人生の「成功者」とは何者なのかという話

 中高年の成功者たち

こみちと同年代、若しくはもう少し上の世代の成功者たちが、何かのキッカケでそれまでの信頼を失い、それを待っていた何者かによってさらに裏の顔を暴かれたりする。

そもそも「成功者」とは何をした人だろうか。

スポーツにおいて、例えばオリンピック選手が金メダルを取って、その後の人生が約束されるものだろうか。

もちろん、その競技に関わる人々の間では偉大な結果を残した人と認識されるとは思うけれど。

個人競技だとしても、監督やトレーナー、仲間の競技者など、多くの人との関わりがあって結果に到達しているはずで、全くの一人で大きな結果が残せるような競技はオリンピック種目にはないのではないだろうか。

つまり、世間的には「金メダルリスト」と思われる人物でも、その業界ではまた異なる評価があって、素晴らしい部分も苦手にしていたことも、全部含めてよく周知されていると思う。

では、確かにある選手が獲得した「メダル」でさえ、関係者のサポートがなければ成し遂げられなかったことだとするなら、「成功者」とは誰を指すのだろうか。

確かに選手としての才能があったのは事実だとしても、それだけでは結果に結びついていないとするなら、没頭できる環境やサポートが受けられることのあるなしによっては「成功者」が変わっていたとも考えられる。

最も、支援されたことまで含めて「才能」と呼ぶのかもしれないが…。

冒頭で触れた中高年の成功者たちに何が起こっているのかと考えた時に、確かに才能に秀でた人物ではあるけれど、どんなタイミングでもどんな環境だったとしても、今と変わらないだけの成功者になっていたのかは誰にも分からない話で、もしかすると同年代に惜しくも結果を残せないで去ってしまった人の中に「成功者」になれた人物がいたのかもしれない。

だからこそ、成功者がその成功の理由を忘れた時に、「驕り」が生まれるのではないだろうか。

「これくらいなら…」

確かに世の中は不思議なもので、努力しても結果にならないことが多いけれど、成功者のミスや失敗が一回でその失墜にはならないこともある。

一度作りあげられた「実績」とは、それだけ大きなもので、だから他の人の運命も変えられてしまう。

成功者になっていたら、どんなに豊かな生活ができていただろうか。

そんな風に思う時もあるけれど、でも成功者にはそれだけ大きな期待と役割があって、何らかタイミングで失墜してしまえば、今度は努力しても元のポジションに戻れなくて、でも成功者だったという目立ち方だけはいつまでも世間に残ったままで、淡々と目立たなく生きて来た人以上に、晩年は想像もしていなかった人生を送るのかもしれない。

夢があって、それに向かって毎日を頑張っている時の方が実は幸せで、成功者になって何不自由ない暮らしを手に入れてしまったら、そこに驕りはないかと律して生きることが求められる。

慢心したら、どこかで恩も忘れて、いつの間にか一人で大きくなったつまりで振る舞ってしまう。

誰もそんな振る舞いに注意もしてくれないから、段々と気づかない内に他人が遠ざかってしまう。

だからこそ、謙虚さを失ってからの失墜は、人生が一変するのだろう。