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「麻婆豆腐」を作りました!

 豆板醤と甜麺醤を使って

基本的に料理を作るのが好きで、「作ること」が苦ではありません。

なので、「麻婆豆腐を作ろう」と思った時に、豚ミンチなどがあれば「作ろう」とキッチンに向かえます。

市販の商品を使えば、麻婆豆腐はお手軽な料理ですが、豆板醤や甜麺醤を使って作る麻婆豆腐も決して難しいものではありません。

炒めて、味付けして、豆腐を加えたら完成という感じ。

これまでに市販の商品を使って作る麻婆豆腐は、数え切れないくらい作りましたが、豆板醤や甜麺醤で作るのは3回で、でも調理時間は15分も掛からないくらい手軽です。

辛いもの好きな妻は…

辛味の弱い味を好む両親用とは別に、豆板醤やニンニクを効かせた辛めの味付けも作りました。

口に入れた瞬間はあまり変わりませんが、後から辛味が口の中で広がります。

市販の商品で母親が作る麻婆豆腐は甘口で、それこそ味のバランスはいいのですが、豆腐と豚ミンチを食べている感覚が強い気がします。

カレーライスもそうなのですが、甘口で作るので、「カレー味!?」という感覚になります。

なので、みんなが食べる朝食と夕飯は「甘口」で、昼食用はこみちの食べたい味にしています。

今朝、両親用に作った麻婆豆腐は、残念ながらほとんど食べてもらえませんでした。

二人分作って、半人前も食べていない感じです。

一方で、妻はとても喜んでくれて「久しぶりに麻婆豆腐を食べたかも!」と言ってくれました。

ここで同居の難しさ世代差を感じる!?

自分で作ったからということではなく、今回の麻婆豆腐のできは悪くなかったと思います。

まぁ100人が100人とも美味しいとは言ってくれないかもしれませんが、「不味くて食べられない」とは言わないでしょう。

でも、両親にとっては、習慣化した以外のことを否定する傾向があります。

料理にしても、美味しいかどうかの前に、「いつもの」が心地よくて、それ以外はあまり望まないということ。

例えば新じゃがの季節だから、コロッケでも作ろうと思っても、スーパーの出来合いが良かったりします。

大きなさつま揚げを2つに切り、それを皿に持っただけの料理?が夕飯に出て来ます。

手間を掛けて欲しいということではなく、多分、母親はもう夕飯を作りたくなくて、できれば食べるだけにしたいのでしょう。

でも性格的に料理を作るポジションを奪われたくもなくて、何か作ろうとするのです。

こみちにもできる料理をこみちがガンガン作ってしまうと、母親は嬉しく思わないでしょう。

なので、こんな風に作るとレパートリーも増えて、食事が楽しくなるというような流れにはなりません。

一時期、宅配サービスを使って夕飯を賄おうという案もありました。

焼き魚や煮魚などを作るくらいなので、母親の料理のレパートリーはそう多くありません。

でも宅配サービスを使いたくない母親の気持ちもあって、結局は何となくで毎食を作っています。

こみちにすれば、グラタンとかハンバーグも作りたいのですが、市販品を使うというのが約束事になっていて、今の市販品は十分に美味しいものの、「作りたい」という気持ちは満たされません。

考え方の違う世代が一緒に暮らすとは、当然ですがこんなことが起こります。


「ラッキー」はどこからやって来るのかを考えた話

 運のいい人はいるのか?

運が均等に巡って来るとして、でも「運がいい」という人がいるように思いませんか。

例えば、受験生が試験を受けて、合否を待っていたとしましょう。

成績がギリギリで、正に1点が大切という状況です。

すると、「合格」という大きな結果も「1点多かった」ということで手にはいります。

つまり、「1点」というラッキーがどのタイミングで巡って来たのかによって、結果が大きく変わってしまいます。

一方、10個入りの肉団子を3人で食べて、自分だけ「4個」食べられた。

確かに他の人よりも「1個」多かったのでラッキーに変わりありませんが、このタイミングで良かったのかというと、アンラッキーなのかも知れません。

自分にとって運命を決めるような場面に巡って来たラッキーは、同じ1回だとしても影響が大きく、日常の些細な場面ではラッキーにも気づかないかも知れません。

「嗚呼、そうそう傘を忘れるところだった!」

電車から降りる時に、脇に置いた傘を忘れずに持って帰れたらラッキーですが、もしかするとそんな「気づき」は形を変えたラッキーなのかも知れません。

傘を忘れなかったことが、どれだけ「ラッキー」なのかは人それぞれですが、お気に入りだから本当に助かったと思う人もいれば、そろそろ買い替えを考えていたタイミングで、ラッキーをここで使って勿体ないと思う人もいるでしょう。

「いいこと」をする

何かいいことをたくさんすると、それがポイントのような感じで、「ラッキー」と交換できたら面白くないですか。

ただ、「いいこと」というのは、自分のためではなく、誰かのため。

そして、その誰かにとってどれだけ「価値あること」かが大切だとしたら話は変わります。

例えば、さっきの場面で、傘を忘れて残念だったとしましょう。

でもその傘が巡り巡って誰かに使われることになり、その人にとても役立ったとします。

するとその人は誰かに話はしなくても、「この傘を使うようになって何かラッキーだよな」と思ったとします。

ということは、その傘はとても誰か役に立ったということ。

傘を誤って忘れたことで。

つまり、ある場面だけでみると、それはアンラッキーなこと。

でももう時系列を広げると、アンラッキーな出来事がラッキーを招くキッカケになっていたりします。

ラッキーな人とそうではない人の違い

自分がラッキーな人ではないと感じるのは、些細なことにラッキーを使って、それが別の誰にも役立っていない人です。

一方で、ラッキーな人は、知らない誰かにラッキーと思えることをたくさん提供し、ポイントがたくさん集まってさらに望むようなタイミングでラッキーを引き寄せます。

例えば、「この試験に合格したい!」と思った時に、1点の重みに幸不幸を感じる人がいました。

でもラッキーな人はもう少し前からラッキーを引き寄せていて、例えば自分の性格や勉強スタイルに合った先生や学校と巡り合っているのです。

もっと逆算すると、高校受験では第一希望ではなかったけれど、その3年間でいろんな経験をし、本当に叶えたい夢が見つかった時にラッキーを引き寄せられたらどうでしょうか。

それとは違い、高校受験で1点の重みを感じて希望校に入れた後、その学校に馴染めずに何となく卒業した人は、あるタイミングで冷蔵庫にプリンを見つけて「ラッキー」を使います。

馴染めないこと以外は、特に不満もない生活を過ごしているので、アンラッキーな人生ではないでしょう。

でも、不合格という結果から運を引き寄せて、結果的に大きな夢を掴んだ人はいろんなことが合ってもラッキーに思える人生です。

ラッキーをどう引き寄せるか?

何か上手くことが進んだ時に、「良かった」と満足する一方で、「ラッキーをここで使った」と自覚しなければいけません。

特に個人的なことだとしたら、ラッキーポイントは減っただけです。

せめて、誰かの役に立ってくれたら、あとでポイントが戻って来るかも知れません。

ある場面で思うようにことが運ばなかった時、「アンラッキー」だったと思ってはいけません。

ここで考えるべきは、「なぜ思うように運ばなかったのか?」を考えること。

例えば志望校に合格できなかった時に、最後の最後まで頑張り抜けなかった自分が原因なら、「頑張り抜く大切さ」を学んだはずです。

次は頑張り抜き、それでダメなら仕方ないと思えるまでやり切ってみることです。

もう一つは、その方法しかなかったのか?ということ。

つまり、志望校を選んだ理由が何だったのかということ。

別の方法や別の選択肢が自分にとってさらに良かったということもあります。

つまり、志望校に不合格だったことがアンラッキーではなく、ラッキーのキッカケになっているパターンです。

そしてその後に本当に望む結果を得られたら、それはトータルでラッキーを引き寄せたことになります。

思うにラッキーは誰にも同じくらい巡って来ていて、でもそれをどこでどう活かすかはそれぞれで違います。

意味ないことや個人的なことに使っていると、肝心なタイミングではラッキーがやって来ません。

ここまでやり切ったから、あとは結果を待つだけだというくらい願っていたら、ラッキーを引き寄せることができるかも知れません。

もしも叶わなかったとしても、経験値や知識、周りの人の温かさに気づくことでしょう。

「残念だったね。でもよく頑張った」

そんな風に誰かに思ってもらえたら、「頑張る意味」をその人に伝えられたはずです。

何より、今に悩む人がいて、「頑張ってみようよ。昔、めちゃくちゃ頑張ったけど失敗して、その時は落ち込んだけど、今はいい経験だったと思っている」と、きっといつか話せる時が来ます。

成功体験ばかりが大切なのではなく、失敗から学び、今がラッキーになっていたらそれが一番です。

何もかもに満たされることをラッキーと呼ぶのではなく、「今日も一日、ありがとう」と思えるようになれば、ラッキーは大切な時に巡って来てくれると思います。

対等な関係であるために『意地を通す覚悟」とは?

 たとえ非効率だとしても

例えば、正論や正攻法ではなくても、その人の生き方としてのこだわりなら、意地を通して生きるのも否定しません。

ただ、それで押し切って欲しいという希望はあります。

その時、「そのやり方では厳しいですよ!」と言われて、「いや、自分のこだわりなので」と言ったなら、それは自身の「スタイルを尊重する」という部分に考えを向けるのではなく、「厳しい」と指摘された部分に対しても「でも変えるつもりはない」と検討しなければいけません。

実は昨晩のこみち家の話ですが、こみちたちは午後8時晩御飯を食べます。

それまでは同居する両親たちの食事時間だからです。

少なくとも、7時前には晩御飯を作り始めておかないと、食事時間と使った食器を洗って片付けるまでを8時に終えられません。

しかし、8時前まで食べている様子がなく、「もう終わったのか?」と思っていたら、作る時間もやる気もないから「弁当でも買って来る」と母親が言い出しました。

まぁ「母の日」ですから、その日くらい誰かが用意してくれたらとでも思ったのかもしれません。

最も、朝食はいつも通り、こみちが作りましたし、昼も何か惣菜などで食べているようなので、晩御飯を作るにしても買って来るにしても、負担が大きいということではなかったでしょう。

