なぜ「冷やご飯」には手をつけないのかという話

 「食べられるから…」

こみち家では、毎朝米を炊く。

とは言え、大体の日が昨日の残りご飯もある。

仕事や朝の予定もあって、こみちたちが先に食事をするので、必然的に「ピチしたご飯」を食べなければいけない。

一方で、両親は時間通りに行動するのが苦手で、7時半と言ってあっても段々と時間を変えて7時近くにはリビングで食事が終わるのを待っている。

もちろん、何か言われるわけではない。

ただ、テレビの音量は父親たち合わせて大きく鳴り、チャンネルもいつの間にか変えられていたりする。

こみちは食事中にどうしてもテレビ見ないと居られない訳ではないから、ふと画面を見た時にさっきまでの番組とは違っていると後で気づく。

「冷やご飯」も食べられるだけ有難いし、チンすればなおさら気にならない。

妻に食べさせるくらいなら、こみちが率先して担当するのも全く嫌ではない。

でも、それは気にならないのではなく、妻に嫌なことを押し付けたくないというエゴ。

そんな中で、母親が「冷やご飯でも食べられるんだから…」と言い出す。

しかも会話流れではなく、食べている二人を見て、そんな発言をするのだ。

「チンしているんだもん。ネェ〜」

母親が、他人よりも少し得としたい人だということはもう知っている。

こみちだってラッキーは嬉しいけれど、そのラッキーで明らかに嫌な思いをする人がいると遠慮してしまう。

どうしても欲しいものならともかく、譲れないかと自問すれば譲れることだから。

母親は、自分が損するのは嫌で、でも何かしてあげることに喜びを感じる一面もある。

唐揚げを作った後に、焼き魚も用意するのは、母親なりのエゴ。

食べきれないほど食卓に料理を並べることに喜びを感じる。

一方で、こみちは本命の料理は美味しく出したい。

スーパーの惣菜をチンして終わりにしたくなくて、例えば揚げ物は家で揚げてすぐに食べて欲しいと思う。

だから、キッチンまわりにもこだわりがあって、料理しやすい環境を作りたい。

でも母親は味見を頑なにしないで、食べてから「薄かった」「濃かった」という。

だからこみちが食べると、「???」という味付けもかなり多い。

それこそ長く主婦をしているから食べられないほど不味い訳ではないけれど、美味しい訳ではない。

「味見している?」

そんな会話も何度も繰り返したけれど、「味見したんだよ」と言ってくれたことはない。

いつも「ちょっと薄かったかも…」という。

冷やご飯に手をつけない父親

いつもの流れではなく、昨日の夜に炊き込みご飯ご飯を炊いたので、昨日の朝に炊いた白米がまだ残っていた。

こみちは父親が炊き込みご飯よりも白米が好みだと知っていたから、わざわざ「炊き込みご飯」を選んだ。

しかし、今朝に炊いた白米を父親がちゃっかり食べていて、つまり昨日の朝に炊いた白米が冷やご飯として冷蔵庫に残されている。

それに気づいたのは、今さっきのことで、昨日のご飯だと言えるのは容器が同じだったから。

美味しいか否かではなく、チンが面倒かどうかという意味かもしれないが、そんな時に「冷やご飯」を先に食べようという発想を父親はしてくれない。

見ていないとパッと先に自分好みのものを選んでしまう。

例えば、誕生日ケーキを食べるという時もそう。

誰かの誕生日で、先に自分だけ食事をした父親が、ホールケースの一部を食べていたということがあった。

「なんで?」と問い詰めたが、もう理由を知りたいのではなかった。

しかも、ケーキを用意するというようなことを父親ができないし、やってはくれない。

でも先に自分の分だけだから食べてしまったということだ。

誰かの分を食べたのではない。

父親にとって、そこが後ろめたさを感じない部分なのだろう。

つまり、「冷やご飯を先に食べる」というようなことを父親に期待しても無理だ。

母親も似たようなところがあるけれど、昨日のご飯が残されていたのはちょっと愕然としてしまった。

「やっぱりか…」

実は昨日の晩、父親から「まだ冷やご飯が残っている」と教えられた。

だから、父親は「冷やご飯」の存在を忘れている訳ではない。

でもいざ食べる時には、今朝の炊き立てを食べてしまうということだ。

つまり、「冷やご飯」の存在を教えてくれたのは、もう自分には関係なく「食べるならどうぞ」という意味になっていた。

実は朝のオカズは色の違う皿に盛っている。

理由は、それぞれに合わせてオカズの量を変えていて、母親が自分と父親の分を先に選んでしまうのを防ぎたいからだ。

「食べられるからいいよね」

母親のそんな言葉が意味するのは、同じような皿だから、「残りものでもいいでしょう?」ということなのだ。

変えている現場を目撃し、「もしかして変えてる?」と聞いた時に、「だってこっちの方が脂身少ないから…」と答えた。

どうも思いますか。

子ども頃に一緒に暮らしていた時は気づきもしなかったことですが、介護的な意味もあって同居してみると、両親は全く違う人に思えます。

そんな風にして「小さな得」に喜びを感じて生きて来たのかと思うと、こみちはちょっと悲しくなってしまいます。

母親は、思いつきで菓子パンを買って来てくれたりもします。

母親にとっての優しさの出し方です。

でも「買って来たから食べていいよ!」という母親ですが、毎月の食費は手渡しているので、それこそ奢りではありません。

でも不思議なもので、食費を受け取ったことはどこかに消えて、「買ってあげた」という気持ちだけが残っています。

毎回、「ありがとう」と言っている自分に悩みます。

高齢になると、いろんな症状が出て来るのでが、まだ介護の段階ではなくても「待つ」という行為が特に苦手なようです。

気持ちの昂りを抑えて、適切なタイミングで行動に移るというのは、特に両親が苦手としています。

もしもすると「炊き立て」をパッと取ってしまうのは、それが器用な人間の生き方と教えられて来たのかもしれません。

社会人として働いている時も、そんな感じだったら、肩身が狭い思いだったでしょう。

自分は自分らしくしているのに、自分のまわりに誰も寄りつかないと思ったのではないでしょうか。

こみちも親でなければ、もうさじを投げていたでしょうし、付き合いをやめていたと思います。

誰かの損をしている前提で、自分の得を遠慮せずに取ってしまう。

全てをそうしろとは言いませんが、大半のことをそうやることで幸せを感じてしまう人も不憫に思えてしまいます。