今どきの若い世代は…
こみちは中高年と呼ばれる年代だ。
介護福祉士の資格を取得したが、他にある資格もすぐに独立開業を目指せるとは思えない。
正直なところ、資格は取得して現場経験を経て独立まで想定すると10年計画くらいだろう。
40代前なら税理士資格や電験3種に挑戦したいと思うが、それでも現場経験の部分では介護福祉士同様に、若い人の間で肩身の狭さ、世代間ギャップを感じながら働かないといけないことも多いはずだ。
肩身の狭さや世代間ギャップは、それぞれが教育を受けて来た時代背景の違いも大きい。
だから、その年代なら当たり前でも、別の年代では考えられないくらい違和感だったりもする。
例えば今どきの若い人は自分の意見をしっかりと持っているし、外見からは判断できない。
こみちの世代なら、真面目っぽい人はそんな雰囲気の格好だったし、少しアウトローな人も外見で判断できた。
ところが今の(とは言え30代も含まれる)若い子は、どんな人もいろんな顔を持っていて、真面目そうで意外と遊び人だったり、遊んでいそうでも将来に備えて努力していたりと、パッと見ただけでは分からないのだ。
しかも、「しっかりしている」という部分でも、コツコツと真面目に努力するばかりではなく、社交的でもあり、才能豊かでもあり、こみち世代では見たことがないようなタイプが多い。
それはきっと情報豊かな時代背景もあるだろう。
こみち世代は、将来のなりたい職業を考える時もイメージが先行していたけれど、インターネットを使えば将来性や平均年収、やりがい、社内の福利厚生だって事前に知ることができてしまう。
その意味では、自分の立ち位置をいろんな分野から考えて、将来に備えているのが今の若い人たちだろう。
とするとなら、中高年になって得意と言えるものがないこみちのようなタイプが、行き場を失ったとしても当然だと一蹴されてしまうはずだ。
目標も価値観も見いだせないって…
誤解を恐れずにいうと、こみちは十代の頃から絵を描くことが好きで、それこそ落書きから始めて、学校の先生の似顔絵、デッサンや建築物の風景画など、CADを含めていろんな形で携わって来た。
その中で、美術史について調べたこともあって、絵が数学、哲学との繋がりがあることも知っている。
その意味では、アニメとは現代アート的な位置づけだと思うし、いい意味で過去の美術史とは全く異なる文化として成長したと思う。
そうだとするなら、アニメと古典的な美術は別物だと思うし、価値観や目的も違うだろう。
ここ数年、こみちは、「誰を描いているのか?」という意味での似顔絵を描こうとは思っていない。
むしろ、「誰?」よりも「どんな心境?」なのかが伝わることに趣きを置いている。
それはアニメでは顔の表情も記号化されやすいけれど、その技法では表現ができない部分に価値観を感じている。
感情表現として喜怒哀楽があるけれど、人間の感情はそれ以外にも無数に存在している。
例えば今どきの若い世代の考え方は、「喜怒哀楽」に似ている。
いい意味で、考え方がシンボル化されていて、パターン化されているように見える。
それは限られた時間内で、より多くの情報をコントロールするから生まれた知恵だと思うが、情報が少なく深く掘り下げることしかできなかったこみち世代は狭い代わりに細かな部分までこだわってしまう。
りんごを描く時に赤色を手に取るのは、パターン化に慣れた証拠だろう。
黄色はもちろん、青色や紫色、茶色なども含まれている。
「っぽい」に慣れて、パターン化するとプロセスは単純化されるけれど、絵を描く楽しさって「見たまま」を描くことだと今でも信じている。
だからリンゴを描けと言われて赤色から塗ってしまうのは、みんなが納得してくれるポイントに寄せているからだ。
でもそれって描いて楽しくない。
でも「リンゴを描くこと」が、どこかそう決まっているようにも見える。
それは描くことだけではなく、生きることにも通じていて、こだわりたい部分の大半がカットされて、イメージとしては100の内10個くらいが重要とされて、しかもその10個のいくつかを知らなかったら、もうそれ以外を知っていても認められないくらいの印象を受ける。
それは自己否定に繋がりやすく、こみち自身も精神的な浮き沈みで、「人生、行き詰まっているのか?」と落ち込むことも多い。
「別の方法、やり方がきっとある!」と思って頑張ろうと思う時と、「どうせ認めてもらえない」と思う時が繰り返されるから、若い人が真っ直ぐに頑張る姿を見るとそれだけで感動するし、その純粋さに涙もろくなってしまうのだろう。
上手く行かないと思うことがあって、ダメだと諦めたくもなるけれど、諦めたら本当に詰んでしまうから、少し休憩してまた一歩でも歩いて行こうと思う。