しかし、母親の立場になれば、毎日、仕事もして家のこともして、晩御飯も作ってというスケジュールにちょっと疲れを感じたのかもしれません。

つまり、5年前、10年前にこのままでは厳しいから「生活を見直そう」という提案に、「いや、自分たちの生き方がある」と言い切ったのは両親でした。

それ以降も、「厳しい」と感じる局面が何度もあって、その度に例えば「午後8時」という約束を破ることで、自分たちの生き方誤魔化しながら押し切って来ました。

極端な話、「約束」はこちらのスケジュールや予定を決める根拠なので、簡単に破って欲しくはありません。

しかし、そうすることで、両親が自分たちの生き方で生きられるなら譲る気持ちもあります。

ただ、今回の件で、ギリギリのタイミングまで自分たちだけで問題を抱え込み、最後に「できない」という結論で放棄してしまうのは、ちょっと心配したい状況です。

「意地を通す」なら、必死になってでも通し切って欲しいのです。

年を重ねてくればそれが大変になるのは誰もが知っていることで、だからこそ、「(そのままでは)厳しい」という話だったので。

「そんな話あった?」

最近、この件ではありませんが、上手く行かなかったりするとこんな言い訳を使います。

「知らない」「記憶にない」

似た言葉として、これらも使います。

本気でそうなのかもしれません。

でも、「老い」とはある意味でそういうことが起こり、だから少しずつ生き方を見直さなければいけないのです。

でも「今」しかない両親は、「過去」から学ぶことも「未来」を予想することももうできないでしょう。

「だから言ったのに!」

「あら、そう!?」

そんな会話しかなくなってしまいます。

「美味しそうだからイチゴを買って来たの!」

自分たちが思う「今」に思いつくことはまだできますが、「何時まで終わらせるために何時から始めなければいけない」というような予定が立ちません。

ここまで老いてしまう前に、もっと積極的にこみちも両親の生き方に干渉するべきだったのかもしれません。

「コレはしたの?」

そんな風に管理したくないし、自分たちで考え相談して生きて欲しいという想いだったのですが、今となっては何も両親の生き方に変化や改善はなかったので、自主性を尊重した時点で、そのままの生き方を続けて来たということでしょう。

「自由」と「責任」という言葉がありますが、そのどちらかだけでは上手く継続できません。

「自由」を得るからこそ、そこに「責任」や「覚悟」もあるわけで、ずっと昔にそんな話をした時にもあまり意図が理解できていなかったのは、「自由」だけ、「責任」は…という考え方から変えられなかったのでしょう。

最近、父親を見て、現役時代もこんな感じで生きて来たのだろうか?と思う行動があります。

例えば、何かすると周りがどんなに邪魔に感じていても、譲るという気持ちや遠慮する気持ちを示しません。

「もう少しなので」

譲る気がなくても、そんな風にひと言言えば、相手の印象もかなり変わります。

何より、逆の立場になれば、「使いますか?」と場所を譲ってもらえるかもしれません。

与えられないと機会も減り、さらに状況判断が悪いので「マイペース」しかできない。

そんな風に社会や会社で振る舞って来たのかと。

「家族だから」という言い訳も、こみちだって社会経験があるので、意図して省いたのか、もう状況判断できていないのかくらいは気づきます。

「母の日」は、テレビでも何度も放送されていて、「そうか、今日くらいは…」と父親が母親のために「弁当」を買って来てもいいはずです。

何もこみちの分までとは思っていないので、二人でそうやってくれたら、あとは勝手にこみちたちの分は済ませます。

でも、いつものように自分のペースでテレビを見て、時間が来ても用意しない母親がいても、永遠と待つことで「責任」を果たしている気分になってしまう。

「受け身のままでは生きられない」ということをずっと伝えているのに、自分がそうだとは思っていないのか、それではまわりも大変だということに気づいていないのでしょう。

それこそ、先に母親に介護が必要になって、父親が何か介護できるのかと心配です。

具体的な行為以前に、母親の存在を消してしまわないかと。

『ズル』を『得した』と思ってしまう人間性

 『ズル』の正体

なぜ列に並ぶのでしょうか。

思うに、横入りする行為は、一部の人が行うから成立するのであって、全員が横入りしたら、その場は混乱し、収集がつかない状況になるでしょう。

そして、結果的に「列に並んで」という方法が行われないようになり、全く別の方法に切り替えられるかもしれません。

「自由な選択肢」が一つ、二つと減ってしまうと、段々と選択肢ではなく、強制的な手段だけが残るので、ある人からすると何だか不便な世の中になったと感じるはずです。

つまり、「列に並ぶ」という行動を集団として成立させられるのは、それを守らないことで結果的に自分自身にとっても不便な世の中になると判断して、若しくはそう教えられたことを守って、順番待ちするのでしょう。

例えば、「列に並ぶ」という行為も、そこに友だちを発見し、声を掛けて話ている内に列に後から加わってケースだって無いとは言えません。

わざとではなく、流れの中で起きた行動ですが、後方で待っている人にすれば「横入り」に見えてしまいます。

列に並んでいる時に、どうしてもトイレに行きたくて、前後の人に事情を話、一度列から離れた後に、戻って来たらどうでしょうか。

列に並ぶ全ての人に説明していないので、知らない人には横入りに見えるかもしれません。

しかし、規則を厳密にすると融通が利かない世の中になりますし、厳密にしなければ、横入りに見える行動も無限に増えます。

規則正しいだけでは成立しませんし、モラルがなければそもそも列に並ぶ方法が成り立ちません。

つまり、「ズル」というのは、グレーな部分で、肯定も否定もできるという曖昧さがあります。

一度でも「アウト!」と言われた後に

列を見つけて、結果的に横入りと判断されて、途中から並ぶのを拒まれたという経験をした後、別の機会に同じような列を見つけて、どんな行動をするでしょうか。

一度、拒まれたから知り合いを見つけて言葉を交わしたけれど、そのまま列に並ぶのはやめて、最後尾に並び直すかもしれません。

もしかすると、前回は拒まれたけれど、今回はそんなことを言われないかもしれません。

一回目の後、二回目の行動で、その人の人間性が明らかになります。

例えば、学校や会社のような顔ぶれが固定された集団で、二度三度同じ否定を受けると、その人に対する評価は自然にできてしまいます。

成熟した社会なら、面と向かっては否定されませんが、やんわりと促されるでしょうし、管理者がいれば、肩を叩かれるかもしれません。

そこまでされた時に、この方法は拒まれると理解し、改められたら、それはもう学習できたということです。

しかし、何で自分だけと、個人的に否定されたと感じて、「損をした」と思ってしまったら、冒頭でも触れた「列に並ぶ」という方法が禁止されない限り、事態に向き合えないでしょう。

便利なものや状況があると、それを有効に使うことは当然のことです。

状況を誤認し、間違え方法を取ってしまうこともあるでしょう。

しかし、注意されるというのは、まだその人に話してもみんなが大切にしているルールを理解してもらえると思うからで、それが完全にできないとなれば、それこそ管理人を設けてコントロールしてもらわなければいけなくなります。

手間が増えるばかりか、気軽さも失せてしまうので、「最近、不便になった」と感じることが増えるでしょう。

自分で考えて行動することができず、常にルールというものがあって、それに合っていなければ否定されてしまう。

「ズル」をしてしまう人は、それがうまく通ると「得」と感じるのでしょう。

正式に列に並ぶと、1時間は掛かるのに、ズルをして15分でできたら「得」だと思うからです。

でも1時間という時間を大勢の人がルールとして待っていて、それは規則ではなく、自由に生きるためにやむを得ないとして受け入れていることでもあります。

しかしながら、小手先でズルしてしまう人は、他人がルールを守って生きている意味を理解出来ません。

今後は段々と日本でも格差が生まれてしまう!?

格差というと否定的なイメージが浮かびます。

頑張っているのに、上手く行かない不器用な人がいるからです。

一方で、ズルをして得することばかり考える人もいます。

正式な方法が面倒で、テクニックとは違う方法で、ルール違反を行う人です。

一回目は、誤認や誤解、そんな言い訳を社会は寛大に受け入れてくれるかもしれません。

でも、生き方が変わらなければ、同じ方法を繰り返してしまいます。

すると、顔ぶれが固定された集団でいると、評価が下がり信用や信頼を失います。

何かあった時に、格差ではなく、自然な流れで行き場を決められてしまうのです。

「この人、ズルするタイプだな」

そう分かれば、自然にまわりから人は離れ、残るのはズルに気づかないか、ズルに気づいてもなお寄り添ってくれる人だけです。

そこで人の優しさに気づければいいですが、どうやら気づくということはとても難しい行為で、さらに自分を見直して生き方まで変えるのは、相当の覚悟が必要です。

「口では何とでも言える」と言いますが、苦労を伴わないことは誰でも気が向けばできます。

でも苦労をして全うするということは、覚悟というものも必要ですが、置かれた立場や状況を冷静に判断することが大変です。

「ズルしないで列に並んだんです!」

そんな人がいたら、驚くでしょう。

「それ自慢?」とつっ込むかもしれません。

サラッと当たり前のこととして済ませられたら楽ですが、ズルするタイプの中には、「すごいね」とか「よく頑張りました!」と褒められないと満足できないタイプがいます。

ズルしないで「損」した分、褒めて「得」をしたい。

そう考えてしまうからです。

結局、ズルして「得」と感じる感覚は変わっていないので、それを直すことが簡単ではありません。

ほぼ不可能でしょう。

行為を制限するという方法はできても、列に並ぶというルールの意味を理解できないからです。

今回は列に並ぶを例にしましたが、その状況で「その場から逃げる?」というタイプは、もうどう説明しても頑張れないでしょう。

頑張ってもらうのに、まわりが必死で励まして、持ち上げて、それでやっと半人前のことができるという感じだからです。

この年になってやっと「謙虚」という意味を理解できました。

誰かのように上手くできないなら、せめて「謙虚」ではありたいと思います。



家庭内での役割と介護予防の話

 介護予防とは?

改めて説明することでもありませんが、中高年になると日常生活の過ごし方がその後の暮らしに影響を与えます。

病いや事故などを除いて、適度な運動や計算、記憶力アップなどの習慣があると、複合的な状況判断にも役立つと思います。

高齢者の傾向として、若い人と単体での作業はわずかでも、複合的で同時に行くつもタイミングを考えるような作業では、明確に違いが起こると言われてます。

実際、「待つ」という動作は、じっとしているということではなく、「行こう」と高ぶる気持ちを冷静に沈め、今がそのタイミングなのかを判断しなければいけません。

車の運転をしていて、細い道で行き違うような場面で、どこですれ違うと互いに負担が少ないかという冷静な判断は、どうしても高齢者ほど苦手になりやすいとも言えます。

とにかく行けるところまで進み、どうにもならない時に考えるという思考パターンには、「待つ」という判断がありません。

ある日、狭い道で対向車と鉢合わせになり、何となくの目配せで行き違うポイントが決まったと思った時に、さらに先から別の車が一時停止することもなく割り込んでしまうという場面を見ました。

もしも3番目の車が来なければ、至ってよくある譲り合いの場面ですが、その車がタイミングを見出してしまったことで、片方の車はさらに狭い道をバックし、譲るべきポイントを変えなければいけなくなったのです。

ここで何が言いたいのかというと、「加齢による影響」とは身体的な老化現象ばかりではなく、特に日常生活の複合的な判断に弱くなることで、何でもないことが難しくなり、結果的に困難なことになってしまいます。

日常生活を見直すこと

これまでの生活スタイルは、何らかの選択を繰り返しながら作られたものとも言えます。

まだ判断力も対応力もあった年代なら、そんなライフスタイルでも構わなかったものが、判断力や処理能力が低下した年代になると継続ができないということも起こり得ます。

そんな時には「日常生活の見直し」が欠かせないのですが、例えば運動習慣を取り入れるなど、特に誰かからアドバイスを受けなくても改善点は思いつくものです。

こみち自身も脳トレアプリを一年くらい前から続けていますが、計算力など知らぬ間に低下していた作業が少しずつ改善されているのを感じます。

こみちがこのアプリを始めたキッカケは、両親の認知予防のためで、実際に自分で試して良かったら勧めようと思ったからです。

それで両親に勧めたアプリは続きませんでしたし、書店で買ったドリルも使ってはくれませんでした。

「まだ大丈夫だ!」

そんな風に二人とも言っているのです。

「大丈夫」というのは、「待つ」という苦手な動作から考えると、「行けるところまで行こう」という思考パターンと同じで、なぜ脳トレのようなことが必要で、少しでも予防をすることでこの先の暮らしが変わると言われても、「待てない人」になっているのです。

