中高年だからこそ「成長」を感じたい
ストレスというと、何か悪いものという風に思う傾向がある。
でも、緊張感を無くした生活は平凡を通り越して、退屈だ。
お金があって、時間もあって、でも孤独だったら、最初こそ自由に思えても「生きている」実感を失ってしまうだろう。
こみちは空想で、街に誰もいなくなったらどだろうかと思った。
スーパーに行けば、食品も無料で手に入る。
電気店に行けば、最新の電化製品も運び出せる。
じゃ、幸せか?
自宅に物が溢れたとしても、ゴミを回収してくれる人もいないし、テレビ番組は過去の映像を流しているだけだ。
そんな人生をこれから10年、20年と孤独に過ごすとしたら、やはり人生はつまらない。
「何だよ! ふざけやがって!」と、怒っていられるから、生きている実感がある。
やっと買えるから、物の有り難みも分かる。
そういうものではないだろうか。
職場の話から
こみちはとても不器用な男だ。
器用に仕事をこなせるタイプではない。
だから、時間は掛かるけれど、手順や方法を何度も自分なりに研究し、段々と成長する。
今の職場での仕事も、最近採用された新人がとても器用で、当時のこみちとは全く比べられないほど優秀だ。
逆に、今のこみちと比べても変わらないほど。
じゃあ、これまでの努力とか工夫が無駄なのかというと、そうは思わない。
なぜなら、最近になって再確認できたこととして、「回り道」が無駄ではないと分かったからだ。
ただ最近の風潮として、「回り道」で得られる価値に気づいていないことが増えた。
同じ結果だとしても、何度も工夫を重ねた方法は、少しのトラブルでは崩壊しない。
何重にも修正パターンができているからだ。
一方で、スパッと器用に熟せる人は、短期間で成長できるけれど、そこには新たな工夫が施されている訳ではない。
つまり過去の経験や体験、勘で、導き出したやり方だ。
いざという時、器用に立ち振る舞える人は大きな失敗をしない。
でも長い人生を考えると、さっきの誰もいない街に一人でいるのと同じで、簡単に手に入るけれど、そこに感動が少ない。
言い換えると、一年や二年、遠回りしても、そこに行き着くまでに経験できたことが必ず役立つ時はくるし、時間が許されるならそうやって楽しむ生き方の方がいい人生になると思う。
多分、人間能力って、2倍は違わない。
同じやり方をすれば、最悪でも2倍の時間を掛ければできる計算だ。
なのに、こみちは人よりも何倍も時間が掛かる。
なぜか?
ここが気づきなんだけど、器用な人のやり方には、こみちが思うマージン(余力)を取っていないことも多い。
つまり、目的のために必要な手順ではなく、それっぽく見える手順との違いだ。
それこそ、昔の日本製が高く評価されたのは、「結果」だけでなく「やり方」にも注目してきたからだろう。
細かな部分にも配慮し、後々のことまで考えて物作りをする。
単純に、それをすっ飛ばして、効率重視の作業として考えると、いずれは「ものづくり」の限界を迎えるだろう。
例えば、「介護」で大変なのは、「オムツ交換」そのものではなく、介護優先で「成長」を失ったケアに慣れてしまうこと。
一時期、介護施設でも接遇マナーに力を入れていたけれど、「方法」を提示することはできても、「その意味」をスタッフに理解してもらうのは簡単ではない。
なぜなら、「稼ぐために働く」という目的だったら、「作業を終えたい」と思ってしまう。
介護施設あるあるだけれど、「予定をとにかく終わらせる」という介護になってしまうのだ。
でもそんな介護サービスを受ける側はどんな気持ちだろう。
「してもらうのだから仕方ない」と、そこまで謙らなければいけないのか?
逆に「そんなやり方、やめてください!」と訴えても、介護の根本を理解していなければ、「そう言われても、こっちも困る」となってしまう。
何事も簡単に済ませようとすると、それこそ人生も浅くなっていき、寝て起きてご飯を食べるだけの人間になって行く。
そんな時に「先が見えた人生だ!」と悲観する人もいるが、「目先の効率」を追い続けた結果だと思う。
なぜ生きているのか?
その答えは簡単には出てこないけれど、「自分のこと」と思っている間はきっと答えなど見つからないだろう。
でも、誰かのために生きようと思うことができたら、それが実際に役立たなかったとしても、生きていく価値が生まれる。
「生きている」のではなく、自ら意志を持って「生きて行く」というのが答えで、生きて行く理由は誰かのためになると思うからだろう。
中高年になっても「成長」を実感できる人生は幸福だ。