「高齢者」をどう理解するべきか?という話

 「高齢者」を理解するために「自分を見直す」

自身がすでに理解し認識している範囲内で導き出した「持論」を、誰から否定されたらどうでしょうか。

持論なので、そこに至るまでの思考プロセスには明確な理由や動機があって、言うなれば結果は自然な流れから行き着くものです。

一方で、否定にもいろんな種類があって、例えば結論に何となく納得できないというものから、否定するに至る根拠が明確なものまであります。

例えば、1から始まり10までの経験から導き出した答えは、その環境下では自然なことで、性格などで多少の違いはあっても、概ね同じような結論に行き着くとしましょう。

一方で、考える範囲が30から40までの人は、その前提が異なるので、結論にも違いが生じます。

その環境下で考えるとその人でなくても同じように考えるのでしょう。

「高齢者」も人によって違います。

1から10までということもあれば、100から110ということもあり、中には1から100まで経験している方もいるはずです。

それぞれに導き出す答えに差ができるのも、経験していることが違うからです。

そして、高齢者の特徴として、さらに1から10までの経験者が時に中間の2や6が抜け落ちてしまうことが起こります。

結果的にそれまでとは行動が変わり、以前にはしないようなことをするようになります。

ある意味、それが老いなので、年齢を重ねれば誰にだって起こります。

「人間だから違いはある!」だからどう接するのか?

言葉を交わすことで、して欲しいことやして欲しくないことを共有化することができます。

しかし、高齢者になると時としてその共有化が困難になっていることが起こります。

つまり、言葉でどんなに細かく説明しても、すぐにそれ自体を忘れてしまうので、言われたその時は納得しても、すぐに行動が元に戻ってしまいます。

結局はその人が思うように行動することしかできないので、選択肢としては「自分がどう合わせるのか?」という部分だけになります。

なぜそんな考えになったのか?

ここ数日で同居中の両親が見せる行動に、こみちは理解できなかったですし不満やストレスを強く感じました。

さらにいえば、どんなに気持ちを伝えても、最終的には何も汲み取ってくれず、両親の行動に変化は見られません。

むしろ、お願いした小さな約束さえ、無かったものとして扱われてしまうことで、余計に心が傷つきました。

興味深いこととして、両親も両親なりにストレスを感じていて、こみちの存在を心地よく感じていません。

理由を察すると、「なぜか意地悪する」という類いの存在なのでしょう。

つまり、両親にとっては至って当たり前のことをしている訳です。

それは二人の認識している範囲があって、そこ中で至る解決策としては間違えていないからです。

一方で、こみちの感覚は両親とは違うので、彼らの結論にも「ちょっと待った!」となります。

しかしながらすでに言葉では認識を共有化できないので、なぜそう考えるのかをどんなに言葉を変えても説明できませんし、理解されません。

ある意味では、もう共有化そのものを諦める段階で、実際にもこみちは両親の選んだ判断にストップを掛けることもしていません。

ただ、「これくらいなら…」と、お願いしたい些細なことを二人に告げた時に、やはり受け入れられずに落胆するのです。

「洗面所を使いっぱなしにしないで欲しい」と。

性格的に洗面所を使いながら、キッチンでも別のことをして、さらに別のこともあって、母親はいろんなことを同時にしたがり、別の言い方をすると他の人が何もできない状況になります。

食事の後に歯を磨きたいという行為が、1時間、2時間後でないとできなくなってしまうのです。

今、キッチンの排水口を母親が掃除してくれています。

毎回、こみちも同じ場所を簡単に掃除するのですが、問題は冷蔵庫や電子レンジの掃除はどうかということ。

排水口の掃除で、悪臭を防ぐことができるのも大切ですが、それ以外のことは無視していいものではありません。

つまり、母親に言わせれば「いつも私が排水口を掃除している!」というでしょう。

そして別の人は「そこ以外はしていないよね?」と感じるのです。

つまり担当を分担するなどで解決できることですが、こみちの理解できないのは「冷蔵庫」や「電子レンジ」を例に挙げても、驚くほど反応が無いのです。

夫婦仲でも性格の不一致みたいなことが起こりますが、ある人にはこだわりでも、別の人には無関心ということがあります。

そこを暮らしの中で解決しながら互いに協力することが大切になりますが、例えばこみち家の場合、その共有化ができなくなっています。

つまり、両親もこみちが思いつかないようなことを、とても上手にしてくれたりもします。

その範囲だけを見れば、両親の行動はとても有り難いものなのです。

しかし、別の部分から判断すると、頑張ってくれた行為も別の策でそもそも起こり得なくすることができたりして、もっと簡単に解決できるのです。

そうなると、認識や経験の違いによっては、受け入れられないということが起こり、さらに会話では理解し合えないので、互いが思うようにするしかありません。

あと5年早ければ、また違っていたのでしょうが、今となっては毎回不満やストレスを募らせるだけで、何も解決しないし、共有化できないまま終わります。