つまり、自分のタイミングで何かするのはできても、「予定の時間が来たら作業を中止する」とか、「何時になってから出掛ける」ということが段々とできなくなって、「今すぐ」とか「思い立ったら」で行動してしまいます。

例えば父親は午前中に病院に行くのですが、自分の中で出掛ける時刻があるらしく、その準備をしたらテレビを見て待っています。

その意味では「待つ」ことができているとも言えるのですが、母親が父親の分も含めて洗い物や洗濯物を干すなどしていても、関わろうとはしません。

なぜなら、それらをすると予定通りにならないと思っているからです。

「待つ」と言えば、それ以外全てを放置するのでは、結局は「一つだけ」しかできていないことになります。

そうではなくて、動作を複合的に進行させる生活スタイルが介護予防にも必要なのです。

お風呂のお湯が溜まるまで、洗濯物を畳むというような同時進行を若い頃同様に続けることで、高齢者に起こりがちな「苦手作業」を軽減することが大切です。

しかし、両親の反応でもそうですが、「〇〇だから、始めてみたら?」と勧めても、それを理解し行動に移すことができません。

一個だけ残ったものを使ってから新しいものを使うということができなくて、使いっぱなしの半端な残りものがとにかく多いのです。

こみち家で言えば、ドレッシングなどがそうで、まだ3分の1くらい残っていても、新しいものが開封されて誰かが使っています。

焼き肉のタレが冷蔵庫に2本もあったりと、準備がいいのか、忘れているのか、とにかく「何でこんなにあるの?」と思うほど、スマートではありません。

こみちも妻に言わせればかなりズボラな生活なので、こみちが「コレは…」と思うレベルはかなりの状況です。

母親の料理は家事の分野、それとも介護予防!?

昨日、母親が野菜炒めを作ってくれました。

少し食べたのですが、ちょっと考えてしまいます。

というのも、焼き肉のタレで味付けしたのでしょう。

それなりに味はついています。

でも、例えば豚肉の臭みを消すために日本酒を少し使ったり、塩コショウを振ったり、肉が硬くなってしまうまでに加熱を終えたり、当たり前というか、それを気にしない母親の料理は「…」な感じです。

もちろん、食べられますし、それでいいと言ってしまえば特に不満に感じない人もいるはずです。

「作ってもらう」という母親としての役割という意味では尊重したいですし、介護予防の一環としてできることを少しでも長く続けて欲しいという意味でも、残しておきたい母親の役割です。

しかし、「昔からこんな感じだったのか?」と思うほど、毎回というか段々と下手になっている気がします。

つまり、料理もタイミングなので、その時に何をするべきという判断が鈍って来ているのでしょう。

「もう作らなくてもいい」と言ってしまうと、母親としてのやりがいを奪ってしまうことにもなりますし、そうなった原因が「老化」にあるとすりなら、母親にとっても寂しく感じるでしょう。

だからこそ、脳トレアプリを始めて欲しかったということなのですが、それを意識して行動することができないので、なるようにしかならないという状況です。

その内、塩コショウもやめて、全く味付けしていない料理が出て来るかもしれません。

その時は、母親だけで作るのではなく、一緒に作業するというような方法で、介護予防をしなければいけないでしょう。

たまに母親の手伝いをしますが、手伝うと母親はその場から離れて、別のことを始めます。

作っている料理以外の料理を始めたり、お茶を入れて座って話続けたり、気を使っているのかもしれませんが、ペースが狂ってしまうことが嫌なのかもしれません。

できなくなってしまうことを察して、自分なりに対策や生活の見直しをできるといいのですが、別の誰かが手を出すとどうしてもペースは乱してしまいます。

全体を見渡して行動してと言われも、段々とそれが苦手になって行くのが加齢現象なので、準備のタイミングが遅れてしまうと後追いになってしまいます。

「できなくなって」というタイミングになり、介護予防ではなく、介護そのものになってしまうのです。

高齢者になって考える話というよりも、中高年と呼ばれる年代になったら、「今」だけではなく「できなくなる」という中でも生きられる方法に目を向けて考えなければいけません。


ゴールデンウィークも終わった訳ですが…

 若い世代に伝えたいこと

人生も折り返しどこかか終盤を迎えて、「人生とは何だったのか?」何となく答えが見つかりました。

先ず、人生は病いや事故など、想定外のことが起こらなければ、80年から100年くらい生きられるかもしれません。

とは言え、成人してからを基準にすると、健康的に活動できる期間はざっくりと『50年』くらいになります。

つまり、今の仕事を辞めるならできるだけ早く方向転換し、そこで時間を掛けるよりも「稼げるレベル」まで何か成し遂げた方がいいと思います。

ただ、正直な話、これだけ時代の流れが早い現代で、「これだけで大丈夫」と言えるようなスキルは明言が難しいでしょう。

そこで、もう一つ手前の段階に目向け、「仕事とは何なのか?」という意味で2つの答えを見つけることができます。

1つが、やはり得意なスキルを探すこと。

もう1つが「役に立つ」という視点で仕事を流動的に探すこと。

そんな風に感じるのです。

さらに説明を加えると、例えば自動車や重機の運転など、未経験からでは扱いないスキルも世の中にはたくさんあります。

これは「スキル」探しにも重なるのですが、「スキル」が目的や目標ではなく、それを使って誰かの役に立つ方法を意識することです。

つまり、どんな分野でもとても有能な人がいて、彼らのスキルはとても高いのです。

しかしポイントは、仕事として役立つことなので、決められた時間にその場所に来ているとか、言われた作業を実際に処理できるとか、誰かに代わってやり遂げることこそ、求められていることです。

理屈や理想はいくらでもあって、でも実際に「成し遂げた」ことが仕事なのです。

なので、難関資格でなければ役に立たないと思い込み、長く準備期間を設けるのも生き方ですが、改めて冒頭でも触れたように積極的に活動できる期間は有限なので、自分の人生はどこに意味を持たせるのかを見失わないことです。

サラリーマンなどで3年、弁護士や医師で10年。

簡単に言えば、それぞれの分野で一人前になるまでそれだけの年月は必要です。

1年で転職すると、転職先でまた1から始まります。

つまり、転職が悪いことではありませんが、最初の3年は「サラリーマン」として一人前になることを達成しておくと、転職後は1からではなくなります。

もちろん、何も考えない「3年の勤務」が大切なのではありません。

人によっては、その業界の作業を、組織としての運営を、経営者としての経験をと、異なるでしょう。

作業手順を身につけるとは、機械や道具の扱い方をマスターすることばかりではなく、どこに大変さがあって苦労しているのかという「業界特有の課題」にも気がつくでしょう。

つまり、その会社を離れた時に、未経験の時はどんな会社なのか全く分からなかった人も、「あの作業はどう処理する会社なのだろうか?」と別の会社を探す時に新たな指標ができます。

また、その課題を簡単に克服できるツールを開発できれば、それを軸に会社を起こすことだって見えて来ます。

でも大丈夫!

さも分かった風なことを書かせてもらいましたが、時間はある意味で止まることなく過ぎて行きます。

どんなに悩んでも悩まなくても、同じ時間を過ごした人生ということに変わりありません。

だったら、いろんな立場や世代の人と交流し、楽しく生きる方法を探すことです。

海外が気になるなら、それを目的に資金を貯めて働くというのも悪い選択ではないと思います。

なぜなら、活動できる期間が終わってしまうと、どんな人も自分の足で5キロも10キロも歩いて移動できなくなって、段々と変化のない毎日を過ごすようになります。

「何かしたい!」と思ってもできなくなるので、できる時にこそやってみた方がいいと思います。


不器用な人がパニックになぜ陥るのか考えてみた話

 いきなり核心へ

いわゆる器用な人は、どんな場面に直面しても上手く立ち回ることができる。

一方で、不器用な人は、予想外の状況になるほどパニックを起こして身動きできないらしい。

少なくともこみちは不器用な人間で、器用に立ち回れる人を尊敬している。

しかし、器用な人が「上手く立ち回る」ことができてしまうのは、なぜだろう。

不器用なりに思いつくのは、状況判断することを最初から諦めて、「思ったまま」に行動しているからではないか。

または、万能な対処法を持っていて、先ずはそこに起こった問題を当てはめることで、冷静に考える時間を稼いでいるのではないか。

それとも、こみちなどよりも地頭が格段によくて、短時間でも状況判断から対処まで行えてしまうからなのか。

そんな風に考えた。

こみちがパニックになるのは、予測している状況からかなり離れた場合で、その変化に追いつくまで身動きできなくなったからだ。

「ええッと…」

そんな風に状況を観察している間、側から見ればパニックを起こして何もできずにいるように見えるだろう。

もちろんすぐに状況を把握できる訳ではないから、「あああ、そうだ。状況を観察しなきゃ!」という間は、完全にフリーズしている。

こみちの場合、案外簡単にパニックになる。

目の前に2つのケーキがあって「どちらでもどうぞ!」と勧められた時でさえ小さなパニックになっている。

理由は、そもそもどちらが食べたいのか明確に決められなくて、しかも残りをその人が食べるのだとしたらどちらが食べたいだろうと想像の範囲を広げてしまう。

だから「こっち!」とすぐに答えることができなくて悩んでしまう。

特に自己解決できない類いの悩みなら、考えても無駄なのにあれこれと想像し、またタイミングを合わせようとしたりして、なおさらすぐには行動できない。

ではここでもう一度、器用な人がパニックにならない理由を振り返ろう。

そもそも地頭がいい人なら、パニックにならないのも頷ける。

状況判断を放棄して、思うがままに行動する人の場合なら、こみちにできるのは余計な心配をしないで自分本位で通すことだろう。

そして、万能なエスケープを用意して、そこに一度落とし込むという場合には、そのコツを見つけることだろう。

例えばこんな時に…

介護士として働いていた時に、利用者たちを短時間で入浴させるのはこみちが苦手としていた作業だった。

そもそも、お風呂に入るのに、忙しなく急がされて入る利用者を思うと、少しでも余裕を作ってあげたくなる。

一方で、少し離れた出入り口を見れば、順番待ちしている別の利用者が退屈そうに待っているようにも見える。

「少しでも早くしなければ…」

そう思った時に、心の中でパニックが起こってしまう。

「急げばいいのか? それとも…」

もう一つ思っていたのは、入浴前と後にある衣類の着脱だ。

素早く行うにはコツがあって、それは介護士側だけではなく利用者の方もタイミングを合わせてくれないと難しい。

「さぁ、立ちますよ!」

もしも自分自身で衣類の着脱をしているなら、そんな声掛けさえしないで、ササっと済ませてしまう。

でも、「何しているの? 立つんでしょ?」とは言えないし、相手が聞き漏らしたら「さぁ、立ちますよ!」と同じ声掛けを繰り返すだろう。

そんな方法だと当然だが時間が掛かる。

手慣れた介護士を見ていると、ある意味で少し乱暴にも見えるけれど、結果的には上手く着替えさせている。

ただ、それがどんなに手際よくても、利用者の立場になると「入浴は気を使うなぁ」と思っているはずだ。

つまり、器用な立ち回りって、全く同じことを同じ手順でしているのに差ができる訳ではなくて、見えない所や後で修正できる部分をカットしていることも多いと思う。

経験から言えるのは、やっぱり手順通り行えば誰がしても大きな差はないと思う。

手際の良さは、それだけカットしなければ実現できない。

ここまでこみちなりにパニック回避の糸口を探してみたけれど、相手もいて、その人が「嫌に思ってしまうのではないか?」という時ほど、解決策に困ってパニックになっている。

