その「思考」はどこに行き着くのか?
ある二人が言い争っています。
それぞれの言い分には納得できる部分もあります。
しかし大前提として衝突した状況をどうにかしなければいけません。
そんな時に「正しい」という正当性をどう導き出せばいいのかが課題です。
例えば「1+1=?」という問題なら解くことができる人も、「1×0=?」は解けないとしましょう。
その際に、人は判断する前提として考えるべきフィールドを想定します。
つまり、足し算まで理解できるとして導き出す答えなのか、ごく一部の人にしか理解できない事情まで想定するべきかです。
例えば刑事事件で罪を問う時、本人の認識に加えて客観的第三者の理解も含みます。
そうしないと、何も感じることができない人にはそもそも「正しい」とされるエリアがとても狭くなってしまうからです。
かと言って、多くの人にも察することが難しい事情を汲み取れというのも酷だと考え、国内法では一般的な第三者に察することができるかも含めて罪を問う材料としています。
話を戻すと、言い争うにはそれぞれの事情があるでしょう。
運転中にクラクションを聞いただけで自身が責められていると思い込み、目に入った相手に詰め寄ることで自身に降りかかった罪を晴らそうとするかもしれません。
一方で同じ状況でも、自身に過失がないのだから問題視しないという行動もあるでしょう。
そしてクラクションを鳴らした相手にすれば、自身の主張が無視された、下に見られた、と感情に激震が走り怒りを倍増させて、詰め寄るかもしれません。
「何で無視するんだ?」
「無視って? 何ですか?」
それぞれには自身の正当性があっても、相容れない話です。
そもそもなぜ運転していたのでしょうか?
それぞれには運転しなければ行けなかった理由があったはずです。
買い物かもしれませんし、誰かを迎えに行こうとしていたのかもしれません。
そこまで話を膨らませると、相互で揉めている事実以上に、そもそも運転し始めた目的も大切です。
そんな時に、この揉め事に関わり続けるよりも、用事を済ませた方が結局はことが上手くいく。と思うことができれば、そもそもトラブルを大袈裟にする必要はなかったでしょう。
もっと話を膨らませると、今も健康に暮らせているとか、明日は待ちに待った大切な日だと嬉しく思うこともできます。
言い換えれば、目先のトラブルにこだわることでそれよりも大切なことをすっ飛ばしてしまうと、それこそいつまで経っても些細なことが起こる度に目標も目的も変更することになります。
さらに言い換えると、「その何が悪い?」と今という瞬間しか見ることができない人には、明日の大切な用事さえ思考を変えるきっかけにはできません。
そんな人には、ある意味で成るようにしかないとしか言えません。
なぜならどんなに計画しても、それは価値も意味もないからです。
同じ場所をクルクルと回るように歳を重ねて、身体が動けなくなって寿命が尽きていきます。
一方で、こみちのように伸び悩んでいる人の多くは、そんな生き方ではいけないことが理解できています。
しかし、問題や課題は認識していても、その解き方やさらに大切で重視するべきポイントが分からないこともあって、いつまでも同じ場所を回って伸び悩んでしまうのです。
例えば、お金を稼ぐ術を持っていれば、多くの人はそれぞれ悩むこともないでしょ。
日常生活での問題は、お金で解決できることがたくさんありますし、自身に何か可能性や見込みがなくても、人並みにお金で買える物に囲まれていれば、そんなに不幸には感じないからです。
しかし、話してみると、俗っぽい世間話が多く、未来的な話を少なくなってしまうのは、生き方が受動的で、受け身だからです。
それもそのはずで、価値観やこだわり、嗜好を持つということは、考えることを伴います。
つまり中高年くらいになると、日常生活で楽しいことはテレビくらいになるのが基本で、料理や趣味などを持って生き甲斐にするにはやはり考えることを伴います。
老化現象が顕著に成ると、前に進むしかできません。
進んではいけないと判断するよりも、前に進む方が優先されるのです。
そこまで来てしまうと、もう外部から情報を与えるだけではどうすることもできません。
本格的な介護が始まるとは、これから何か一新するというようも、その人らしくを継続させることしかできないでしょう。
ある意味でその段階になってしまっても、もう思考することが逆に不幸招きます。
つまり、我々中高年も「年だから仕方ない」と口癖になったら、むしろこれまでの人生を振り返りながら余生を楽しむ方がいいはずです。
一方で、そうなる前に今を変えたいと思うなら、いつも気にしていることよりも本当に大切にないといけないポイントを見つけることです。
これまでこみち自身もいろいろと考えましたが、こみちが行き着いた結論は、「お金を貯めること」でした。
なぜならどんなに考えを張り巡らせても、一般的には今を変える条件を満たすことにはなりません。
つまり、「思うこと」だけでは不十分で、行動しなければ意味がないということです。
究極の思考も、ある意味で実際に行動し一歩ずつでも進んでいる人には敵いません。
その時に不可欠なのが「お金」です。
「0円」という金額でできることは、無料ですがそれ以上に前に進むには不適切な条件があることも注意です。
というのも、「0円」でもという意味で差し出す理由は、受け手の手間や時間を求めているからです。
「0円」だけど、毎日10分を捧げないといけないなら、それだけ人生を分け与えていることになるでしょう。
一方で、例えば数千円でも身銭を払えば、変な縛りもなく、さらに想定していたサービスに加えて新たな価値観を見出せることもあります。
幾らなら良くて、悪いのかは個人によっても異なりますが、なぜ安いのか。なぜその価格なのかを考えることができたら、そこから受けられるメリットも十二分に活かせるでしょう。
つまり、働くのが嫌いでも嫌でも問題ではなく、「お金」を貯めない限りは前に進むことは先ずあり得ません。
中には宝くじで大金をつかむ人もいますが、今度は目的や目標もなくお金だけあっても、どう進むべきかが変わらないので、欲しいと思った物を買うことくらいしかないでしょう。
なぜお金を貯めるのかが理解できれば、貯まったお金をどう使うべきかも理解できます。
だからこそ、目の前の問題ばかりを意識しないで、「お金を貯める」という意識を持ちましょう。
社内でどんなに嫌なことを言われても、ある意味でお金を貯めたら次に移れます。
それは別の職場という意味だけでなく、生き方そもそもを変えることにも繋がります。
しかし、辛いから辞めると繰り返しても、その「壁」をどうにか越えない限りタイムアップして終わります。
つまり、冒頭の例で挙げたようなトラブルも、どっちが正しいのかを考えるよりも、もっと大切なことに時間を使いたいと思った方がいいということです。
力を使うべきではないポイントでは、極力セーブモードで済ませ、肝心なポイントでは準備した全てで挑むくらいで進めれば、少なくとも自身にできることを持て余すことなく生きられるはずです。