「介護」経験者だからこそ
「介護」経験者の中には、さまざまな経験を経てある種の結論に行き着いた方がいらっしゃいます。
経験則という裏付けによって導き出された、「現場あるある」とも言えるでしょう。
一方で経験したからこそ気づく「介護」の背景もまた、介護を困難なものにしています。
介護未経験の方にもイメージしてもらうために例を示すと、一人の大人を24時間365日支えるにも、医療的、経済的、さらに生活支援も含めた多種多様な立場の人がいなければ成立しません。
それこそ介護士一人の頑張りでどうにかできるものではないのです。
現在、公的な介護サービスはケアマネと呼ばれる資格者がケアプランを用意し、それに基づいて各高齢者はサービスを受けることになっています。
もちろん、各高齢者から希望を伝えることができるのですが、「それはできません。無理です」と言われてしまえば、ケアプランに反映させることは不可能です。
つまり、「〇〇したい」という希望そのままは難しくとも、利用する立場やニーズを踏まえて実現可能なサービスに転換することはできるかもしれません。
しかしながら、担当するケアマネの経験値やそもそもの「介護理念」が異なれば、どうにもケアプランは「枠」を超えることはないでしょう。
そんな風に説明するとすべての責任がケアマネ次第に思えましが、介護士一人で対応できないことと同様で、多くの担当を抱えるケアマネもまた協力なくしては今の働き方を飛び出すことはできません。
現場から導き出せる結論としては、誰しも健康で自分らしく生きられる経済面、健康面、社会環境を維持してで気限り「介護」に頼らない生き方を貫くことです。
仮に何らか事情で介護施設を利用することになったら、そこではどうしても何らかの「制限」を受けてしまいます。
一方で、自宅での介護を行う場合、目安として自力での「排せつ」が行えるかがポイントになるでしょう。
すべての介護経験者は、いわゆる「排せつ介助」を行いますが、それ自体の処理には慣れますが、排せつが困難になると定期的な管理も加わり、自宅での支援が格段に難しくなってしまいます。
いずれにしろ、自分でトイレに行けなくなるのを目安に、在宅支援から介護施設の利用に切り替える方が、高齢者だけでなく家族の健康や命を守ることに繋がります。
特に自身の老後に大きな影響が出てくる中高年世代の方が、家族の介護で5年、10年と長い期間を介護だけに費やしてしまうと、自身の老後でも苦労することになります。
ここまでの説明で理解できるかもしれませんが、介護は難しいか簡単かではなく、「不可能」から始めるべき問題です。
その前提で、支援できる方法として、介護施設ではケアプランに基づいたサービスを提供しています。
つまり、介護士の言葉づかいなどを見直すことはできても、在宅での生活同様にはなりません。
朝は決められた時間に起こされますし、食事も提供されたものを食べることになります。
場合によっては自身で調理できるかもしれませんが、それだって段階的な話であって、生きている限り老化は続きますから、いずれは誰かの支えによって生活するしかありません。
配偶者はまだしも、介護支援を家族である子どもやその配偶者に委ねる場合、「限られた時間」を奪うことでもあるので、その理解を踏まえて誰に支援されるべきか、どう支援してもらいたいかを健康なうちに考えておきましょう。
これはこみち家の話ですが、父親の場合、まだ本格的な介護は必要ありません。
しかし、自身で調理することも洗濯することもできないので、誰かが掃除や洗濯、食事の準備をしなければ今と同じようには生きられません。
綺麗好きだったとしても、洗濯機が使えなければ、それこそ何日も同じ服を着てしまうようになりでしょう。
何より、自分自身に経済面含めた自立心が理解できていないようで、「こんな食事は嫌だ」と平気で不満を言ったりします。
ポイントは、「なぜそんな状況になっているのか?」を段々と理解できなくなってしまうことにあります。
自身のこだわりを貫くために、頑張れる内は大丈夫でしょう。
でも、こだわりは残ったまま、頑張ることをやめてしまうと、一気に介護は難しくなります。
何をされても「介護してもらっている」という感覚ではないので、感情のまま怒りや不満をぶつけてくるからです。
本来なら十分な支援でも、それだけでは満たされなくなり、もっともっとが続きます。
在宅支援でこの状況になると、それこそ支える側の健康さえも奪いかねません。
そこに「介護」の困難さがあります。