例えば、料理を作る作業は割と苦ではないし不得意でもない。

「カレーを作る」と決めて、パニックになることはほとんどない。

理由は簡単で、自分のペースで、タイミングも確認も自由にできるからだ。

例えば、同じ作業を誰かと一緒にするとなれば、「どうしますか?」というような会話が必要になる。

そして「コレをするので、アレをしてください」と指示されればいいけれど、「どうでしょうか?」と曖昧に返答されたら、その場は完全に停滞してしまう。

というのも、ある状況でも、こみち自身が思う「納得のライン」があって、そこに到達するには必要な行動や手順がある。

でも相手もいればその人に合わせなければと思うし、捨てきれない「納得のライン」も心の片隅に残っている。

「いいのかなぁ…。全然違うけど…」

そんな風に感じた時のパニックは、「納得のライン」を早々に捨てて、「やむを得ないですね」と思うしかなさそうだ。

でも、そんな不完全な仕上がりで本当にいいのかという状況と、相手がまだその状況を理解していないだろうと予測した時ほど、心の整理に時間が掛かる。

パニックになってしまうこみちの場合、揺るぎない決断力に欠けるので、「どっちがいいですか?」と言うような問いかけを答えられない相手にも繰り返してしまう。

「やっぱりできなかったですね!」で終わりたくないから、このままで本当にいいのかとギリギリまで自問して、パニックを長引かせてしまうのだ。

何なら遊びに出掛ける時でさえ、よくお腹が痛くなるのも、「今日は楽しいだろうなぁ!」という期待に自分がついて行けるのか心配になってトイレに駆け込んでしまう。

いい格好したいのではなく、残念な気持ちでは終わりたくないから、悩んでも仕方ない部分まで想像してストレスを抱え込む。

そんな期待など放棄してしまえるのかが、パニックにならない境界線だろう。

ちょっと順番を変えるだけで、タイミングを合わせるだけで、物事がスムーズに進むと知っているから、だからこそそうでありたいし、そんな風に生きていたい。

でも、その期待値が大きくなり過ぎると、自分の手に負えなくなって、パニックになるという迷路に迷い込む。

そもそも、こみちはパニックになることが悪いこととは思っていなくて、今は一番こだわりたいことだけを優先して生きている。

選ぶことが難しい時は「どちらでもいいので、好きな方を選んでください!」と投げ返したり、一番近いものを選んだり自分なりのルールを決めて、大きな事柄や重大な事柄でない限り、日常的なものはパターン化して対応するようにしている。

余談だがある医療従事者から「君はエンパスじゃないのか?」と言われて、初めてそんなタイプの人がいることを知った。

もしもそうだとしたら、それこそパニックになってしまうのも仕方ない流れで、無理して解決しないで、「いやぁ、分からないなぁ」と返すようにしている。

理由を聞かれれば、悩んでいる状況を掻い摘んで説明し、判断できないことを伝えている。


「本屋」ではなく「図書館」に行ってみた話

 同じようでもちょっと違う本屋と図書館

久しぶりに図書館に足を運んでみました。

特にこれという目的もなかったのですが、本屋とは違い館内のBGMもなくてとても静かです。

ぶらりと一周回って、最初に手に取ったのは「ランニング系の解説書」で、古武術の技術をランニングに転じたものでした。

さらに、スポーツストレッチの本にも触れて、別の棚へ。

足を止めたのは「絵本」のコーナーで、1つはイラストとして眺め、また物語としてもページをめくりながら勉強させていただきました。

柔らかいタッチのものからリアルな表現までいろいろあるので、絵本を眺めていると良い刺激をもらえます。

その後、旅行系の雑誌、カメラの雑誌、陸上競技の雑誌を気になる雑誌を手に取った後、美術系の棚に移動して「デッサン」の解説書を眺めました。

ここまでで30分くらいでしょうか。

別の用事もあって、図書館を後にしました。

本屋なら、バイクや車、キャンプなどに加えて、英語や資格などのコーナーにも立ち寄ります。

小説も久しぶりに読みたくなりましたし、経済関連の書籍なども探したいです。

家にいて、インターネットを使えばいろんな世界や興味に触れられますが、それでも偏りがあって、興味があるのにあまり触れていない分野があります。

その点でも図書館に行くと、棚を眺めているだけで「気になるタイトル」がいろいろと見つかります。

しかも館内にはイスも置いてあるので、そこで読むこともできます。

暇な時に家でウダウダするくらいなら、図書館にでも行って、興味のありそうな本を手にとってみるのもありでしょう。


「高齢者」をどう理解するべきか?という話

 「高齢者」を理解するために「自分を見直す」

自身がすでに理解し認識している範囲内で導き出した「持論」を、誰から否定されたらどうでしょうか。

持論なので、そこに至るまでの思考プロセスには明確な理由や動機があって、言うなれば結果は自然な流れから行き着くものです。

一方で、否定にもいろんな種類があって、例えば結論に何となく納得できないというものから、否定するに至る根拠が明確なものまであります。

例えば、1から始まり10までの経験から導き出した答えは、その環境下では自然なことで、性格などで多少の違いはあっても、概ね同じような結論に行き着くとしましょう。

一方で、考える範囲が30から40までの人は、その前提が異なるので、結論にも違いが生じます。

その環境下で考えるとその人でなくても同じように考えるのでしょう。

「高齢者」も人によって違います。

1から10までということもあれば、100から110ということもあり、中には1から100まで経験している方もいるはずです。

それぞれに導き出す答えに差ができるのも、経験していることが違うからです。

そして、高齢者の特徴として、さらに1から10までの経験者が時に中間の2や6が抜け落ちてしまうことが起こります。

結果的にそれまでとは行動が変わり、以前にはしないようなことをするようになります。

ある意味、それが老いなので、年齢を重ねれば誰にだって起こります。

「人間だから違いはある!」だからどう接するのか?

言葉を交わすことで、して欲しいことやして欲しくないことを共有化することができます。

しかし、高齢者になると時としてその共有化が困難になっていることが起こります。

つまり、言葉でどんなに細かく説明しても、すぐにそれ自体を忘れてしまうので、言われたその時は納得しても、すぐに行動が元に戻ってしまいます。

結局はその人が思うように行動することしかできないので、選択肢としては「自分がどう合わせるのか?」という部分だけになります。

なぜそんな考えになったのか?

ここ数日で同居中の両親が見せる行動に、こみちは理解できなかったですし不満やストレスを強く感じました。

さらにいえば、どんなに気持ちを伝えても、最終的には何も汲み取ってくれず、両親の行動に変化は見られません。

むしろ、お願いした小さな約束さえ、無かったものとして扱われてしまうことで、余計に心が傷つきました。

興味深いこととして、両親も両親なりにストレスを感じていて、こみちの存在を心地よく感じていません。

理由を察すると、「なぜか意地悪する」という類いの存在なのでしょう。

つまり、両親にとっては至って当たり前のことをしている訳です。

それは二人の認識している範囲があって、そこ中で至る解決策としては間違えていないからです。

一方で、こみちの感覚は両親とは違うので、彼らの結論にも「ちょっと待った!」となります。

しかしながらすでに言葉では認識を共有化できないので、なぜそう考えるのかをどんなに言葉を変えても説明できませんし、理解されません。

ある意味では、もう共有化そのものを諦める段階で、実際にもこみちは両親の選んだ判断にストップを掛けることもしていません。

ただ、「これくらいなら…」と、お願いしたい些細なことを二人に告げた時に、やはり受け入れられずに落胆するのです。

「洗面所を使いっぱなしにしないで欲しい」と。

性格的に洗面所を使いながら、キッチンでも別のことをして、さらに別のこともあって、母親はいろんなことを同時にしたがり、別の言い方をすると他の人が何もできない状況になります。

食事の後に歯を磨きたいという行為が、1時間、2時間後でないとできなくなってしまうのです。

今、キッチンの排水口を母親が掃除してくれています。

毎回、こみちも同じ場所を簡単に掃除するのですが、問題は冷蔵庫や電子レンジの掃除はどうかということ。

排水口の掃除で、悪臭を防ぐことができるのも大切ですが、それ以外のことは無視していいものではありません。

つまり、母親に言わせれば「いつも私が排水口を掃除している!」というでしょう。

そして別の人は「そこ以外はしていないよね?」と感じるのです。

つまり担当を分担するなどで解決できることですが、こみちの理解できないのは「冷蔵庫」や「電子レンジ」を例に挙げても、驚くほど反応が無いのです。

夫婦仲でも性格の不一致みたいなことが起こりますが、ある人にはこだわりでも、別の人には無関心ということがあります。

そこを暮らしの中で解決しながら互いに協力することが大切になりますが、例えばこみち家の場合、その共有化ができなくなっています。

つまり、両親もこみちが思いつかないようなことを、とても上手にしてくれたりもします。

その範囲だけを見れば、両親の行動はとても有り難いものなのです。

しかし、別の部分から判断すると、頑張ってくれた行為も別の策でそもそも起こり得なくすることができたりして、もっと簡単に解決できるのです。

そうなると、認識や経験の違いによっては、受け入れられないということが起こり、さらに会話では理解し合えないので、互いが思うようにするしかありません。

あと5年早ければ、また違っていたのでしょうが、今となっては毎回不満やストレスを募らせるだけで、何も解決しないし、共有化できないまま終わります。


ここ数日で突きつけられた「現実」とこれからの話

 人の話を信じていない関係

自分の都合だけを考える父親と母親。

なぜ「冷やご飯」を残して、「炊き立て」を食べてしまうのかという話があった。

こみちだって大人なので、押し退けてまで我を通したい訳ではない。

なぜなら、ほとんど炊き立てのご飯を食べることがない。

朝は残った冷やご飯をチンして食べているし、夜はその日の朝に炊いたものをチンするから。

本当なら「今日は炊き立て食べたら?」と、週に一回くらい、月に一回くらい、思いついた時に言ってくれたら「大丈夫だよ。ありがとう」で終わる話だと思う。

でもそんなことを言ってくれたことは記憶に無いし、「チンでも美味しいよね!?」と言えてしまうタイプなのだ。

じゃあ、逆の立場でもそんなことを続けられるのかという人ではないから、「今日は…」と優しい気持ちを出して欲しい。

冷やご飯というどうでもいいことを両親に食べてもらうには、こみちも半分食べるから残りはお願いと言わなければ納得してくれない。

なぜなら、昨日のタイミングで「冷やご飯残して炊き立て食べるのはちょっとどうなの?」と言った時に、母親は「これは冷やご飯ではなく、炊き立てを移したものだよ」と真顔で答えた。

ちょっと説明が難しいけれど、嫌なことが100当あれば、50受け取らないと両親は受け取らない。

しかもその50も母親が被り、父親はやはり良いものを選ぶ。

結局はどう騒いだとしても、父親は根本的に何も変えない。

そして母親も根っからの負けず嫌いで、100%母親の責任だとしても素直に謝れない。

こみちも謝れないということを責めているのではなくて、謝らないことで失ったものも受け取る覚悟をして欲しいと思っているだけだ。

つまり、何か悪いことをして、「知らない」とか「自分じゃない」という言い訳や説明をしてもいい。

でもそれを聞いて、「この人は信用できない」と相手に思われることも受け止めて欲しい。

そこで「不幸な自分」を思うのは筋違いだと思う。

介護士経験のあるこみちだから、利用者の現役時代の生き方は問わず、「今」だけで介護する。

家族との関係やどんな風に生きて来たのかは、利用者が黙っている限りは現場の介護士には知られない。

その意味では、どんな両親だとしても作業としての「介護」はできると思う。

でも、「今までありがとう」といろんな意味で感謝して接することがどんどんできない自分に悲しみがある。

「こみちはこんなに苦しくて悲しいんだよ!」

そんな訴えもしたことがあったけれど、それでも両親の態度は1ミリも変わってはいない。

介護予防なのか家事なのか?

