「美術」という学問の特異性
こみちも絵が好きだ。
それは見たものを自分の手で描き取りたいことから始まる。
例えば人物画で簡単に上手く描くなら、無表情の正面が基本。
でもそれを数枚描けば、描いていても楽しくない。
理由は簡単で、変化が少ないのだ。
しかし、顔を左右上下に振り、表情筋を使うとレベルが一変する。
それこそ石膏デッサンの比ではないし、完璧に描けるならプロのイラストレーターとして稼ぐくらいはできるだろう。
つまり絵で生きることができるということは、さらに活動範囲を広げていける。
場合によっては、同じような志を持つ仲間を募り、プロのパフォーマーとしてブランディングできるだろう。
なぜそんな風に記述したのかというと、自由に創造性を活かせる「美術」なのに、「描くこと」と同じレベルで「売り方」「評価基準」を作り出せるないのだろうかと思うからだ。
そもそも、小説家にある直木賞のような存在が、美術でどうプロデュースされているのだろうか。
先生となる美術家の最新作を見る機会も少ないし、彼らがどんな意図で絵を描いたのかもこみちのような一般市民には伝わって来ない。
それは言い換えれば、美術という分野がそれだけ国民生活に浸透していないということだろう。
今の時代、風景画で評価されるのはもう無理がある。
なぜなら専門家レベルの評価は別にしても、経済的土俵で高精細な写真に勝てる筈がない。
勝つとするなら、描き手としての売り出し方まで問われる。
そもそも、写真で撮れるものを描いていても仕方ない。
でも撮れないような世界観を描き、それを経済的に展開させるには市場の成長意識も不可欠になる。
それこそ経験や性別のような話ではなく、学問として美術を語るなら、精神性をどう捉えるべきかだろうし、経済ベースに乗せるなら徹底的に売り方を見直すべきだ。
そうなった時に、天然の顔料で表現する理由がどこまであるのかという課題にもぶつかる。
それこそフェルメールの絵も、あの時代に描かれたから凄いのであって、今の時代に同じ作品を追っても評価されないだろう。
「描くって何だろう?」とこみち自身も悩むけれど、最低限の画力が身に付いたら、アトリエではなく外に出て社会を見て回ることが必要だと思う。
しかも、カメラでは写せない領域を絵でどう描けば良いのかを考えて。
そうなると活動するためにも、絵で食べていけるようになっていないといけない。
つまり、美術だけでなく、他の経験が圧倒的に必要だ。
今の時代、「絵が描ける」だけでは厳しいのでは無いだろうか。
それとももっとこみちの画力がアップしたら、見える世界も一変するのだろうか。