「老い」とは何か?を具体的に考える話

 「老い」は機能低下だけでは語れない!?

生きていると、突然にトラブルが前触れもなく起こったりします。

例えば、夏を前にエアコンの冷房が効かなくなってしまうというのも、予期しないトラブルでしょう。

部屋の広さや性能によって価格も異なりますが、10万円以上の出費がいきなり発生します。

しかも、今注文してその日に解決できる話ではなく、商品選びから工事日の設定など、会社勤めしていると休日をそんなトラブル解決の時間に使わなければいけません。

まだ4月なのでそれほど需要も高くないかもしれませんが、これが梅雨時くらいになれば、工事日がずっと先になって、壊れたまま暮らさなければいけないということにもなります。

もちろん、そのトラブルに必要な資金が用意できないと、ローンの手配や資金繰りもあったりして、問題がさらに長引いたり、困難になったりするのです。

つまり、「老い」とは、単に自身の機能低下の話ではなく、突然起こったトラブルにどれだけ対応できるのかで、その後の生活がダメージから解放されるのかが決まります。

高齢になり、視界がクリアにならなくなって、例えばそれが「白内障」だったとして、そのままでは生活が不便ですし、手術費の用意や医療機関の選定など、越えなければいけない課題もたくさん現れます。

「今の生活さえ守れたらいい」というのは、トラブルが起こらない想定です。

実際は誰にも不意にトラブルが起こり、それにどう対応するのかで、その後の生活が守れます。

つまり、通常の生活費が賄えているだけでは、老いが現実化した高齢者の暮らしではあまりに無防備で、十分な年金や預貯金でもないければ、今の時代こそ「無職」になってしまうべきではありません。

特に社会との繋がりが希薄になりやすい男性の場合、現役時代にどれだけサラリーマンとして活躍していても、退職後の生活を占えるものではありません。

言われた仕事、予測できる範囲の仕事しかしなかった人は、退職後の自身の能力を見誤ってしまうからです。

専門分野に精通し、退職後もその世界で稼げるならいいのですが、現役時代のキャリアが継続できない場合には、手仕事や車の運転、家事や大工仕事のように、体を動かしてできることが強く求められます。

その大前提が、億劫にならずに何度も興味を持って素早く動ける気持ちを持ち続けることです。

食べられなくはないけれど…

最近、母親の作る料理が微妙です。

その原因は、母親に料理する意欲がないからでしょう。

多分、結婚してからもう何十年も料理を作って来たはずで、でもどうすればより美味しくなるのか?を気にしなければ、料理は段々と下手になります。

同じ食材を使っても、できる料理は全然別もので、火加減や塩コショウのちょっとした差が結果に響きます。

「老い」とは感覚や判断力の低下にも現れるので、様に料理が下手になってしまう可能性があります。

とは言え、「もっと上手に作って欲しい」と頼んでも、そしてそれに応えたいと思っても、老いてしまうとやはり上手くはいきません。

小難しい料理が下手なのではなく、目玉焼きや卵焼き、お味噌汁といった定番のものでも、「ん?」となってしまうズレがあります。

そのまま食べられない訳ではありませんが、無理して作っているのなら、もう作らなくてもいいのではないかと思うほどです。

牛肉の旨みがすっかり消えてしまったすき焼きが出された時に、もう高級な肉を買って来ても母親には調理できないのだと思ってしまいます。

一番美味しいポイントを逃してしまうので、出涸らしになったようなパサパサの肉や味気のない出汁。

「ちょっとだけ濃い目に作ったら」と言われた時には、「ああ、うん」と返すことしかできませんでした。

「濃い味」とはどんな味を意味しているのか。

塩や砂糖、醤油を追加すればいいのかということです。

料理はトータルバランスで決まると思うので、例えば薄味でもバランスが良ければ気になりません。

でも、バランスが悪いまま味だけ足しても、そのアンバランスさがより強くなってしまうので、やっぱり美味しくはなりません。

ある意味で、この感覚をキープするのは難しいことで、老いてくると舌の感覚が鈍くなるのでどうしてもできなくなってしまいます。

言い換えると、自分だけが料理を作って、それを食べるだけでは失われてしまうので、たまには外食もして、いろんな料理を食べてみるという工夫も必要です。

「食べられればいい」という意識のままで作ってしまうと、どうしても味が落ちてしまいます。

例えばこみちの父親は全く料理をしません。

袋麺でラーメンを作ることも怪しいレベルです。

それこそ食べられるレベルならどうにかなるでしょう。

でも、麺を絶妙なタイミングで器に盛るとなると、麺がどれくらいの時に茹でるのを止めるのか、自分なりに知っていなければいけません。

決して難しいことではありませんが、今まで興味を持たずに生きてしまったら、老いてから説明されても手順を追うことが精一杯で、美味しく作るという段々にはなかなか到達しません。

今まで率先して作らなかったということは、誰かに手ほどされないと覚えられないということ。

これが何を意味のかというと、「トラブルが起こっても対処できない」ということです。

今まで通りならどうにか続けられても、何か起こった時に、又は何か起こるかもしれませんと思って、下調べしたり方法や手順を考えたりできなくなっている訳です。

車が故障しました。

そんなトラブルが起こっても、資金が用意できないともうお手上げです。

段々と何もかもできなくなってしまうことが老いだとしても、それを前向きに受け止めて生きることも大切です。

しかし、その一方でできなくなっていることを理解して、じゃあ何をどうしなければいけないのかを考えいなければいけません。

段々と老いて、その問題にさえ気づけなくなってしまうと、もう「どうなの?」と側から尋ねても答えなど言ってはくれません。

仮に何か答えても、「じゃあ、お金はどうするの?」「それまではどんなスケジュールにするの?」と一歩踏み込んで話をすると、答えたことがあまり前後関係を考慮したものではなかったと気付かされます。

「そのままの生き方でいいの?」

そう尋ねた時に、自身の老いを考えて答えているのではなく、「今は不満には思っていない」という意味で答えたりします。

まとまったお金が必要になったとしても、両親を当てにはできませんし、両親に何かトラブルがあれば、当然のようにこみちの問題になってしまいます。

「迷惑をかけない」とか、「放っておいて欲しい」とか。

両親は自身の生活を主張します。

「でもそうではないでしょう?」という気持ちがあって、日常生活だけではなく、トラブルになった時も二人で解決してくれたらいいのですが、困ってくると必ず事情を説明して来て、「どうしよう?」という話になります。

そんな時に、こちらのスケジュールを大幅に変更しなければいけないこともあって、だから言ったのにというもうどうしようもない話ばかり繰り返されます。