大学まで卒業したのに…
「エリート」とは、一般人と比べて影響力を持つ集団を指す言葉らしい。
振り返ると、昭和時代のビジネスは「着想」されたプランを具現化するには、その配下にたくさんの人材が不可欠だった。
会社の社長だとしても、従業員たちが一斉に離職して、一時的だとしても経営がストップしてしまうことがある。
しかし、平成や令和になり、ある意味でビジネスの構造が変化したように感じる。
会社は人材育成によって業績を高まるよりも、既に成果のある会社を抱え込むことで共に成長することを目指している。
そんな時代、「エリート」とは何を意味するだろうか。
冒頭の解説をもう一度持ち出すと、「一般人と比べて影響力がある人」らしい。
どんな?
今、「大卒」という言葉も、以前でいう「高卒」に近いニュアンスを持っている。
例えば大卒者なら、必ず専攻した分野があって、その分野でのエキスパートとは言わないまでも、多くのことで認識や技術的な仕組みが理解できているだろう。
それがつまり、「一般人と比べて影響力がある」という根拠なのだ。
例えば、「英語」を専攻した学生なら、「読み書きができる」という意味だけではなく、英語圏の文化や地域の歴史、さらには国民性や社会問題など、英語というワードから広がるであろう周辺の知識まで身につけることで、「読み書き」さえも表面的なコミュニケーションにとどまらない。
今の時代、ある英文を日本語に変換するだけなら、アプリでもできてしまう。
しかし、英単語と日本語が常に一対ではなく、時に英語圏特有の表現だったり、また日本語での表現では全く別の言葉になってしまうということも起き得る。
それを理解できるのは、先にも紹介した「英語」をもっと深く広い視点で理解した結果だろう。
一方で、現代社会の大きな問題点は、トップにいる人材がそのポジションに適合性がない場合、その配下の人材はポテンシャルを発揮できないままになってしまう。
考え方を制限したり、集団性を重視したりすることで、集団の言動をコントロールしようとする。
そうなってしまうと、例えばその配下にエリートがいたとしても、彼の持つ影響力を封じてしまう社会が誕生する。
エリートに値しない人材をエリートと持てはやすのもどうかと思うが、逆にエリートを活かせない社会もどうかと思ってしまう。
でも、トップに君臨する人材ほど、自身の衰えや時代の変化に気づき難いのは、たとえ気づいていたとしても、そのポジションを手放すだけの覚悟が持てないのだろう。
時代を動かすべき世代に、エリートというポジションを与えるべきで、そうすれば社会の変化にも取り組むことができる。
しかし、変えることを恐れる世代が、変えないために知恵を絞っていると、社会は何も変わらないまま、やがて行き詰まってしまう。
大卒のエリートが社会で活躍できないのは、彼らだけの問題ではなく、むしろそんな彼らを受け止められない社会にも問題があるのではないだろうか。