今、父親がリビングだと思うけれど掃除機を掛けている。

その掃除が、常識範囲でできていたら家事になるけれど、特定の場所だけを丁寧に、その他は一度もかけないのならそれは介護予防。

実際、父親がいつも陣取るリビング周辺は父親の私物が並んでいる。

最初は使う時だけ。その内によく使うものは。そして今は荷物で溢れていて、ここ一年くらいリビングのテレビをまともに座って見ていない。

なぜって、ずっとリモコンが父親の手元にあって、誰が見ていても平気でチャンネルを変えてしまうから。

家族全員で観ていた頃もあった。

でも、そんな父親の行動で、こみちは自室に戻ってそこで続きを見ることになる。

そんな繰り返しで、いつしかリビングにいる時間は段々と減ってしまった。

今はダイニングには来ても、リビングには行かないことも多く、行く時は父親も母親も留守の時にだけだ。

多分、自分の思う通りに掃除した父親は、「家事をしている」と思っているだろう。

それは他の家族が1から料理するのと同じくらいの手間だと思っているに違いない。

だから、「なんで家事をしないの?」と言われた時に、父親は介護予防と家事の区別ができていないから困惑する。

もしかすると困惑すらしていなくて、単純に騒がしいと思っているのかもしれない。

先日から何が変わったのか?

結論を言えば、何も表向きは変わっていない。

変わってのは、こみちの気持ちがまた両親から距離ができたこと。

昨日の晩飯

母親が作ったのは、肉じゃがです。

もう定番メニューになっているのですが、肉を入れるタイミングが全く変わりません。

つまり出来上がった肉じゃがのお肉はパサパサで固いです。

母親も父親も肉が得意ではないようで、それはもしかするとそのパサパサを食べているからではないかと思うのです。

軽く火を通して後から投入するとか、部材それぞれの煮込み時間は異なるので、そこを工夫する必要があるはずです。

「サッと炒めて皿に取っておくといいよ」

そんな手間はできないらしく、しかも「最初に炒める」というレシピが変わらずにあって、毎回、美味しくないのです。

言えば言うほど負けず嫌いな性格を出して、先に肉を入れることを頑なにやめてません。

冷やご飯の件であれだけ揉めたのに、その後に作る料理でも、やはり我を通して作ります。

負けず嫌いそのものは悪いことではないのに、頑張るところを間違えてしまうから厄介です。

しかもこのタイミングでも変えないあたり、他のことも同様にどんなに言っても変えないつもりでしょう。

そして本当に老いて、介護が必要になった時に、当たり前に世話されるのでしょう。

なぜ優しくしてくれていた知人たちが自分から離れて行ったのか、ちょっとでも振り返ることができたらいいのですが…。



なぜ「冷やご飯」には手をつけないのかという話

 「食べられるから…」

こみち家では、毎朝米を炊く。

とは言え、大体の日が昨日の残りご飯もある。

仕事や朝の予定もあって、こみちたちが先に食事をするので、必然的に「ピチしたご飯」を食べなければいけない。

一方で、両親は時間通りに行動するのが苦手で、7時半と言ってあっても段々と時間を変えて7時近くにはリビングで食事が終わるのを待っている。

もちろん、何か言われるわけではない。

ただ、テレビの音量は父親たち合わせて大きく鳴り、チャンネルもいつの間にか変えられていたりする。

こみちは食事中にどうしてもテレビ見ないと居られない訳ではないから、ふと画面を見た時にさっきまでの番組とは違っていると後で気づく。

「冷やご飯」も食べられるだけ有難いし、チンすればなおさら気にならない。

妻に食べさせるくらいなら、こみちが率先して担当するのも全く嫌ではない。

でも、それは気にならないのではなく、妻に嫌なことを押し付けたくないというエゴ。

そんな中で、母親が「冷やご飯でも食べられるんだから…」と言い出す。

しかも会話流れではなく、食べている二人を見て、そんな発言をするのだ。

「チンしているんだもん。ネェ〜」

母親が、他人よりも少し得としたい人だということはもう知っている。

こみちだってラッキーは嬉しいけれど、そのラッキーで明らかに嫌な思いをする人がいると遠慮してしまう。

どうしても欲しいものならともかく、譲れないかと自問すれば譲れることだから。

母親は、自分が損するのは嫌で、でも何かしてあげることに喜びを感じる一面もある。

唐揚げを作った後に、焼き魚も用意するのは、母親なりのエゴ。

食べきれないほど食卓に料理を並べることに喜びを感じる。

一方で、こみちは本命の料理は美味しく出したい。

スーパーの惣菜をチンして終わりにしたくなくて、例えば揚げ物は家で揚げてすぐに食べて欲しいと思う。

だから、キッチンまわりにもこだわりがあって、料理しやすい環境を作りたい。

でも母親は味見を頑なにしないで、食べてから「薄かった」「濃かった」という。

だからこみちが食べると、「???」という味付けもかなり多い。

それこそ長く主婦をしているから食べられないほど不味い訳ではないけれど、美味しい訳ではない。

「味見している?」

そんな会話も何度も繰り返したけれど、「味見したんだよ」と言ってくれたことはない。

いつも「ちょっと薄かったかも…」という。

冷やご飯に手をつけない父親

いつもの流れではなく、昨日の夜に炊き込みご飯ご飯を炊いたので、昨日の朝に炊いた白米がまだ残っていた。

こみちは父親が炊き込みご飯よりも白米が好みだと知っていたから、わざわざ「炊き込みご飯」を選んだ。

しかし、今朝に炊いた白米を父親がちゃっかり食べていて、つまり昨日の朝に炊いた白米が冷やご飯として冷蔵庫に残されている。

それに気づいたのは、今さっきのことで、昨日のご飯だと言えるのは容器が同じだったから。

美味しいか否かではなく、チンが面倒かどうかという意味かもしれないが、そんな時に「冷やご飯」を先に食べようという発想を父親はしてくれない。

見ていないとパッと先に自分好みのものを選んでしまう。

例えば、誕生日ケーキを食べるという時もそう。

誰かの誕生日で、先に自分だけ食事をした父親が、ホールケースの一部を食べていたということがあった。

「なんで?」と問い詰めたが、もう理由を知りたいのではなかった。

しかも、ケーキを用意するというようなことを父親ができないし、やってはくれない。

でも先に自分の分だけだから食べてしまったということだ。

誰かの分を食べたのではない。

父親にとって、そこが後ろめたさを感じない部分なのだろう。

つまり、「冷やご飯を先に食べる」というようなことを父親に期待しても無理だ。

母親も似たようなところがあるけれど、昨日のご飯が残されていたのはちょっと愕然としてしまった。

「やっぱりか…」

実は昨日の晩、父親から「まだ冷やご飯が残っている」と教えられた。

だから、父親は「冷やご飯」の存在を忘れている訳ではない。

でもいざ食べる時には、今朝の炊き立てを食べてしまうということだ。

つまり、「冷やご飯」の存在を教えてくれたのは、もう自分には関係なく「食べるならどうぞ」という意味になっていた。

実は朝のオカズは色の違う皿に盛っている。

理由は、それぞれに合わせてオカズの量を変えていて、母親が自分と父親の分を先に選んでしまうのを防ぎたいからだ。

「食べられるからいいよね」

母親のそんな言葉が意味するのは、同じような皿だから、「残りものでもいいでしょう?」ということなのだ。

変えている現場を目撃し、「もしかして変えてる?」と聞いた時に、「だってこっちの方が脂身少ないから…」と答えた。

どうも思いますか。

子ども頃に一緒に暮らしていた時は気づきもしなかったことですが、介護的な意味もあって同居してみると、両親は全く違う人に思えます。

そんな風にして「小さな得」に喜びを感じて生きて来たのかと思うと、こみちはちょっと悲しくなってしまいます。

母親は、思いつきで菓子パンを買って来てくれたりもします。

母親にとっての優しさの出し方です。

でも「買って来たから食べていいよ!」という母親ですが、毎月の食費は手渡しているので、それこそ奢りではありません。

でも不思議なもので、食費を受け取ったことはどこかに消えて、「買ってあげた」という気持ちだけが残っています。

毎回、「ありがとう」と言っている自分に悩みます。

高齢になると、いろんな症状が出て来るのでが、まだ介護の段階ではなくても「待つ」という行為が特に苦手なようです。

気持ちの昂りを抑えて、適切なタイミングで行動に移るというのは、特に両親が苦手としています。

もしもすると「炊き立て」をパッと取ってしまうのは、それが器用な人間の生き方と教えられて来たのかもしれません。

社会人として働いている時も、そんな感じだったら、肩身が狭い思いだったでしょう。

自分は自分らしくしているのに、自分のまわりに誰も寄りつかないと思ったのではないでしょうか。

こみちも親でなければ、もうさじを投げていたでしょうし、付き合いをやめていたと思います。

誰かの損をしている前提で、自分の得を遠慮せずに取ってしまう。

全てをそうしろとは言いませんが、大半のことをそうやることで幸せを感じてしまう人も不憫に思えてしまいます。


タイミングが分からない両親との暮らしの話

 洗面所で30分?

