「生きる」を選び続けるために考えることの話

 やっぱり「AI」の存在は増すだろう

例えば「AI」が生成する絵を見て、上手いと評価することができる。

しかし、美大を出ても絵だけで生活できないことは珍しくないし、そんな人の絵が下手だということでもない。

そもそも「上手い絵」とはどんなもので、誰がそれを判断するのだろうか。

素人レベルで「上手い」と思うことと、経験者が「上手い」と思うことに違いがあるなら、「上手い絵」の基準を統一させるのは難しい。

くだらない話でも、実は一周回って斬新な考えだったりするように、バックボーンとなる知識や興味の範囲や質が異なれば、感性さえも異なってしまう。

例えば、AIによって生成された「絵」には、特有の癖を感じる。

負け惜しみを言えば、人間臭い部分が含まれない。

若い人が想像する高齢者像のように、実際の高齢者とは少し異なる部分がある。

しかも、何度も繰り返し「理想像」に触れることで、事実以上に大切なものになってしまう可能性もある。

我々が我々として居られるために

サラリーマンとして満員電車に揺られて出社している時、電車の窓からスポーツジムで運動している人々を見かけることがある。

車内で圧迫されて、目的の駅に着くまでじっと我慢している自分と、どこか優雅に見える彼らと何が違うのだろうかと思ったものだ。

仕事を与えられて、その対価として給料をもらうことがサラリーマンの本題なら、彼らは自身でビジネスを動かし、時間や場所に捉われない生き方を満喫していると言える。

しかも、運動不足を解消するために、わざわざ会費を支払ってスポーツジムで汗を流す。

この現象はさっきの「絵」に似ていて、本質的に上手いかどうかではなく、「AIによる自動生成」に価値がある。

そして、絵を描く目的の1つに「自動生成」が加えられた形だ。

というのも、デッサンを学び、日々鍛錬を続けて、かつての画家以上に繊細なタッチで描けるようになったとしても、その絵を完成させるには少なくとも数時間から数日を要する。

しかし、ほとんど同じ内容をAIが数分で完成させてしまうなら、わざわざ高いコストを掛けるビジネスが成立するだろうか。

つまり伝統文化が文化として保存される必要性はあっても、それをビジネス市場でメインとして扱われないようになるのは自然の流れだろう。

今は90点の完成度だったとしても、市場から95点や99点の完成品が姿を消せば、自然に90点を頂点とした市場が形成される。

そしてさらに技術が進歩して90点が92点や94点になれば、ますます伝統文化は保存される存在になってしまう。

つまり、絵だけではなく、小説や音楽、映画や舞台、さらにはもっと日常生活に密接した部分まで、AIによって行われることが「基準」になるだろう。

既にニュース記事を代読するAIの音声は、訛りも変な抑揚もなくて、とても聞きやすいと思ってしまう。

となった時に、アナウンサーが伝える意味はどこに残されるだろうか。

そんな風に辿って行くと、「これでいい」と判断する部分が人間として残された判断になる。

高齢者の暮らしから学ぶ

若い人が思うよりも、高齢者だから「人間的に丸くなる」とは限らない。

そもそも「人間的に丸くなる」とは、温和な生活ではなく、段々と生活スタイルが固定化されて、それ以外のことに無頓着になる様だと思う。

美味しい食事をしたいと思った時に、料理の仕方を基礎から学ぶだけの根気や熱意が失われ、諦めてしまうことが多くなるのが高齢者ではないかと思う。

徹夜してその日までに完成させるような働き方はもう体が付いてこないし、無理をすれば翌日だけではなく、その後数日の体調までも崩しかねない。

若い人が「頑張ろう」と思ってできることとは比べられないほど、1日で進める距離は短くなってしまう。

だからこそ、現役中に自身の生き方を確立させることが必須だし、その範囲で満足できることが高齢者にとって幸せを感じられるヒントだと思う。

高齢者になってから、生活面のあれこれを口出されても変えられないのは、変えたくないという気持ちと変えられない考え方にある。

その時は意識できても、数日もすれば何を守るべきか分からなくなってしまう。

そしていつの間にか、自分が身につけたことだけを繰り返してしまう。

そんな高齢者にとって、AIが生成する世界は親和性が高い。

つまり、発展や進化ではなく、現状維持をより簡単に行うことができるからだ。

これからの時代を作り出す小説を読むよりも、定番化したストーリーの番組を心地よく見られる方が好みになるのも、言えば目新しい価値観に遭遇しても、自身の生活に取り言えれることが難しい。

そして、それは高齢者だけではなく、中年世代へ、さらにもっと若い世代へと広がり、「世論の常識」までもが自動生成を一度正確とした暮らしになるのではないだろうか。

どうしてもこだわりたい人は、別途時間を使って自分好みを探す。

それが自分探しであり、人間としての成熟でもある。

そしてやがて年を重ねて、段々と自身が見えて来た時に、自動生成を先ずは使うような生き方になるのだろう。

水平線を見て、「あの先にどんな世界があるのだろう?」と想像し、貴重な時間や体力を使って我々は進化を勝ち取って来た。

しかし、大抵の思いつくことはインターネットで検索すれば、それなりの答えを見つけられるし、それを先ずは正解として生きている。

「なぜ生きるのか?」

「生まれたから」とでも言わない限り、生きる意味や目的は自動生成やネット検索では答えが出せない。

仮に別の答えを見つけられたとしても、それで本当にあっているのかは断定することができない。

つまり、「これでいいのだ」と懐かしいアニメの決め台詞みたいだが、「判断し受ける」ことが最後に残された生きる意味なのだろう。

全く拘らない生き方をすれば、頭で考えることなく人間っぽい生き方ができる時代になった。

「平凡な生き方」も「こだわりが強い生き方」も、受け入れながら生きているなら、そう違いはない。

大部分は自動生成された知識をベースにしている訳で、今さらその基礎まで否定していたら、衣食住だけで毎日が過ぎてしまう。

言い換えでは、最も普通な生き方をこだわるが故に行なっていることになる。