ラベル 管理人こみち の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 管理人こみち の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

師走を迎えるというのに、どう生きたらいいんだろう…

 季節は移ろいで行くけれど

いい感じに変化したこともあるけれど、総じてあまりいいことは起きていない。

請負先との距離感など、正にそんな感じがする。

「仕事とは何か?」と考えた時に、効率を考えるのはベースとなる業務が整ってからだと思う。

あまり具体的には書けないけれど、もっとしっかりとした部品を作ってくれたら完成度も上がるのにと思うことがある。

業務の流れ全体を管理する人がいないから部分的な話しかなくて、先日受け取った材料などはかなり酷いものだった。

なぜ酷くなってしまうのかというと、その材料は柔らかく傷つきやすい。

硬い紐で縛って長く放置すると、その跡が残ってしまい、その後に消えない傷になってしまう。

そもそも製造過程で気をつけるようなポイントではなく、扱っている材料がどのようなものなのかをそれぞれがもう少し知っていたら起こり得ないことだ。

傷ついた材料で作っても、歪みがあるとどこかでズレが生じ、最終的な完成度が落ちてしまう。

長期的には売上にも響くだろうし、その会社が儲からなくなれば、当然だが下請けのこみちにも仕事は振られなくなって行く。

不安材料を誰が担保するのか?

都内でアルバイトをすると、時給1000円は確実だろう。

一方で、1時間あたり1000円の利益を出すことは簡単ではない。

つまりバイトに応募し採用された時点で、その企業が「1000円の利益」を担保しなければいけない。

例えばこれが請負だった場合、注文内容が簡単な時も厄介な時も、請負った金額次第で損得が生まれる。

一見簡単な仕事でも、後からいろいろと文句を言われて、その対応に時間を割いてしまえば結果的に割のいい仕事ではなくなる。

つまり、仕事を振られる時点で「不安要素」を含んだまま、見切り発車で請負すると大体後で揉める。

「赤」で仕上げてという話が「青」になってしまえば、やり直すだけではなく、元の色を消すことから始めるので、2倍3倍の面倒くささになる。

いい仕事をして、どちらにとっても喜べる状況を作るにも、不安材料を誰が担保し、それをどの段階で処理するかが問われる。

正直なところ、そんな意識が互いに違い過ぎてしまうと、良い関係は築けないし、場合によっては悪影響にも繋がってしまう。

小銭が手に入るという旨味を捨てられずにいるけれど、仕事としてキープするべきものかと冷静に判断すると微妙にも思える。

2023年も師走を迎える時期が迫り、「どうしよう?」と決断できずにいるけれど、早急に結論を出さなければいけない「不安材料」だ。


『正しさ』を考える前に「目の前」を考える

 『正しさ』を求めるには準備が必要!?

何を持って「正しい」とするのかは別にして、「正しさ」が次の一歩に繋がることは信じていたい。

例えば、カレーを作る時に「カレールー」がないとそもそもカレーにはならない。

同じようなことが世間にもいっぱいあって、「次のステップ」に気づいているからこそ、現状の打破に焦ったりもする。

しかしながら、焦りとは裏腹に改善の見えないことも多く、そこにストレスを感じたり、自暴自棄になったりと信念を貫くことが難しいことに気づく。

今までを振り返って言えるのは、いきなり「正しさ」を求めないことだ。

つまり、理想だけを肯定しても、多くの場合は理想と現実が乖離してしまう。

そして、愚痴や投げやりな行動になってしまい、結局は自身も身動きが取れないまま停滞してしまう。

どうせダメになるのなら、「正しい」を追う前に「環境の改善」「準備」に目を向けてみよう。

完璧な球体のような理想ではなく、少し歪で尖った部分もある現状で、補われていない部分を準備に時間を掛けてフォローするのだ。

いい所はそのままでも評価されるし、結果にも繋がるから、焦って強みを誇示しなくても大丈夫。

つまり、「〇〇でなければ!」という考えは今は要らない。

「準備」が整えば

弱い部分、まだ十分に満たされていない部分に手を加えることは、いろんな意味で大変だ。

何より、旨味だけを摂取する人が出てくる。

でもそれを完全否定したら、自身が思う準備さえ整わないだろう。

極論を言えば、自身の一歩を求めるなら、その一方で納得できないことを丸ごと受け入れるしか方法はない。

それに「準備」さえ整えば、思っている理想に一気に近づけるし、夢が叶うということも起こる。

環境が変化したという実感を得て、さらに次の準備へと取り掛かろう。

周囲の環境が変われば、以前気になっていたいろんなことから解放されて、別の状況に変わっているだろう。

不満を我慢するだけではなく、かと言って不満を全面的に否定してもいけない。

「準備」さえできれば、次に進めると思って、理想のような「正しさ」よりも、目の前のことに目を向けて動いてみよう。

「老化」とは何か? 40歳を超えたら考えるべきこと

 「老化」現象とは何か?

高齢者がレジの支払いで、なかなか小銭を出せずにもたもたしてしまう場面を見ないだろうか。

「もたついてしまう」という行動は、処理速度に関係すると思うけれど、もう少し掘り下げれば「見えなくなっている」とも言える。

「見えない」とは、視覚的に認識しないこともあるが、同時に処理するべき時に片方だけや途中までということも含まれる。

高齢になってからのライフスタイルの見直し

現役時代を終えて、老後生活を迎えた時に、ライフスタイルを見直そうと思っても負担が大きい。

なぜなら、老化現象によって、変化に弱くなっていて、根本的な改善がとても苦手になるからだ。

つまり、人生観や生き甲斐のようなものを、老後になって作り出すのは難しく、現役時代に完結させていないことは、ほとんど後からカバーできないと思った方がいい。

趣味を楽しむにしても、趣味を探す所からでは難しいから、老後生活に入る五年くらい前には少しずつでも始めた方がいいだろう。

特に男性で、これまで料理などの家事を担っていなかった人は、最低でも米を炊いたり、目玉焼きを焼いたりくらいはマスターするべきだし、トイレやお風呂掃除、洗濯物を洗って干して畳むくらいは覚えておかないと、老後になってから部屋がぐちゃぐちゃになる。

片付けの基本は、出した元の場所にしまうということだけど、元の場所が整理されていなければやはり片付けは難しい。

「物を並べる」ことを片付けと誤解すれば、壁沿いに物が置かれて、確かに部屋の中央は何もないけれど、スッキリした生活環境とはちょっと異なる。

なぜなら、整理整頓のために棚や箱を買って、スッキリする環境づくりから見直すのはハードルも高い。

なぜそうなってしまうのかを考えると、例えば家具やインテリアの雑誌を手に取り、「おしゃれに暮らす」とはそもそもどんなことを指し、そのために何を学んで理解を深める必要があるのかという領域まで話が広がらない。

受動的な生活が染み付いてしまうと、食べる物も見るものも不具合に感じることもない。

毎日、何も変わらない生活は、同じ料理を食べ続けるくらい退屈だ。

「変わらないこと」が悪いのか?

