「価値観」の背景
元気な子や大人しい子など、人は生まれながらにして「個性」を持っています。
しかし、皆さんも経験があると思いますが、思春期になってより「個性」を発揮する人がいる中で、逆に「個性」を隠してしまう人もいます。
元気だった活発な子が、ある時を境に物静かになるというのもそんな一例でしょう。
つまり「個性」は人それぞれ持っているのですが、人として成長する過程で、「個性」以上に「その人らしさ」を印象付ける要素が加わります。
物事の大切さを決定する「価値観」も同様で、「望めば手に入るモノ」と「努力すれば手に入るモノ」、さらに「望んでも手に入らないモノ」に分けられるとするなら、それぞれの印象によって、「モノ」に対するありがたさは全く異なるでしょう。
こみち家の両親
こみち家の両親は、戦中に生まれモノが無い時代を生きています。
手に入れたモノが、どれだけ貴重なのかと考えるのも当然です。
一方、お金を出せば、いつでも買うことができることを知っているこみちは、何年も使わないモノが家に置きっぱなしになっていたら、どこかのタイミングで処分をし、また必要な時が来れば購入すればいいと思ってしまいます。
その理由として、家に置けるモノには限度があって、かさ張る大きなモノを「置いている」ことが、実は空間や新しいモノを手に入れること、より望む暮らしに向かうことを阻害していると感じてしまうのです。
「整理整頓をしましょう」というのは、小学生の頃からずっと教えられて来たこと。
「なぜ、整理整頓するのか?」と聞かれた時に、「気持ちが清々しくなる」というような答えがあるかもしれません。
こみち自身、割と整理整頓が得意ではなく、部屋が雑然としてしまうこともあります。
そんなこみちが「整理整頓」を意識するようになったのも、「次のステージに進む」ためには欠かせないものだと気づいたからです。
例えば、「自分らしさ」を感じるなら、生活の基盤となる「家」や「部屋」を、好きなモノだけにすれば良いのです。
床やカーテンを好きな柄や色に変えるだけでも、インテリアの印象はかなり変化します。
さらに、家具や小物にまで手を加え、好きな匂いや花、音楽に囲まれれば、そこは正に居心地の良い空間です。
一方で、モノを捨てるのが勿体無いという感覚が抜けなければ、今の生活スタイルに合わない部屋になってしまうでしょう。
「無駄を省く」という生き方を優先させれば、そんな生き方も悪くはありません。
しかし、中高年にもなってくると、あと何年、自分らしさが続けられるのかもだいたい分かってきます。
どこか居心地の悪さを感じて10年を過ごすよりも、少し意識を変えれば変化できるなら、少しずつでも自分らしく生きていたいと思ってしまいます。
「あのさ、モノを大事にするにもいいけど、自分らしさも大事だよ!」
そんなことを両親に言ったこともあります。
「生きる」ってことは変化だと思うし、変化させようと思う気持ちが不可欠です。
「なんでもいい」と自身の成長を阻害する生き方は、終末期になってからでも遅くありません。
介護施設で暮らす高齢者たち
施設で暮らす高齢者には、3度の食事と寝床、週に数回の入浴があります。
逆を言えばそれだけが保たれていて、他はレクリエーションという形で30分くらいの歌や体操などがあるくらいです。
もちろん、入所している高齢者同士で団らんもありますが、私たちにできる「自分らしさ」はそれ以上追求することはできません。
そうなってしまうことが「介護」だとするなら、まだ介護状態では無い段階なら、絶対に「自分らしさ」を少しでも実現させるべきです。
しかし、人は失ってからで無いと、どんなに周りからアドバイスされても気づけないもので、介護士経験のあるこみちが思うのは、中高年になったらボランティアでも施設を実際に体験してみることです。
中高年が両親と同居するために
先に残念なことを紹介すると、「家族会議」ができなくなりました。
「家族会議」とは、一緒に暮らす家族が、家族内で起こった問題や課題を話し合うことです。
つまり、こみち家の場合、何か起こっても、それが生命に大きな影響を及ぼさない内容であれば、基本的に互いを干渉することはしません。
例えば母親は、片付けしながら何かをすることができないタイプで、化粧をするために洗面所を占拠し、気付けばキッチンで生花を切っていたりします。
玄関のど真ん中に出掛ける時のバックが置かれていて、家のあちこちがやりっぱなしになってしまいます。
「もう少し片付けながら…」
何度か注文しましたが、結局は言い訳をするばかりで、もう直すことはできません。
出掛ける時に傘に手を伸ばしているところを見つけて、「雨が降るからね!」とひと言言ってしまうようなことも、どんなに「だから傘を持っているんでしょ!」と言ったところで、自分の行動を改めることはありません。
逆に言えば、悪気があってではなく、見えた光景から連想される「気づき」が、状況を判断するよりも先に口から出てしまうようになったのです。
「こうするものだ!」と思ったことは、もうそれを本能として行っているので、どんなに言い聞かせても直すことが難しく、「窓を開けたい」「お湯を沸かしたい」と思ったら、何をしていてもしないと気が済まないようになりました。
例えば今後、母親のような人が認知機能を低下させたら、とても扱いづらい人になるでしょう。
「〇〇しましょう」と言っても、自分が納得しないと動かないので、あれこれと気持ちが向くように配慮しなければいけません。
でもそうやって段々と人は老いていきますし、両親を介護するということはそれを受け止めることでもあります。
こみちたちを思って、優しいこともたくさんしてくれます。
しかしながら、それらはこみちたちの希望を汲み取ってではなく、両親の価値観で始める言動です。
「出して置いたよ」
忘れないためにと、宅配便で届いた段ボールを勝手に開けて、その段ボールを倉庫に片付けてくれるのも、「段ボールを片すのは大変だ」という思いが優先されるからでしょう。
「勝手に荷物を開けないで欲しい」と言ったところで、なぜそれが悪いことなのか、何ら段ボールを片したことを褒めて欲しいくらいに思っているのです。
「段ボール片付けてくれたんだね。ありがとう。でも、自分で段ボールを開けたかったんだよ。開ける瞬間が嬉しいから」
そんな風に言って、結果的に段ボールを勝手に開けなくなったら、それはそれで「ヨシ」ですし、それでもまだ理解できない時はこちらが諦めるしかありません。
介護士として働き、高齢者の特徴を知識としても経験としても理解できたので、両親との同居で起こるトラブルもその背景を分析できるようになりました。
これがもしも介護経験が全くなければ、「何でわからないの!」という不満しかなかったでしょう。