「キレイは正しい」時代に

 「汚くても正しい」は時代錯誤!?

昭和という時代に思春期や青春時代を過ごしたこみちのような中高年の中には、「下積み」とか「努力」「我慢」などの言葉から肯定的な正しさを求めていないだろうか。

例えば地方出身のこみちにとって、確かに塾や予備校に学生時代お世話になった人も少なくない。

しかし、高校3年生という大きな分岐点を迎えた時に、学校の授業と自宅学習だけで受験に臨む生徒もいた。

きっとそれは当時でも都市部の生徒には想像できない行為で、進学をより確実にしたいなら、塾や予備校を利用するべきだと考えていただろう。

つまり、当時のこみちたちには、将来の夢を掴みたいなら、「自分で努力する」という気持ちが前提で、より効率的であること以上に優先されていた。

詳しいことは知らないが、受験英語の対策が「暗記」だけでは難しくなり、より効果的に学力を上げたいならヒヤリング対策などを含めた塾や予備校の力が必要らしい。

つまり、もう独学にこだわって大学受験を突破する時代ではなくなったのだろう。

「頑張った」という泥臭い経験を、その後の人生に有意義なものと考えていた昭和世代ではあるが、平成、令和と時代が変化する中で、何事もより効率的で成果が得られることに趣きが置かれるようになった。

「キレイは正しい」が飲食店などにも浸透しているらしい

見栄えのいい料理を撮影することはもはや常識になっている。

誰も「SNSに載せるの?」と野暮なことは聞かないだろう。

店内が少し油で汚れたラーメン屋。でも多くの客から「旨い」と支持される店だ。

今、そんな店を探すのは大変になっているという。

というのも、「旨い」と同じレベルで「キレイ」ことが求められている時代だからだ。

言い換えると、旨いものが作れるなら、少しはこざっぱり店内だって清潔に保てるだろう。

そして、店の外観や駐車場も、手入れできるはずだと。

外観がボロボロで、でも腕は確かだという店主がいても、昭和時代を知るこみちと同じ世代なら辛うじて、でも平成以降の世代には到底受け入れてはもらえない。

実力主義という、腕さえあればあとは何でも良かったという時代から、成果主義という、最終的に客から支持されるための時代になっているようだ。

我々昭和世代が注意したいのは、「努力してきた」とか、「頑張っている」とか、プロセスにおもむきを置いた発言をしないことだ。

時代が求めるのは、個人の生き様はあとで、先ずは目的通りの品質に到達している事実だ。

メンズエステが流行るのも、男性だから小汚いのは仕方ないと流してはくれない。

しっかりと意識を持って「時代が求めるレベル」まで取り組むことだ。

そんな風に考えると、こみち自身は「頑張っている」と思ってしまうが、それだけでは不十分なのだろう。

だからこそ、マーケティングや広告が重要視され、中身以上にどう見せていくのかが求められる。

その意味では、節目をしっかりと意識して、形にまとめる意識が必要とされるのだろう。