質素で倹約した暮らしと「変わらない生活」は全く意味が違う。

例えば、玉子が1つあった時に、目玉焼きという選択肢しかなければ、「変わらない生活」になってしまう。

でも同じ目玉焼きでも、焼き方は様々だし、加えて別の食材も使えば料理名は無限に広がる。

これは整理整頓と同じで、現状の環境で考える前に、棚や箱などを買い揃え、並べるだけではなく、使いやすい収納に目を向けることだ。

何も考えず、適当に棚を買ってしまうと、実際に部屋に置くとサイズが合わなくて、収納しきれない物を脇に置くことになる。

結局は、整理整頓と同じで、料理でも掃除でも趣味でも、段々と考えることが狭くなれば、できることは減るし、中途半端になりやすい。

「変わらない生活」が悪いのではなく、「変わる必要がある生活」をしていることに注意したい。

誰かがフォローして維持できる生活は、一見すると問題ないように見える。

でも、さらに歳を重ねると変化に対応できないから、それこそフォローする量を増やすか、生活の質を落とすしかなくなってしまう。

40歳を迎えたら

社会人一年生は、学生生活を抜けて社会で生きることを学び始める。

半人前と呼ばれる期間を経て、一人前と呼ばれることになるけれど、一人前になるということは、何か責任や義務を果たせる存在という意味だけではなく、変化に対して新たに意識を持つことでもある。

つまり、一人前になったことで、その状況を肯定されたことになる。

しかしながら、段々と年月を経て高齢化すると、体力的にも気力的にも現役時代のようにはことが運ばない。

つまり、一人前として手に入れた物が、どんどん少なくなっていき、若い頃とは違う自分に気づいて来る。

減ったものを取り返すことも大切だけど、絶対に失ってはいけないものと、状況次第で手放しても仕方ないことを早い段階で分けられたら、加齢も怖くはない。

その意識が乏しいまま、老後に生活を大きく見直すことや、大切になる知識や経験、価値観を捨ててしまっても、新たに取り返すのは簡単ではない。

40歳を超えて、会社で責任あるポストを担っていたとしても、例えば会社の看板に助けられていたり、同僚や部下の支えで維持できた部分も多い。

じゃあ、自分だけで考えた時に、どれくらいのことができるだろうか。

それに応じられる知識や経験は身についただろうか。

料理で言う所の「手順」は割と仕事でも覚えられる。

しかし、レシピの開発や食材集めまで含むと、慣れたつもりの作業も実はよく知らない部分が見えてくる。

40歳を超えた頃から、一人前である自分を全面的に肯定するだけでなく、本当は何が分かっていてできるのかをもう一度見直しておきたい。

意外と営業マンの苦労や経理の知識など、仕事と言っても限られた部分だけしか知らないことも多いからだ。

特に老後、どう生きていたいのかを考えることで、現役世代の内に意識することも明確になる。

『月の商人』を読みました!

 「月の商人」を読んで

今、副業が当たり前になり、個人がいくつもの顔を持つことを強いられます。

「私は〇〇です!」

社会人であれば、職種や会社名を名乗ることで、自分は何者なのかを簡単に伝えられたでしょう。

「副業が当たり前になる」とは、全ての人が「商人」になる訳です。

「月の商人」は、正に今の時代に欠かせない一冊かもしれません。

読んでみて、とても良かったと思うのは、ロジックの話ではなく、実際の商人が何をどう考えているのかを知るキッカケになったこと。

80円で仕入れて、100円で売れば20円の利益が出る。

これはつまりロジカルな話です。

だから、儲けるためにはと考えた時に、安く仕入れるとか、たくさん販売する方法を気にしてしまいます。

しかし、「月の商人」ではそんな話にはなりません。

ここで簡単な答えを紹介するよりも、実際に手に取り読んで欲しいのですが、当たり前のことを当たり前に書いてくれています。

「それだけ?」

と思う人もいるでしょうが、読み進めるに従って、作者が伝えたい意図を段々と知り、軌道修正してくれます。

この当たり前過ぎることを見失ってしまうと、そのあとにどれだけ頑張っても「月の商人」にはなれません。

実はもう一冊、「星の商人」という同じ作家の本も読みましたが、今のタイミングで出会えてよかったです。

気になる方はぜひ一度手に取って読んでみてくださいね。

きっと、「もしかして…」と停滞している現状を打破できるキッカケに気づくかもしれませんよ。



人生の目的が「幸せな生活」だとしたら

 「幸せな生活」を見つけるために

成長と共に変化する「価値観」

個人が個人だけでは生きられない以上、社会とのつながりにどう向き合って行くのかが大きな課題です。

例えば資産家の家に生まれて、資金面では一切の不安がないとしても、生身の人間は食事や娯楽を手放すことはできません。

健康も同じで、三度の食事をしているだけでは「幸せ」にはなれないのです。

穏やかな波が打ち寄せる砂辺に立ち、遠くの水平線を眺めた時に、人は「広い海と空」を無意識に感じることでしょう。

この経験は学習によって学ぶものではなく、人が生まれながらにして持ち合わせた感覚です。

だから、波の音を心地よく感じたり、サーフボードでサーフィンをしたり、人はもう一歩だけ心地よさを求めて活動します。

海だけではなく、山にも同じような感覚があって、街中にも見つけることができるでしょう。

もちろん、自身の暮らす家や部屋にもあるはずです。

整理整頓

何もない殺風景な部屋が落ち着くという人もいるでしょう。

一方で、少し物があって、それらに囲まれていることで寛ぎを感じる人もいるはずです。

しかし、全く整理整頓ができていない、自身でも何処か心地よいとは感じない環境で暮らすのは幸せな生活とは言えません。

全てを排除するのではなく、「心地よさ」が感じられるくらいに整理整頓すると、無意識に気持ちが整い、心地よさに気付けます。

仕事選び

生きるために働くのであれば、好きではなく、苦ではないことを仕事にすればいいはずです。

仕事に生き甲斐を求めるなら、そのために精一杯頑張ることです。

好きなことというのは、自身が心地よさを感じられることですが、それが他の誰かにとって心地よいとは限りません。

だから時に、好きなことを仕事にした時に、余計に心地よさとは違うことを求められて苦労します。

しかしながら、好きだと思ったことも、実は見え方を変えると新しい価値観を発見したりします。

前に進むことだけが楽しかった人も、振り返ったり、脇道に寄り道したりすることで、価値観が変わるからです。

つまり、価値観は変化します。

変化させて行くものです。

逆を言えば、変化することを拒絶してしまうと、今以上の幸せも見つかりませんし、今の生活も幸せではなくなります。

老いるとは何か?

