「挑戦するだけではいけない!?「勝ち切ること」の価値

 昨日観ていた格闘技の試合で

格闘技というスポーツは、個人戦です。

つまり、勝利を掴むとしても「絶対的」というものがなく、各試合は「相対的」に進んでいきます。

前評判が高い選手でも、対戦相手によっては「格下」とされる相手に思わぬ苦戦を強いられるかも知れません。

ただ、そこでも言えるのは、「最終的に勝ちきること」の大切さです。

100%が存在しない以上、何があるのかは誰にもわかりません。

悪い流れにハマることもあります。

しかし、実力とは勢いによって生み出される柔なものではなく、それこそ自身で「0」からでも生み出せる力です。

悪い流れをどう断ち切れるかは、実力が現れる部分であり、それは「勝ち切る」ということに繋がります。

今回の試合でも、敗戦した選手が「対戦して互角に戦えると感じた」と感想を述べています。

でも、「互角」というのは試合中の瞬間的な状況であり、トップスピードを出した人と次の展開に合わせてタイミングを取っている人とでは瞬間的な速度も変わります。

このことに気づくと、勝者と敗者の差は「もう少し」ではなく、やはり勝った人には勝った理由が、負けた人には負けた理由があるのでしょう。

別の試合でも似たような構図があります。

ある伝説的なベテラン選手に、若い選手が挑戦するような形になりました。

試合が始まった序盤、ある意味で「互角」という印象を観客の多くが感じたかも知れません。

なぜなら、若い選手が見せ場を作ったからです。

一方で、ベテラン選手は試合が進む中で次第に圧力を掛けて行き、結果的には勝者となりました。

観客の中には、「あのベテラン選手によく健闘した」と感じたかもしれません。

しかし、試合というのは、「結果」があっての「流れ」があるに過ぎません。

なぜなら、負けた選手も全く歯が立たないほど格下なら「試合」にもならないからです。

ある意味で五分五分の部分があるからこそ試合として成立し、「勝敗」は実力によって掴むものだからです。

「ギリギリ負ける」という経験は、それほど微妙なミスではなく、自身が思う以上に「失敗」だと思うのです。

先日もこみち自身のことを考えた時に、「勝手に自分で手加減してしまう」という悪い癖を紹介しました。

それこそ「勝った訳でもない」のに、「できている雰囲気を出すこと」に逃げてしまうのです。

その意味では勝っても負けても、選手は決められたルールで、決めた時間に面前で試合をするのですから凄いことだと思います。

ストレスを大きさは、格闘技経験のないこみちの想像を遥かに越えているでしょう。

話が少し逸れましたが、「勝ち切ること」というのは本当に簡単ではありません。

なぜなら、相手も捨て身で実力を出してくるからです。

その人がその瞬間に出せる能力に立ち向かうことは、想像の段階ではどうにも分かりません。

想定される実力がなくても、その場の勢いで勝つ人も、底力がなければやはり負けているはずです。

単純なことなら奇跡も起こり得るのですが、少し行程があるとラッキーだけでは勝てません。

ある意味、こみち自身が勝てない理由や原因も、気づいていない部分にあるのでしょう。

そこを分析しないから、いつまで経っても失敗を繰り返してしまうのだと反省しています。