早朝、朝ご飯を作るのはこみちの分担です。

今朝は洗濯機も回したので、6時台は一人で慌ただしく働きます。

ところが、最近の母親は6時40分にはリビングに顔を出して、テレビをつけて洗濯機に自分たちの洗濯物を入れ、洗面所を陣取ります。

実際に洗濯機が始動するのは父親が部屋から出てくる7時過ぎで、それまで髪をとかしたりしているのでしょうか。

こみちたちは6時半くらいに朝食を食べて7時前にはダイニングテーブルを明け渡します。

食事をしたら、歯磨きも終えてしまいたい。

でも母親はまだ洗面所で何かしています。

他にもいろいろとしているとは言え、洗面所を使い出してそこを明け渡すのは父親が起きて来るタイミングです。

食事を終えても洗面所は使えずに、一度自室に戻るしかありません。

しかも、両親が食事中に洗濯機を動かし、タイミングを見誤ると洗濯物を干すという作業と本格的な化粧とが重なり、全てが終わるのは10時頃です。

今、父親が洗濯機がもうすぐ終わると母親に伝えている声が聞こえました。

このタイミングで歯磨きしないと、それこそ歯磨きするのは10時を過ぎてしまいます。

みなさんは、歯磨きしている時に隣で誰かが居ることに躊躇いはありませんか。

以前ならまだしも、こみちも社会人になって一人暮らしも経験してからの同居なので、家族とは言え、子どもの頃とは違います。

父親も母親もその辺りの感覚が変わっていないのか、放っておくと自室でも入って来るという有り様でした。

それをやめさせるのは、本気で怒ってやっと理解できたようですが、「家族だから」といいように解釈する癖は抜けていません。

自分たちのために買って来た食べ物を断りなく食べてしまったり、手をつけるだけつけて、それを「食べてもいいよ」と言ったり、こみちの感覚ではできないこともできてしまいます。

その関係性を「家族」というなら、こみちはこの「家族」という感覚が好きではありません。

でも両親は歳を重ねたからなのか、元々の気質がそうだったのか、こみちにはメリットを感じることがほとんどないのに、そのフォローを含めて何かしたい時に前を横切るようなことをします。

随分と状況を考えるように父親はなりましたが、それも根本的に状況を理解しているのではなく、「受け身」に出ることで全てを放置しているに過ぎません。

しかも根本的には状況判断できないままなので、風呂に入ろうと準備しているタイミングで風呂を使い出したりします。

着替えまで先に用意している脇に、自分の着替えを並べて服を脱いでいたのを目撃して、「誰かの着替えが置いてある」ことの意味が理解できないのです。

「風呂に入ろう!」という気持ちが優先されて、周りの状況判断ができません。

「こみち、風呂入ろうと思って着替え置いていたんだけど」

「そうか!」とは言っても、そのまま裸で浴室へと消えて行くのです。

やりたいことを譲れないので、父親や母親が動くと面倒なことになります。

7時過ぎに始まった両親の朝食ですが、8時近くになってやっと終わったようです。

そこから洗い物が始まり、既に終わっている洗濯物を干すので、やはり10時前後になってしまうでしょう。


なぜ成功を掴めない人は同じ表情を見せるのか?という話

 先日の格闘技イベントの感想で

格闘技に限らず、生きていれば運命的な選択肢がやって来ます。

そもそも選択肢を避けることもできますが、その選択肢を掴み取るために手を伸ばすなら、何らかの対策が必要だと感じます。

結論から触れると、掴み取った人はその対策が功を奏したわけですが、掴み取れなかった人には特有の表情があります。

具体的に何がこうだとは伝えられないのですが、選択肢に手を伸ばす前に見せていた表情とは全く異なり、もっと言えば自信や余裕さえ見せていたはずなのに、結果は出せなかったということです。

自信や余裕は、実際の立場とは異なり、出そうと思えば出すことができます。

特にプロスポーツ選手の場合、それがファンへのサービスになっていたりもするので、自信のない表情や弱音ばかりでは務まらないのかも知れません。

例えば、ランニングという運動で、1キロの距離を何分で走れるのかを「キロ〇〇分ペース」というような言い方を使います。

運動経験者ならキロ4分ペース前後。市民ランナーならキロ5分ペースという具合に、その数値で走力が分かります。

しかしながら、1キロの距離を走る時と、50キロの距離とではそもそも求められるスタミナが違います。

なので、1キロの距離をどれだけ速く走れても、50キロの距離をどれだけ速く走れるかは推し量れません。

自信や余裕を見せた人は「1キロ」での経験で、50キロに挑めば結果は全く想像とは違うでしょう。

つまり、そもそも自信や余裕は、経験不足故に持つものとも言えます。

なぜなら経験を重ねると、50キロ走を完走する時に欠かせないポイントがあって、それに対策を幾重にも施し挑むからで、早々に余裕は出せないからです。

自信は練習をやり切り、あとは本番で試すのみだという段階であれば、想像外のことに不安を感じるよりも、今までの練習や努力を振り返り、そこに自信を持つことはできるでしょう。

いずれにしても、やり切れないと自信も余裕も持つことはできません。

不運が重なり、対策が思うように発揮されずに失敗してしまうこともあり得ますが、そんな結末を迎えた人は失敗に落ち込むよりも、失敗から手ごたえを感じ、どこか清々しい表情で次回への意気込みがみなぎっています。

しかしながら、自信や余裕があるように見えた人で、挑戦した結果が失敗に終わった時に、同じような顔つきを浮かべるのは、自身も気づいている根本的な基本をお座なりにしてしまったからでしょう。

例えば、10キロ走を完走できるのかという挑戦で、どんなケースであっても成し遂げる覚悟をした人は、走力の向上だけでなく、天候やコース状況などにも余念がありません。

なぜなら、起こり得ることを事前に知ることで、失敗に落ちいるリスク回避しているからです。

一方で、「余裕でしょう!」と、一度もその距離を走ったことがない人は簡単に思ってしまいます。

確かに別の機会で同じくらいの距離を走れたと記憶していて、「同じようなもの」と思い込んでいるからです。

確かにそれでも上手く行く時があって、だからこそ努力や基礎をしなくなってしまうのかもしれません。

しかし、運命を変えるような大切な場面ほど、失敗ではいけないのです。

だからこそ、自分で補えることはできるだけカバーして、結果に結びつけたいと思うべきです。

対策ができて上手く行った人、運もあって失敗にはならなかった人もいるでしょう。

しかし、「これくらいだろう」と勝手に想像して失敗してしまうパターンは、何度繰り返してもなかなか直せません。

そして、そんな時に見せる表情には、どこか似ているものがあります。

「簡単だから出来そうだ!」ということでも、絶対に成功させるとなれば話は違います。

人生は上手く出来ていて、ポンポンと運よく成功できることもありますが、理屈や練習という裏付けがないとどこかで失敗し、それが大きな運命の別れ道ということも珍しくありません。

困難なことで出来たら凄いと思われることよりも、絶対にミスれない挑戦の方が何倍も厄介です。

プロとアマの決定的な違いは、安定感ではないかと思います。

一発の凄さではありません。

絶対に落とせない時に、落としそうになっても広い上げられるような粘りがプロということです。


他人は何に興味を持つのだろうという話

世に言う 「先生」という立場

「先生」と言っても、学校の先生とは限りません。

例えば「ランニング」や「カメラ」など、趣味に関することでも初心者が知りたいことを経験した人は「先生」に相当します。

こみちが「先生」ではなくても、これまでの経験を誰かに伝えられるとしたら「介護」というのが最後に加わったものかも知れません。

例えば「介護」を理解する場合、その視点はいくつかあって、先ずは介護される本人や家族に関すること、介護保険という公的制度のこと、介護施設や介護サービスのこと、最後が介護士として働くことに分けられます。

各項目からさらに詳細に分類されますが、このようにいくつかの視点から見ることで、初心者でも「介護」を何となく理解できるようになるからです。

つまり「先生」という呼び方が適しているかは別としても、物事を系統的に分析し、それぞれの問題点や課題を理解し、さらにその克服方法まで経験していたら、「経験者」と呼べるでしょう。

しかしながら、他人が「先生」としてその知識や経験を受け止めてくれるかはかなり大変なことです。

なぜなら、各項目に分類した内容を別の人は別の経験として理解し、言うなれば反論できる余地が残されているからです。

他人は何に興味を持つのだろう

例えば、「介護職」に興味を持った人がいて、「先生」と呼べるほどではない「経験者」から現場の話を聞いたとしましょう。

その時に「介護職は大変だ」と聞いたとしても、「大変さ」の原因がどこにあるのかまで理解できていないかも知れません。

これはよくある話ですが、製造現場の経験者でも、コスト管理までしていないと実際の利益まで知らないこともあります。

その立場で、仕事環境を見直そうとしても、その解決策が少し偏ります。

つまり、製造現場だけではなく、営業マンとして得意先の反応を知ることも大切で、さらに新たな製品の開発や活かし方まで視野を広げた方がいいからです。

このことは、どんな業界でも同じで、「現場」だけの経験ではどうしても分からないことが沢山あります。

介護職では現場ので経験を3年以上重ねて介護福祉士となり、さらに5年の経験を経てケアマネになります。

このケアマネは、現場と利用者や家族、さらに医療機関とを繋ぐ人で、個々の立場で希望することを全体として調整する役割を担います。

つまり、同じ経験者でも、現場の経験しかないと仕事として見ている範囲が狭くなり、その人から見えた経験が必ずしも全てではありません。

一方で全体を見渡せる経験者の意見は、もちろん別の意見もないわけではありませんが、そこに至った理由や根拠があります。

経験者同士の場合、例えば目指すべき方向が異なっていても、互いの立場を理解することは可能です。

しかし、半人前の経験では、大きな理由や根拠をスッポリと知らないこともあり得ます。

「それについてどう思いますか?」という類いの話で、意見を聞くことはできても、その意見に行き着いた根拠までを聞かれることはあまりありません。

つまり、未経験だけでなく、半人前経験者もまた、時に個人的な見え方でしか判断できないことが起こります。

それがもたらす意味が、他人の興味を理解する上でとても大切です。

「真実」よりも「正解」を好む

例えば介護の分野で最も意見が分かれることが、「生き甲斐」の扱いでしょう。

介護を必要としている人は、日常生活のどこかで他人のサポートを求めています。

そんな人が自身の「生き甲斐」をどこまで尊重することが望ましいと考えるのかは、理想論mkあれば現実的見解でも語ることができます。

公的制度だから仕方がないと考えれば、結論も大体同じような所に行き着く訳ですが、その仕方ないをどこまで補えるのかを考えると一気に介護職は厳しさを増します。

例えば、夜勤者一人で時に20人の利用者の安全を担います。

同時にトラブルが起これば、現場は一気にパニックです。

しかし、コストを考えると二人体制にはできない事情があって、つまりは大変さもいろんな面から導き出された結果です。

そして、富裕層向けに介護サービスを提供し、利用料金は高くなるものの、それだけ介護スタッフも安心して働ける環境を作ることも方法です。

つまりこれは「正解」に当たる考え方です。

しかし、経済的に余裕がない人も老いていきます。

介護施設で預かってもらうには、月額10万円以上掛かると考えれば、年金額だけでは賄えない場合もあるでしょう。

サービスとして十分なのかという前に、以下に幅広い人を視野に入れて介護するのかというのも、見逃せない社会問題です。

つまり、介護スタッフとして大変になる原因は、そんな社会問題の隅々まで視野に入れた結果です。

ある意味で、これが「真実」です。

そして、他人が興味を感じるのは、真実よりも正解の方でしょう。

やはり真実まで見てしまうと、大変ですし余裕もありません。

真実をずっと突きつけられると、どうしてもストレスが蓄積されて耐え切れなくなります。

「これだけでいい」と範囲が決められることで、自由度は減りますが楽さは増します。

その人が興味を持たない部分はごっそりカットして、気にしている部分を手厚くすることで、満足度を稼ぐのです。

真面目にコツコツと勉強して先生になっても、その教え方を真実として聞いてくれるかも知れませんが、正解とは思っていないかも知れません。

そうは言っても、全部していたら大変だと気づくからです。

楽なこと。見栄えすることに興味を持つのも自然なことで、コツコツと地道に継続するのは望まれません。

こみち自身はそれでもコツコツするしかないと思っていますが、「正解」と思えることに振れずいるのも事実です。

完全に言い当ててはいないけれど、それっぽい感じというバランス感覚がとても大切だと言えます。

なぜ「英会話」ができないのだろうを考えてみた話

日本語の日常会話を思い返すと

「おはよう」に始めり、「天気は?」「今何時?」があって、「コーヒー飲む」「飲みたい」と続きます。

もしかすると「今日の予定は?」とか「何時に帰る」が続き、「急がないと」「行ってきます」で朝の会話は大筋で補えるでしょう。

アプリを使っての異国の人との会話では、「どこの生まれ?」「名前は?」「何歳ですか?」が定番で、「何をしていましたか?」「何が流行っているの?」「それは何?」などを使えばある程度のキッカケができるはず。