両親を見て、また他の高齢者と接して感じのは、誰もが段々と価値観に対する視野を失ってしまうということ。

言い換えるとそれが「老いる」ということでしょう。

日常生活がパターン化されて、同じことを繰り返すことはできても、変化に気づき立ち止まって考えることができません。

「これはされたくないからやめて欲しい!」

そんなことを頼んでも、「そうだっけ?」と改善するどころか、指摘されたことも覚えていないようになります。

「今、〇〇したい!」

そう思った時に、周りの状況を確認することができなくて、いきなり行動に移してしまうのも「老い」たからです。

つまり、高齢になってから、幸せな生活を見つけるのはとても大変だということ。

なぜなら、その生き方を変えることが難しいからです。

ということは、現役時代に好きなものや望む暮らしを見つけて、手に入れることが大切です。

若い人の中に老後を考えて、貯蓄する人がいますが、それ自体は悪いことではないと思いますが、「お金」があるだけでは幸せな生活はできません。

それ以上に「幸せを感じられること」を手に入れるべきです。

だからと言って大きなことを考える必要はありません。

読書や映画鑑賞、楽器演奏など、他にもたくさん始められることはあって、さらに言えばどう向き合って行くのかを変化させれば奥行きはいくらでも見つかります。

好きな作家の小説を読んで、その舞台となった場所を旅してみるということも「奥行き」と言えば言えるでしょう。

気候や高低差など、物語を読んだだけでは分からなかったことが、現地に足を運んでより理解が深まるかもしれません。

もしかすると、その旅をきっかけにカメラに興味を持ったり、絵を描くことが好きになることもあるでしょう。

70代くらいを高齢者と呼ぶとしたら、成人してから約50年という月日が、そんな幸せ探しに使える期間です。

長いと感じかもしれませんが、「一年」はそんなに長い時間ではありません。

なぜなら、何か始めてそれなりにできるようになるには、大体10年が一括りだからです。

まして成人して社会で働くようになれば、自分の時間は1日の内でもそんなに長くはありません。

何かに10年没頭するということも、そうそうできるものではないのです。

こみちの場合は、絵を描くことでした。

逆を言えば、それしかできなかったです。

でも、人生ってそんなものではないでしょうか。

吸収できる現役時代に、いろんな経験をして、幸せな生活を探して生きる。

何か一つでも手に入ったら、それは嬉しいことです。


今日はとても疲れました!

 仕事中に喉が痛くなって

普段は起きないような体調不良になって、今日できることだけを終えて帰宅しました。

帰宅後、疲れが一気に襲って来て、とにかく寝ることに。

1時間くらい仮眠して目を覚ましたのですが、改めて本当に疲れました。

仕事中、喉がとても痛くて、風邪ひくかもと思ったのですが、今は大丈夫です。

喉も痛みもありません。

今、している請負の仕事で、納品物の品質を褒めてもらえたのは嬉しいことですが、納期のスパンを時間指定されて、改めて担当者に相談させてもらうことになったのですが、あまりこみちにとっては良い話だはありません。

というのも、高い完成度を指定された時刻までに納品するとなれば、それだけ仕事に拘束されることになります。

朝、別のことをしてから仕事に取り掛かるのでは間に合わなくなるからです。

請負という関係なので、他よりも良いものを届ける意識が求められる一方で、場合によっては過剰な品質を強いられる可能性もあります。

正直な話、少し価格に対して納品レベルが高くなっていると感じます。

かと言って、質を下げてしまうことで、やる気や達成感が失われてしまうことも心配です。

とにかく、今日はもの凄く疲れました。

夕飯を食べて、早く寝ます。

みなさんも、ご自愛くださいね!

人生をマラソンに例えてみたら

 40キロの距離を走れますか?

こみちはマラソン大会に参加したことはありません。

しかし、旅ランと言って、景色を楽しみながら自分のペースでランニングをし、旅気分を感じるという経験をしています。

小型のリュックにタオルと財布、水筒くらいを忍ばせて、歩きよりも少し速いくらいのスピードで淡々と走ります。

日ごろランニングやジョギングの習慣がないと、もしかすると1キロでも大変で、走るのが嫌になってしまう人もいるでしょう。

マラソンを人生に例えると、「どう走るのか?」は生き方そのもので、スピードもそうですが、頑張り具合やスタミナ、時に足の痛みなども考慮して、走り方を考えなければいけません。

アスリートのように、2時間少しで完走することだけが目的ではなく、どこでどれだけ休むのか、寄り道するのかも人生にはとても大切で、でも走り方という基本がなければ、その選択肢はどうしても限られてしまいます。

