なぜ「失敗」から学ばないのかという話

 「失敗」はダメなことではない!

成功と失敗がある。

何か人生の岐路に立った時に、失敗を選んだら人生そのものが終わったと思うかもしれない。

でも実際にはそんなことなどなくて、「失敗」から始まるストーリーがある。

確かに「成功」によって夢や希望に近づくということもあるけれど、「失敗」したからこその展開に良さがあったりする。

特に若い世代の失敗は失敗ではなく、まだ何度でもやり直すことができる。

というか、中高年になって分かったことだけど、「夢」が叶っても叶わなくても、人生の本質はそんなに変わるものではない。

お金や名声を手に入れたとしても、晩年になって社会から批判されるようなことをすれば、その後の人生はどうなるだろうか。

個人的には、「批判」されるという部分ではなく、「自己怠慢」から招いた失敗ほど虚しいものはない。

どうしてもやり遂げたいと思うような夢があって、それを追いかけていたら時間ばかりが経過してしまった。

例えば、大学受験に失敗し、一浪したり二浪したり、時に社会人として数年の経験を経て大学に進学するのも中高年になって思うのは違いなどほとんどない。

あるとすれば「大学に行った」という記憶くらいだけが残る。

その時はとても大きなことに思うかもしれないけれど、何十年も経つとそれくらいになってしまう。

だから、他人と同じタイミングでできなかったことに焦る必要もないし、遅れたことでまた次のグループに出会い、そこで人生を通して欠かせない人に巡り合うこともある。

どっちが良かったのかなど誰にも分からないし、結局はそれを選んだ自分を素直に受け入れられる自分がいるのかに尽きる。

追い込み時期に追い込めない弱さがあって、それを悔しく思うなら次は直せばいい。

そもそも弱ささえ感じていないのなら、まだ焦って落ち込む必要などない。

ただ、人生にはターニングポイントがあって、「結果」が明確になる時期がある。

受験で言えば「合格」と「不合格」だ。

先にも言ったけれど、合格だけが全てではないし、少しくらい遠回りしてもその道を思うほど悪かったとは感じないだろう。

なぜなら、合格して見えた景色だけがバラ色で、それ以外別の色とは限らない。

社会人になって部下を持つポジションになった時に、まだ仕事に慣れない人の不安さや失敗は、自身が失敗した経験があるからこそ理解できると思う。

失敗を肯定しているのではなく、失敗してもその後のリカバリーでどうにかなるということ。

「どうにかなる」というのは、何も起こらないということではなく、何か起こってもそれを受け入れて生きるしかないということ。

なぜ失敗から学ばないのか?

「失敗」という出来事にしっかりと向き合う時間が持ちないと、成功も失敗も名目だけになってしまう。

失敗して悔しさや悲しさが心の中で起きている最中に「大丈夫だよ!」と周りが慰めるのはちょっと違う。

心の傷を和らげるつもりの言葉が、時に成長を妨げてしまう。

「なぜもう少しあの時に頑張れなかったのか?」

後になって頑張っても、もうあの時には戻れない。

「その時にできた」ということに意味があって、時期や状況が変わってしまうと意味まで変わる。

必死に頑張って、もうこれ以上できないと納得したのに、その結果が失敗だったなら、もう次のことを考えたらいい。

別の意味で反省や振り返りはいいけれど、何も自分を責めるような話だとは思わない。

逆に、頑張り切れなった時は振り返ろう。

なぜなら、その「失敗」から学ぶべきことがあって、同じパターンを繰り返す限り、何も成功できないことが分かったからだ。

準備期間が不足していたのか、方法や手順に問題があったのか、じゃあ今度は別の方法で試してみようと思えるだろう。

失敗を失敗のままにしてしまう人は、「別の方法」に辿りつかないまま同じ「失敗」パターンを繰り返してしまう。