人の話を信じていない関係
自分の都合だけを考える父親と母親。
なぜ「冷やご飯」を残して、「炊き立て」を食べてしまうのかという話があった。
こみちだって大人なので、押し退けてまで我を通したい訳ではない。
なぜなら、ほとんど炊き立てのご飯を食べることがない。
朝は残った冷やご飯をチンして食べているし、夜はその日の朝に炊いたものをチンするから。
本当なら「今日は炊き立て食べたら?」と、週に一回くらい、月に一回くらい、思いついた時に言ってくれたら「大丈夫だよ。ありがとう」で終わる話だと思う。
でもそんなことを言ってくれたことは記憶に無いし、「チンでも美味しいよね!?」と言えてしまうタイプなのだ。
じゃあ、逆の立場でもそんなことを続けられるのかという人ではないから、「今日は…」と優しい気持ちを出して欲しい。
冷やご飯というどうでもいいことを両親に食べてもらうには、こみちも半分食べるから残りはお願いと言わなければ納得してくれない。
なぜなら、昨日のタイミングで「冷やご飯残して炊き立て食べるのはちょっとどうなの?」と言った時に、母親は「これは冷やご飯ではなく、炊き立てを移したものだよ」と真顔で答えた。
ちょっと説明が難しいけれど、嫌なことが100当あれば、50受け取らないと両親は受け取らない。
しかもその50も母親が被り、父親はやはり良いものを選ぶ。
結局はどう騒いだとしても、父親は根本的に何も変えない。
そして母親も根っからの負けず嫌いで、100%母親の責任だとしても素直に謝れない。
こみちも謝れないということを責めているのではなくて、謝らないことで失ったものも受け取る覚悟をして欲しいと思っているだけだ。
つまり、何か悪いことをして、「知らない」とか「自分じゃない」という言い訳や説明をしてもいい。
でもそれを聞いて、「この人は信用できない」と相手に思われることも受け止めて欲しい。
そこで「不幸な自分」を思うのは筋違いだと思う。
介護士経験のあるこみちだから、利用者の現役時代の生き方は問わず、「今」だけで介護する。
家族との関係やどんな風に生きて来たのかは、利用者が黙っている限りは現場の介護士には知られない。
その意味では、どんな両親だとしても作業としての「介護」はできると思う。
でも、「今までありがとう」といろんな意味で感謝して接することがどんどんできない自分に悲しみがある。
「こみちはこんなに苦しくて悲しいんだよ!」
そんな訴えもしたことがあったけれど、それでも両親の態度は1ミリも変わってはいない。
介護予防なのか家事なのか?
今、父親がリビングだと思うけれど掃除機を掛けている。
その掃除が、常識範囲でできていたら家事になるけれど、特定の場所だけを丁寧に、その他は一度もかけないのならそれは介護予防。
実際、父親がいつも陣取るリビング周辺は父親の私物が並んでいる。
最初は使う時だけ。その内によく使うものは。そして今は荷物で溢れていて、ここ一年くらいリビングのテレビをまともに座って見ていない。
なぜって、ずっとリモコンが父親の手元にあって、誰が見ていても平気でチャンネルを変えてしまうから。
家族全員で観ていた頃もあった。
でも、そんな父親の行動で、こみちは自室に戻ってそこで続きを見ることになる。
そんな繰り返しで、いつしかリビングにいる時間は段々と減ってしまった。
今はダイニングには来ても、リビングには行かないことも多く、行く時は父親も母親も留守の時にだけだ。
多分、自分の思う通りに掃除した父親は、「家事をしている」と思っているだろう。
それは他の家族が1から料理するのと同じくらいの手間だと思っているに違いない。
だから、「なんで家事をしないの?」と言われた時に、父親は介護予防と家事の区別ができていないから困惑する。
もしかすると困惑すらしていなくて、単純に騒がしいと思っているのかもしれない。
先日から何が変わったのか?
結論を言えば、何も表向きは変わっていない。
変わってのは、こみちの気持ちがまた両親から距離ができたこと。
昨日の晩飯
母親が作ったのは、肉じゃがです。
もう定番メニューになっているのですが、肉を入れるタイミングが全く変わりません。
つまり出来上がった肉じゃがのお肉はパサパサで固いです。
母親も父親も肉が得意ではないようで、それはもしかするとそのパサパサを食べているからではないかと思うのです。
軽く火を通して後から投入するとか、部材それぞれの煮込み時間は異なるので、そこを工夫する必要があるはずです。
「サッと炒めて皿に取っておくといいよ」
そんな手間はできないらしく、しかも「最初に炒める」というレシピが変わらずにあって、毎回、美味しくないのです。
言えば言うほど負けず嫌いな性格を出して、先に肉を入れることを頑なにやめてません。
冷やご飯の件であれだけ揉めたのに、その後に作る料理でも、やはり我を通して作ります。
負けず嫌いそのものは悪いことではないのに、頑張るところを間違えてしまうから厄介です。
しかもこのタイミングでも変えないあたり、他のことも同様にどんなに言っても変えないつもりでしょう。
そして本当に老いて、介護が必要になった時に、当たり前に世話されるのでしょう。
なぜ優しくしてくれていた知人たちが自分から離れて行ったのか、ちょっとでも振り返ることができたらいいのですが…。