今回の記事向けに例えば話としてランニングの話を使っている訳ではなくて、本当に8ヶ月前からコツコツとランニングをして来ました。

最初は2キロとか3キロでも満足感があって、その内に5キロ10キロと長く走りるようにもなって、またスピードを上げて走ることもできるようになりました。

もちろん競技者としてではなく、楽しむために必要なくらいのレベルになって来たということです。

人生に比べると、ランニングはずっとシンプルなことで、言っても方法や手段が限られます。

でも、どう意識すると向上できて、選択肢を増やせるようになるかは、人生同様に簡単なようでも簡単ではありません。

例えば走ることを上手くなるには、股関節の柔軟性が大切です。

つまり、走るということだけでは限界があって、それに向けた準備をしなければ先には進めません。

人生で何かにつまづいた時に、問題解決だけが重要なのではなく、その周辺にあって大小様々なことに目を向けて、もう一度見直すことも必要だったりします。

時に自分では解決できないこともあって、だからこそ自分が納得できるか否かが大切な時もあります。

ここまで頑張ってダメなら仕方ないと思うことも、頑張っていないからこそ、どこかで未練も残るのでしょう。

ある意味、それさえも含めて、覚悟できたらいいかもしれません。

結局は、その結果を飲み込めるかということで、最上級は無理でも、ここくらいまではできるというラインまでできたらいいはずです。

100キロ走れる人もいるでしょうし、1キロも難しい人もいます。

距離だけではなくて、じゃその自分が走れる距離で何をどう見つけて感じて、満足感に変えられるのかが大切です。

同じ道を一年ずっと走れば、単調に見えても四季の移ろいを感じます。

100キロもはしれたら、景色だけでなく、温度や風の強さも分かるでしょう。

別にランニングでなくても、趣味を通じて人生を学ぶことってできるはずです。

今日も5キロくらい走って、7キロくらい歩きました。

約15000歩。

それがこみちの歩いた歩数です。

頭であれこれ考えても答えは出なくて、一歩ずつ走って分かること、納得できることがあります。

疲れ果てて、もう動けないくらいがんばったら、そんな自分を受け入れられるでしょう。

それでいいように思います。


自分という「存在」を外から知りましたという話

 ここに居る自分は自分じゃない!?

今、文章を書いているのは、自分ではない。

自分ってこんな人なのに…と思っている「自分」も違う。

歌手のスガシカオの歌「progress」に出て来る歌詞ではないけれど、内から出て来るイメージではなく、結果的に現れたことが「自分」なのかもしれない。

カッコいいタイプでも、頭脳明晰なタイプでも、運動神経に優れたタイプでもないこみちが、モデルや学者、アスリートになりたいと望んでも、そこで輝けることはないだろう。

努力や経験で、ある程度までは行けたとしても、「自分」を作り出す軸にはなれない。

若い頃、20代はそんな「軸」となるものを探していた。

自分が何者で、どんなことができるのかと悩んでいた頃だ。

今になって思うのは、多分、大半の同年代は「軸」ではなく、「日常生活」が自分を作って来たはずだ。

大変でも続けて来た仕事や忙しい子育てなどがあって、「自分とは何か?」を考えて進んだ訳ではなくて、毎日を生きていたら今になったということだ。

でも、それでいいんだと思う。

「軸」となるものが見つからなくても…。

「軸」にしたもの

こみちが今になって軸にしたいのは、「絵を描くこと」だ。

誤解を恐れずに言えば、それしかまともにできることがない。

だから、この先も「絵を描くこと」で自分の軸にできたら嬉しい。

親の介護も同じこと

一時期、こみちは親の介護で悩んできた。

それは、もっと選ぶべき選択肢があって、それに向かおうとしない両親に苛立ちを感じていたからだ。

整理整頓すれば、別の新たな選択肢を選べるのに、そのため悩むことも努力することもしていないように感じてしまった。

少なくとも、今のままでは変わらないし、変えることができない。

何に変えようとも、変わろうともしない。

それを望んでも、軸を探すように簡単には見つからないけれど、でもそこに生きる意味や価値があると信じて来た。

「考えられない」

という現実を受け止めることに時間が掛かってしまった。

100mを10秒で走れる人は、15秒で走る人に「あと5秒速く走ればいい」と言う。

でも、それを言われてもできないのだから仕方ない。

手段や対策をしないからできないと思っていたけれど、どうやらそういう話ではなくて、ある人には当たり前なことが、別の人にはそう感じないし、とても困難なことに思えてしまうことがある。

こみちが「絵を描くこと」だけしかできないように。

「好き」というくらいの趣味はあっても、「得意」と言えることは意外と少ない。

知れば知るほど、「得意」と言えない自分がいるからだ。

人生でその1つを見つけられたら、どれだけ素晴らしいことだろう。

こみちは今、絵を描くことを「得意」にしたい。

でもそれ以外のことは、自分で決めてもそう思うようにはならない。

もっと別の自分がいるからだ。

あの頃から、親は何も変わっていない。

変わろうとしてくれない。

でも、いい意味で期待するのはやめて、今を望むように生きてくれたらと思う。

その結果、見える未来とか自分を受け止めてくれたら、それでいい。

考えることも、努力することも、人それぞれの生き方だから。


『ふぞろいの林檎たち』というドラマを知っていますか?

 初回の放送はいつだったのでしょう!?

こみち、自宅で絵を描く時に音楽を聴きながら作業します。

気分次第でいろんな曲を聞きますが、サザンの曲を聴いていた時に、急に「ふぞろいの林檎たち」というドラマを思い出しました。

ドラマのストーリーを簡単に紹介すると、3流大学に通う男子学生3人が、サークルを通じて3人の女性に出会い、さらに別の流れで一流大出身の男性、さらにその彼女と、いろんな環境下で生きる彼らの物語です。

改めて今回、パート1を視聴したのですが、当時は全く気づかなかったことが今になって共感したり、考えさせられたりして、とても見応えあるドラマでした。

誰もがいろんなことで悩み、そして別の誰かの悩みや迷いに触れて、互いに成長するという展開は、現代でも色褪せない内容です。

個人的に、役者さんの演技力がとても高くて、没入感が半端なくて、当時のドラマがこんなにもしっかりと作られていたのかと感心しました。

そして、ストーリーに合わせて使われるサザンの曲が、また心地よくて、まだ見たことがない人や、見た記憶はあってもしばらく見ていない人は、ぜひご視聴ください。


「絵」を描くことしかできないという話

 いろいろ考えて

結局、こみちがこの世でできるのは、「絵」を描くことしかないように思います。

その絵だって、誰かよりも上手とか才能に溢れているということではなく、「ただ好きで続けられて来た」という話。

昨日、youtube に自身が描いた「絵」をアップさせてもらったら、いろんな方に見てもらえたり、評価ボタンを押してもらえたり、チャンネル登録までしてくれた方もいたりして、本当に感謝しかありません。

だってスルーしてもいいし、貴重な時間を使う必要がないのに、わざわざ時間を割いてくれたことにありがたいと思ったから。

かと言って、急に何か凄いことを始められるほどの器用さも取り柄もないのですが、改めて「絵」を描き続けて来たことを良かったと思えました。

この先も、距離感は変わるかもしれませんが、どんな時も「絵」を自身の人生の側に置いておきたいです。

今日、朝起きて自身のチャンネルを覗いたら、登録者数や高評価(低評価)をくれていたので、「本当にありがとうございます」と思って、その気持ちをここに書いてしまいました。

本当にありがとうございます。救われます。

「コーダ あいのうた」をテレビで観た話

 泣けて笑えて…

正直な感想を言うと、特に感動的なストーリーではなかった。

否定的な感想ではなく、ある意味で多くの人が様々な形で苦労しながら生きていると思うから。

全てが不幸なのではなくて、逆に全てが幸せでもない。

不幸な中に幸福があるから、それがどれだけ有難いのか気づく。

映画は、泣けるし笑えるしで、いい作品だと思う。

でも、この映画を観て「泣ける」と思える人は、きっと今がとても幸福何だろう。

もしかすると、もっと悲惨な人生を送っている人は、「そんな話って」とどこか作りものだと感じかも知れない。

「こうすればいいのに」ということができないから、遠回りするしかないし、諦めるしかないこともある。

「たったそれだけなんだよ?」と思っても、それがある人にはとても大変なのだ。

もしもまだ観ていない人で、介護にも興味を持っている人なら、ぜひ一度見て欲しい作品だと思う。

昨日は妻と植物園デートでした!

