なぜ「サラリーマン」になれるのか?

 「サラリーマン」として働ける人は人として「有能」!

今回はかなりギリギリのネタに触れてみたいと思います。

それが「サラリーマン」として働ける人についてです。

ある有名な小説家が、「サラリーマンとして働けるなら何も小説家などにならなくてもいい」というようなことを話していました。

小説家が憧れられる職業なのかは分かりませんが、ある意味で「特殊」で、サラリーマンとは異なる能力が求められるでしょう。

小説家の他に、絵描きなどもある種同じ臭いがしますが、映像制作やスチールカメラマンのように、同じアートの分野でもサラリーマン的な職業も多く存在します。

両者の大きな違いは、企画書から始まり、予算取りや関係者への周知など、その流れが企業的な要素をどれだけ含んでいるのかです。

その意味では、ある種の目的を命じられて、その目的達成を果たすために文章を書くという仕事は、それが小説という形だとしても、ここでいう「小説家」とは意味合いが異なります。

つまり、自身の内から湧き上がる感情を「文字」や「文章」というツールを介して構築する人を「小説家」と呼び、同様に自分の興味や関心に任せて好な絵柄を描く人を絵描きと考えます。

彼らの特徴は、いわゆるサラリーマン的な要素がなく、自身の作業が商売と直接的に関連していません。

描き上がった絵も、社会的メッセージを意図するよりも、自身の感じる様を表現しているので、その絵柄を解釈するには社会常識だけでは不十分で、作家自身の生い立ちや思考に歩みよることが不可欠です。

つまり、サラリーマンのように、お客様にいかに分かりやすく整理されているのかは事前に考慮されたものではありません。

描こうと思い立った動機がどこから来ているのかは別として、何らかの感情で描くに至った作品は、サラリーマンとして暮らしている人には独創的で、非日常に感じます。

しかし、小説家や絵描きというのは、職業というよりも、行為に名前を付けたような側面もあって、サラリーマンをしながら小説家や絵描きを兼任している人はどこかネタも社会的な背景によりがちです。

サラリーマンとして働いている人が、それこそカフカの「城」のような作品を描くことは無いでしょう。

描けないと言っても良いかもしれません。

なぜなら、サラリーマンとして働ける資質が、整合性の取れた思考を生み出し、それはつまり独創性からは遠ざけるからです。

なぜ、有名な小説家が「サラリーマンになれるなら、小説家にならなくてもいい」と言ったのか、分かった気がします。

時間を決めて、状況に合わせて、その中で小説なり絵を描いて楽しむことは有益です。

もちろんそんな人なら、サラリーマンとしても働けるでしょう。

しかしながら、文章を書くことや絵を描くことならできても、それ以外の、例えば朝になったら起きてご飯を作るという決まり事ができない人もいます。

ご飯を作れないことが問題なのではなくて、作れないならどうすればいいのかと考えられないことにサラリーマンとしての資質が疑問視されます。

ここで、こみち家の父親を引き合いに出す必要はないかもしれませんが、例えば彼は3度のご飯を食べる以外、決まり事を遂行できません。

朝になったら「湯を沸かす」ということも、周囲がおだてた時にできるくらいで、それを朝の日課として言われなくてもできるわけではないのです。

もちろん、ポットを時々が洗うとか、コンロの周りを拭いておくとか、湯を沸かす以外のことまであれこれ言われたら、「もうやらない!」と勝手に怒り出して仕事を放置してしまいます。

そんな人がサラリーマンになったら、どうなるのかは簡単に想像できるでしょう。

むしろ、それがわかっているなら、「職人」というカテゴリの仕事を目指すべきです。

とは言え、見習い期間はサラリーマンなので、その期間をどう乗り切るのかがポイントでしょう。

しかし、中高年になってから、サラリーマンに向いていないと慌てても、それは本人も大変です。

何より、現代のサラリーマンは、様々な技術や知識を持ち、決められた範囲内で答えを出し続けることが求められます。

もしも職人や独立した人なら、範囲を超えた判断もできるでしょうし、時に方針そのものを変更することだってできます。

よく、中高年向けにハイランクの転職を紹介するシステムがありますが、高い技術や経験を持ち、でも自身では起業しない人でなければ、ハイランクの待遇にも居心地の悪さを感じはずです。

それは、決められた範囲で居られるというサラリーマンとしてのルールがあるからです。

高待遇を謳う求人に成果報酬を実施していることが多いのも、サラリーマンとして収まることよりも、成果を達成することを優先させることで、より独立志向の高い人材に適した仕事が可能になります。

結局のところ、本質的な意味での「サラリーマン」として働ける人は、社会的見聞があり、一般常識を備えた万能型の人物です。

そんなサラリーマンも、管理職になると人材育成や管理で悩むことがあります。

理由は簡単で、何を管理しなければいけないのかに疑問を持つからでしょう。

それこそれ独創性のある発想は、決められた範囲内では見つかりません。

管理するばするほど、均一化しますが、事業としては平凡になります。

新しいプロジェクトや業績を生み出すこととは真逆です。

だからこそ、管理職になって、目の前の仕事をしているだけでよかった頃が懐かしく感じるのでしょう。

会社内での立場という意味では、その会社の方針に準拠した方法が最適です。

しかし、ビジネスがよりグローバルになって行くに従って、そんな考え方も通用しなくなってしまいます。

中高年の方が転職すると大変なのは、そんな相反する常識があるからでしょう。

決まったことを提案すれば、誰かにつまらないと言われます。

独創的なことを言えば、一体、これまで何を学んで来たのかと笑われるでしょう。

どっちに転んでも、サラリーマンという働き方を抜けると、何気に悩んでしまいがちです。

言われたことを疑わず、それだけを信じて生きることができたら、人は随分と楽に生きられるでしょう。

しかし、そこから抜け出した時に、ありとあらゆることを同時に考えなければいけません。

考えることが億劫になる年代だと、やはりそんな状況は苦しいものです。

「サラリーマン」として生きられたことは、とても羨ましいことだったと今になって感じます。