自動生成できても「超えられないもの」を描けばいいという話

 AIによってイラストは自動生成できてしまう!?

AIによる自動生成されてイラストを見たことがあるだろうか。

パッと見で思うのは、写真と見間違うレベルで描かれた「美少女」が多いこと。

しかし、ある程度のデッサン経験者なら、そのイラストの芸術的な評価は分かれてしまうと思う。

例えば、時間を与えられて、彼らが作り出した「画像」に似た「イラスト」を描けないかと言われれば、少し練習すればかなりの完成度に到達できるだろう。

とは言え、多くの美術やアート系の経験者が、簡単に真似しようとしないのは、「描く意味」をどう見出すのか困惑しているからだと思う。

カメラが世にまだ普及していない時代、「描くこと」が唯一の方法だった。

見たこともない風景も、絵を通じて目にすることができたということだ。

しかし、スマホが全世界の誰もが持つようになれば、日本だけではなく、名前さえ聞き覚えのない場所で営まれる暮らしや風景、日常に画像という形で触れられるようになった。

そんな現代において、絵を描く意味をどこに求めたらいいだろうか。

加えて、自動生成できてしまうとなれば、なおさら描く意味や目的は薄れてしまう。

ただ、現段階で生成された画像の多くは、「人間の形をしている」だけに過ぎない。

理想的過ぎると言えばそうで、それは顔立ちやスタイルだけではなく、例えば「骨格」という意味で考えた時に、「皮膚温度」まで再現しようとはしていない。

だからといって「皮膚温度」を再現しているかが基準ではなく、「人間とは何か?」を常に意識して描いて来た我々にとって、自動生成された画像には幾つか抜け落ちている「感覚」がある。

最もそんな感覚など必要ないと言われてしまえばそれまでだが、人間が人間として取り払えないものが寿命であり、時間的な制限だろう。

だからこそ、そこにいる儚さに感動するし、尊さを感じることができる。

その意味では、我々が描く意味とは、我々が生きている時間を使い描いた意味であり、そこから生み出されたイラストは、自動生成された画像ではない。

見た目で区別できるかどうかの話ではなく、別に描く必要性もない中でわざわざ描いたという事実こそに価値がある。

初期の作品から段々とそのタッチの変化を追ってみると、一枚ごとの絵とは異なり、作者の生き様まで感じ取れる。

そして、描き手が大切にするべきは、正にここで、描き続けることでしか表現できない世界観を作りだすことだ。

好きな小説に出会い、それを読み終えた後に同じ作家の別の作品を探しことがある。

そして、晩年の作品と初期の作品を読み比べて、そこに共通した雰囲気を感じと共に、変化した価値観や世界観を感じ取れたら、さらに空想世界は大きくなる。

「何を描いているのか?」よりも「何で描いたのか?」がとても重要なことで、それは有限な時間を生きる我々だから成せることだろう。

自動生成によって、瞬間毎に切り取られた「っぽい物」は生み出せても、やはりそれは連続した時間には存在しない。

アルバムを見返すように、一枚ごとの写真は平凡な日常でも、本人にはとても大切な写真ばかりだろう。