 マツコさんのテレビ番組もあって

以前から、「植物園に行きたい!」と言っていた妻。

あまり天気は良くなかったのですが、足を運んでみることに。

植物にはあまり詳しくないこみちですので、もっぱら妻のお供で、「これはね!」と語る妻の話を「そうなんだ」と答えながらいろんな植物を見てまわりました。

その中で、ある建物に入った廊下に展示物があって、人類の誕生が地球誕生から比べるとどれだけ歴史の浅いことかを知り、約50年の人生も一瞬なんだと気付かされます。

一方で、妻はなぜか地球の「全球凍結」に関心を抱き、帰宅してからネットでその理由を調べて、「隕石の衝突が原因になっているらしいよ!」と教えてくれます。

そして恐竜が絶滅したという話題になって、「今度は、福井の恐竜博物館に行ってみたいね!」と新たな夢もできました。

夕飯も外食して

普段、5キロとか走ることもあるこみちですが、植物園の館内を移動するのは大変でした。

夕方近くになってそろそろ帰ろうという話が出て、帰宅することにしたのですが…。

「夕飯、食べて帰ろうか?」

ふと思いついたのか、妻の提案もあって真っ直ぐ帰宅しないで外食することにしました。

久しぶりのカルボナーラを食べて、向かい側に座る妻と植物園の話をして。

「私、思うんだけど…。そんなに深く考えてなくていいと思うよ!」

それはこみちの今後のことを言っています。

「地球の誕生から比べたら…。どうにかなるって」

「そうだね」

普段、何かと忙しい生活で、妻といる時でも別々のことをしていたりして、久しぶりに面と向かって話をしたように思います。

スマホをしながらではなく、だからと言って話続けるということもなく。

「ピサ、もう一枚ずつしょう」

ゆっくりと1時間くらい店で食事をして、すっかり日の暮れた時間になって駅で両親へのお土産を買うという妻。

「ここのアップルパイ、興味あったんだよね」

店に入ると言葉通り、目的を決まっていたようで、すぐに購入できました。

並んで電車に座るのも久しぶりに感じます。

帰宅後、妻よりも疲れたこみちは、部屋に入ってしばらくして、うたた寝していました。

午後10時くらいにふと目が覚めて、「お風呂は?」と聞かれて、入ることにして。

そのあと、youtube を眺めていたら、こみちはいつの間にか夢の中へ。

そしていつものように3時半くらいに目覚めると、妻はパソコンの前に座って作業中でした。

「寝たの?」

「少しね。あれからお風呂に入って」

そういうと、お気に入りの野菜ジュースを見せてくれて、「飲みながらパソコンしてた」と。

楽しい時間はあっという間に過ぎます。

こみちはまた家族の朝食作り。

新しい一日の始まりです。

子どもが親を怒らなければいけない時が来る!?という話

 昨日のこと

急な天候不順で、雨が強く降り出しました。

家の窓が開いていて、風向きによっては窓を閉めなければいけません。

そう思って珍しく父親が窓を閉め始めたことはいいのですが、なぜかこみちたちの寝室に入ろうとしたので、「そこはいいから!」と注意したのです。

良かれと思ったら、プライベートな空間にも黙って入ってしまう。

ある意味で、父親の行動に驚きました。

「家族共用のスペースはいいけど、プライベートな部分は手を出さないで放っておいていいんだ!」

と、改めて注意しました。

ところがそこから父親の様子が変なのです。

「怒られた」ということと「放っておいて」が勝手に結びついて、今まで以上に何もしないスタイルになったのです。

かと言って、こみちとしてはあまりに酷い態度なら、当たり前に用意している食事や食器洗い、トイレ掃除など、一度放置してみたらどう反応するのかとも思うのですが、父親の反応はますますいじけてしまうでしょう。

前々から何か不満があると部屋にこもってしまう父親でしたが、もう「機嫌直してよぉ」と和解を促すこともしません。

反省もしなければ、改善や自身の気持ちも語ることなく、一日くらい経ってばまたひょっこり顔を出して、当たり前のように生活するからです。

湯を沸かす唯一の仕事ももうしなくなっていますし、食器を洗えばいい方で、食器棚に拭いて戻すことはしなくなって、それこそ父親は「自分なりに頑張っているのに…」と思っているのですが、誉めたくても誉められないくらいに中途半端なことしかできません。

老化によって判断鈍くなっていると言ってしまえばそれまでですが、ある意味で窓を閉めて回れるなら、朝起きて玄関や家の前を掃くことだってできるでしょう。

でも、そんな風に頭を使うことができず、家族がそれぞれに家事をしている時も一人だけテレビの前に座っています。

怒りたくて怒っているのではないのに、怒らせるようなことしかしないので、こみちとしては父親とあまり関わりたくないし、身勝手なことも見ないようにしています。

でも、「そこまでできるなら」ということが多すぎて、それ以上を求めてもいじけるの繰り返しはやはりストレスになります。

外出する時、自室のドアの鍵を掛けて出掛けるのですが、たまに掛けないこともあります。

父親が勝手に部屋に入ろうとしているのを見て、「もしかして過去にもそうしていた?」と思ってしまいます。

妻には伝えませんでした。

だって、やはり気分がいいことではないので。

ただ鍵を掛けておかないと、「ダメだよ」だけでは自制できないようなので、そんな時もしっかりと対策しないといけないのは残念に思います。

「人生」を楽しく生きられていますか?

