50歳を迎えてからの生き方を考える話

 生きているという意味

もしかすると「生きていること」に何か意味があるのではないだろうか。

50歳を過ぎると、肉体的な衰えはもちろん、社会的にもゴールが見えて来る。

あれだけ会社での出世や業績、同僚との競争も段々と無意味に思えてしまう。

なぜなら、命が永年ではないし、定年後の人生を考えた時に、今までのまま生きていていいのかと考えてしまうからだ。

20代や30代のように、今の努力が後々に花を咲かせるということが想像できなくなった最近では、「今日」がとても大切に思えて、1年後、10年後は今日の延長線上にしか思えない。

アメリカの企業が、ゴーグルタイプの電子デバイスを発売するというニュースを見た。

つまり、パソコンをデスクに置いて扱うという従来の概念が変わるかもしれないという商品だ。

しかし、介護福祉士の有資格者でもあるこみちは、介護業界が一変するような商品ではないかとも思った。

つまり、ゴーグルを付けることで意識の疎通ができるなら、特別な装置がなくても言葉を話すない人や言語の違いによるコミュニケーションの壁を克服できると思ったからだ。

一見、寝ているように見える人でも、実は脳内では創作活動をしていて、その物語が作家として日の目を浴びることも起こり得る。

もっと言えば、時代を超えて、生きていた時代が重ならないのに、友人として信頼関係を築けたり、忘れることができないような思い出が作れたりするかもしれない。

もっともっと言えば、「人」という存在ではなくても、複合的に作り出された人造人間によって、孤独な老後を豊かにしてくれる時代が来るのかもしれない。

労働とは何か?

過去における労働は、貨幣を受け取る手段で、それが経済活動の一部になっていた。

しかし、機械によって多くの生産活動が行えるようになれば、人が働く意味は変わるだろう。

とは言え、仮想の未来ではなく、ふと目に入る木々と同じで、雨や風のような自然が彼らを生かしていて、彼らは降り注ぐ太陽を浴びて生きている。

つまり人間も生きている間は、太陽と共に生き続けるというだけのは話だ。

空腹は機械が作ってくれた「食事」で賄い、あとは特に何をするということもない。

テレビはai化されたタレントが流暢に笑い話を繰り返し、ai化された歌手が完璧な音階で歌うだろう。

プロになるために何かをするのではなく、「生きている」から我々は何かしている。

そんな時代になるのかもしれない。

我々が十代だった頃、例えば一流大学に合格すればバラ色の人生が待っていると思わなかっただろうか。

でもどうだろうか。

今の社会を見て、一流大学で学ぶことが全てではないと思うし、さっきも触れたがai が我々の生活の面倒なことを担ってしまう。

その中には「労働」も含まれて、趣味では得られなかった責任感や達成感まで奪ってしまう。

だからいつも、趣味として楽しむしかできなくて、できなくてもaiが「大丈夫ですよ」と優しく声を掛けてくれる。

でもこれって介護施設での介護士の振る舞いと似ていて、利用者にとって心地よいと思うか、どこか寂しいと思うか、意義と議論されていないように思う。

価値や達成感が認められる趣味を見つけるのは難しい。

意外と働くことってそれが見えやすいからだ。

50歳をす過ぎると、段々と社会から役割を失っていると感じる世代になり、これからどう生きるのかを改めて考えることが増えてきた。