『一般受験』が教えてくれた意味の話

 「一般受験」は「推薦」の対義語!?

大学受験では、合格を勝ち取る方法として、一般受験のほか、指定校推薦やOA入試、スポーツ推薦などがあります。

受験科目全てを勉強し、合格ラインを突破した一般受験の学生にすれば、母校からの推薦やスポーツという分野で合格できる羨ましさがあるでしょう。

社会人になり、それこそ労働者としてのピークを過ぎた中高年のこみちにとっては、どんな方法だったとして学ぶことの喜びに変わりはないし、若い世代の方々が何かの分野について学んだり研究したりする姿はキラキラと輝いて見えます。

一方で、受験を経験したこみちですが、同時にスポーツを極める難しさも歳を重ねる中で気付きました。

これは人によっても印象が変わるとは思いますが、いわゆる受験勉強は努力が裏切られないものです。

独学での受験勉強になると、得点に反映されない内容に時間を割き過ぎれば、成果として表れない残念な結果も起こり得ますが、それだって勉強の計画を立て、そのスケジュールに沿って行動するという経験は社会人になってからも必要です。

結局のところ、無駄なものはないと思うのですが、人生は選択する順番によっても印象が大きく変わるものなので、経験さえできればいいということではなく、どう選んで来たのかもまた生き方に反映されます。

日常的な趣味としてランニングをするのですが、その際のスピードを「1キロ何分で走れる速度なのか?」という意味で「キロ〇〇分ペース」という言い方があります。

市民ランナーとしては、キロ5分ペースで10キロの距離を走るのは簡単ではありません。

しかし、スポーツ推薦で選ばれるアスリートの中には、そんな10キロを40分以下で走ってしまう人もいます。

それを達成することがどれだけ大変なのかというよりも、どんなに練習してもその領域に到達できないことが起こり得ます。

つまり、努力したのかどうかではなく、選ばれた人なのかどうかという基準です。

でも、このような類いの選別って社会人になってからもいろんなところで起こります。

例えば、歌がめちゃくちゃ上手くても歌手にはなれないということが当たり前に起こるからです。

そもそも、歌が上手ければ歌手になれるということではなく、人が歌声に感動するから歌手にもなれるのです。

もしもすると、そんなに上手でなくても、人から支持される人もいるはずです。

どんな努力ということでは解決されない領域なんです。

ある意味で、一般受験は努力した量を発揮する場所で、指定推薦や他の推薦は、もっと広い範囲で結果を見定める場所なのでしょう。

その流れからすると、一般受験で合格された方は、仕事を上手くこなせる方でしょう。

一方で指定推薦などで合格された方々は、「個」から生み出す力を仕事に活かそうとする方でしょう。

求められている期待が全く異なっているという訳です。

スポーツで、正に絶好のチャンスが自分の目の前で起こった時に、そこでしっかりと体が反応し、過度に緊張しないで結果を出せることは才能です。

何回練習しても、咄嗟にできるかどうかは分かりません。

でも、手順を学ぶことに趣きを置く一般人に対し、発想や閃きで新しいビジネスを立ち上げる人はまた別のタイプです。

どっちがすごいという比較は、それこそ鶏とたまごなのですが、違うタイプを羨ましく感じたり、自身の努力を評価してもいいはずです。

こみちなど、どっちつかずなので、何者にもなり切れていません。