大人の助言は正しいのか? 自分の人生をどう生きるべきか

 才能は誰にでも無限にある!

才能はどんな人にもあって、それはその人だけの唯一のもの。

だから、自分を卑下する必要は全くありません。

絵を描くこととランニングに夢中なだけのこみちに言われても、また大人が分かったフリをして言っていると言われてしまうでしょう。

正直にいえば、卑下してもいいですし、しなくてもいいと思うんです。

ポイントは、今生きている自分の人生を「完成版」と考えるか「お試し版」と考えるのかです。

才能が誰にでもあって、それが無限の可能秘めているのは間違いないと思います。

しかしちょっと考えてみてください。

例えば、料理を作るのが物凄く上手な人がいて、飲食業界で働いていなかったら、その才能ってどれだけ発揮できるでしょうか。

もちろん、料理は生きることと密接なので、いろんな場面で活かされることなので、全くその才能を活かせないとは思いません。

しかし、才能は才能単体では活躍できなくて、その環境づくりがポイントです。

つまり、それぞれにある才能も、環境をどう作るのかで差になるということです。

なぜ、大人は同じことを言うのか?

例えば、勉強しろと大人は言います。

その目的や根拠、キッカケは違っていても、同じことを言います。

理由はとても簡単で、誰もが持ついろんな才能を発揮させるために「勉強」が簡単で効果的だったと長く生きる中で分かって来るからです。

才能は才能単体では役に立たず、環境づくりが大切だといいました。

しかしその環境づくりが、ものすごく運とかコネとか、お金とか年齢とか、タイミングによって当たり外れが出てしまいます。

同じ能力や才能でも、今日ならダメなのに、明日ならいいということが世間ではよく起こります。

しかし試験のような類いは、合格にあたいする得点を取れば誰もが合格と判断されます。

つまり、自分の頑張りでどうにでもなるということ。

でも世間で才能を開花させるには、自分だけではコントロールできないことがあまりにも多く、他人の成功談も役には立ちません。

そのことに大人は気づいて来るんです。

だから、若い人が大人の進める道を拒んでも、実はその大人も若い頃には同じように思っていて、自力で成功したいと思っていたはずです。

しかしながら、先にも言いましたが、努力や才能が認められるのは自分の力だけではありません。

そうだとするなら、先ずは社会の中で自分が安心できるポジションをキープして、その残りで趣味や生き甲斐を見つけても悪くないのではないかと思い始めます。

努力しても全く見向きもされない経験が続けば、そう思っても分かる話でしょう。

5年、10年、中にはいつか叶うと信じて努力や我慢を続けて、段々と老いて来た時に、ふと「若い頃に勉強しておけば」と漠然と思うのです。

勉強はした分だけ役立つますから。

もう一つ、努力や才能に賭けた人生は、どんどん若い世代にチャンスが移っていきます。

歳を重ねて来ると、続けることにも焦りが増して、もしも若いころに戻れるなら、別の生き方を選んでいたという人が増えて来ます。

人生は一回しかないから「完成版」ではなく、「お試し版」だと思って、上手く行かないことも全部楽しむつもりなら、夢に生きるという選択肢も悪くありません。

でも、目の前にある自販機でジュースを買いたいなと思っても、財布に余裕がなければ我慢するしかありません。

買ったから幸せということでもありませんが、それが小さな幸せというもので、大きな幸せは多くの犠牲を払うもの。

だから、夢や才能に賭けた人生は、自分で期限を決めて頑張ってみるのがオススメです。

3年だけとか30歳までとか、学生時代だけのように。

大人たちも、夢を諦めたかった訳ではなくて、歳を重ねて段々と当時の大人たちが言っていた言葉を使うようになったんです。

同じ職場で何十年も働くのって

退屈に思えるかもしれませんが、その「我慢」が才能なんです。

「誰にもできないこと」が、同じ職場に勤め続けることだったんです。

誰にもできないことって、実は逆なんですね。

自分にしかできないことを探すとは、一周まわると一番地味で堅実な生き方を続けることだったりします。

特にその生き方が社会からの信頼を得て、次の夢に繋がることがあるからです。