つまり、初対面の人との会話なら、これくらい知っていればあとは愛想笑いしていても1分2分の間は潰せそうです。

そしてバックボーンの知識として、世界的に有名な観光名所や都市名、有名人を知っていれば、「どんな所ですか?」「行ったことはありますか?」などのフレーズも使えます。

つまり、「英会話」の習得で、確かに文法や語彙をしっかりと身につけた方が、知識を系統的に理解できるので、さらに曖昧で繊細な表現まで可能になるかも知れません。

しかし、それを期待するあまり、結局は英会話が苦手に思い、しかも勉強を始めるにもまず「大変そう」と思ってしまいます。

そう考えるようになった理由

youtube で世界各国の人とお話しできるサービスを使って、日本人の方が生まれた場所も育った地域も異なる人々と楽しそうに会話を楽しんでいる映像を見つけました。

「こんにちは」から始まり、「どちらの方ですか?」がセットになっていて、場合によっては「日本に来たことは?」や「そこに行ったことはありません」と続き、「有名スポットは?」などの話題に進みます。

決して、「今後の景気はどうなると思いますか?」のような質問はしないでしょう。

話すとしても「職業は?」とか「学校は楽しいですか?」のような質問で、「何が流行っていますか?」「それは何?」というような内容でしょう。

例えば、電子レンジを使った料理にハマっていたとして、そのレシピや操作方法の詳細を話す流れにはなりません。

むしろ、「いい趣味ですね!」とか「母国の定番料理は?」というようなもので、事実を知りたいというよりも、実際対面で言葉をやり取りしていることに意味があるのでしょう。

聴き取る「耳」があるかないか

日常会話を思い返すと、そう複雑な話題はしていません。

あれこれと全てのパターンまで想定し過ぎると、結局は一歩も進めないことになります。

だっだら、パターンとして流れで覚えてしまうと、同じような場面を繰り返し体験することで、その対応が完璧ではなくても、部分的に行えるようになるのではないでしょうか。

しかし、全く一言も聞き取れない状況を延々と繰り返しても、サッパリ分からないままになります。

母国語をネイティブの子どもが自然に習得できるのは、見よう見まねでもフレーズを少しずつでも理解していくからです。

朝のタイミングで聞かれることは、天気や時間、予定などでしょう。

候補となる質問から、聞きれたワードをヒントにして答えてみれば、相手の反応で合っていたかそうではないかったのかが分かります。

しかしそれができるのは聞き分けられる「耳」があるからです。

中高年になると老化現象で聴力が低下し、聞き慣れた日本語でも聞き取れないことが増えます。

音としては聞こえているのに、会話冒頭の一音目が不鮮明なことで、後の言葉だけでは内容の理解が不十分になるからです。

まして間違えていたらという意識が、会話することから避けさせ、さらに聴き取ることができないようになってしまいます。

その意味では、補聴器や集音器を使うことで克服できるになら、このまま話せなくなるよりもずっと賢明な判断でしょう。

そこまで聴力問題がなくても、会話が聞き取りづらく感じることがあるので、ネイティブな子どものような慣れて覚えるということだけでは習得できないかも知れません。

英会話で「今何時?」と聞けば、英会話できなくても理解できるはずです。

つまり、文法的に理解しているのではなく、音声認識のような感覚で、抑揚を覚えていて、それに合致するから「今何時?」と理解できるのでしょう。

だとすると、ありそうな会話を繰り返し聞き続けることで、少なくともそれらは「今何時?」と同じくらいで理解できるはずです。


生焼けピーマンが食卓に出た話

 ピーマンの美味しさは苦味とエグ味?

料理が上手いか下手かは、音痴の話に似ているかもしれません。

音痴にもタイプがあるそうで、出すべき音程を聞き分けられないタイプとその音を出せないタイプです。

つまり、そもそもしなければいけないことを知らない人は、それをすることができません。

そして結果を知っていても、その方法を知らなければその結果に到達できないでしょう。

生焼けのピーマンと炒めたベーコンが和えられて食卓に出て来ました。

母親が作ってくれたものですが、しっかりと焼けたベーコンに対してピーマンは生焼けです。

思うにベーコンから先に焼き始め、後からピーマンを加えたことで、そんな仕上がりになってしまったのでしょう。

例えば、焼きむらができた時に、ベーコンを一度皿に取り分け、ピーマンを焼いても良かったでしょう。

レンチンしたり油多めで焼いたりすると苦味を抑えられると思うので、それらを使っても良かったはずです。

こみちはピーマンが嫌いではないので、生焼けでもエグ味さえ気にしなければ食べられます。

しかしピーマン嫌いな人なら、苦味もエグ味も苦手でしょう。

母親も父親もこれまで1ミリとして譲ってくれたことがありません。

最近で言えば、洗った食器を食器棚に戻すということをサボります。

さらに言えば、戻したことを褒めて欲しいと思うタイプで、こみちとしては家族としての決め事を守ってくれないことがストレスです。

なので、生焼けピーマンのことを話しても、母親は単に責められている思うばかりで、解決策や自分なりの振り返りができません。

別の食材に代わっても、やはり同じような調理をします。

たまたま上手く言って美味しくできることもありますが、パサパサになった肉や魚が食卓に出て来ることも多いのです。

失敗が悪いのではなく、失敗理由を振り返ったり、アドバイスを受けたり、前に進む努力をして欲しいのです。

それは父親も同じで、少し煽てると上機嫌になるのですが、指摘されると拗ねてしまいます。

誰かがコントロールしていないと何も進まないので、自分で状況を踏まえて動くことができません。

何より、今のままで上手い行っていると思えることがそもそも意味不明で、何をどう考えているのかと思ってしまいます。

母親が洗面所のゴミ箱に使うピンク色のビニール袋が白い代わったことを聞いて来ました。

店にいつもの商品がなかったからで、それを説明したら「次回はピンク色がいいな」なら分かりますが、「何で白なの?」という反応は商品がなかったという説明の後ではちょっと理解に苦しみます。

ビニール袋の色にそこまでこだわるなら、調理方法を見直すことも同じようにしてくれたらと思うのです。

自分が知っていることには強くこだわり、誰かに言われてもその意図を感じることができません。

なので、今は好きにしてもらうしかなくて、できていないことを我慢するか、我慢できなければこちらで別の方法に切り替えるしかありません。

生焼けでも食べられるという発想で食事することが切なくなるこみちの気持ちを、上手く両親に伝えられないのはもっと切ないです。


自動生成できても「超えられないもの」を描けばいいという話

 AIによってイラストは自動生成できてしまう!?

AIによる自動生成されてイラストを見たことがあるだろうか。

パッと見で思うのは、写真と見間違うレベルで描かれた「美少女」が多いこと。

しかし、ある程度のデッサン経験者なら、そのイラストの芸術的な評価は分かれてしまうと思う。

例えば、時間を与えられて、彼らが作り出した「画像」に似た「イラスト」を描けないかと言われれば、少し練習すればかなりの完成度に到達できるだろう。

とは言え、多くの美術やアート系の経験者が、簡単に真似しようとしないのは、「描く意味」をどう見出すのか困惑しているからだと思う。

カメラが世にまだ普及していない時代、「描くこと」が唯一の方法だった。

見たこともない風景も、絵を通じて目にすることができたということだ。

しかし、スマホが全世界の誰もが持つようになれば、日本だけではなく、名前さえ聞き覚えのない場所で営まれる暮らしや風景、日常に画像という形で触れられるようになった。

そんな現代において、絵を描く意味をどこに求めたらいいだろうか。

加えて、自動生成できてしまうとなれば、なおさら描く意味や目的は薄れてしまう。

ただ、現段階で生成された画像の多くは、「人間の形をしている」だけに過ぎない。

理想的過ぎると言えばそうで、それは顔立ちやスタイルだけではなく、例えば「骨格」という意味で考えた時に、「皮膚温度」まで再現しようとはしていない。

だからといって「皮膚温度」を再現しているかが基準ではなく、「人間とは何か?」を常に意識して描いて来た我々にとって、自動生成された画像には幾つか抜け落ちている「感覚」がある。

最もそんな感覚など必要ないと言われてしまえばそれまでだが、人間が人間として取り払えないものが寿命であり、時間的な制限だろう。

だからこそ、そこにいる儚さに感動するし、尊さを感じることができる。

その意味では、我々が描く意味とは、我々が生きている時間を使い描いた意味であり、そこから生み出されたイラストは、自動生成された画像ではない。

見た目で区別できるかどうかの話ではなく、別に描く必要性もない中でわざわざ描いたという事実こそに価値がある。

初期の作品から段々とそのタッチの変化を追ってみると、一枚ごとの絵とは異なり、作者の生き様まで感じ取れる。

そして、描き手が大切にするべきは、正にここで、描き続けることでしか表現できない世界観を作りだすことだ。

好きな小説に出会い、それを読み終えた後に同じ作家の別の作品を探しことがある。

そして、晩年の作品と初期の作品を読み比べて、そこに共通した雰囲気を感じと共に、変化した価値観や世界観を感じ取れたら、さらに空想世界は大きくなる。

「何を描いているのか?」よりも「何で描いたのか?」がとても重要なことで、それは有限な時間を生きる我々だから成せることだろう。

自動生成によって、瞬間毎に切り取られた「っぽい物」は生み出せても、やはりそれは連続した時間には存在しない。

アルバムを見返すように、一枚ごとの写真は平凡な日常でも、本人にはとても大切な写真ばかりだろう。


「生きる」を選び続けるために考えることの話

 やっぱり「AI」の存在は増すだろう

例えば「AI」が生成する絵を見て、上手いと評価することができる。

しかし、美大を出ても絵だけで生活できないことは珍しくないし、そんな人の絵が下手だということでもない。

そもそも「上手い絵」とはどんなもので、誰がそれを判断するのだろうか。

素人レベルで「上手い」と思うことと、経験者が「上手い」と思うことに違いがあるなら、「上手い絵」の基準を統一させるのは難しい。

くだらない話でも、実は一周回って斬新な考えだったりするように、バックボーンとなる知識や興味の範囲や質が異なれば、感性さえも異なってしまう。

例えば、AIによって生成された「絵」には、特有の癖を感じる。

負け惜しみを言えば、人間臭い部分が含まれない。

若い人が想像する高齢者像のように、実際の高齢者とは少し異なる部分がある。

しかも、何度も繰り返し「理想像」に触れることで、事実以上に大切なものになってしまう可能性もある。

我々が我々として居られるために

サラリーマンとして満員電車に揺られて出社している時、電車の窓からスポーツジムで運動している人々を見かけることがある。

車内で圧迫されて、目的の駅に着くまでじっと我慢している自分と、どこか優雅に見える彼らと何が違うのだろうかと思ったものだ。

仕事を与えられて、その対価として給料をもらうことがサラリーマンの本題なら、彼らは自身でビジネスを動かし、時間や場所に捉われない生き方を満喫していると言える。

しかも、運動不足を解消するために、わざわざ会費を支払ってスポーツジムで汗を流す。

この現象はさっきの「絵」に似ていて、本質的に上手いかどうかではなく、「AIによる自動生成」に価値がある。

そして、絵を描く目的の1つに「自動生成」が加えられた形だ。

というのも、デッサンを学び、日々鍛錬を続けて、かつての画家以上に繊細なタッチで描けるようになったとしても、その絵を完成させるには少なくとも数時間から数日を要する。