 こみちの場合

昨日、妻から体調はどうなのかと聞かれました。

妻自身はあまり自分のことを話すタイプではないので、もしかすると仕事で上手くいかないようなことがあるのかもしれません。

焦ります。

約4ヶ月前から始めたジョギング。

不安を感じる度に「汗を流すこと」で交して来たので、体の酸素循環を示す数値VO2 maxが始めた頃32だったものが50まで増加しました。

50という数値は、「12分でどれくらい走れるのか?」という指標で、確か2700メートルとか2800メートルくらい走破できると受けられます。

中高年で、50という数値は低くはありません。むしろかなり高い方でしょう。

その意味では、肉体的な健康はかなり向上していて、「働ける」だけの体力になっているはずです。

運動療法が精神疾患に有効と言われるのは、確かにそうだと思います。

不安になると走る。

やばい感じになるとまた走る。

ジョギングを始めた頃から、歩いてでも表に出て、1日20キロとか、30キロとか、長い時は8時間くらい走って歩いてを繰り返しました。

疲れて足が痛くて、もう一歩だって歩けないという状況になって、どれでも歩き続けている時に「生きている」という実感を感じていました。

当時は、普段ばきのスニーカーで出かけていたので、足の爪が靴に当たり続けたことで、爪が変質し真っ黒になるほどです。

今も黒いのは変わりませんが、むしろその痕跡が「生きている」に繋がっています。

ずっと続けて来たyoutube チャンネルも、応援してくれる方がいることに感謝ですが、何を描こうと悩みますし、伝えたいことが絵に表現できていないのもあって、思うように運営できていないのも事実です。

あまりに異質なチャンネルになっているので、こみちという人間性を理解してもらうことが難しいし、こみちの興味に共感させること稀で、登録者数が伸び悩むのは仕方ないことだと思います。

「嗚呼、減っている…」

youtube チャンネルを運営される方も一喜一憂されていると思いますが、こみちだってそうです。

今朝、いつものようにコメントとか入っているかなぁと管理画面を見ると、登録者数が減っていました。

でも、残念という感情はあっても、どこか受け止めているところもあって、離れてしまう人は仕方ないと思います。

むしろ、今でも登録をしてくれる方がいるなら、「絵を描く」ということで何かこみちらしいことができたらと思います。

人付き合いの苦手なこみちなので、チャンネル登録者数だけは多いなんてこと、有り得ないですから。

細々でいいと思っています。

こうして、偶然でも訪れる方がいて、「そうだなぁ」と自身の生活を振り返るキッカケになれたなら。

「バカ」と「ちょっと賢い」の違いを勝手に語るだけ

 「バカ」の定義

「バカ」は絶対的評価ではなく、相対的なもの。

つまり、「バカ」ばかりの集団があると、そこに「バカ」ができて、そうではない人ができる。

ではそんな相対的な「バカ」はどうして「バカ」なのか。

「バカ」になる要因は、成熟度の違いだと思う。

成熟度決めるのは、領域とその達成度。

だから、「バカ」と呼ばれる人が「器用」だったりすることも珍しくない。

なぜなら、「器用」はある動作を得意とすることだから。

狭い領域で解決できることは、それこそ「バカ」だからできないものではなく、逆に「賢い」人が不得手なことも多い。

単純にいろんな領域を知っていて、さらにその達成度が高くても、ピンポイントで問われてできるとは限らないからだ。

「バカ」と「ちょっと賢い」の反応の違い

そもそも「バカ」は、相対的に反応する領域が狭い。

興味や関心のあるエリアが少ない。

天才とバカが紙一重だと言われるが、天才もエリアが広い訳ではなく、単純に達成度が高いだけだから、「バカ」と構造的に変わるものではない。

つまり、そのものヒットする領域が少ないのだから、「バカ」は温厚な一面がある。

では「ちょっと賢い」場合はどうか。

「賢い」の定義も、相対的で、もっと賢い人が現れると「バカ」になってしまう曖昧さがある。

さらに「ちょっと」だから、「賢い」と言えるほど、領域が広い訳ではなく、言うなれば「バカ」が無反応だった時に何か感じ取ってピクンと動くようなものだ。

例えば天才のように、他を圧倒するくらいその分野の達人になれる人は別だが、多くは気づいても解決できるとは限らない。

だから「ちょっと賢い」というのも、違和感には思うけれど、その問題点を解決できないことも多い。

意外とストレスを感じるタイプは、「ちょっと賢い」人ではないだろうか。


「いつまでも自分らしい暮らし」をどう実現させるのかという話

 介護支援における大きな課題「自分らしい暮らし」の実現

在宅での介護と施設での介護には、「経済面」という大きな課題に差があります。

首都圏やその近郊において、民間の運営する介護施設を全面的に利用する場合、月額15万円位のコストが必要だと考えるべきでしょう。

仮に年金だけで賄うとしても、国民年金を満額で受け取ってもそのコストを補うことができないので、預貯金による蓄えや家族による支援、行政によるサポートなど、施設の利用が経済的も容易ではないことがわかります。

有料老人ホームへの入所が難しい場合、経済的な負担を抑えられる特別養護老人ホームの入所が理想ですが、そのためには要介護3(一人でトイレが難しいくらい)でないと入所条件をクリアすることはできません。

コスト的には、首都圏でも10万円前後で見つけられますが、希望者も多く「待ち」の状態になっています。

こみちが介護士として働いていた時も、割高でも入り易い施設を使いながら、順番を待って「特養」へと移動されるケースが多く、「今度、別の施設に引っ越します」という利用者との別れを幾度も経験しました。

月額数万円(都内にこだわると10万円前後)の違いにもなって、誰もが必要な時に利用できる施設とは言えません。

言い方を変えると、そこで働くスタッフの給料が異業種と比較して控え目になってしまうのは、そのまま利用料金に反映してしまうという問題にも繋がります。

では在宅介護ではどうでしょうか。

介護士経験から言えるのは、在宅介護で「オムツ交換」まで担うのはかなり負担が大きいと思います。

作業そのものは、三日もすれば慣れると思いますが、運動不足になると出るものも出なくなり、下剤などを使うと量のコントロールが難しくなったりして、最悪ではそのまま全身を洗うくらいの作業になることも否定できません。

仮にそうなった時に自宅で入浴できるのかがポイントですが、先に「自力でトイレ」と言ったのも、立って移動できるか否かは在宅介護をする上で負担度合いが大きく変わります。

