「夢」や「希望」を見つけたいけれど

 なぜ人は生きるのか?

中高年と呼ばれる年齢まで生きて、「人生」とはどんなものなのかがわかって来た。

10代や20代の頃に悩んでいた中で、もっとこだわるべき問題もあったが、悩む必要などなかったことも多い。

「若さ」は意識しなければ年々失われるもので、一度失ってしまうとかなり取り戻すのは大変だ。

事実、中高年になってしまうと、「お金」や「努力」をいくら注いだとしても20代の若さには戻れない。

つまり、「若さ」という源は、できる限り保っておいた方がいい。

では「若さ」とは何だろうか。

思うに「若さ」は「希望に突き進む力」だと言える。

夢や希望、つまり「何のために生きているのか?」に自分なりの答えが見つかっていない人はそれだけ早く「若さ」を喪失しているとも考えられる。

将来、どんな職業に就けばいいのか。どんな未来を描けばいいのかとまだ若い人の中にははっきりとした答えが見つかっていないこともあるだろう。

少しつまらない話をすると、中高年になった段階で、未来と呼べる道筋は誰だろうとそう変わりはなくなる。

つまり、10代、20代、30代、そして40代の途中までだからこそ「夢」や「希望」について考えるわけで、そもそも答えが見つからなかったとしても「ある年齢」まで来るともう悩むこともできなくなってしまう。

遠回しな言い方をしたが、「夢や希望の答えが見つかること」ではなく、「夢や希望で悩めること」が若い人に許された特権ということだ。

「答えが見つからない」という悩みでいいのも若い人だからで、逆を言えば「〇〇になりたい」という答えが正解か不正解かはもっと後の話なのだ。

中高年になると「〇〇になりたい」とは言わず、「〇〇になった」と表現する。

夢や希望としてではなく、現実として叶えるもので、憧れだけで話ものではなくなるのだ。

理由はとても簡単で、若い人とは異なり、中高年には時間が無い。

夢や希望という意味で想像していても、その内身体もさらに自由が利かなくなって、動きたくても動くことができない原因が増える。

「生きる」とは自身が叶えたい夢や希望について進むことができる期間とそれが若さの喪失で難しくなって、思い出や経験、さらに後の時代を生きる人に何か少しでも残すことだと思う。

なぜ生きるのか分からないなら、もっと若い人たちのために働くことだ。

自分で答えを見つけられないなら、誰かのために支えとして生きることも大切になる。

才能や素質があっても、その時点ではまだ芽が出ない人もいる。

そんな若い人に手を差し出せることができたら、自身が生まれた意味も生きる理由もはっきりと分かるだろう。

ではそのために何をするべきか。

もしも誰かを助けるために猛勉強して医者になったという人がいたら、その人は生まれてきた意味を見つけたと言える。

でもそんな優秀な人ばかりではないし、こみちのように中高年になっても何者にもなれないという人だっているはずだ。

だとしても、何かするべきことはある。

それを考えることが「生きる」理由だろう。

介護士として働いた経験から得たもの

介護士として高齢者の支援をしたこともあるこみちは、それこそたくさんの高齢者と出会うことができて、彼らの人生の終盤に関わらせてもらえた。

それこそいろんな人と出会えたが、その中でももう少し違い年代に知り合えたらと思えた男性がいた。

彼の生き方や性格、身の回りのお世話をさせてもらう中で、その人柄に触れて、自身もこんな風にみんなから愛される人になりたいと思った。

だからと言って、八方美人なのではない。

どこか憎めない人柄で、さらにユーモアや退き際まで絶妙なのだ。

彼と最期の別れを経験し、いろんなことを思い出した。

でも言えるのは、もしも生きてなければそんな彼にも会えなかっただろう。

人はいつか迎えが来るわけで、だとしたら悩まずに進んでみればいい。

できるなら目標は達成したいけれど、できなくても「生きている」ことで次がある。

「何のために生きているんだろう?」

「何のために働いているんだろう?」

いろんな悩みは誰にだってある。

でも悩んでいるだけなら、みんなと同じでも、一歩を踏み出して行動に移せたら、それで誰かが救われることだってある。

どこかでそんな一歩を踏み出した姿に気づき、さらにその人も一歩を引き出すきっかけにもなるからだ。

自分自身で明確な答えが出せなくても、進んで行くことで次の人の目安になれる。

「苦労ばかりの人生ですね」と言われたなら、その分だけ周りの人が救われたとも言える。

苦労や挫折、失敗をしたことで、誰かが救われると考えたら、悩みながらも生き抜く姿に大きな意味があるだろう。

99%は上手くいかない。

でも1%は何か変化している。

結局、それが人生の本質だと思うし、幸せを感じたることでもあるのだろう。