いきなり核心へ
いわゆる器用な人は、どんな場面に直面しても上手く立ち回ることができる。
一方で、不器用な人は、予想外の状況になるほどパニックを起こして身動きできないらしい。
少なくともこみちは不器用な人間で、器用に立ち回れる人を尊敬している。
しかし、器用な人が「上手く立ち回る」ことができてしまうのは、なぜだろう。
不器用なりに思いつくのは、状況判断することを最初から諦めて、「思ったまま」に行動しているからではないか。
または、万能な対処法を持っていて、先ずはそこに起こった問題を当てはめることで、冷静に考える時間を稼いでいるのではないか。
それとも、こみちなどよりも地頭が格段によくて、短時間でも状況判断から対処まで行えてしまうからなのか。
そんな風に考えた。
こみちがパニックになるのは、予測している状況からかなり離れた場合で、その変化に追いつくまで身動きできなくなったからだ。
「ええッと…」
そんな風に状況を観察している間、側から見ればパニックを起こして何もできずにいるように見えるだろう。
もちろんすぐに状況を把握できる訳ではないから、「あああ、そうだ。状況を観察しなきゃ!」という間は、完全にフリーズしている。
こみちの場合、案外簡単にパニックになる。
目の前に2つのケーキがあって「どちらでもどうぞ!」と勧められた時でさえ小さなパニックになっている。
理由は、そもそもどちらが食べたいのか明確に決められなくて、しかも残りをその人が食べるのだとしたらどちらが食べたいだろうと想像の範囲を広げてしまう。
だから「こっち!」とすぐに答えることができなくて悩んでしまう。
特に自己解決できない類いの悩みなら、考えても無駄なのにあれこれと想像し、またタイミングを合わせようとしたりして、なおさらすぐには行動できない。
ではここでもう一度、器用な人がパニックにならない理由を振り返ろう。
そもそも地頭がいい人なら、パニックにならないのも頷ける。
状況判断を放棄して、思うがままに行動する人の場合なら、こみちにできるのは余計な心配をしないで自分本位で通すことだろう。
そして、万能なエスケープを用意して、そこに一度落とし込むという場合には、そのコツを見つけることだろう。
例えばこんな時に…
介護士として働いていた時に、利用者たちを短時間で入浴させるのはこみちが苦手としていた作業だった。
そもそも、お風呂に入るのに、忙しなく急がされて入る利用者を思うと、少しでも余裕を作ってあげたくなる。
一方で、少し離れた出入り口を見れば、順番待ちしている別の利用者が退屈そうに待っているようにも見える。
「少しでも早くしなければ…」
そう思った時に、心の中でパニックが起こってしまう。
「急げばいいのか? それとも…」
もう一つ思っていたのは、入浴前と後にある衣類の着脱だ。
素早く行うにはコツがあって、それは介護士側だけではなく利用者の方もタイミングを合わせてくれないと難しい。
「さぁ、立ちますよ!」
もしも自分自身で衣類の着脱をしているなら、そんな声掛けさえしないで、ササっと済ませてしまう。
でも、「何しているの? 立つんでしょ?」とは言えないし、相手が聞き漏らしたら「さぁ、立ちますよ!」と同じ声掛けを繰り返すだろう。
そんな方法だと当然だが時間が掛かる。
手慣れた介護士を見ていると、ある意味で少し乱暴にも見えるけれど、結果的には上手く着替えさせている。
ただ、それがどんなに手際よくても、利用者の立場になると「入浴は気を使うなぁ」と思っているはずだ。
つまり、器用な立ち回りって、全く同じことを同じ手順でしているのに差ができる訳ではなくて、見えない所や後で修正できる部分をカットしていることも多いと思う。
経験から言えるのは、やっぱり手順通り行えば誰がしても大きな差はないと思う。
手際の良さは、それだけカットしなければ実現できない。
ここまでこみちなりにパニック回避の糸口を探してみたけれど、相手もいて、その人が「嫌に思ってしまうのではないか?」という時ほど、解決策に困ってパニックになっている。
例えば、料理を作る作業は割と苦ではないし不得意でもない。
「カレーを作る」と決めて、パニックになることはほとんどない。
理由は簡単で、自分のペースで、タイミングも確認も自由にできるからだ。
例えば、同じ作業を誰かと一緒にするとなれば、「どうしますか?」というような会話が必要になる。
そして「コレをするので、アレをしてください」と指示されればいいけれど、「どうでしょうか?」と曖昧に返答されたら、その場は完全に停滞してしまう。
というのも、ある状況でも、こみち自身が思う「納得のライン」があって、そこに到達するには必要な行動や手順がある。
でも相手もいればその人に合わせなければと思うし、捨てきれない「納得のライン」も心の片隅に残っている。
「いいのかなぁ…。全然違うけど…」
そんな風に感じた時のパニックは、「納得のライン」を早々に捨てて、「やむを得ないですね」と思うしかなさそうだ。
でも、そんな不完全な仕上がりで本当にいいのかという状況と、相手がまだその状況を理解していないだろうと予測した時ほど、心の整理に時間が掛かる。
パニックになってしまうこみちの場合、揺るぎない決断力に欠けるので、「どっちがいいですか?」と言うような問いかけを答えられない相手にも繰り返してしまう。
「やっぱりできなかったですね!」で終わりたくないから、このままで本当にいいのかとギリギリまで自問して、パニックを長引かせてしまうのだ。
何なら遊びに出掛ける時でさえ、よくお腹が痛くなるのも、「今日は楽しいだろうなぁ!」という期待に自分がついて行けるのか心配になってトイレに駆け込んでしまう。
いい格好したいのではなく、残念な気持ちでは終わりたくないから、悩んでも仕方ない部分まで想像してストレスを抱え込む。
そんな期待など放棄してしまえるのかが、パニックにならない境界線だろう。
ちょっと順番を変えるだけで、タイミングを合わせるだけで、物事がスムーズに進むと知っているから、だからこそそうでありたいし、そんな風に生きていたい。
でも、その期待値が大きくなり過ぎると、自分の手に負えなくなって、パニックになるという迷路に迷い込む。
そもそも、こみちはパニックになることが悪いこととは思っていなくて、今は一番こだわりたいことだけを優先して生きている。
選ぶことが難しい時は「どちらでもいいので、好きな方を選んでください!」と投げ返したり、一番近いものを選んだり自分なりのルールを決めて、大きな事柄や重大な事柄でない限り、日常的なものはパターン化して対応するようにしている。
余談だがある医療従事者から「君はエンパスじゃないのか?」と言われて、初めてそんなタイプの人がいることを知った。
もしもそうだとしたら、それこそパニックになってしまうのも仕方ない流れで、無理して解決しないで、「いやぁ、分からないなぁ」と返すようにしている。
理由を聞かれれば、悩んでいる状況を掻い摘んで説明し、判断できないことを伝えている。