「助けたい」と思っていてもという話

 時が経過し「優しさ」が戻っても

久しぶりに妻と休みの日が合いました。

「どこかに出来かけたいね」という妻に賛同し、家から少し離れた博物館や美術館でも行こうかと話している時に、母親が「迷惑メールがくるんだけど」と騒ぎます。

以前にも話ましたが、母親は料理で一切、味見をしない人。

薄くても濃くても、不味くても味見をしません。

それが母親の「流儀」で「プライド」だからです。

こみちはそんな母親の流儀を否定しません。

ただ、こだわるなら、どんな時もその流儀を貫く人であって欲しいのです。

変なところだけこだわって、急に信念を曲げてしまう人であって欲しくありません。

特に好みでもないのに、「目先の利益」ということだけで目が眩むような人には…。

ご存知だと思いますが残念ながら、「迷惑メール」を完全に排除するのは容易ではありません。

できるか否かの部分ではなく、何か異変が起こった時にまず状況を確認し、自分は何をすればいいのか?を考えることが重要です。

仮にこみちや妻を頼るしかないと思ったとしても、貴重な時間を奪ってしまうことが我々夫婦にとってどんな意味を持つのかもちょっと考えて欲しいのです。

父親は、ダイニングに集まったこみちたちの存在を知って、急に自分の食器を洗い始めます。

「自分もサボっているのではない!」アピールです。

むしろ、テレビしか観ていられないのなら、そんな時さえ貫いてくれた方が諦められます。

にも関わらず、動けることを示すのです。

「じゃあ、普段から動けよ!」と思うのは変でしょうか。

こみちは両親のそんな一貫性に欠けたズルさが受け入れられないのです。

ある意味で、貫けくことは天才かバカでないとできません。

だから天才なのであって、バカでもあるからです。

でも、「それしかできない」と一切のブレも無かったら、誰からも見捨てられるか、その生き方を支援してくれる人が出てくるのかでしょう。

不安になって時々、変に媚びるから、余計に嫌悪感を抱かせるのです。

結局、出掛けましたが、近所で必要品を買っただけ。

妻が母親のスマホを見てくれたので、こみちは洗濯機の掃除をしました。

父親は洗い物をして自己満足できたのか、テレビを観て「サイダー飲みたいなぁ」と甘えた声を出します。

どんな気持ちでその状況で、そんな呑気なことを言えるのか理解できませんが、父親は自分の食器を洗ったことで「一人前」と感じてしまうのです。

そして、一人前だからこそ、母親に対して「上から目線」にもなれる。

病気か老いとでも思わなければ、理解できない行動です。

こみちの態度が気に入らないのも知っています。

でも、なぜそんな態度にしかできないのかを考えて欲しいのです。

父親も、母親も、「こうなるからダメだよ」と忠告しても直してはくれません。

そして失敗し、困ったら泣きつくという繰り返しです。

「だから言ったのに」

「本当に知らなくて」

の繰り返し。

同居してずっと繰り返しています。

こみちたちが人生の難しさをどんなに考え生きて行こうとしても、両親はそれよりもずっと表面的な部分だけを追って生きていて、困ると不満を漏らします。

昨日のことはもう過去で、今日は当たり前のように父親はテレビを観て、もしかするとサイダーを出してくれない母親に不満を感じて生きるのかしれません。