったからだろう。

ふと感じる違和感。

微かな記憶を思い出しても、あの人を見かけたことはなかった。

大手通販サイトで大規模なリストラが行われている!?

みなさんもよく利用しているだろう大手通販サイトで、大規模なリストラが実施された。

その規模は数千人単位とも言われて、主に単純な繰り返し労働の担い手が対象だったようだ。

倉庫業務というと、手軽に始められるピッキング作業がある。

リストに従って、倉庫内から商品見つけたし、それをコンテナなどに集める作業をする。

一方で、機械化された倉庫では、パレット単位などで管理が行われ、ほとんど自動化された状況で同じ作業が賄えてしまう。

大手通販サイトの場合、どうやら自動化によるリストラということで、その通達は以前から始まり、転職に向けた制度もあったと聞く。

だから、ニュースとしては驚く話でも、現場の労働者たちは適切に準備できる期間が設けられていたのだろう。

日本国内であれば、高校を卒業し、専門学校や大学などに進学し、社会に出るまで数年間を成長期間として準備できる。

その段階では、医師にもなれれば、先生や公務員など、順番を問われることが多い職業にもなれるチャンスがある。

一方で、そのポジションに就くまでの順番が複雑で多い職業は、転職になると諦めるしかないことも多い。

例えば、司法試験は裁判官や検察官、弁護士などになるための必須試験だ。

その内情に詳しい訳ではないけれど、試験合格までに数年間を要し、見事に突破できたとしても、上位の成績優秀者(一回の試験で合格できてしまうような秀才たち)からその後のコースを選ぶという。

周知の事実として裁判官や検察官は公務員という立場で、待遇という意味では社会的にも安定したポジションだろう。

一方で、そんなエリートコースから漏れた形になったら、今度は「学歴社会」に直面する。

国内の大手弁護士事務所には、有名大学を卒業した優秀者たちが若手弁護士として採用される。

有名大学を出ているかいないかの部分が問題なのではなく、「大学生時代」という社会的ポジションを知っているか否かがポイントで、例えば高校を卒業し、コツコツと勉強を続けて、10年掛けて合格したとしても、実際に社会に出て事案を扱う時には社会経験が大きく問われるはずだ。

法律は機械的な当てはめ作業ではないから、そこに至るまでの経緯を社会的にどう判断できるのかがポイントだと思う。

そのためには、弁護士として欠かせないのは、法律理論は必須としても、さらに庶民の暮らしにどれだけ歩み寄れるのかだろう。

ところが、経済的な視点に立つと、一般的にマーケットとなるクライアントは別になることも多い。

むしろ、社会的に助けを求めている人に近づくことは、ビジネスよりも社会的な人助けに近い仕事になるだろう。

ニュースでは「更生の余地がある」とか「故意ではなく過失だった」とか、弁護士による発言には特有の決まり文句があって、資格取得までの厳しい挑戦を突破したはずなのに、自身の求めていた姿とは繋がらないことも増える。

誰かが言っていたけれど、どんな世界でも上位5%に入る人は生き残り、残り95%の中で、それを仕事にしない人は続けることができ、そこにも入らない人は仕事にもできず、続けることもできないまま、結果的に退場するしかなくなるそうだ。

つまり、それを会社で考えると、同期の中で5%に入るトップ集団は仕事を任せてもらい出世していくけれど、残された95%の中で、早々に趣味を生き甲斐にした人は踏み止まることができて、それにも含まれない人は仕事でもプライベートでもどこか満たされないまま生きることになる。

どう生きて行けばいいのか?

「自分の存在って…」

こみちも最近までよく考えていたことだけど、上位5%に入ることはもう不可能だから、それこそ趣味を見つけて、少しでも楽しく生きることしかできない。

これは悲観的になろうということではなく、むしろ現実を知り、生き方を考える時に参考になればと思う。

作業服姿やスーツ姿で、さっきから近所を何度も行き来しているように思える見知らぬ人を見て、ふと違和感を感じてしまう。

その意味では、いかに上位5%に入れるかが重要で、それが難しいと悟ったなら、自分らしく生きる方法を探すことだろう。