中高年夫婦が両親と同居を始めたら…

 「生活リズム違い」が原因で

定年を迎えた父親と、まだ仕事を続けている母親、中高年のこみち夫婦での生活は、子育て世代や独身者のそれとはいろいろと異なります。

特に「生活リズム」に関しては、何気にストレスで、例えばトイレットペーパーでも顕著に現れます。

同居が始まる前、夫婦だけで暮らしていた頃はトイレットペーパーも柄物や色付きなど、どちらかというと妻が選んでくれるのですが、同居後は両親が愛用しているモノに変わりました。

色は「白」で、芯が狭いタイプ。

選んでいる理由は、芯の部分まで巻かれている上にシングル巻きで長持ちするというのです。

色は好みだとして、今まで「肌触り」も基準になっていました。

しかし、「長持ちする」を優先したことで、今までのモノは変更されてしまいました。

これはあくまでも一例で、それぞれの家庭には気づかない内にできた「ルール」があって、別居していた期間が長くなると、家族でも同居することでズレが生じます。

今までなら「こうしていた」ということが、時に別のものになるだけでなく、手間や生き甲斐にも影響を与えるのです。

冷やご飯を食べるのは?

毎朝、白米を炊いています。

しかし、昨日の冷やご飯が残ることも珍しくありません。

このブログでも触れていますが、今は朝食を作るのはこみちの担当で、それは朝早く出掛ける妻にあわせてということもあります。

つまり、朝食は両親よりも早く、自ずと「冷やご飯」を食べるのはこみちの担当です。

温めれば冷やご飯も不味くないので、毎朝の日課だとしても困ることはありません。

しかし、母親は「食べたら同じだもんね!」と言うのです。

事実といえばそれまでですが、「同居」にはそんな些細な心使いがわだかまりになってしまいます。

なぜなら、「同じだ」と言っても、冷やご飯を残して炊き立てを当たり前のように食べていたら、今度は母親が不満を募らせてしまうでしょう。

どちらが負担するのか。

その役割を片側が全て担うと、同居は大変にしか思えません。

なので、「冷やご飯じゃなくて、炊き立て食べたら?」と嘘でも言えたら、言われた方も大人だから「大丈夫だよ!」と笑顔で答えられます。

「それくらいは当たり前」という鈍感さが、家族だとしても心を冷めさせてしまいます。

同居で最も重要なこと

当たり前ですが、親との同居は「老いた両親の介護」に尽きます。

介護施設を利用するにしても、多くの人は住み慣れた家での暮らしを望み、自分から施設に行くというのは、家族の負担を考えられる人くらいです。

老いによって、家事などができなくなったり、不完全なことが増えたりした時に、家族がそれをどこまでカバーするのかが問題です。

先にも紹介しましたが、トイレットペーパーのようなこだわりが生活のシーンで次々に浮上すると、「もうそこまではしてあげられない!」と言いたくなります。

しかし、認知機能が低下すれば、そもそもそんな話し合いも難しく、問われるのは「できるかどうか」になってしまいます。

両親が自分たちの老後の費用を蓄えていなかったらどうなるでしょうか。

介護施設の相場は、月額15万円ほど。

両親が二人とも施設に入るには30万円が掛かります。

その費用の全てを家族が支出するのは簡単ではありませんし、何より自分たちの老後にも備えて行くためにも悩ましい金額です。

「トイレットペーパーは白じゃないと!」

両親から言われるこだわりがどんなものだとしても、最後の最後を家族に負担させることになるなら、一歩も二歩も譲ってもらったとしてもパワハラにはならないでしょう。

でも今は、両親のこだわりもできる限り尊重しているので、結果としては同居が始まっていろんなことに妥協もしています。

もう両親が何か助けてくれることも想像できなくて、夕飯を母親が作ってくれるのですが、「美味しくない」のです。

でも、役割を奪えば、それだけ何もかもを家族側で賄うことになり、介護状態を早めてしまいます。

昨日もクリスマスケーキの注文が話題になったのですが、母親が勧めるのは「割引券」が使える店です。

美味しそうとか、これが食べたいではなく、クリスマスっぽいケーキを安く売っている店で買うことが目的なので、相談されても気持ちが乗ることはありません。

冷凍のピザに冷凍の唐揚げ。

「冷凍」食品も美味しいのですが、「クリスマスっぽい」という体裁ばかりが目立ちます。

その癖、見えない部分にこだわりがないので、一緒に暮らしていても両親の暮らしぶりに微笑ましさを感じられません。

ある意味、人生詰んだという感じがします。