2022年もありがとう!そして2023年もよろしく!

 2022年を振り返る

一年前の2022年1月は、介護福祉士の国家試験を控えた大切な時期。

それと重なって、叔母の介護施設探しで休日が全て飛んでしまう慌ただしさ。

父親や母親にそんな現状を伝えても、「放っておけばいい」と言われるばかり。

確かに、父親の兄弟姉妹とは言え、実家を離れて50年以上の歳月が流れてしまえば、互いの人生など全く別物かもしれない。

とは言え、父親にとってはやっぱり妹で、困っているならたとえ微力でも手を貸すのが家族ではないだろうか。

極端に言えば、何もできなかったとしても、何もしないのとできないのは違う。

30日にNHKの72時間スペシャルを観ていたけれど、そこにはそれぞれの人生があって、でも共通しているのは「孤独は寂しい」し、「幸せでいたい」と思うこと。

じゃあ「放っておけ」と言い切ってしまう父親が、家族から愛される理由は何?

兄弟姉妹から見放されてしまうほど、叔母は身勝手な人間だったのだろうか?

仮にそうだったとしても、生命や健康に関わるような事態になれば、理屈をどこまで尊重することができるだろうか。

家族会議を何度も重ねて、叔母の家に休日毎に足を運んで、地域包括支援センターや管轄の福祉課を訪れては知恵を授けてもらい、何度も何度も頭を下げてお願いもして、そんな家族としての役割を一切放棄した父親には、根深い溝もできてしまった。

「叔母さんのことができないなら、せめて自身の老後には真摯に向き合って欲しい」

決して余裕がない預金まで使い、ある意味で叔母への感謝を示したくて、その時にできることを父親に代わってしたように思う。

しかし、つい先日も被害者のようにため息をつく母親が、それこそあの一件を忘れたのか、どんでもないことをしでかした。

それがこみちの妹夫婦が仕事で忙しいらしく、子どもたちの世話が大変だと電話で聞き、こみちの妻の年内最後の休みに「家族なんだから持ちつ持たれつでしょう?」と子守を頼んでいたからだ。

その事実にこみちは怒りを覚えたし、少なくとも優しい気持ちを示したいなら、それは自身が犠牲にならなければ嘘だと思う。

安請け合いして、他人のその苦労を負わせようとしている考えに、そう1月の叔母の一件から何も変わっていないと思った。

年内はこのまま。でも来年はいろいろと将来に向けて策を練らなければいけない。

特に放置されている実家のことや今後の両親との同居など、親と関わる多くのことが曖昧になっているからだ。

正直なところ、考えることを一旦停止しているから生きてられる。

実際は、こみちの精神状態もかなり脆いし、そもそも妻がいるからまだ生きていられると思う。

もうやり残したことなどないし、余生もおまけくらいにしかし感じていない。

2023年の抱負や計画も、決して明るい未来ではなく、両親の介護やお金のことで悩むのだろう。

大晦日を迎えて、よく今日まで2022年を生き抜いたと思う。