『ズル』を『得した』と思ってしまう人間性

 『ズル』の正体

なぜ列に並ぶのでしょうか。

思うに、横入りする行為は、一部の人が行うから成立するのであって、全員が横入りしたら、その場は混乱し、収集がつかない状況になるでしょう。

そして、結果的に「列に並んで」という方法が行われないようになり、全く別の方法に切り替えられるかもしれません。

「自由な選択肢」が一つ、二つと減ってしまうと、段々と選択肢ではなく、強制的な手段だけが残るので、ある人からすると何だか不便な世の中になったと感じるはずです。

つまり、「列に並ぶ」という行動を集団として成立させられるのは、それを守らないことで結果的に自分自身にとっても不便な世の中になると判断して、若しくはそう教えられたことを守って、順番待ちするのでしょう。

例えば、「列に並ぶ」という行為も、そこに友だちを発見し、声を掛けて話ている内に列に後から加わってケースだって無いとは言えません。

わざとではなく、流れの中で起きた行動ですが、後方で待っている人にすれば「横入り」に見えてしまいます。

列に並んでいる時に、どうしてもトイレに行きたくて、前後の人に事情を話、一度列から離れた後に、戻って来たらどうでしょうか。

列に並ぶ全ての人に説明していないので、知らない人には横入りに見えるかもしれません。

しかし、規則を厳密にすると融通が利かない世の中になりますし、厳密にしなければ、横入りに見える行動も無限に増えます。

規則正しいだけでは成立しませんし、モラルがなければそもそも列に並ぶ方法が成り立ちません。

つまり、「ズル」というのは、グレーな部分で、肯定も否定もできるという曖昧さがあります。

一度でも「アウト!」と言われた後に

列を見つけて、結果的に横入りと判断されて、途中から並ぶのを拒まれたという経験をした後、別の機会に同じような列を見つけて、どんな行動をするでしょうか。

一度、拒まれたから知り合いを見つけて言葉を交わしたけれど、そのまま列に並ぶのはやめて、最後尾に並び直すかもしれません。

もしかすると、前回は拒まれたけれど、今回はそんなことを言われないかもしれません。

一回目の後、二回目の行動で、その人の人間性が明らかになります。

例えば、学校や会社のような顔ぶれが固定された集団で、二度三度同じ否定を受けると、その人に対する評価は自然にできてしまいます。

成熟した社会なら、面と向かっては否定されませんが、やんわりと促されるでしょうし、管理者がいれば、肩を叩かれるかもしれません。

そこまでされた時に、この方法は拒まれると理解し、改められたら、それはもう学習できたということです。

しかし、何で自分だけと、個人的に否定されたと感じて、「損をした」と思ってしまったら、冒頭でも触れた「列に並ぶ」という方法が禁止されない限り、事態に向き合えないでしょう。

便利なものや状況があると、それを有効に使うことは当然のことです。

状況を誤認し、間違え方法を取ってしまうこともあるでしょう。

しかし、注意されるというのは、まだその人に話してもみんなが大切にしているルールを理解してもらえると思うからで、それが完全にできないとなれば、それこそ管理人を設けてコントロールしてもらわなければいけなくなります。

手間が増えるばかりか、気軽さも失せてしまうので、「最近、不便になった」と感じることが増えるでしょう。

自分で考えて行動することができず、常にルールというものがあって、それに合っていなければ否定されてしまう。

「ズル」をしてしまう人は、それがうまく通ると「得」と感じるのでしょう。

正式に列に並ぶと、1時間は掛かるのに、ズルをして15分でできたら「得」だと思うからです。

でも1時間という時間を大勢の人がルールとして待っていて、それは規則ではなく、自由に生きるためにやむを得ないとして受け入れていることでもあります。

しかしながら、小手先でズルしてしまう人は、他人がルールを守って生きている意味を理解出来ません。

今後は段々と日本でも格差が生まれてしまう!?

格差というと否定的なイメージが浮かびます。

頑張っているのに、上手く行かない不器用な人がいるからです。

一方で、ズルをして得することばかり考える人もいます。

正式な方法が面倒で、テクニックとは違う方法で、ルール違反を行う人です。

一回目は、誤認や誤解、そんな言い訳を社会は寛大に受け入れてくれるかもしれません。

でも、生き方が変わらなければ、同じ方法を繰り返してしまいます。

すると、顔ぶれが固定された集団でいると、評価が下がり信用や信頼を失います。

何かあった時に、格差ではなく、自然な流れで行き場を決められてしまうのです。

「この人、ズルするタイプだな」

そう分かれば、自然にまわりから人は離れ、残るのはズルに気づかないか、ズルに気づいてもなお寄り添ってくれる人だけです。

そこで人の優しさに気づければいいですが、どうやら気づくということはとても難しい行為で、さらに自分を見直して生き方まで変えるのは、相当の覚悟が必要です。

「口では何とでも言える」と言いますが、苦労を伴わないことは誰でも気が向けばできます。

でも苦労をして全うするということは、覚悟というものも必要ですが、置かれた立場や状況を冷静に判断することが大変です。

「ズルしないで列に並んだんです!」

そんな人がいたら、驚くでしょう。

「それ自慢?」とつっ込むかもしれません。

サラッと当たり前のこととして済ませられたら楽ですが、ズルするタイプの中には、「すごいね」とか「よく頑張りました!」と褒められないと満足できないタイプがいます。

ズルしないで「損」した分、褒めて「得」をしたい。

そう考えてしまうからです。

結局、ズルして「得」と感じる感覚は変わっていないので、それを直すことが簡単ではありません。

ほぼ不可能でしょう。

行為を制限するという方法はできても、列に並ぶというルールの意味を理解できないからです。

今回は列に並ぶを例にしましたが、その状況で「その場から逃げる?」というタイプは、もうどう説明しても頑張れないでしょう。

頑張ってもらうのに、まわりが必死で励まして、持ち上げて、それでやっと半人前のことができるという感じだからです。

この年になってやっと「謙虚」という意味を理解できました。

誰かのように上手くできないなら、せめて「謙虚」ではありたいと思います。