「思考力」は大人になってからでは養えないという話

 例えば「現代社会」を眺めてみても

小難しい屁理屈を紹介したい訳ではありません。

ただ、小学生の頃から中学、高校へと進む中で、誰もが自分の存在の大きさに気づきます。

割と耳にした言葉で、女の子は勉強を真面目にするのに、男の子はある段階になって急に始めるのだそうです。

性別に差があるとも思いませんが、ここで伝えたいのは「ある段階」の部分。

つまり、テストで満点が取りたくて、勉強をしようと思う訳ではなく、自分が何者なのかに気づいてそこから「勉強」の意味を理解するからでしょう。

小学生の頃のように、毎日夕暮れまで外で遊ぶのは楽しいですが、段々とそれだけでは何か違うように感じて新しい習慣を取り入れるのでしょう。

実際、社会人になり、自分の仕事という意識を持った時に、最初に考えるのは「職種」でも「資格」でもありません。

意外とお金を稼ぐことは大変で、自分が思っていないことに価値があったりするからです。

例えば、決まった時間帯に勤務先まで通うことは、当たり前過ぎるかもしれません。

しかしその当たり前ができなければ、多くの仕事は始まらないのです。

つまり、我々が想像するような「大きなもの」ではなく、小さな当たり前ができるということがとても大きな意味を持っていて、思春期を迎えた当たりから「ある段階」に気づきのも同じことなのでしょう。

気づいているフリをする父親

晩御飯を食べるために、こみちたち夫婦は午後8時まで仕事をしています。

7時から両親が先に食事をして、自分たちの食器を洗っておくまでを待つ意味もあります。

しかし、8時ぴったりに食事をしたくても、大体はまだ両親が何かしていて、15分くらいは待つしかありません。

若しくは、両親ができなかったことをこみちたちでフォローすることになります。

こみちたちがダイニングに顔を出したタイミングで、リビングにいる父親がテレビから時々視線を外してキッチンを見ています。

こみちはそんな態度に気づいても何も反応しないのですが、妻は決まって「大丈夫ですよ!」と声を掛けます。

妻が本当はどう思ってそう言ったのかは知りませんが、夫婦が遅い晩御飯を食べ始めて、キッチンで父親がモタモタと食器を洗ったりするのが目障りなのかもしれません。

こみちにすれば、「できないならそれでいい」としか思えません。

気づいているフリをする理由は、「できない」という部分ではなく、「できたけれど」という部分を彼は彼なりに示したかったのでしょう。

でも、茶碗と皿、箸の二人分を洗うことがどれだけ大変なのかと思うのです。

父親や母親にすれば、その些細なことを当たり前に済ませてしまうことが難しいようです。

「頑張りましたね」

「洗ってくれたんですね。助かります」

そんな声掛けでもされれば、また違うのかもしれませんが、当たり前に処理することがずっとできないのです。

冷蔵庫のコーラ

数日前、母親が「コーラ、貰ったよ!」と妻に言ったそうです。

それを聞いたこみちは、妻が「飲んでくださいね」とでも事前に言ったのかと思っていました。

妻も大人なので、自分の分のコーラが飲まれて怒り出すことはしませんでしたが、こみちにすればなぜ母親は冷蔵庫にあったということで飲んでしまえるのか不思議です。

「何か言われたら明日にでも買って返せばいい」

そんな気持ちなのでしょう。

でもコーラでそれができるという話は、別のことで起きない訳ではありません。

晩御飯を母親が作った時に、冷蔵庫にあった市販品がこみちたち用の皿に盛ってありました。

しかし、その市販品の賞味期限は既に切れていて、食べても大丈夫かもしれないけれど、それを自己判断で盛ってしまうという母親の考え方はずっと直りません。

こみちが嫌な気持ちになっているのを、父親も母親も知っています。

でも、彼らは自分たちもまた同じように我慢しているという気持ちなのです。

家族全員分の生活費を母親に渡している訳ではありません。

でもこみちたちの食費分は別途母親に手渡しています。

だからこそ、母親は買い物した時に、菓子パンなどを買って来たりします。

でも母親にすれば、「買ってあげている」という感覚です。

だからコーラに関しても、いつも奢っているのだから、「たまにはいいでしょう?」と考えているようです。

生活費を渡しているという事実と、買い物で自分の財布から支払っているが結びついていないようで、「買ってあげたよ」という言葉をよく使います。

余ったお金を戻してくれる訳でもないし、毎月の生活費でどれだけの出費があったのかも報告してくれたことはありません。

当たり前のようにお金は自分たちの貯金に回しているようで、「〇〇円までもう少しなの」と言えてしまいます。

厳密に照らし合わせていないだけなのに、父親にしても母親にしても、どこか不思議に思うことを平気です。

「オレ、気づいてますから!」

そんな態度だけは見える父親の気持ちに、やはり寄り添うことは難しく感じます。