コロナ禍で始まった社会の変化
これまで、特に昭和時代の労働は、年功序列制に基づいた流れが強かった頃です。
その特徴を挙げると、「年長者は経験も努力も苦労もしている」だからこそ、年功序列制には意味があるのだと。
あれから平成を経て令和になり、実力主義に注目が集まったこともありましたが、そんな「実力主義」によって「経験や努力、苦労」が軽視されるようにもなりました。
つまり、「頑張ったこと」を評価しないという風潮です。
昭和時代、年功序列制で年下が上司になるということが起こり難い頃、後輩の経験や意見は先輩を納得させるものでなければなりませんでした。
経験や努力を払拭するような変化は受け入れられず、ある意味で先輩が歩んだ経歴を活かした変化でなければなりません。
しかし、平成になって起こったことは、資本を持った会社が、別の業界で実績ある会社を吸収合併する形で、より成果を出す企業へと進化していきます。
資本によって、経験や努力、知識や技術、人材育成までも手に入れることができたのです。
より根本的な改革が進み、それこそ年功序列制も崩壊しました。
「言われた仕事をする」というスタイルは失せ、「他人とは異なる個性」が求められるようになったのです。
めちゃくちゃ頭がいい。めちゃくちゃ美形。
外見、内面を問わず、自分が持つ個性を活かさなければ、それこそ生き残れない時代になりました。
中高年のこみち世代には、本当に厳しい時代で、若い人たちは器用で理解も早く、それこそSNSなどを日常的に使っている世代です。
彼らは年功序列制の崩壊後に生まれたので、昭和時代の働き方など知りません。
つまり、個性を発揮することが当たり前で、決められた価値観だけを信じて生きてはいない存在です。
「頑張っている」ということでも、年長者が言った根拠もない言葉を頭から信じていないでしょうし、「おじさんっぽい」とある意味で個性として我々の知識や経験をとらえるでしょう。
なので、職場で働く時も、「年下なのに…」と年齢の違いで考える我々の感覚はもう社会から消え、逆に我々以上の年配者だけがまだこだわり続けているのでしょう。
その板挟みにいる我々中高年は、年長者を敬い、若者たちを羨ましく思い、そんな中で新しい時代に合わせていかなければいけません。
頭脳を要する部分は、それこそコンピュータによってシステム化され、手仕事となる部分は手際のいい若者たちが効率的に済ませてしまいます。
体力も頭脳も活かせなくなると、それこそ居場所を失います。
わざわざ非効率でミスの多い人を雇うくらいなら、世界にいる若者たちに仕事を任せればいいという時代です。
つまり、今の仕事を簡単に手放すべきではなく、できる限り自分が働いける場所を維持しないと、中高年の失業者は増加していくと思います。
もちろん、職種を選ばなければ、採用してくれる業界もありますが、そこで働けたとしても昇進したり出世したりできるわけではなく、会社もこみちのような存在を重要視してはいないでしょう。
昭和時代をまだ貫こうとする高齢者と、すっかり新しい時代を生きている若者。
その狭間で、揺れながら生きるこみちの世代。
生き方探しから、見直す必要があるでしょう。