中高年が「働ける場所」を失うという意味

 「働ける場所」とは?

「働ける」というと、職業から連想する仕事場をイメージするかもしれない。

もちろんそこも含まれるのだが、イメージは「社会との結びつく接点」を指している。

中高年になって、それぞれの人が好みや得意があって、それをしている時に幸福や達成感、満足感に浸ることができるのは周知の事実だろう。

しかし、加齢によって思考が柔軟さを失うと、「ミス」や「イレギュラー」のような想定外の出来事を処理できなくなってしまう。

つまり好きなことや得意なことはできるのに、ちょっとした手間や前処理、後処理が不得手になるのだ。

その顕著な例が、中高年で職を失うと、再び仕事を見つけ辛い。

理由は簡単で、仕事には得意で慣れた作業もあるが、どうにも習慣やルールになっていて、それが面倒に映ることがある。

具体的には、履歴書を書くことやそれ用に写真を撮ることも、含まれるだろう。

もちろん、面接をするのも、志望動機を聞かれて話すことも挙げられる。

こみち家の父親

最近、自分が使った食器だけは洗えるようになった。

でも少し遅れて食べ終えた母親の食器は洗っていない。

父親に言わせれば、「遅いから」と説明する。

「遅い?」

たった10分の差を遅いという感覚は、「洗う」という目の前のことだけを考えているからに他ならない。

暑い日も寒い日も雨の日も晴れた日も、母親は父親との生活費を稼ぐために働きに出ている。

見送りすることもなければ、「気をつけて」とも言ってあげられない。

今の若者世代なら、そんな男性の態度は離婚に値するだろう。

なぜって、そこまで尽くすメリットを感じないから。

自分ができないことを誰かがカバーしても、それを覚えていないのが高齢者の怖いところだ。

認知症というと、とても大変な状況を想像するかもしれないが、些細なことを忘れてしまうというのは、「助けられている」という認識にも及んで、時に自分は一人でも生きていけると錯覚させる。

だから父親は、働いてくれる母親に頭を下げたりしないし、感謝の言葉も発しない。

なぜなら、父親は父親の考えで母親を思いやっているつもりだからだ。

時々、「食器、洗ってやるぞ!」と言うのが、父親にとっては優しさの表現なのだ。

つまり、もう父親が一般社会で働くことなど不可能だと思う。

昔からよくわからない理由で職場の上司と喧嘩をしてしまうことがあった。

「ケンカして辞めた?」

順調に思えた仕事でも、父親の考えでポンと辞めてしまう。

そんな生き方をすれば、中高年になって何も残らないのは当然だ。

手に職がない父親が、さらに処理することを面倒に感じたら、もう家に居るしかできることはない。

父親だからと思う人もいるだろう。

でも、こみちだってその可能性があるし、もしかするとこの記事を読んでいる貴方にも起こり得るかもしれない。

中高年が仕事を失わないために

今の段階になってくると、得意や好みよりも、「継続できる仕事」かどうかで判断した方が良さそうだ。

例えば、こみちの職場が来年には移転することが決まっている。

通勤の便がよくて、自由に働けることに魅力を感じていた。

でも、達成感や向上心を満たしている仕事ではない。

一回働けば、いくらかの収入になるし、何より「心を壊した」こみちにはストレスが少ない働き方が程よかった。

しかし、移転先はかなり交通の便が悪くなる。

もちろん、自分が望む仕事だったら、そんなこともデメリットにはならない。

改めて検討すると、他の仕事の方がより条件に合っているかもしれないことが分かる。

昔のように、憧れの職業という感覚ではないから、時に簡単に仕事を手放せるし、それが仕事を失ってしまう原因にもなってしまう。

限度はあると思うけれど、中高年の時に見つけた仕事は、そう簡単に手放すべきではない。

なぜなら、思いの外、仕事が見つからないという状況に陥る可能性が少なくないからだ。