中高年になって悩む「正しい」の正体とは?
ある理想を掲げた時に、それに近づくプロセスがあるとして、そのためにするべき努力や練習が分かるなら、その一つずつは「正しい」こと、必要なことだと思う。
でも正解は誰にも分からないから、「正しい」と思うことを信じて努力しているのが実情だろう。
例えばある試験が迫っていて、そのためにずっと勉強して来た人が合格できたら、努力が報われたと言える。
でも、勉強したことを知らない人にすれば、「合格」だけが情報で、「良いなぁ」と結果に対して感じるだろう。
もちろん、「良いなぁ」と思うことは「合格」した相手に誰しもが感じることで、それ自体に何も違和感はない。
ただし、「良いなぁ」から派生して、「自分は上手く行かない」とか、「アイツばかり得をしている」となってしまうと、少し話は変わってくる。
繰り返しになるが、誰もが本当の意味で「正しい」を理解しているのではない。
でも、どこかで「そう信じて」日々を生きているのではないだろうか。
若い世代の人を見てキラキラを輝いているのも、実際に反射している光を感じるのではなく、生き方や物事を素直に真っ直ぐ捉える姿勢に「正しい」理想形を感じるからではないだろうか。
そんな真っ直ぐさに、中高年になったこみちは羨ましく思うし、生きる中でどこかくすんでしまう考え方に恥をかく。
ずるくて調子がいいという大人の嫌な部分ばかりを覚えてしまったことに、何か疲労感をすら感じてしまう。
「正しい」なんて誰にも分からない。
でも、「正しい」と信じて努力している人に向かって、努力できていない自分を正当性するためだけに「そんなの無意味だ」と理由もなく足を引っ張るのは大人の嫌な部分だ。
その「正しい」が本当の意味で正しいのかは別として、信じて努力することは簡単ではないし、でも理想形に近づきたくて頑張る姿を無意味な言葉で台無しにして欲しくない。
「足を引っ張る」ことばかり上手くなって、少しも前に進む努力をしない大人になってしまうことを、やはりどこかで止めようとして欲しい。
きっと、そんな風になった理由だってあるのだろうし、言っている内容以上に心が落ちてしまうような体験をしてしまったのかもしれない。
誰かが順調に進んでいる姿を自身の落ち込みと比較して、心無い言葉で言いたくなるのも仕方ないと思う。
でも、正しいと信じ行動しなくなったら、それこそ誰もが一歩を踏み出さずに、動いた相手の批判をするだけになってしまうだろう。
じめっとした不快な環境の中で、「正しい」を口にすることもなく、自分が誰から損させられないようにだけ生きるのはもっと生きづらい。
誰のフォローをするのは、その人のためばかりではなく、自身の正しいにも通じている。
でも、相手の得になることを損だと感じて、相手を助けるくらいなら何もしないとそっぽを向くのは、結局自分を落としていることに過ぎない。
心ない言葉で相手を傷つけたくなる気持ちに至った背景に同情できることがあるだろう。
でも、誰もが背景を知っている訳ではなく、だからこそ無関係な距離にいる相手には、過度に私情を挟んだ感情を唐突にぶつけるべきではない。
なぜなら、脈絡なく言われた相手は、単純に不快になるだけで、場合によってはその不快さをために「正しい」と信じていることさえ諦めてしまうかもしれない。
「世に中ってそんなものだ」と、正しいことを信じようともできなくなってしまう人ばかりが増えると、さらに信じることも大変になる。
やっぱり、心ない言葉って傷つきます。
得する時はすぐに近づいて、何か助けて欲しい時には用事を思い出して居なくなってしまう。
「たまたまそうだったのだろう」と自分を慰めてみるけれど、何度繰り返しても結果は同じだったりすると、意図的にされていると思う自分が出てくる。
フォローしなければ、さらに相手は環境を悪化させてしまうだろうし、フォローしてもされているとは気づいていないから、相手のためになりたいとも思えない。
あれこれと心配しながら骨を折っても、結局は当たり前になってしまう現実に、やはり愕然とした思いは拭えない。
わざわざしていることを伝えたいとは思わないけれど、全然当たり前ではなく、周りが意外と準備やタイミングを合わせてくれているだけなのに、そこには一切気付けなくて、むしろまだ自身の不幸を他人と比べてしまうのはどうだろうか。
本当に自身ではどうにもできない不遇な体験をして苦しんでいる人に、こみちが安易な言葉を伝えることなどできない。
しかし、こみちだって不幸はたくさん経験しているし、今だってずっと頭から離れない悩みがいくつもある。
でも、だからと言って、相手を単純に羨ましく感じるのは違うと思う。
幸せそうに振る舞う人にも悩みはあるだろうし、誰かの前では頑張っていても、家に帰れば他人には言えない大きな悩みで落ち込んでいないとも限らない。
結論だけど、関係性が薄い相手ほど、相手に対して否定的な言葉は避けるべきだ。
なぜって相手の何も知らないまま、一方的な見え方で意見してしまうからだ。
そこには言えない事情もあって、そうしているのかも知れない。
「正しい」って誰にも分からないことだけど、全否定してはいけないものだ。
100%の内、1%の否定的な理由はどこからか見つかるだろう。
でもその1%を正当化してしまうと、この世の大半は「正しい」から外れてしまう。
破滅的な立場から、コツコツと努力している人の足を引っ張って喜んで欲しくない。
すっかりその立場から抜け出せなくて、そうすることでしか生きている実感を得られないのかもしれないが、きっとそうなるまでには周囲からいろんなアドバイスや助言があったはずで、でも何かの信念で振り返ることもしないで今に至ったのだとしたら、なおさら自身を正当化するべきではない。
逆境の中で努力している時は見向きもされなくて、努力が身を結び始めると決まってどこからか足を引っ張ろうとする人が現れる。
もう少しって所まで来ている時ほど、「正しい」をつかみそうな時ほど、無関係な距離の人からおびただしいほどの心ない言葉が浴びせられる。
何だろうね。
その風潮って。
誰かの99%を1%の労力で無効化したがる人って。
でもこみちの場合、もう後が無い。
何と言われても、それを止めることができない。
だから、落ち込むけど、方向転換するつもりは無いんだ。
こみちがこみちとして生きる時に、もうそれしか残っていないんですよ。
誰に何と言われたとしても。