介護福祉士だから考える「障がい」の克服方法

 「絶対」に不可能なこと

よく話として「絶対(=100%)」が存在しないという指摘がある。

それこそドリカムの歌ではないが、1万回失敗しても、その次も失敗とは限らないからだ。

諦めて挑戦することを止めて終えば、それこそもう成功はあり得ない。

だから「継続する」ということに深い意義がある。

とは言え、視力が裸眼で0.1しかないこみちは、眼鏡を掛けないと車の運転は危ない。

もしかすると動かせるかもしれないが、事故を起こしてしまう危険性は一般的なドライバーよりも高くなるだろう。

ある意味で、「視力が低いこと」を「障がい」と考えるなら、眼鏡という道具を使えばこみちの場合はその問題を解決できる。

しかし、裸眼で運転しているドライバーと全く同じ視力と視界が確保されているのかとなると、そこは「限定的」だと言わなければいけない。

眼鏡にレンズがある以上、どうしても左右の視界は裸眼よりも狭く、瞬間的な判断が遅れてしまう危険性は否定できないだろう。

ここで何が言いたいのかというと、「絶対」と言っても程度問題で、逆に「完璧」もまた程度問題ということ。

つまり、理論上、絶対的に支援が必要な人と完全に他人や社会から独立して生きられる人の間に我々は存在している。

そう考えると、「障がい者」もまた線引きや定義に過ぎない概念だと思う。

0.1の視力で日常生活を過ごしていると、ふと壁掛け時計を見ても時刻が分からない。

身体を動かして近づくか、別の方法で時刻を知ることになる。

それだけひと手間を掛けないと、生活がスムーズに進んでいかない。

聴力が下がればどうなるのか。皮膚感覚や精神的な余裕を失うとどうなるのか。

やはり、誰と比べれば、一歩も二歩も手間を掛けて生きることになるだろう。

金銭感覚が乏しい人も…

例えば、身体的な機能ばかりでなく、金銭感覚や計画性の無い人、さらに情報収集や処理に乏しい人も、周囲と比較して手間がかかる生き方に見える。

職場で何かイベントがあり、一人あたり500円を徴収されたとしよう。

そこ時に、「法的根拠とは何か?」を会社に問うた人がいたら、どうだろうか。

もちろん、強制力など無いし、出したくないならそれもありだと思う。

ただ、社会的な属性の意味で、職場の輪として出すことを選ぶ人もいるだろう。

もっと言えば、会社組織としては、社内イベントの経費を福利厚生費として計上することもできなくはない。

そして、ボーナスなどで従業員に還元する社内利益の一部をカットして、帳尻を合わせることもできる。

言い換えると、「500円を集める」というのも、巡り巡れば「同じ」ことになるけれど、どこでどんな風に集めたのかが変わるに過ぎない。

しかし、この時に誰がどんな形で集めたのかが、大きな影響を与えたりもする。

それ故に「法的な根拠」を問う人も出てくるのだけれど、「金銭感覚」を単純に「乏しい」と判断するのは容易ではない。

金額的にみんなと同じくらいだから「金額感覚がある」というのは簡単だけど、他人とは異なるメリハリでお金を使ったとしても否定されることとは思えない。

結論的なことをいうと、「感覚」というものに「正解」を導き出すことは難しい。

「セーフティーネット」とは何か?

地域社会、特に行政が公的に提供する「セーフティーネット」も、「絶対」を約束したものとは言い切れない。

なぜなら、すべての人は何らかの意味で、他人とは異なる特徴を持っている。

言い換えれば、その特徴を活かして働くことができたら、周囲からも高い評価される可能性が高い。

しかしながら、苦手で時間が掛かってしまうことを仕事でしなければいけないと、成果として上がらないこともある。

それはその人を否定することではなく、仕事とのマッチングが不適切だから。

例えば、こみちよりもずっと絵を上手な人でも、イラストレーターにはなれないだろう。

でも、こみちよりも下手だとしても、プロとして活躍しているかもしれない。

つまり、能力も絶対的なものではなく、タイミングや環境によって上手く行くこともそうではないこともある。

その意味では、より狭い特技を持つ人ほど、その分野では絶対に評価されるレベルになっていたい。

そうすれば、他が少しくらい不得手でも、社会の中で生きられるからだ。

その点では、絵や音楽、小説など、広い意味での芸術は、人間とは切っても切り離せない大切なものだ。

他人が感じることができない感覚も、しっかりと文学的に表現できれば、そこには価値が生まれる。

不得手と思うことも、真似できない特技に変えられる。

大切なのは、その形を作るまでのプロセスで、社会的な受け皿や環境をどう支援できるのかだろう。

超一流というレベルは、いろんな才能やタイミングが重なって到達できる領域だが、毎日、繰り返すことで、誰でもある程度のレベルには行き着く。

そこまで継続できるかがポイントで、実はそこに躓きが隠れている。

ハローワークに行けば、職業訓練という制度を紹介される。

介護福祉士を含む、職業の知識や技術を学ぶコースがある。

それこそ、半年も勉強できれば、異業種にも未経験で参入できるようになる。

その半年を、自分自身を変えるために勉強できるのかが、実は人を選ぶ。

何らの理由で働けない人は、生活保護制度を申請できる。

条件に合ってれば、生活費として公的な支援金を受けられる。

ではもう働かなくてもいいのだろうか?

ここは個人的な考えになるけれど、先ずは一度、今の生活を落ち着かせ、その後は自身の得意を活かす方法を見つけなければいけない。

文章力があれば、会社に属さなくても月額で10万円くらいは稼げる時代だ。

他にも動画編集やカメラ撮影、内職だっていろんな種類があって、それを探すことで生き方も変えることができる。

「働く」と聞いて「会社を探す」と連想する人は、それこそハローワークの相談員など専門家に相談してみてもいいだろう。

意外と社会的な意味での「障がい」って、「得意」と背中合わせな気がする。

全否定の「できない」ではなく、「不得手」ならそこに「特化」することで、他にはない特徴にできないかと考えよう。

そうすれば、「障がい」も否定材料ではなく、自分らしさを見つけるヒントにできるかもしれない。