しかし、ほとんど同じ内容をAIが数分で完成させてしまうなら、わざわざ高いコストを掛けるビジネスが成立するだろうか。

つまり伝統文化が文化として保存される必要性はあっても、それをビジネス市場でメインとして扱われないようになるのは自然の流れだろう。

今は90点の完成度だったとしても、市場から95点や99点の完成品が姿を消せば、自然に90点を頂点とした市場が形成される。

そしてさらに技術が進歩して90点が92点や94点になれば、ますます伝統文化は保存される存在になってしまう。

つまり、絵だけではなく、小説や音楽、映画や舞台、さらにはもっと日常生活に密接した部分まで、AIによって行われることが「基準」になるだろう。

既にニュース記事を代読するAIの音声は、訛りも変な抑揚もなくて、とても聞きやすいと思ってしまう。

となった時に、アナウンサーが伝える意味はどこに残されるだろうか。

そんな風に辿って行くと、「これでいい」と判断する部分が人間として残された判断になる。

高齢者の暮らしから学ぶ

若い人が思うよりも、高齢者だから「人間的に丸くなる」とは限らない。

そもそも「人間的に丸くなる」とは、温和な生活ではなく、段々と生活スタイルが固定化されて、それ以外のことに無頓着になる様だと思う。

美味しい食事をしたいと思った時に、料理の仕方を基礎から学ぶだけの根気や熱意が失われ、諦めてしまうことが多くなるのが高齢者ではないかと思う。

徹夜してその日までに完成させるような働き方はもう体が付いてこないし、無理をすれば翌日だけではなく、その後数日の体調までも崩しかねない。

若い人が「頑張ろう」と思ってできることとは比べられないほど、1日で進める距離は短くなってしまう。

だからこそ、現役中に自身の生き方を確立させることが必須だし、その範囲で満足できることが高齢者にとって幸せを感じられるヒントだと思う。

高齢者になってから、生活面のあれこれを口出されても変えられないのは、変えたくないという気持ちと変えられない考え方にある。

その時は意識できても、数日もすれば何を守るべきか分からなくなってしまう。

そしていつの間にか、自分が身につけたことだけを繰り返してしまう。

そんな高齢者にとって、AIが生成する世界は親和性が高い。

つまり、発展や進化ではなく、現状維持をより簡単に行うことができるからだ。

これからの時代を作り出す小説を読むよりも、定番化したストーリーの番組を心地よく見られる方が好みになるのも、言えば目新しい価値観に遭遇しても、自身の生活に取り言えれることが難しい。

そして、それは高齢者だけではなく、中年世代へ、さらにもっと若い世代へと広がり、「世論の常識」までもが自動生成を一度正確とした暮らしになるのではないだろうか。

どうしてもこだわりたい人は、別途時間を使って自分好みを探す。

それが自分探しであり、人間としての成熟でもある。

そしてやがて年を重ねて、段々と自身が見えて来た時に、自動生成を先ずは使うような生き方になるのだろう。

水平線を見て、「あの先にどんな世界があるのだろう?」と想像し、貴重な時間や体力を使って我々は進化を勝ち取って来た。

しかし、大抵の思いつくことはインターネットで検索すれば、それなりの答えを見つけられるし、それを先ずは正解として生きている。

「なぜ生きるのか?」

「生まれたから」とでも言わない限り、生きる意味や目的は自動生成やネット検索では答えが出せない。

仮に別の答えを見つけられたとしても、それで本当にあっているのかは断定することができない。

つまり、「これでいいのだ」と懐かしいアニメの決め台詞みたいだが、「判断し受ける」ことが最後に残された生きる意味なのだろう。

全く拘らない生き方をすれば、頭で考えることなく人間っぽい生き方ができる時代になった。

「平凡な生き方」も「こだわりが強い生き方」も、受け入れながら生きているなら、そう違いはない。

大部分は自動生成された知識をベースにしている訳で、今さらその基礎まで否定していたら、衣食住だけで毎日が過ぎてしまう。

言い換えでは、最も普通な生き方をこだわるが故に行なっていることになる。


「思考力」は大人になってからでは養えないという話

 例えば「現代社会」を眺めてみても

小難しい屁理屈を紹介したい訳ではありません。

ただ、小学生の頃から中学、高校へと進む中で、誰もが自分の存在の大きさに気づきます。

割と耳にした言葉で、女の子は勉強を真面目にするのに、男の子はある段階になって急に始めるのだそうです。

性別に差があるとも思いませんが、ここで伝えたいのは「ある段階」の部分。

つまり、テストで満点が取りたくて、勉強をしようと思う訳ではなく、自分が何者なのかに気づいてそこから「勉強」の意味を理解するからでしょう。

小学生の頃のように、毎日夕暮れまで外で遊ぶのは楽しいですが、段々とそれだけでは何か違うように感じて新しい習慣を取り入れるのでしょう。

実際、社会人になり、自分の仕事という意識を持った時に、最初に考えるのは「職種」でも「資格」でもありません。

意外とお金を稼ぐことは大変で、自分が思っていないことに価値があったりするからです。

例えば、決まった時間帯に勤務先まで通うことは、当たり前過ぎるかもしれません。

しかしその当たり前ができなければ、多くの仕事は始まらないのです。

つまり、我々が想像するような「大きなもの」ではなく、小さな当たり前ができるということがとても大きな意味を持っていて、思春期を迎えた当たりから「ある段階」に気づきのも同じことなのでしょう。

気づいているフリをする父親

晩御飯を食べるために、こみちたち夫婦は午後8時まで仕事をしています。

7時から両親が先に食事をして、自分たちの食器を洗っておくまでを待つ意味もあります。

しかし、8時ぴったりに食事をしたくても、大体はまだ両親が何かしていて、15分くらいは待つしかありません。

若しくは、両親ができなかったことをこみちたちでフォローすることになります。

こみちたちがダイニングに顔を出したタイミングで、リビングにいる父親がテレビから時々視線を外してキッチンを見ています。

こみちはそんな態度に気づいても何も反応しないのですが、妻は決まって「大丈夫ですよ!」と声を掛けます。

妻が本当はどう思ってそう言ったのかは知りませんが、夫婦が遅い晩御飯を食べ始めて、キッチンで父親がモタモタと食器を洗ったりするのが目障りなのかもしれません。

こみちにすれば、「できないならそれでいい」としか思えません。

気づいているフリをする理由は、「できない」という部分ではなく、「できたけれど」という部分を彼は彼なりに示したかったのでしょう。

でも、茶碗と皿、箸の二人分を洗うことがどれだけ大変なのかと思うのです。

父親や母親にすれば、その些細なことを当たり前に済ませてしまうことが難しいようです。

「頑張りましたね」

「洗ってくれたんですね。助かります」

そんな声掛けでもされれば、また違うのかもしれませんが、当たり前に処理することがずっとできないのです。

冷蔵庫のコーラ

数日前、母親が「コーラ、貰ったよ!」と妻に言ったそうです。

それを聞いたこみちは、妻が「飲んでくださいね」とでも事前に言ったのかと思っていました。

妻も大人なので、自分の分のコーラが飲まれて怒り出すことはしませんでしたが、こみちにすればなぜ母親は冷蔵庫にあったということで飲んでしまえるのか不思議です。

「何か言われたら明日にでも買って返せばいい」

そんな気持ちなのでしょう。

でもコーラでそれができるという話は、別のことで起きない訳ではありません。

晩御飯を母親が作った時に、冷蔵庫にあった市販品がこみちたち用の皿に盛ってありました。

しかし、その市販品の賞味期限は既に切れていて、食べても大丈夫かもしれないけれど、それを自己判断で盛ってしまうという母親の考え方はずっと直りません。

こみちが嫌な気持ちになっているのを、父親も母親も知っています。

でも、彼らは自分たちもまた同じように我慢しているという気持ちなのです。

家族全員分の生活費を母親に渡している訳ではありません。

でもこみちたちの食費分は別途母親に手渡しています。

だからこそ、母親は買い物した時に、菓子パンなどを買って来たりします。

でも母親にすれば、「買ってあげている」という感覚です。

だからコーラに関しても、いつも奢っているのだから、「たまにはいいでしょう?」と考えているようです。

生活費を渡しているという事実と、買い物で自分の財布から支払っているが結びついていないようで、「買ってあげたよ」という言葉をよく使います。

余ったお金を戻してくれる訳でもないし、毎月の生活費でどれだけの出費があったのかも報告してくれたことはありません。

当たり前のようにお金は自分たちの貯金に回しているようで、「〇〇円までもう少しなの」と言えてしまいます。

厳密に照らし合わせていないだけなのに、父親にしても母親にしても、どこか不思議に思うことを平気です。

「オレ、気づいてますから!」

そんな態度だけは見える父親の気持ちに、やはり寄り添うことは難しく感じます。


「ざるそば」を作って食べたという話

 桜の開花を迎えて

すっかり春らしい季節で、少し動くと汗ばむことも。

そこで、数日前から「蕎麦」を食べたいなぁと思っていました。

昔、勤めていた会社には蕎麦を打てる人がいて、少し教えてもらったものの、自分一人で打てるまでではありません。

何事も経験なので、あの時にしっかりと教えてもらったらよかったなと思いつつ、市販の乾燥麺を買って来て、昼ごはんに使いました。

パスタを鍋で茹でる時に、少しオリーブオイルを垂らしておくと麺が必要以上に絡まらないので、蕎麦を茹でる時に「胡麻油」を垂らしてみました。

結果としては大成功で、食べる時に程よく麺がバラけてくれるので食べやすかったです。

さつまいもの天ぷらの他、アイスコーヒーのペットボトルも買って、食後にいただきました。

外で食べると500円ではなかなか収まりませんが、家で作るとお釣りが来ます。

薬味に海苔と胡麻、ネギを加えたので、10分ほどの簡単な昼食ですが、なかなか楽しめました。