自分という「存在」を外から知りましたという話

 ここに居る自分は自分じゃない!?

今、文章を書いているのは、自分ではない。

自分ってこんな人なのに…と思っている「自分」も違う。

歌手のスガシカオの歌「progress」に出て来る歌詞ではないけれど、内から出て来るイメージではなく、結果的に現れたことが「自分」なのかもしれない。

カッコいいタイプでも、頭脳明晰なタイプでも、運動神経に優れたタイプでもないこみちが、モデルや学者、アスリートになりたいと望んでも、そこで輝けることはないだろう。

努力や経験で、ある程度までは行けたとしても、「自分」を作り出す軸にはなれない。

若い頃、20代はそんな「軸」となるものを探していた。

自分が何者で、どんなことができるのかと悩んでいた頃だ。

今になって思うのは、多分、大半の同年代は「軸」ではなく、「日常生活」が自分を作って来たはずだ。

大変でも続けて来た仕事や忙しい子育てなどがあって、「自分とは何か?」を考えて進んだ訳ではなくて、毎日を生きていたら今になったということだ。

でも、それでいいんだと思う。

「軸」となるものが見つからなくても…。

「軸」にしたもの

こみちが今になって軸にしたいのは、「絵を描くこと」だ。

誤解を恐れずに言えば、それしかまともにできることがない。

だから、この先も「絵を描くこと」で自分の軸にできたら嬉しい。

親の介護も同じこと

一時期、こみちは親の介護で悩んできた。

それは、もっと選ぶべき選択肢があって、それに向かおうとしない両親に苛立ちを感じていたからだ。

整理整頓すれば、別の新たな選択肢を選べるのに、そのため悩むことも努力することもしていないように感じてしまった。

少なくとも、今のままでは変わらないし、変えることができない。

何に変えようとも、変わろうともしない。

それを望んでも、軸を探すように簡単には見つからないけれど、でもそこに生きる意味や価値があると信じて来た。

「考えられない」

という現実を受け止めることに時間が掛かってしまった。

100mを10秒で走れる人は、15秒で走る人に「あと5秒速く走ればいい」と言う。

でも、それを言われてもできないのだから仕方ない。

手段や対策をしないからできないと思っていたけれど、どうやらそういう話ではなくて、ある人には当たり前なことが、別の人にはそう感じないし、とても困難なことに思えてしまうことがある。

こみちが「絵を描くこと」だけしかできないように。

「好き」というくらいの趣味はあっても、「得意」と言えることは意外と少ない。

知れば知るほど、「得意」と言えない自分がいるからだ。

人生でその1つを見つけられたら、どれだけ素晴らしいことだろう。

こみちは今、絵を描くことを「得意」にしたい。

でもそれ以外のことは、自分で決めてもそう思うようにはならない。

もっと別の自分がいるからだ。

あの頃から、親は何も変わっていない。

変わろうとしてくれない。

でも、いい意味で期待するのはやめて、今を望むように生きてくれたらと思う。

その結果、見える未来とか自分を受け止めてくれたら、それでいい。

考えることも、努力することも、人それぞれの生き方だから。