結婚と離婚
「老いる」という現実を予想できないのは、人間の本能かも知れない。
こみちみたいに「老いる」を日常的に感じていたら、「何故、生まれてしまったのか?」と考えてしまう。
本音を言えば、「何故生きているのか?」の答えは、多くの介護施設で暮らす高齢者とほとんど変わらない。
違いがあるとするなら「他人に迷惑を掛けない」という部分だろう。
まだ若い方々は、どう感じるのか分からないが、自分から介護施設に入るという人は「他人の迷惑」に配慮しているからだ。
誰だって住みなれた場所でずっと暮らしていたい。
でも、段々といろんなことが不十分になってできなくなり、時に取り返しがつかない程の大きな迷惑をかけてしまう。
つまり、「何故、こんなにも不幸なのか?」と思う時があったら、そこから逃げればいい。
何も「今」は、まだそこに直面しなくても、別の方法がたくさんある。
しかし、「老いる」とはその選択肢が奪われることで、いつか3度の食事さえ自分ではできないくらい心身が低下してしまうから。
今、父親は働いていない。
役割として家事ができる訳でもなく、時々風呂の掃除をしたり、ポットのお湯を沸かしたり、体調や気持ちによってできることをするしかない。
もしも母親が先に居なくなって、父親だけが残されたら、掃除も洗濯も段々としなくなってしまうだろう。
ゴミ捨てさえ平気なったらゴミ屋敷になるだろうし、食事だって弁当やふりかけで済ませることになるだろう。
そして、自力でトイレにも行けないくらいになれば、近所の誰かが連絡をして管轄の地域包括支援センターが訪ねて来るだろう。
かつて叔母がそうであったように、急に連絡が来て現状を知らされた親戚は慌てて、そこからどうするのかはその人次第だ。
実の兄弟を見捨ててしまう人もいるだろうし、自身の健康を顧みないで駆けつける人だっているだろう。
見捨ててしまう人にも言い分があって、そこまで自分や家族のために蓄えた資金を、急に誰かの後処理で使いたくはない。
たとえそれが血の繋がった兄弟姉妹だとしても。
もしもそんな人として試されるような試練で、「見捨てること」を選んだなら、せめて自分だけは真っ当に生きなければいけない。
時が来た時に「施設に入る」と。
自分の時に、家にずっと居座れば、それだけ誰かが犠牲になる。
その人の人生を消耗させてしまう。
妻が「離婚するかも」と言ったのは、本当に仕方がないことだと思う。
むしろ、父親の世話をするために生まれた訳ではないから。
同様に、何もしないこみちに対して、覚めてしまったとしても、そこはもう覚悟するしかない。
話せば互いの気持ちを理解できることもあるけれど、人生って話し合いでは解決できないタイミングがある。
結婚がそうであるように、離婚も明確な理由があるとは限らない。