本気になってもできなかったからこそ

 最近のこだわり

中高年になって、老い先短いと感じた時に、どう頑張れるのかが大切だと思う。

思春期の頃、例えばスポーツが好きで始めたものの、その後段々と周囲にいる才能豊かな友人に出会って自分の限界にきづかされていく。

「自分には何ができるのか?」と。

でも人生の面白い仕組みは、才能豊かな人でも「選択」しなければいけないこと。

東京に住めば東京での生活だし、地元に残れば地元ならではの生活が待っている。

どちらにも良さがあるけれど、どっちを、又はどこを選択するかで、自分の人生が形作られる。

つまり、自分よりも才能ある人には彼らに合った道があって、努力するしかない自分にも自分に合った道が待っているということ。

だとするなら、叶えたいと願うことなら「継続」するしかない。

だからこそ、本気を出すことに躊躇う必要はなく、むしろできるかできないかよりも、「一歩を踏み出した」ことに意味がある。

だからこそ不本意だと思ったことがあった時に、それを自身の不甲斐なさを納得できるなら時を改めればいいし、まだできたと思うなら再挑戦することも大切だ。

描けなかったからこそ

右のイラストは乃木坂46 の齋藤飛鳥さんを描き直したもの。

「絵を描く」にも段階があって、技量が差が現れにくいモチーフと、はっきり差が出てしまうモチーフがある。

モチーフとは、描く対象物のことで、今回では「齋藤飛鳥」さんを指す。

前回のイラストでは、辛うじて女性を描いたイラストだという感じで、どうにも「齋藤飛鳥」さんに寄せられなかった。

ここで言いたいのは、「描く技量」って筆運びの腕ではなく、モチーフをどれだけ詳細に観察し、その特徴を見抜くこと。

ピカソだったと思うけれど、「見て描くのは誰でもできる」と言っていた。

それはさらに先の「描く」を説明していて、一流の絵描きが見たままを描けるレベルなら、ピカソ級の超一流は「頭の中で描くべきポイント」を記憶していることになる。

こみち場合、見せて分からなくて、何がどう違っているのかが直せない。

目元の雰囲気は良くなったと思うけれど、まだまだ全体像としては「齋藤飛鳥」さんにはなっていない。

でも、「描く」楽しさは、描けるかなぁと挑戦すること。

その意味では、もう少し画力がアップしないと描けなかったことになる。