もちろん、できるかできないかで考えると「できます」。

しかし負担が大きくないかというと、小さいとは思えません。

例えばこみちが両親を在宅で介護することになり、しかもオムツを利用するとなれば、先ず仕事で外に出掛けることは難しく、買い物は日中にデイサービスなどを利用し、両親がいない時に済ませるしかありません。

さらにシーツなどの交換や介護用品の補充などまで考えると、自身のキャリアアップは一度諦めることになるでしょう。

加えて、食事面で食べ易い介護食まで考える場合、三食全てを家族で賄うのは手間ですし、栄養学や嚥下のメカニズムなど、介護士の経験や料理の経験などがないと大変です。

いずれにしても、頑張ればできてしまう(本当の意味で「その人らしい暮らし」かは別として)から逆に厄介です。

子育てとは違い、成長するまでという期間が明確ではないので、時に10年、20年と介護が続いた時に、支える側の人生も軽視されるべきではなく、「家族としてどうあるべきか?」をまだ介護が必要ではない時から話合っておきたいものです。

こみち家の場合も10年以上前に「考えよう」と切り出したこともありますが、「負担は掛けない!」とはっきり言った両親が、今では生活のいろんなところで怪しくなっています。

「負担は掛けない!」「自分たちで頑張る」という言葉も、介護や老化を根本的に理解して言ったのではなく、まだ体が動く60代や70代の前半で出した答え。

つまり、「迷惑掛けないと言ったよね!?」と言ったところで、老いてしまったらトイレに行くのと、ご飯を食べるだけの生活になって来ます。

暮らし方という意味での介護施設や在宅での介護はそんな感じですが、例えば終活に向けた準備まで含めると、もっと範囲は広くて、時間もコストも掛かります。

実家の片付けで、庭木の手入れや処分を検討し始めましたが、既にその費用を親が当てにしていて、自分たちで準備し支払いまでしてくれたらいいのですが、場合によっては10万単位の出費も覚悟しなければいけません。

父親は、「ありがとう」とも言いませんし、そもそも頼んでもいないと言い出すでしょう。

でもしなければしないで、実家周辺の方にも迷惑だと思うし、「状況を理解できない」ようになると、プライドだけが残るのでストレスも増します。

「自分らしい暮らし」は、本人の意思と周りへの心遣いがあるかないかで、大きく変わります。

さらに避けることができない家族の負担増もあるので、我々中高年世代は、生涯働ける仕事を見つけて、健康的な暮らしを目指したいものです。


「助けたい」と思っていてもという話

 時が経過し「優しさ」が戻っても

久しぶりに妻と休みの日が合いました。

「どこかに出来かけたいね」という妻に賛同し、家から少し離れた博物館や美術館でも行こうかと話している時に、母親が「迷惑メールがくるんだけど」と騒ぎます。

以前にも話ましたが、母親は料理で一切、味見をしない人。

薄くても濃くても、不味くても味見をしません。

それが母親の「流儀」で「プライド」だからです。

こみちはそんな母親の流儀を否定しません。

ただ、こだわるなら、どんな時もその流儀を貫く人であって欲しいのです。

変なところだけこだわって、急に信念を曲げてしまう人であって欲しくありません。

特に好みでもないのに、「目先の利益」ということだけで目が眩むような人には…。

ご存知だと思いますが残念ながら、「迷惑メール」を完全に排除するのは容易ではありません。

できるか否かの部分ではなく、何か異変が起こった時にまず状況を確認し、自分は何をすればいいのか?を考えることが重要です。

仮にこみちや妻を頼るしかないと思ったとしても、貴重な時間を奪ってしまうことが我々夫婦にとってどんな意味を持つのかもちょっと考えて欲しいのです。

父親は、ダイニングに集まったこみちたちの存在を知って、急に自分の食器を洗い始めます。

「自分もサボっているのではない!」アピールです。

むしろ、テレビしか観ていられないのなら、そんな時さえ貫いてくれた方が諦められます。

にも関わらず、動けることを示すのです。

「じゃあ、普段から動けよ!」と思うのは変でしょうか。

こみちは両親のそんな一貫性に欠けたズルさが受け入れられないのです。

ある意味で、貫けくことは天才かバカでないとできません。

だから天才なのであって、バカでもあるからです。

でも、「それしかできない」と一切のブレも無かったら、誰からも見捨てられるか、その生き方を支援してくれる人が出てくるのかでしょう。

不安になって時々、変に媚びるから、余計に嫌悪感を抱かせるのです。

結局、出掛けましたが、近所で必要品を買っただけ。

妻が母親のスマホを見てくれたので、こみちは洗濯機の掃除をしました。

父親は洗い物をして自己満足できたのか、テレビを観て「サイダー飲みたいなぁ」と甘えた声を出します。

どんな気持ちでその状況で、そんな呑気なことを言えるのか理解できませんが、父親は自分の食器を洗ったことで「一人前」と感じてしまうのです。

そして、一人前だからこそ、母親に対して「上から目線」にもなれる。

病気か老いとでも思わなければ、理解できない行動です。

こみちの態度が気に入らないのも知っています。

でも、なぜそんな態度にしかできないのかを考えて欲しいのです。

父親も、母親も、「こうなるからダメだよ」と忠告しても直してはくれません。

そして失敗し、困ったら泣きつくという繰り返しです。

「だから言ったのに」

「本当に知らなくて」

の繰り返し。

同居してずっと繰り返しています。

こみちたちが人生の難しさをどんなに考え生きて行こうとしても、両親はそれよりもずっと表面的な部分だけを追って生きていて、困ると不満を漏らします。

昨日のことはもう過去で、今日は当たり前のように父親はテレビを観て、もしかするとサイダーを出してくれない母親に不満を感じて生きるのかしれません。

久しぶりに「フリーズ」したという話

 仕事場でちょっとした時に

たくさんの情報を一気に処理しなければいけない時に、その重圧に耐え切れずパニックになることがありました。

以前なら、黙って動けなくなるというような感じになっていたのですが、それも減って回復したと思っていました。

ですが、仕事場で急に状況が変わった時に、こみちがアクションしなければいけないことになり、焦りから声を出すことができない瞬間を作ってしまい、周囲を驚かせてしまったのです。

そんな様子を感じて、さらに焦りが増し、久しぶりに以前によく感じた感覚に戻ったように思います。

ここ数ヶ月の間に職場の異動もあって、主要なメンバーが変わったのですが、バレてしまった気がして、ちょっと落ち込んでしまいました。

他人と接する時に、焦ってしまうことがあって、以前はそれが恥ずかしいとかではなく、相手を心配させてしまうことにさらに自身が自信を失ってしまう状況で、ちょっと他人と会うのに抵抗がありました。

