「幸福」とは何か?を考える話

 「幸福」という意味

いきなり話は逸れてしまうけれど、近年はAIが人間の頭脳の代わりをしてくれるらしい。

そして、高齢の両親と暮らして、また介護士としての経験を思い出して、「食べる」「寝る」という生活の特徴的的な部分を省くと、あとに何が残っているだろうか。

例えば、父親の日常は、朝目が覚めたら起きて来る。

既にテーブルに朝食が用意されていて、それを食べることもあれば、冷蔵庫から好物の珍味などを出して済ませている。

自分の食器を洗うこともあれば、母親に頼んで病院へと急ぐ。

予約しているし、毎度のことだから、そんなに慌てる必要はないけれど、父親としては「急用」なのだ。

帰りに母親からの頼まれごとをするために、スーパーで買い物をして来ることもある。

でも、2リットルのペットボトルを6本、1ケース買って来てと頼まれて、値段もメーカーも違う500ccのペットボトルを24本買って来たことがあって以来、メモを見て買い物をすることは難しい。

だから「米」とか「醤油」とか、決まった商品を頼むことしかできない。

そして、帰宅後は昼ごはんを食べて、夕方までテレビを観て過ごす。

夕方に自室で2時間くらい仮眠して、用意された晩飯を食べる。

その後は夜までリビングのテレビの前を陣取り、みんなが自室に戻ってからもずっと好きな番組をずっと眺めて過ごす。

夕方の仮眠は、夜遅くまでテレビを観たいからで、とは言え11時くらいには自室に戻っているようだ。

父親の日常は、仕事を完全に辞めて、「ワーカー」という立場を失って10年以上が経過する。

つまり、多少の変化はあっても、父親にとっての「日常」は先に紹介したようなことに変わりない。

でも、そんな生活を否定したいのではなく、例えば「カラオケ」が好きという人で、年がら年中、カラオケ居酒屋で歌うのが楽しいということなら、側から見て楽しそうだと思える。

旅行でも料理でも、自転車やカメラでも、何でもいいのだけれど、「〇〇している時は楽しそうだ」と家族からも思えると安心できる。

高望みしているのではなく、せっかくの時間を意味あるものに使ってくれたらと家族として思ってしまうのだ。

しかし、「意味ある」ということがとても曲者で、今回、「幸福」とは何かを考えた時にもしかしてと思ったことにも通じている。

AIに頼めば、絵だって、文章だって、作曲だってあっという間にしてくれるらしい。

だからもう人間は何もしなくていいのか。

寝てご飯を食べているだけでいいのか。

やりたいことを見つけたり、そのために調べたり努力したりということはもう必要ないのだろうか。

つまり、「幸福」とは、その人が思い描ける範囲内の話なのだ。

成長期に段々と交友関係が広く複雑化する中で、自分と他人との違いを見つけ、より自分が何者なのかを知って来る。

じゃあ、こんな風に生きてみようという希望や目標が見つかるから、「幸福」も段々と形を変えて行く。

しかしながら、早い段階で満足し、その範囲内で幸福を見つけ動こうとしなければ、それ以上の幸福は見つからない。

でも、それで満足できるなら、そのこそが本人には最高の幸福だったということだろう。

父親がなぜ母親を連れて旅行に行こうとしないのかと思ったこともある。

集団行動が苦手でも、気心知れた母親となら不満も少ないだろう。

でも、父親は「自分」がとても大切で、何かをするのに待たされることが苦手だ。

それは母親に対してもで、出掛けると言って母親の準備が遅いという理由で出掛けるのを止めてしまうということも昔は多かった。

やっと出掛けても渋滞にハマって、目的地には行かないで帰宅するということもあった。

確かに渋滞でイライラする気持ちは分かるけれど、同乗している家族にすれば楽しい家族でのお出掛けだったのに、父親は「自分」を大切に思うことで集団行動を強制的に取りやめてしまう。

細かなことも器用にできるし、掃除なんかもキチンとできる。

でも、毎週土曜日の午前中に掃除するという決め事を守ることはできない。

結局、寝てご飯を食べて以外で、父親ができることはあまり多くない。

ゴミ出しを頼むにも、出すゴミをまとめて、袋に入れて口を縛り、持って行けばいい状態になっていないと運んでくれない。

今日は可燃ゴミだから、家中のゴミ箱からゴミを集めるということが父親には「自分」を大切にするに当てはまらないようだ。

サラリーマンを経験していた父親だから、こみちもそんな父親の性質を本当に理解できるまでかなり時間と葛藤が必要だった。

これから5年後も多分父親は今の生活を望んでいて、誰にも邪魔されずに好きなテレビをを見ているだろう。

こみちからすれば、まだ歩けるのだから、今のうちにいろんな場所を訪れて思い出を作ればいいのにと思う。

特に苦労させた母親に対して、そんな時間があってもいいだろう。

でも「幸福」はその人の中にしかない。

いくらまわりで勿体ない時間を過ごしていると思えても、今だからこそ感謝を伝えるべき人に何かするべきだと思っても、父親にすればそんな時間は特に感じないし、もしかすれば自分だって我慢しているくらいなのに、どうして誰かのために何かしなければいけないのかと思っているかも知れない。

母親が、「お父さんはずっと料理をしていなかったから」と父親が料理できないことを説明する。

でも、10年、何かを続ければ、一流にはなれないけれど「並」くらいにはなれる。

ご飯を炊けない。目玉焼きが作れない。そんなレベルは不器用とか不慣れの話ではなく、「したい」「しなければいけない」と思えなかったからだ。

自分しかできなければ、性別など関係なくするしかない。

でも、父親の場合、そんな状況になっても「しない」を選ぶ。

つまり、「しなければいけない」と思えないからだ。

「幸福」を考える時に、その定義に着目することが多い。

でもそれ以前に「幸福」はその人が感じられなければ、それまでになってしまうものでもある。

最後に、AIは何でも我々の代わりをしてくれるかも知れないが、彼らが知っている「範囲内」での話だということは忘れてはいけない。

母親の作ってくれた「玉子焼き」は、レシピの話ではなく、「母親」という部分が大切なのだ。

つまり、大本命の目的は自分でするから意味があって、それを誰かに代わってもらってたら、そもそもする意味さえ失ってしまう。

絵を描く。文章を書く。曲を作る。

AIはとても得意らしいが、彼らができることが本命ではなくて、我々が「意味あるもの」として受け入れられることに価値がある。

幸福だと思える気持ちがなければ、何が起こってもそこに幸福は見つからないということだろう。