老いたら自由が待っているのかと言う話

 数回足を運んで気づいた「習慣」

最近、趣味のランニングから低い山や未舗装路に出かけることが増え、さらにずっと前にしていた野鳥観察にも興味が湧いて来た。

鳥が集まると言う自然公園にもカメラを持って通うことがあり、その公園には数回足を運んだ。

最初の時は気づかなかったけれど、その公園には望遠レンズをつけて撮影を楽しむグループがいる。

野鳥が集まるスポットは彼らが陣取っている。

その脇を通っていると、ふと耳にした会話が聞こえて来た。

「一般の人にシャッターチャンスを邪魔される」と。

確かに公園には犬の散歩をはじめ、いろんな目的で人が来ている。

子ども連れが公園の広場で走り回ることも珍しいことではない。

「あそこで珍しい鳥や見えるよ! でも撮影する人の邪魔ならないように…」

見知らぬ人からそんな声を掛けられた。

双眼鏡を首からさげていたからだろう。

ただ「邪魔しないように」と言う最後の言葉には、ちょっと敏感に反応してしまう。

もちろんどんな意味なのかはよく分かる。

けれど、楽しい気分転換のできる場所でさえ見えない序列があって、自由ってなんだと思ってしまった。

それ以降、撮影グループの様子が気になる。

リーダーっぽい人が誰なのかも自然と分かる。

周囲の人がその人に挨拶して去って行くのが何度も目撃できたからだ。

こみちも昔、仕事でカメラを使っていたことがあるから、「カメラ」の世界も少しは理解できる。

腕は、使っているカメラの種類で決まる。

そんな雰囲気が強い。

高額なカメラとレンズが、その世界での順位を決める。

本当のプロカメラマンの世界は、撮った写真で決まるのだろう。

でも、素人カメラマンの世界では、腕の差はわずかなもので、通った回数や撮影した枚数が結果に左右される。

主のように通い続ける人が、いつの間にか順位の高い人になるということだ。

現役を終えて、余生を楽しむ時にも、そんな見えない序列を感じながら生きるのかと思ってしまった。

心が疲れているときは、そんな些細なことが気になってしまう。

いい写真とか、苦労した撮影秘話ならたくさん聞きたいけれど、そうではない決まり事で生きて行くのはつまらない。

その公園、いろんな野鳥が観察できるけれど、何か急に行くのがイヤになって来たなぁ。