でも、克服というか、思うほど変な感じにならないのではないかという気持ちも芽生えていたので、正直なところ、今回の経験はちょっと残念な出来事です。

妻に話そうと思ったのですが、それを伝える気持ちが失せて、話すのをやめました。

妻は妻で忙しいし、パニックになったことを伝えても心配させるだけなので、今回の件はとりあえず様子見にします。

また、何か起こってしまったら、その時に今回の件を含めて話すことにします。


人はそんなに簡単には変われないという話

ダメな人

先日、早期退職の話題になった時に、いろいろな仕事の思い出があるけれど、でもそれが真実だったのか分からないという結論になった。

ここでいう真実とは、唯一無二もそうするしかないというようなものという意味。

つまり、納期が短くて、早く職場に行って作業したり、急遽別部署からも集まってもらったりして、ワイワイと仕事したことも大変で貴重な体験ではあるが、そうするしか無かったのかというとそんなことはなかった。

でも、会社の定年制度に従って、いろんな体験と共に職を辞した少し年上の先輩がいる。

「彼が」ということではないけれど、人生において自分にしかできないということを見つける方は大変で、しかもそれが社会的に必要とされ、しかも収益化できるとなれば、そんな仕事に就けた人は数少ない幸せ者だろう。

「人生とは〇〇だ!」

そんな風にストイックに身構えて、真実を頑なに疑わない人は、一見真面目で誠実にも見える。

でも、会社員として定年まで働き、その後は年金と退職金を使って第二の人生を送った人の方が、結局「真実」など見つからないくらいなら、そうやって生きた方がいいのかもしれない。

そう考えると、ダメな人とは不真面目に生きる人ではなく、中途半端に真っ当なことを考えて、でも真実のような答えにも行きつかないこみちのような人を指すのだろう。

真実ありきのハイクラス転職!?

年収1000万円をいきなり出してくれるような求人を見つかったとしよう。

でもその条件は、平均で10個の契約が取れる仕事で、30個取った時。

つまり、そうそう手に入らない「真実」を手にした人だけに与えられる仕事となれば、多くの人はやがて去って行くことになる。

真実とは全く無縁で、だから給料もそう高くはなくて、自分はあまり出世とは関係ない人生だと思う人に、「ハイクラスな転職」がどう当てはまるだろうか。

結局、一時的に給料が3倍になっても、その条件が簡単にクリアできないのなら、転職前と後で人生はどれだけ豊かになるだろう。

歌をある程度上手く歌える人って多いけど、それで稼げる人は本当に少ない。

これってどんな業界でも言えて、上手い人って意外と多い。

でも稼ぐとなるともっともっと厳しい。

そんな中でも出来てしまう人はポンと結果を出してしまうし、出せない人はいつまでも出せない。

頑張っていない訳でもないけれど、残念ながら「真実」に当てはまるような仕事に出会える人の方が少ない。

その意味では終身雇用の制度って、いろんな人基準では良かった制度なのかもしれない。

みんなが言われたことしかしない社会というのも、ちょっとどうなのかと思うけれど、才能で生きるほど有能ではないなら、むしろそうやって言われたことだけをして楽しく生きるのもいいだろう。

人生、間違えたなぁと思ってしまうこの頃だ。

「自分を理解してもらえなくても」そこで諦めないために

 成功する努力を続けるために

ここ数ヶ月前から、健康維持と向上を目的にランニングを始めました。

youtube でいろんな動画を観て周り、自分なりに咀嚼し試して行く中で、発見があります。

「つまり、こう言う意味なんだな?」

ある気づきがあって、さらに過去に閲覧した動画を見返すと、確かにそう言う意味であると分かります。

実際にランニングを始めて、走り方が変わったと感じますし、何よりも土台ができて来ました。

ランニングだけでなく、何事も土台がなければ始まりません。

それは仕事探しにも言えることで、現状のまま努力もなく手に入る仕事は、そう多くないでしょう。

言い換えると、土台がなくてもできてしまう仕事に共通するのは、「応用」もないこと。

言うなら、将来性や継続による優位性に乏しいということ。

短期間の仕事を割り切れるならまだしも、ずるずると続けてもあまりおすすめできない仕事で、年齢だけ重ねてしまうことになります。

つまり、土台作りはもちろん大切で、でも土台作りから応用へと発展させられる環境はもっと大切です。

「頑張ってみたら?」と与えられるチャンスがあるなら、たとえすぐに成果がなくても、諦めずに頑張ることです。

無理をすることが頑張ることではなく、「目的意図を持って続けること」をここでは頑張ると考えます。

ランニングにあまり関心が無い人は、「キロ5分ペース」というランニング用語を耳してもあまりピンと来ないでしょう。

「キロ5分ペース」とは、1キロの距離を5分で走り来るペース配分という意味なのですが、50メートルを15秒で走るスピードでもあります。

この「キロ5分ペース」は、ランニングする人にとって様々な印象を与えるもので、初心者にとってはかなり息が上がるスピードですし、中上級にとってはフォームを確認しながら体を慣らす速度です。

ただ慣れの問題ではなくて、土台作りができると苦ではペースも、その行程ができないと無理しなければできません。

結果的に故障や挫折感にも繋がります。

言い換えると、正しいルートだとしても、必要となる時間があって、そこは個人差もありますが土台作りのためには欠かせません。

そこを無視しても、結局は前に進むことができず、どこかで必ず無理が祟ります。

「何をやってもダメだ!」

そう感じる時こそ、本当に必要な努力をして、土台作りの期間を耐え抜いたのか振り返りましょう。

こみちもいろんな挑戦をしていますが、なかなか思うようには結果が出なくて、「もうダメかも」と諦めてしまいそうになります。

しかし、ランニングをしたことで、手順さえ間違えなければ、誰もが到達できるレベルがあって、そこまでは努力したら結果になります。

その先はセンスとか才能も必要かも知れませんが、業界のトップを目指さないのであれば、そこまで必要ではないのかも知れません。

つまり、土台作りさえできるようになれば、それで十分なのです。

難しく考える必要もないし、負担に感じる必要もありません。

ただ、基本を理解して、シンプルに実践することです。

ダメな例を見て、ダメな理由を考えてもあまり建設的ではなく、自身も前に進めません。

先ずは、土台作りだけを考え、その努力を惜しまないことに尽きます。